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光射す街より  作者: 大野サクラ
ココとひとりぼっちのオオカミ
2/7

01.ようこそ、最悪な幕開け

 海と青空に映える白い壁に、太陽の光を連想させる淡いオレンジの屋根。柔らかな色合の石畳の道路。燦燦と降り注ぐ光を受けて瑞々しく輝く街路樹が彩を添えるこの街は、フィルニス王国第三の街、ディゴバ。なだらかな斜面に作られた街の玄関口である大きな港は、この国の貿易の拠点としても知られている。世界中から集まった品物と、世界中からやってくる人々で、街は一年を通して賑わいの中だ。

 自分が育った村とあまりにも違う。とんでもない都会だ。着慣れた濃紺のワンピースにの裾を揺らし、乗り合いの馬車から降りたココは、口をあんぐりあけて周囲を見渡した。街の中心に位置すると言うこの噴水広場には様々な店が何軒も出店し、馬車や大きな荷物を持った人々がひっきりなしに出入りしていく。


「お嬢さん、この街は初めてかい?」


 馬車から荷物を下ろしながら運転手が聞いた。


「ええ、すごくきれいな街ですね」

「ああ、まあな。ところでお嬢ちゃんは何のためにこの街へ?」


 旅行か? と、続いて尋ねられ、ココは大きなトランクを受け取り小さく首を横に振った。


「仕事です」

「そうか、それならいいんだ」


 運転手はほっとしたように、もう一つベージュのリュックサックをココに渡した。ポケットの口に付けられたシルバーの花のアクセサリーが太陽の光を受けてきらりと光る。ギールが、お守りにと、家を出るときにくれたものだ。


「この辺りは最近あんまり治安が良くないんだ。あんまり女一人でうろうろすることはお勧めしない。港までを突っ切る大通りは一本だが、そこから脇道が何本も出ててな、街全体が迷路のようになってる。土地勘のない人間は100%迷っちまう。細くて奥こまったほうの道は地元の人間も行かないくらい治安が悪いから、できるだけ広い道を、明るいうちに歩くようにしな。荷物はこれで全部か?」

「ええ。ありがとうございます」


 料金を払っておつりを受け取ると、念を押すように「気を付けてな」と言われてしまった。親切な運転手に手を振ると、彼も同じように手を振り返した。

 ココは馬車が見えなくなるまで見送ってから、辞令に同封されていた地図を広げた。主要な道のみを示した簡素な地図なので、街は迷路のように入り組んでいるなんて全然分からなかった。いい情報が聞けた。

 地図に描かれていたのはディゴバの街の護衛団の建物の所在地。そしてそのすぐ隣にある宿舎の場所だ。まずは宿舎へ向かって荷物をまとめて、明日の朝、ディゴバ支部の支部隊長に挨拶をして仕事を始める予定になっている。


「ええと……ここが広場だから……こっち向きか。ん? まっすぐ……で、いいのかな」


 村では地図を使うことなどほとんどなかったので、どうにも見慣れない。入隊試験のために王都へ出向いたときは、ギールさんが一緒だったので、地図を見る必要がなかった。心の端に不安が浮かぶが、すぐに気合を入れなおす。こんなことで心細くなっている時間はない。

 ココは「よし」と小さく自分を奮い立たせ、地図から顔をあげて荷物を持ちあげた。そして一歩目を踏み出した。まさにその時だった。「ええ! そうなんですか!?」と驚き交じりの明るい声が聞こえてきたのは。

 その声のあまりの大きさに、自然と視線が引き寄せられる。


「ええ~、知らなかったです。そうか、こっちに安い宿があるんですね!」


 そこにいたのは、はちみつのように柔らかな金髪の少年だった。まだ若い。14,5歳くらいだろうか。ひどいくせ毛の彼は、だぼだぼのシャツに瓶底のような眼鏡をかけて、大きな荷物をいくつも持っている。一目で旅行者だと分かった。

 くしゃくしゃの地図を握りしめた彼は、顔を紅潮させながらしきりにお礼を言っている。


 いかにも悪人らしいの風貌の3人組に。


「ああ、そうさ。きみ、この街ははじめて?」


 そうニタニタと笑みを浮かべる男達は、どう見ても善人には見えない。薄暗い路地の入口で、壁に背を預けるように立つその手には、中身が半分ほどの酒瓶があった。


「ええ、この美しい街にやってくるのが夢でした!」


 少年は鼻息荒く言った。


「そうかい、そうかい。だったら、できるだけ長くこの街に滞在したいだろう?」

「もちろんです!」

「じゃあ、絶対。俺達の言う宿にした方がいい。ここは観光地だからな、ぼったくりみたいな宿も山ほどあるんだ」

「そ、そうなんですね……」

「いや、安心しろ、大丈夫だ。これから紹介するところはな、俺達の友達がやってんだ。ここで会ったのもなにかの縁だ。俺たちは友達、いや、兄弟も同然だろう? 安くするよう頼めるぜ」


