04.役に立って
「……ははは、いやー」
昼下がりの医務室。薄いカーテンで仕切られたうちの一室に、乾いた笑い声が響く。どこか呆れた表情のジュリエッタは、手当に使った用具を手際よく片付けながら続けた。
「冗談のつもりだったんだけど」
「え?」
ジュリエッタの正面で、難しい表情のままベッドに腰かけていたココが顔をあげた。その口の端には小さなガーゼが貼られている。
「手当してあげるって言ったの」
「……ああ」
「まさか言ったそばから医務室にくるなんて思わなかった」
「はは、私もまさか初日から医務室に来るとは思わなかった」
どこか他人事のように言うココに、じっとりとした視線で釘を刺してから、ジュリエッタはわざとらしいため息をついた。
「しかも喧嘩って……」
ココは気まずそうに頬を掻くと、「……まあ」と曖昧な返事をした。
「おおおおおお女の子の隊員がななななな殴られた!」
パニックになった隊員が医務室に駆け込んでから間もなくやってきた、“女の子の隊員”を見て、ジュリエッタは整理中だった分厚い医学書をバサバサと落とした。
気まずそうに「おじゃまします」と手を上げた彼女の口の端からは血が流れ、おろしたてでピカピカだった制服は薄汚れてしまっていた。挙句髪はぼさぼさで、慌ててなにがあったんだと聞けば、付き添うようにやってきた別の隊員から「クロード・ハートコートと殴り合いの喧嘩をした」と聞いて、開いた口がふさがらなくなった。
「よく無事だったわね」
少し嫌味っぽく言うと、ココはへらへらと笑った。なんとなくむかついて、ジュリエッタはココのおでこに一発デコピンをお見舞いした。
「いった!」
「あのクロード・ハートコートとけんかして、よく死なずにすんだわね」
「あの?」
おでこを抑え、きょとんと自分を見上げるココは、どうやら本当になにも知らないらしい。
呆れた、本当にどんな田舎者よ。と、続けてジュリエッタはココの正面の椅子に腰かけた。
「王都の養成学校じゃちょっとした有名人だったのよ。手が付けられない問題児で」
「え? クロードって養成学校の出なんだ」
「そうよ。田舎者のあんたは知らないかもだけど、ハートコート家って、ここ何年かでのし上がってきた貿易商の家よ」
養成学校。ココにとってはあまりなじみのない言葉だ。
護衛団へ入隊する方法は大きく分けて二つ。王都の養成所を出るか。各地の支部で見習いとして一定期間勤務し、王都で入隊試験をパスするか。ココは後者だ。村で、見習いとして勤務し、王都での入隊試験をパスした。
前者の道は、誰でも辿れるものではない。王都にある全寮制の養成学校に行くことができるのは、金のある、家柄のいい人間だけ。
クロードがいい家柄のお坊ちゃんというのは、あまりにも似合わなくて、なんだか笑える。ココは頭の端でぼんやり思いながら、ジュリエッタの話に耳を傾けた。
「クロード・ハートコートは実技は抜群によかったみたいだけど、他の人とうまくいってなかったみたいでさ、しょっちゅう生徒と問題起こして、挙句教官まで殴ってたって。卒業して隊員になってからもずーっと一匹オオカミ」
「簡単に想像できる」
むしろほかの人と仲良くしているところのほうが想像できない。
ココは、奥でギラギラと怒りが燃えるクロードの瞳を思い出した。
「さすがに女を殴ったって話は聞かなかったけど」
「……まあ、先に手出しちゃったの私なんだけどさ」
そう言うと、ジュリエッタは目をまん丸にして、絶句した。そして、がっくりとその肩を落とす。
「……あんたもたいがいね」
「ね、私もちょっとびっくりした。あんな風に他人に腹が立ったの、生まれて初めてかもしれない……まあ、今まで喧嘩するような相手もいなかったんだけど……」
ココは指先をいじりながら言った。
きれいに切りそろえておいた爪にヒビが入っている。さっきの喧嘩で割れたんだろう。
目を閉じれば、至近距離で見た真っ赤な瞳を思い出す。怒りに満ちていて、人を突き放すように冷たくて、そして痛いくらい孤独に感じた。
「……謝らないとね。だって、一緒に仕事するわけだし」
「……一緒? なに、あいつと組むってこと!?」
ジュリエッタは声を荒げた。
「命がいくつあっても足りないわよ!」
「はは、大げさな」
ココはベッドから立ち上がると、体を大きく伸ばした。棚に打ち付けた背中が少し痛んだが、これくらいならなんともない。クロードだけでなく、迷惑をかけた人たちには誤りに行かないといけないし、ルゼ隊長に指示された仕事にも、例の男性から聞いた行方不明の件にも早く取り掛かりたい。
