03.不機嫌なバディ
その男が歩くと、誰もが顔をこわばらせて道をあけた。通り過ぎると「今のが例の……」とささやく声が聞こえる。
――ああ、そうだ。彼がクロード・ハートコートだ。
クロード・ハートコート。風に乗って聞こえてきた言葉を、確認するように小さくつぶやいたのとほとんど同時に、目の前を歩いていた足が止まった。振り返ったクロードは心底機嫌が悪いようだ。あまりに鋭い眼光に、後ろにいた通りすがりの隊員が「ヒィ」と小さく声をもらした。
「……てめぇいつまでついてくる気だよ」
唸るような声だった。
「いつまでって、ルゼ隊長に頼まれた一件が解決するまでじゃない?」
「ぁあ!?」
威嚇するように大声を出した彼を、どうどうと手で制すると、そのこめかみに青筋が浮かんだ。どうやら対応を間違えたらしい。
「何回でも言うけどな、俺はお前と組む気がねぇ」
「そんなこと言われても、私はルゼ隊長にクロードと組めって言われたし」
「俺は認めてねぇ」
もう一度きっぱりと拒絶して、クロードは再び歩き出した。仕方がないので、それについて歩く。「どこに行くの?」という言葉はきれいに無視された。
これは早々に胃がやられてしまいそうだ。キリキリ痛みだしたそこを、とりあえず撫でておいた。すまない。もう少しがんばってくれ。
クロードは足早に歩いて、4階のある部屋へと入っていった。ココも小走り気味にそれに続く。中は資料室のようだ。中は広く、背の高い棚が天井を支えるようにいくつも設置され、その間にはテーブルが置かれている。クロードは迷いなくそこを進み、ある棚の前で足を止めた。視線を滑らせて目的のものを見つけると、数冊のファイルを取り出し、テーブルに置いた。
広げた一冊は地図だった。西地区と書かれている。区割りがされており、15、16、17、18と各地区に数字が割り振られていた。にしても、随分古い。紙が黄ばんでいて、シミや何かが書き込まれた跡もたくさんある。そこに記された迷路のように入り組んだ細い道を見て、この道を覚えるまでどれくらいかかるんだろうかと、ココは不安になった。いや、そもそも覚えられるのだろうか。
「……見んな」
「……そんなこと言われても」
「俺に近づくな」
隣に立っていたココは、強い力で肩を押されて、そこからはじき出されてしまった。
人生で初めて受けるこの仕打ちに、胃が「もうやめろ!この男と関わるな!」と警告を出す。ズキズキと痛いのは胃か、はたまたさっきから打ちのめされ続けている心か。
これ以上近づいたら殺されてしまいそうだ。ココは仕方なく少し離れた場所からそのファイルを覗き込む。数か所、最近書き込んだであろう文字があるが、内容までは読めない。ページが進んでいくと、海に面した街の端一帯が、黒く塗られていることに気づいた。
「そこ、なんでないの?」
クロードはゆっくりとココを睨んだ。
「べつに、近づいてないじゃん」
ココが両手をあげてへらりと笑うと、彼はほとんど聞こえないくらいの声で「崖だ」と言った。
初めて返事が返ってきたことに、感動すら覚えた。内心ガッツポーズだ。
「どうしてそんなふうに?」
「……ここはもう十年も前に海戦があった流れ弾で崩れてる。今はゴミ捨て場みたいになってて、誰も近づかねぇ」
「へぇ……」
「もう調べた。ここにはなんもねぇ」
怪しい、と思った心を読んだかのようなそのセリフに、ココは顔をあげた。仲良くやってくれる気になったのだろうか。
「……期待すんな。俺はお前とは組まねぇ」
「だよねぇ」
「これからお前にこの件について説明する。だからあとは勝手にやってくれ。報告も連絡もいらない」
「……個人プレーでいいってこと?」
「そうだ」
クロードは表情一つ崩さずに言った。
「俺は一人でいい」
西地区は今回の汚職事件で、大きく治安が悪くなった地区の一つだそうだ。
違法な貿易をするグループが、護衛団の隊員たちに金品を渡し犯罪を見逃してもらい、地区での権力をどんどん強めていった。護衛団の人員入れ替えがあってすぐに摘発されたそうだが、残党は残っている。しばらく大人しくしていたらしいが、最近また動きはじめているようだ。つい先日も、そこがらみと思われる、違法な武器が港から見つかっている。西地区は港に近いこともあって、国としては治安を安定させておきたいところだろう。
ココはクロードの話を聞きながら、ふと顔をあげた。
「西地区って、この15~19地区までのことを言うの?」
