02.はじめましてに失敗
すっきりとした朝だった。
ココはベットから起き上がり、体を大きく伸ばしてからドアの横を見た。数時間前、部屋の前に置かれていたトランクだ。どうやら夢ではないらしい。
ほっと胸を撫で下ろし、クローゼットの中に入れられていた支給品の隊服に袖を通す。いい機会だからと、新しいものに変えてもらった薄いグレーを基調とした詰襟のジャケット。袖と襟元には金色の刺繍が施され、胸元には王立護衛団の紋章が入っている。下はパンツにするか悩んだが、結局以前と同じ短めのキュロットにした。黒いタイツとブーツを履いて、最後にロッドのホルダーを腰にかければ完成だ。王立護衛団のココが鏡の中に現れる。背筋が自然と伸びた。
トランクの中から髪飾りの入った小さなケースを取り出し、シンプルな黒いひもで髪をまとめ、息を吐く。
「……よし」
今日から仕事だ。ココは昨日の出来事を思い出した。あれはこの街の不安定さの一端だ。この街の人が穏やかに暮らしていけるように、できるだけ早く業務に慣れていかなければいけない。
「おおーい」
控えめなノックと共に、ジュリエッタのあくび交じりの声が聞こえる。返事をする前に、ジュリエッタは続けた。
「朝ごはん食べにいこ~」
広々とした食堂の窓からは、柔らかな朝の光が差し込んでいる。にぎやかな話し声が並べられたテーブルを覆い、その間を通り抜けるようにおいしそうな音と香りがやってくる。鼻先をくすぐったいい香りで、ココのお腹が目覚めた。二人の間に響いた大きなお腹の音に、隣のジュリエッタは「ぷ」と小さく笑った。彼女はまだ眠たそうだが、白衣に映える艶っぽいメイクはばっちりだ。
「なんかさ、ココって隊服着てるとしゃんとして見えるんだね」
「一応……わりとしゃんとした人間のつもりなんだけど……」
入り口でトレーを受け取り、食堂の端に並べられたいくつかのメニューの中から適当なものを選ぶ。ココはキッチンのスタッフに勧められた、この土地の特産だという野菜が練りこまれたパンのサンドイッチを取った。
「迷子になった挙句、荷物盗られた人がしゃんとして見えるわけないでしょ」
フルーツを選びながら言うジュリエッタに、ココは「あ」と小さく声をあげた。
「そういえば、全部じゃないんだけど、荷物ほとんど戻ってきたんだよ」
「ええ?」
空いていた窓際の席に、向かい合って腰を下ろす。ジュリエッタは疑うような目でこちらを見た。
「それって本当?」
「本当。夜中に物音で目が覚めて、ドアの外見たらトランクが置いてあったんだ」
そう言うと、「ええ……」とジュリエッタは食事の手を止めた。
「それって大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
ココは両手でしっかり持った分厚いサンドイッチにかぶりついた。はみ出した卵焼きを引きずり出すように食べる。あ、このパンおいしい。口元を抑えて断面を見れば、初めて食べる味の見たことがない野菜が入っている。クリームっぽいこれはなんだろう。
「誰が置いてったか分かんないって」
「うーん……まあ、不思議だけど、何も盗られてなかったし、ラッキーかなって」
そう言うと、ジュリエッタは周囲を見回してから、ずいっとココに顔を近づけた。
「……気を付けなさいよ」
小さいけれど、その低いトーンの言葉ははっきりとココの耳に届いた。「どうして」と首をかしげると、ジュリエッタはため息交じりに「あんたって能天気なのね」と呆れた。
「ここって問題があって、人員が大きく入れ替わったじゃない?」
「ああ、うん。らしいね」
そのあたりについては、実はココもよく知らない。それはギールも同じだった。この街のことは新聞で読んだ程度の知識しかない。情報はずいぶんとこちらで抑え込まれているようだ。まあ、いいことではないから、仕方がないんだろうけれど。
「今、だいぶヤバイ人間ばっかり集まってんのよね」
「……ヤバイ?」
不穏なその言葉をオウム返しに聞くと、ジュリエッタは「そうよ」と力強く頷いた。
「私はまだいいわよ。医務室勤務だから。でも、あんたは部隊の所属でしょ。あっちは本当にヤバイ。危険」
「き、きけん?」