「とりあえずいったん宿舎に戻るよ。手当ありがとう、ジュリエッタ」
ジュリエッタはこめかみを抑えながら、「ああ、もういいわよ、あんたもたいがい変人なのね」と項垂れた。
「またよろしくね」
「なんかあっても、手当できるうちに来てよね」
「善処します、先生」
上司を目の前にした時のように姿勢を正せば、ジュリエッタが小さく口の端を緩めた。気を付けなさいよ、と言う彼女の声は柔らかい。
ココはふんわりとほほ笑んだ。
「失礼します」
カーテンの向こうから、控えめな声が聞こえた。ジュリエッタの返事を聞くと、そっとカーテンが開けられる。顔をのぞかせた医務室勤務の男性は、ココの顔を見ると
「支部隊長がいらっしゃってますよ」
と、穏やかな声で告げた。
ココの顔から血の気が引いた。
◇
医務室の中の小さな個室に案内されると、ソファの上で膝を抱えていたルゼが「やあ」と手をあげた。つい先ほど会ったばかりだが、彼は「ひさしぶり」と笑った。毒気のない、清らかな笑みに照らされて、ココの額から一筋の汗が流れ出る。
瞬間、ココはその場で腰を九十度よりも深く曲げて「すみませんでした」と大声で謝った。
「あは、なにがぁ?」
ルゼの声は明るい。だが、今はそれが怖い。
「いやあの……その……」
ココはしどろもどろになりながら続けた。
「け、喧嘩の件、ですよね?」
ココが腰を曲げたままちらりと顔をあげると、ルゼは笑みを深くし、ひざにあごを乗せた。
「そうだよぉ」
「す、すみません、わざわざ、このためだけに……」
ココが心底申し訳なさそうに言うと、ルゼは天使のような穏やかな表情で言った。
「そうだねぇ」
差し出されたのは一枚の紙。
「ちゃんと反省してくれたら、いいよ」
“始末書”。そう書かれた紙を見て、ココの口から「へへ」と乾いた笑い声が出る。いや、そりゃそうそうですよね。まさかの人事異動後初の仕事が始末書。ギールさんになんと言えばいいのか。
それを両手で恭しく受け取って、ココは「反省しています」と、もう一度頭を下げた。
「よろしい」
「どうもすみませんでした」
「いいよぉ。でも今度から喧嘩は外で、誰も見てないところでね。後始末が大変でしょ」
とん、とルゼが立ち上がる気配がした。その軽やかな足音は、ゆっくりと近づき、ココのすぐ目の前で止まる。
顔をあげるタイミングを見失っていると、ぐ、と頬にルゼの手が添えられた。予想外の出来事に、肩に力が入る。ルゼは自分よりも幼いけれど、冷たいその手は間違いなく男の手だった。その手に優しい力で導かれ、恐る恐る顔をあげる。窺うように顔を見れば、息を飲むような美しさに改めて言葉を失った。
形のいい唇に、真っ赤な舌が滑る。ぺろり、と、お腹が空いた獣が、獲物を目の前にした時のような仕草。ルゼの目がすっと細められ、その身に纏っている空気が変わった。
呼吸をするのも憚られるような緊張感だ。ココは、ルゼから目が離せなくなった。
添えられたままだった手は、感触を確かめるようなゆっくりとした動きで頬を滑る。まるで飼い犬を愛でるかのようにしばらく頬で遊んでいたそれは、ゆっくりと顎を掴んだ。
力はそれほど込められてはいない。けれど、絶に逆らえないように、顔を引き寄せられる。宝石のような瞳の中に映った自分は、ずいぶんと間抜けな顔をしていた。
「ボクの役に立ってねぇ、ココ」
熱のこもった、掠れた声に、「は、い」と言葉を絞り出すことで精いっぱい。
「……いい子」
最後に顎から首元を一撫でして、ルゼはココから離れた。その表情は心底満足そうだ。
「じゃ、仕事がんばってねぇ」
ひらひらと手を振ったルゼが部屋の扉を閉めると、ココはへなへなとその場に座り込んだ。顔に熱が集中しているのが、はっきりと分かる。この熱はしばらく引きそうにない。
「……と、都会怖すぎ……」
圧倒的な美しさの中に詰め込まれた、この世の甘美なものすべてを煮溶かしたような色気と、その奥に見え隠れする毒々しさ。彼に恐ろしささえ感じた。見てはいけないものの一端を見てしまったようだ。心臓は、いまだせわしない。
いつか、そのすべてを見るときがくるのだろうか。
「でも……」
ココはゆっくり深い息を吐いて、両頬を強く叩いた。惚けている場合じゃない。
「とりあえずクロードからだ」
まずは彼をなんとかしないことには仕事にならないのだ。