「ああ」
「この地区の人たちは、どうしてるの?」
クロードは地図に視線を落としたまま言った。
「さあな」
「さあって……」
どうして、と聞く前にクロードは乱暴にファイルを閉じた。もう充分しゃべっただろ、と言わんばかりに睨まれる。それ以上の言葉を残さず部屋を出たクロードを、ココは小走りに追いかけた。
1階へ降りると、フロアの半分ほどを占める待合室は人であふれていた。窓口もいっぱいで、業務を担当する隊員たちがばたばたと走りまわっている。先ほど見た時の忙しさの比ではないようだ。「うわあ……」とココの口からひきつった声が出る。
ふと、目の端に、5つの書類の山が飛び込んできた。よく見れば、いちばん下に第一部隊から第5部隊まで各隊の数字が書かれている。いったい何の書類か、と覗き込めば“依頼書”の文字。ココは愕然とした。
……まさか、これ全部依頼書だろうか。
「げぇ、またたまってる!」
気が付くと隣に人がいた。赤茶色の髪をオールバックにした若い男の隊員だ。彼は第2部隊のところに積まれた書類の山を適当につかむと、大きなため息を吐いた。
「やってらんねー、な?」
突然同意を求められ、ココは「え?」と首を傾げた。その反応につられるように男も首を傾げる。
「あれ? よく見たら、知らない顔だ。最近来た人?」
「え、ええ。今日付けでこの支部に移動になりました。ココ・グランツです」
「へーココちゃん。よろしく。俺はサイラス。第2部隊所属。ここもう6年目。分かんないことあったらなんでも聞いて」
サイラスは人のよさそうな笑みを浮かべた。
「どうもありがとうございます」
「部隊に女の子が来るの久しぶりだなー。ねぇ、ココちゃん出身は」
「あ!」
ココは大きく声をあげて、周囲をきょろきょろ見渡した。置いていかれたのかと一瞬焦ったが、すぐに他の人より少し高い位置に赤い髪を見つけ、ホッとすると同時に走り出す。
「す、すみません! ちょっと急いでて、サイラスさんまた今度!」
「あ、ああ……」
「クロード、待って!」
走りまわる人たちの隙間を縫うように、クロードは業務を行うスペースの一番奥まで進んだ。
壁がたてられ、外からは見えないようになっているそこには、たくさんの引き出しが備え付けられていた。クロードは自分の名前の書かれた引き出しを開けて、中身が空だと確認すると、盛大な舌打ちをした。
「これなに?」
クロードは答えなかった。そのまま踵を返し、また歩き始める。
ココは正直なところ、少しむっとした。普段あまり腹が立つことはないが、ここまで拒絶されると悲しいを通り越してだんだんむかついてくる。こんな態度をされていたら困る。いくら嫌だって、ここでの業務や仕事の進捗などはある程度教えてもらわなければ、仕事にならない。
「ねぇ、クロード」
「……気軽に呼ぶな」
ぴしゃりと跳ねのけられて、一瞬足が止まる。彼の背中はだれも寄せ付けない。
-でも、
「ねぇってば!」
ココはクロードの隊服の背を思いっきり引っ張った。首元が締まって、クロードから「ぐ」と小さなうめき声が漏れる。ゆっくりと振り返ったクロードには青筋が浮かんでいた。
そんなにいら立ってばかりいたら、早死にするんじゃないの。という言葉は言わないでおく。
「てめぇ……」
「クロードは西地区の人と会っていないの?」
クロードは答えなかった。
「そういうグループが力を持っているってことは、そこに住んでいる人たちに多かれ少なかれ影響があるでしょ? クロードは気にならないの? そこにどんな人たちが住んでるのか。そこでどんな生活をしているのか。なにに困っているのか、とか」
クロードの目に温度はない。
「私たちが誰を守るのか、気にならないの」
「……は」
しばらくの沈黙の後、彼の口から出たのは乾いた笑い声だ。
「“誰を守るのか”? お前ほんとに平和なド田舎の出身なんだな」
「……なに?」
「支給品のロッド一つ持って、いかに平和でなんにもねぇ場所で仕事してきたのか、よくわかる」
神経を逆なでするような、見下した言い方だった。
護衛団の隊員になるには二つの道がある。王都の養成学校を出るか、各地の支部で見習いとして仮入隊し、一定期間勤めて入隊試験に合格するか、だ。
どちらを選んでも、一番最初に練習用の武器として銀のロッドが支給される。その後訓練を積んでいく中で、様々な武器の所持が許可されるようになると、ほとんどの隊員は剣や銃の類を所持することを選ぶ。そんな中で、ココのように仮入隊時に配られるロッドのみを使用し続けているのはとても珍しい例だった。