「支部隊長の方針らしいんだけど、まークセの強い人間ばっかり……いや、変人ばっかり集まっててさ」
「変人?」
「っていうかそもそも支部隊長がちょっと変わり者っていうか」
不安でココの額にじんわり汗がにじんだ。これから初仕事だっていうのに、ポジティブな情報がゼロだ。これはもっと詳しく聞く必要がある。ココも食事の手を止めた。
「ねぇ、それって」
どういうこと、と聞こうとした声は、とジュリエッタを呼ぶ声に遮られる。食堂の入り口で、同じように白衣を着た若い女性が手を振っていた。
「今日、朝ミーティングだよぉ」
「あっ、やば。忘れてた」
ジュリエッタはパンを大急ぎで口に詰め込むと、それをミルクで一気に流し込んだ。さっきのってどういう意味、なんて聞く間もない。いつもの気だるげなジュリエッタはどこに。
「じゃ、行くわ。がんばってね」
トレーをまとめて立ち上がったジュリエッタはほんの少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「……なに、その笑顔は……」
「大丈夫よ」
ジュリエッタの華奢で白い手が、慰めるようにココの肩に置かれた。
「なんかあっても、ちゃんと丁寧に、痛くないよーに治療してあげるから」
ちっとも大丈夫じゃないその言葉につられて作った笑顔は、ずいぶん引きつったものになってしまっただろう。したり顔のジュリエッタから「これ、あげる」と差し出された、フルーツの乗ったゼリーを受け取って、長い髪をなびかせさっそうと歩いていく背中を見送った。
「……ふ、不安……」
危険ってなに。ヤバイ人間ってどういうことなんだろうか。ココは残った食事をしながらぼんやり考えた。村に駐在している護衛団はギールと二人だけだったから、人間関係で悩んだことはなかった。ギールを訪ねてくる人はみんな穏やかな雰囲気の人ばかりだったし、村の人もいい人が多かった。
クセの強い人間って、例えばすごい意地悪な性格の人とか、そういうことだろうか。い、いやだなー。意地悪って、どんなことをされるんだろう。靴を隠されたりとか、悪口を言われたりするんだろうか。
悪い未来ばかり想像してしまって、ココは項垂れた。
……いや、でも、ジュリエッタが大げさなだけかもしれないしな! うん、初日でちょっと緊張している私をからかう小さな嘘かもしれない。うん、そうだ。そうにちがいない。そうだと言ってくれ。
ココはトレーをまとめて返却し、食堂を後にした。出口あたりで食器を片付けていた女性のキッチンスタッフ「ごちそうさまです。おいしかった」と告げるのも忘れない。彼女は驚いていたが、すぐに目を細めた。その笑い方が少しだけルイーズのそれに似ていて、思いがけず寂しくなった。
◇
「こっちか」
一度部屋に戻り昨日のうちに入手しておいた支部の地図を見ながら団長の執務室へと向かう。
さすが第3の都市の支部。昨日は外から見ただけだったが、中も相当広い。一階には市民用の受付があり、まだ朝早いのに、すでに何人かが相談に訪れていた。受付の中ではすでに何人かの職員が、必死の形相で慌ただしく行ったり来たりを繰り返している。机に積まれた書類の山は見なかったことにしておこう。
ココはその後ろを通り抜け、階段を上がった。
団長の執務室は7階。時間帯もあって、上階へ向かうにつれて人気がなくなっていく。上のほうはどうやら特別な仕事をするチームの部屋が多いようだ。6階の踊り場についたところで、ココはふと人の気配を感じ、顔をあげた。
「……どうも」
一つ上の踊り場に、男の人がいた。
同じように隊服を着ているから、同僚、と言っていいのだろうか。夜のように深い黒髪で顔の半分を隠している。歳は自分と同じくらいか少し上だろう。顔は青白く、目の下には大きな隈ができている。
どう見ても、ものすごく体調が悪そうだ。
「えっと……だ、大丈夫ですか?」
問いかけから一拍置いて、男はおもいっきり顔をしかめた。その表情の意味が分からず、ココは次の言葉を待ったが、彼は何も言わないまま階段を降りてくる。
妙な緊張感で何も言えずにいると、男はすれ違いざまに聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「うざ……」
ガーン!