そんなもの一つで今まで仕事をこなしてこれた理由はただ一つだとクロードは思っている。たいして危険な任務をこなしていないからだ。
目の前で自分を見上げるココの姿に、自然と口元がゆがむ。
「俺は誰も守らねぇよ」
その声に呼応するように、クロードの腰に下げられた剣が小さく鳴った。
「……じゃあ、どうして護衛団に入ったの?」
「お前みたいなやつじゃ想像できないだろうけど」
クロードはぐいと、顔をココに近づけた。
「それしかないんだ」
「それしか、ない?」
「俺に守るものはない」
きっぱりと、クロードは迷いなく言い切った。
「でも、街の人たちは……」
「関係ねぇよ」
「……なにそれ」
ココの瞳の奥で、ちり、と何かが燃え上がったのをクロードは見逃さなかった。一気に空気が張り付めて、皮膚が引きつったような感覚がある。
――ああ、これだ。
これでいい。これがいい。心地よささえ覚える感覚に、クロードはわずかに目を細めた。
ココが強く手を握りしめた。その手はなにかを抑え込むようにぶるぶると震えている。
「またあなたですか~」
耳に飛び込んできた、気の抜けたような声に、ココはそちらを振り向いた。
相談窓口で、白髪交じりの初老の男性と、受付を担当しているそばかすの目立つ若い隊員が、何やらもめているようだ。ちっ、と小さな舌打ちが頭上から聞こえてきたが、それには気づかなかったふりをした。
「またとはなんだ! だいたいお前らが!」
「はいはい、とりあえず聞きますから。とりあえず座ってくださいね。で、この申請書に記入をしてください」
「毎回毎回書いたって、誰も来ないじゃないか!」
老人は勢いよく机をたたいた。その細い見た目に反して大きな音が鳴り、フロアの視線が一瞬集まる。
「息子が帰ってこないんだぞ!」
――また、あのじいさんか。
呆れたような声が、ココの耳に入った。
――そう、17区の変わり者のじじいだよ。
その言葉に、ココの足が動いた。
「俺だけじゃない。街の中にはそんな子供が……」
「はいはい、だからそれも知っていますって」
「子供たちになんかあったらどうするつもりだ!」
若い隊員は頭を押さえ、いら立ちを抑えるようにはあーと長い息を吐いた。
「だからそれは、」
「こんにちは!」
背後からひょっこり顔を出したココに、若い隊員は面食らった。見慣れない顔だ、と思うと同時に「どうも、昨日から配属になりましたココ・グランツです」と先手を打たれる。まだ体制が整っていないこの支部では毎日のように人の出入りが続いている。珍しいことではない。「ああ、どうも」と返事を返すと、彼女は人懐っこい笑みを浮かべた。
「ところでこちらの方は何かお困りなんですか?」
「あ、ああ、彼は」
「息子が帰ってこないんだ!」
初老の男性は、カウンターに身を乗り出すようにして言った。
「それは……大変ですね」
「ああ、いえ、ココさん」
深刻そうな声を出したココに、若い隊員の彼はそっと耳打ちをした。
「帰ってこないとは言っていますが、街での目撃情報はあるんです。おそらく、ただの家出です」
目だけで「そうなの?」と問えば若い隊員は小さく頷いた。
ココはもう一度目の前の男性を見た。少しこけた頬に、目の下には濃い隈ができている。疲労が色濃くその姿を取り巻いているが、目だけは、何かを必死に訴えようとギラギラ光っている。
「……分かりました」
ココはふんわりと微笑んだ。
「今日伺います。話を聞かせてもらえますか?」
「本当か!?」
歓喜の声をあげた初老の男性とは違い、若い隊員は「え?」と困惑した声をあげた。
「えっと、“私たち”17区の方の別件の事件を担当してまして、これからそちらに伺う予定があって」
「おい」
首根っこを掴まれて、勢いよく後ろに引かれる。喉が締まって「うぐ」と声が漏れた。誰がやったかは簡単に予想できた。どんな表情をしいているのかも、なんとなく分かる。
振り返り見上げると、想像通りの人物が想像通りの表情をしていて、少し口元がゆるんだ。
クロードが、鬼のような形相でこちらを見下ろしている。
「“私たち”って、誰だよ」
首元に指を指しこんで、空気を確保しながらココは平然と言った。
「私と、クロードだよ」
「俺はお前とは組まねぇって、言っただろ」
「うん。でも、私はそれを了承してないし。クロードのほうがこの街長いし。案内してよ。それに17区は西地区の一つじゃんか」
ココはクロード手を離すと、正面から向き合った。
「お前、馬鹿だろ」
「うん、そうかも」
あ? とクロードがいら立った声を出した。でも、ココはそんなの別に怖くない。ブチ切れたときのギールのほうがよっぽどだ。
「でも、この人の話聞きに行きたいんだよ」
「……俺には関係ねぇ」
「この人困ってる。助けたい」
お嬢さん、と背後から息を飲むような声が聞こえた。
「クロード、助けて」
クロードの眉が、ぴくりと動いた。ココはぐっと唇を噛んで、それからゆっくり頭を下げた。「お願い」その言葉がしっかり彼に届いたこをと願うしかできない。
どうか、頷いてほしい。分かった、と言ってほしい。
けれどそんなココの言葉は届かなかった。了承の言葉の代わりに降ってきたのは「ハッ」という嘲るような笑い声だった。
「言っただろ、関係ねぇよ。そのじいさんを助けたいとか、街の人間を守りたいとか、そんなの俺に関係ねぇ」
それを聞いた初老の男性は、怒りでわなわなと震えた。
「……っもうここには来ない! お前たちは結局、前任たちとなにも変わらない! 私たちのことなんてどうだっていいんだろう! 信用なんてしていないんだろ!」
クロードは一瞬目を丸くした。息を荒くする老人を見下ろし、歪んだ口から吐き出すように言った。
「……信用なんかしてるわけねぇだろ」
ぷつん。
ココはその時、頭の中で何かが切れる音を聞いた。
次の瞬間、一階のフロア中に響いたのは鈍い音。そしてそれに続いて椅子が倒れる大きな音。
一連の流れをただ見ているしかできなかった受付の隊員は、まさにその瞬間をばっちり見た。悔しそうに歯を食いしばったココが、力いっぱいクロードを殴り飛ばしたところを。
クロードは叩きつけられるように床に倒れこんだ。あまりのことに声も出ない。この少女は、あのクロード・ハートコートを殴ったのだ。それも、グーで。
この後のことを想像して、隊員は顔を真っ青にして一歩後ずさる。
一瞬の静寂の後ココは、吐く重たい息と共に言った。
「あんたサイテーね」
その言葉に、倒れこんでいたクロードはゆっくりと体を起こした。
クロードの殺気で燃えるような瞳に、それを見た人物は「ヒッ」と小さく悲鳴を漏らした。彼はまるで獰猛な獣だ。その瞳に射抜かれただけで、心臓を掴まれたように息苦しくなる。
クロードはココを見下ろすと、勢いよくその胸倉をつかみ上げた。かかとが軽々と地面から浮き上がる。
「……てめぇ」
這うような声だった。だが、ココも一歩も引かない。クロードを睨みあげたまま、自分の胸倉を掴むその手首を力いっぱい掴み返す。
「……ふふ。弱い犬ほどよく吠えるんだよ、ね」
口の端に余裕を浮かべれば、つま先まで浮きそうなほどの力で顔を引き寄せられる。
「殺すぞ」
その恐ろしい響きの言葉に、腰が抜けたのは、落とし物を探しに来ていた一般の市民だった。自分に言われたわけでもないのに、冷や汗が止まらない。
「……そんな度胸ないくせに」
「……あ?」
「あんた、なんにも信用できないんだね。……かわいそう。そんな勇気もないんだね」
そう言って嘲笑ったココに、今度はクロードの中で何かが切れる番だった。クロードはココを力いっぱい引き寄せ、それから思いっきり投げ飛ばした。おもちゃのように放り投げられたココは、凄まじい音を立て近くの棚に突っ込む。
ばりん、と棚から落ちた花瓶が割れた。
今度はどこからか悲鳴が上がった。「い、医者!」と誰かが叫び走っていく足音がやけに大きく聞こえた。倒れこんだ少女は動かない。周囲が最悪の事態さえ想像し始めたとき、だらんと力なく伸びていた手がゆっくりと動いた。「いたた……」と小さく漏らしながら立ち上がったココに、小さく安どの息が漏れる。
首元を抑えながら立ち上がったココは、まっすぐにクロードを見た。
言葉はないが、二人の間の空気は張りつめている。空気がわずかに揺れただけで、二人はつかみ合いを始めてしまいそうなほどだ。
その時、ココの口の端から血が流れた。
「……チッ」
最初に目を逸らしたのはクロードだった。小さく舌打ちをすると、ココに背を向ける。
クロードは足元の椅子を思いっきり蹴り上げると、
「お前なんかと組めるかよ」
そう吐き捨てるように言って出て行った。見えなくなった背中を見て、ココは口の端に伝った血をぬぐいながら言った。
「……こっちのセリフだよ」