頭に重りが載せられたように一瞬立っていること難しくなった。
初対面の人に「大丈夫ですか?」と声をかけたら「うざい」と返される。かつてこんなことがあっただろうか。いや、ない。今にも折れそうな心をぐっと持ち直して振り返ると、もうその人はいなかった。
「……な、なんだったんだろう」
よく分からないけど泣きそう。
ああ、これがヤバイということだろうか。ココはまだジクジクと痛む胸を押さえながら、よろよろと階段を上った。
めげる。同じ隊服を着ていたということは、彼は同僚だ。なにかのときに同じ仕事をすることもあるだろう。その時、ああいう態度を取られたら、きっと心が折れる。つらい、こわい。
半べそのまま7階までやってくると、執務室前の警備をする隊員に「大丈夫ですか?」と尋ねられる。「大丈夫です」と答えた声が、ずいぶんとなさけなくて結局心配させてしまった。彼は私が支部隊長に会うことに緊張してこうなっていると考えたのか、優しい声で教えてくれた。
「少し変わっていますが、いい方ですよ」
ああ、結局変わった人なんですね。
ドキドキしながら足を進め、執務室の前の担当官に名前を告げる。来客表に名前と入室時間を記入したところで「どうぞ」と扉に手を向けられ、促されるまま執務室に入った。
「失礼します。今日からこちらに異動になりました、ココ・グランスと申し……ます……」
第一印象は大切だ。あいさつはコミュニケーションの第一歩。しっかりするようにと、ギールから口酸っぱく言われていた。けれど、それが尻切れトンボになってしまうくらいには、ココは目の前の光景に驚いた。
「やあ」
びっしりと本で埋められた本棚に圧迫されるような執務室の一番奥、大きな窓から入る柔らかな太陽の光を背に受け、その人物は甘ったるく微笑んだ。
「待ってたよぉ、ココ」
はちみつ色のふわふわの髪に、絹のように白く美しい肌。長いまつ毛に縁取られたキャンディのようにまん丸なたれ目。水分を多く含んだ血色のいい唇は緩やかな弧を描いている。まるで人形のように整った造形で、自分よりも見るからに幼い彼は、間違いなく支部隊長の執務机にいた。
「この支部を取り纏める、ルゼ・リリーファンだよ。よろしくねぇ」
べったりと張り付くように甘い響きの言葉にココは一瞬言葉を忘れた。
ごほ。と背後から小さく聞こえた咳で現実に引き戻される。振り返ると、赤髪の背の高い青年が、炎のような深い赤の瞳で睨むようにこちらを見ている。はっとして、慌てて挨拶を返す。
「い、いえ。こちらこそよろしくお願いいたします」
「ごめんね。びっくりしたでしょぉ」
「いえ……」
「いいんだよ。そうやってボクを見た人がびっくりするのを見るの、好きなんだよねぇ」
ルゼはいたずらが成功した子供のように嬉しそうに目を細めると、脇に置いてあった紅茶を飲んだ。カップをもつ手も小さくて白い。
「は、はあ」
何と言っていいのか分からず、ココの口からは気の抜けたような返事が漏れた。
びっくりした。見た目だけで人を判断するのは良くないことだと分かっているけれど、まさか、本当に彼が、このディゴバ支部のトップなのだろうか。まだ、今、扉のところにいる彼が支部隊長だと言われた方が納得できる。
それに、この妙な違和感はなんだろうか。
ココはルゼを見た。誰もがうっとりしてしまうような、人形のように可愛らしい容姿。けれど、「なぁに、見惚れた?」といたずらっぽく笑った口元を見て、はっとした。
「っ!? 昨日の!」
「おっ、もう気が付いたんだねぇ」
ルゼは小さな子供を褒めるように少しだけ大げさに驚いた。
そう、彼だ。昨日、ココはぽかんと開いた口元を咄嗟に抑えた。
昨日、噴水広場であからさまな悪人達にぼったくられそうになっていた、瓶底眼鏡のさえない少年。雰囲気はずいぶんと違うが、よくよく見れば同一人物だ。「どうして……」と、押さえた手の隙間から驚きの言葉が漏れ出た。
「いやあ、ちょっと暇つぶしっていうかぁ」
「ひ、ひまつぶし、ですか」
「最近ばかみたいに書類仕事多くて、ちょっと煮詰まっちゃってさぁ。運動がてら清掃活動しようかなって」
「清掃……活動?」
「そ、清掃活動。路地裏入ったら、あいつらぼっこぼこにしてやろうと思ってたんだぁ」
「ぼ、ぼこぼこ……」
ルゼのつややかな唇から紡ぎ出される物騒な言葉たちを、脳が上手く処理できない。いや処理したくないのか。とにかく見た目と言動がいまいち一致しない。ろくな返事もできず、口からは処理しきれなかった言葉がパラパラと落ちていくだけ。
「……そしたら、君が来て、あいつらぼこぼこにしちゃったんだよねぇ」
ルゼは小さなため息をついて、残念そうに言った。別に悪いことをしたわけじゃないのに「ご、ごめんなさい」と謝罪の言葉が出る。
「あは、謝らなくていいよぉ。かわりにいいものが見れたし」
「い、いいものですか?」
「そ。君はボクが思ってた通りの子だね。引っ張ってこれてよかったぁ」
「は、はあ」
ルゼは笑みを深くした。
「半年くらい前にね、この街で大規模な汚職事件があったのは知ってるよね?」
「あ、はい。ですが詳しいことは……」
「簡単に言っちゃえば、護衛団内部の権力争いが原因だよ。内部で2つの大きな派閥ができちゃってね、自分たちの成果を上げるためにこの街の有力者だけでなく裏の人間にもずいぶん金を巻いたみたい。裏とのつながりが濃くなると、だんだん違法な薬物や武器が護衛団の中にも回り始めた。徐々に隊員たちは規律や仕事を重んじなくなり、いかにして上に気に入られるかに腐心し始める。上層部へ金品を贈るため、街の人たちに乱暴をしたり、無茶苦茶な要求を繰り返すようになった」
ルゼは表情を崩さないまま続けた。
「ま、結局王都の人間が気が付いて、上層部のクビと大規模な人員の入れ替えで決着はついたけど。でも、街はめちゃくちゃだ。裏の人間がずいぶんと力を持ってしまっているし、街の人間からボク達は一切信用されていないと思ってくれていい」
ココの脳裏に昨日噴水広場で合った商人の複雑そうな表情が甦った。ああ、そういう理由だったのかと、納得すると同時に胸が痛くなる。
「できるだけしがらみがない人間がいいってことでボクが呼ばれた。けどそもそもボクみたいなのがこの地位にいることに納得してない人間も多いんだよね」
とん、と自分の机を指さして、ルゼは自嘲気味に言った。
「内部の人間はほとんど入れ替わったけど、当然全員じゃない。各地から人が呼ばれたことと相まって、内部はいまだばらばらのままだ。敵が多い。ほんと嫌になるくらい」
「ルゼ隊長……」
「だから一番隊に所属する人間はボクが選んだ」
ルゼのわずかに細められた目がまっすぐにココを捉えた。美しい瞳の中に、確かに強い意志のようなものが見える。
「ココ、きみも、ボクが選んだ」
「え……?」
「君のことは信用している。大変だと思うけど、よろしく頼むよ」
「は、はい!」
驚きから、一拍遅れて沸き上がったのは喜びだった。じんわりと胸が熱くなる。「信用している」その言葉だけで、これからたくさんあるであろうどんな困難にも立ち向かっていけそうな気がした。
背筋を伸ばして、「一生懸命やります」と告げる。
そんな様子のココを見て、ルゼは満足げに「いい返事だねぇ」と言って、背もたれに体を預けた。一度小さく息を吐いてから、おもむろに冷めた紅茶をスプーンでかき混ぜる。
「で、さっそく頼みたい仕事があるんだけど」
「はい」
「西地区の方で違法な武器を流しているグループがいるらしいんだけど、そいつらが邪魔なんだよねぇ」
ルゼは紅茶をまぜる手を止めずに言った。
「潰してほしいんだぁ」
とても穏やかな響きだったが、部屋の中の空気が一瞬で変わった。
「今まで何人か送り込んでみたけれど、みんな戻ってこなくてね」
ルゼは心底残念そうで、つまらなさそうだった。
「誰も、ですか……」
「あ、でも安心して。一人でやれなんて言わないから」
ルゼは紅茶をかき混ぜる手を止めると、華奢な指でまっすぐ伸ばした。その先にいたのは
「クロードと一緒にねぇ」
扉の横に立っていた赤髪の男、クロードは何も言わなかった。ただ、ココと視線が合うと、一瞬不機嫌そうに眉をひそめる。
……どこかで見たようなリアクションだ。ここで働く人間は、みんなこういう顔をしないといけないルールでもあるのだろうか。
「じゃ、よろしくね、ココ、クロード」
「は、はい……」
クロードはなにか言いたげに、しばらくルゼを見ていたが、結局返事はしなかった。ココはその二人の間で居心地が悪い。なんだろう、どうにもこのクロードという男には歓迎されていないようだ。
クロードの手が扉を引く。
「……あの」
ココの頭の中に、ふと昨日会った瓶底眼鏡の少年の顔が浮かぶ。
「ルゼ隊長、変なこと言ってもいいですか?」
「ん?」
ルゼはカップを口につけたまま、小さく首を傾げた。
「もしかして、昨日私のトランク探してくれたのって、ルゼ隊長ですか?」
ルゼは一瞬目を丸くした。すぐに「へぇ」と意味深にほほ笑むと、「どうして」と先を促す。
「いや、本当になんとなくなんですけど……」
理由はない。女のカンなんて言うと笑われるだろうか。ココはその先の言葉を探して、黙り込んだ。
「……そうだよぉ」
ルゼはカップを置いて、背を椅子に預けた。
「やっぱり……すみません。お手を煩わせました」
「いいんだよ。それに謝るのはこっちかもね」
「え?」
「ココの荷物が持っていかれたときに、すぐに取り返すことだってできたんだぁ。でも、あのあたりで最近荷物を盗る奴らがいるって知ってたから、わざと君の荷物を持ったまま泳がせた。おかげで奴らの巣を叩けたけど、君のリュックは取り戻せなかった。ごめんね」
申し訳なさそうに言われて、ココは勢いよく首を振った。
「いいんです。もとは私の失態ですから!」
「……せっかく友達だって言ってくれたのにね」
「え?」
ルゼの弱々しい声にココの口から素っ頓狂な声が出る。
前髪の隙間から窺うようにこちらを見る目の真意は分からない。
「それってどういう……」
「じゃ、よろしくね。ココ、クロード」
ルゼはそれ以上この話をする気がないようだった。
ひらひらと手を振りながらも、すでに視線は手元の書類に落とされている。ココはもう一度トランクの礼を言ってから、「失礼します」とクロードに続いて部屋を出た。
背後で扉が閉められると同時に、扉の外で待機していた担当官が退室時間を記入した。見れば執務室にいたのはわずか20分足らずだ。それでも随分緊張していたのか、海中から海面に出た時のようにぷはと息が出る。胸元に手を当てれば、いつもより少しだけ心臓の音が速い。
なんだか現実離れした空間だった。
「えっと、よろしくクロー」
ド、と呼ぶ前に、そこに誰もいないことに気が付く。見れば、クロードの背中は、はるか先だ。 「ちょ、ちょっと待って!」と、慌てて追いかけるが、彼は足を止めるそぶりさえ見せない。聞こえていないわけはないと思うのだけれど。
階段を降り始めたクロードにようやく追いついて、ココはその袖をつかんだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「……んな」
「え?」
「俺に触んな」
つかんだ手を振り払われて、ココはぽかんと口をあけた。階段の上にいても、自分よりもクロードは背が高い。見上げた深い赤の瞳は、嫌悪感を隠そうとさえしない。
「……俺はおまえのこと認めてねぇ」
吐き出すように言われたそのセリフで、もう一度伸ばそうとしたココの手が止まった。
「え……で、でも、隊長が一緒に仕事しろって」
「……ルゼが何と言おうと、俺は誰とも組む気はねぇ」
がつーん!
本日二度目。頭上から何かが降ってきた。あまりにきっぱりとした拒絶だ。彼は本当に心の底からそう言っている。
「お前と、組む気はねぇよ」
痛いほど冷たいその響きに、追いかけようとした足は動かなかった。