 いや、そんなわけないじゃん。とココは内心ツッコんだ。どう考えても土地勘のない観光客をカモにして、悪いことをしようとしている人間だ。周囲からは、「またあいつらだ」「あの子大丈夫か?」「大丈夫かって言ったって……誰も止められないだろ」とささやく声が聞こえてくる。

 けれど少年はその言葉を心底信じ切っているようで、まるで神様にでも会ったかのように感動していた。


「ああ! なんて親切な人たちなんだ! 今さっき会ったばっかりの僕にそんな親切な言葉……!」

「いいんだ、兄弟気にすんな。さあ、こっちだ」


 男達が少年の肩を抱いて、こっち、と指す方向は細い路地裏へ続く道だ。頭の中に運転手の「街全体が迷路のようになってる。細くて奥こまったほうの道は地元の人間も行かないくらい治安が悪い」というアドバイスが浮かぶ。

 「荷物を持とう」と言われ、素直に渡した少年を見て、ココは自分の荷物を置いた。ため息が出る。


「さあさあ、兄弟こっちに」

「ごっめーん! 待った!?」

「え?」


 ココは男の手を振り払うようにして、少年の肩に手を置いた。イメージ通り、はちみつのような甘い香りがする。瓶底眼鏡の向こうで目をまん丸にする少年を強く引き寄せて、「久しぶりだねぇ!」とできるだけ大げさに喜んでみせた。周囲の視線が自分に集まってくるのを感じる。


「え……っと?」

「やだなぁ! 忘れちゃったの!? 迎えに行くっていったじゃん。ココだよ。ココ」

「コ……ココ?」


 困惑する少年が何かを言おうとする前に、ココは続けた。


「そう、ココ。ひどいなぁ~。10年ぶりとはいえ、忘れちゃうなんて。さあ、早くいこ? みんな待ってるから。あ、お兄さんたち、荷物持ってくれたんですね~。どうもありがとうございます~。すみません、彼、ちょっと抜けてるところがあって。でも、大丈夫です。ここから先は私が!」


 早口でまくしたて、男が持った荷物の一つに手を伸ばす。

 手に触れた瞬間、今までぽかんとしていた男が「っおい!」と現実に引き戻されたかのように大声を上げて、荷物を自分の背へ回した。


「お嬢さん、この街のもんか? ……俺たちが誰か、知らないわけじゃないだろう?」


 ドスの利いた声で睨まれて、ココはへらっと気の抜けた笑みを浮かべた。


「すみません。ちょっと失念してしまいまして……」


 そう言いながらもう一度荷物を回収しようと手を伸ばすと、目の前に鋭利な銀色が現れる。


「これが何か分かるだろ」


 冷え切った声が降ってくる。男の顔を見上げれば、さっきまでの善人ぶった仮面はきれいにはがされていた。刃物をちらつかせながら、殺気交じりの目でこちらを見下ろしている。


「……さあ、なんでしょうね?」

「てめぇ……」


 ココは視線を外さないまま、口の端をわずかに吊り上げた。

 空気が張りつめていく。


「……え……え、ええ!? お兄さんたち、悪い人だったんですかあ!?」


 場の雰囲気に合わない素っ頓狂な声が背後から聞こえ、ココと男たちの肩の力がガクッと抜けた。振り返ると顔を真っ青にした少年が可哀そうになってしまうくらいガタガタと震えている。


「っていうか、お姉さんは一体……すみません。僕、知り合いにココっていう人はいなかったと思うんですけど……」


 いま、言うことかーい! と心の中でツッコみが止まらない。ココは苦い笑みを浮かべながら、もう一度視線を男に向けなおす。


「いいじゃん、これも何かの縁だよ。今日から、友達ってことで」


 相変わらず向けられたままのナイフの切っ先を見て、手を腰にそっと伸ばす。


「お嬢ちゃん、悪いことは言わねぇ。かわいらしいお顔を、これでずたずたにされたくはないだろ?」

「へぇ、ずたずたにされちゃうんですか、私」

「ああ。俺たちは女相手でも加減できないんでねぇ」

「……お兄さん、最後のチャンスですよ」


 ココはわずかに姿勢をかがめて、足に力を込めた。腰に伸ばした指先が冷たい金属に触れる。


「それ置いて、どっか行ってくれませんか」

「あ?」

「人を殴ったりするの、好きじゃないんですよね」

「なに言ってんだ女ァ。そんなに痛い目みたいのか?」


 チャンスをふいにした男たちに、ココは薄い笑みを浮かべた。「ざんねん」そう口の動きだけで言った、直後、広場に響いた鈍い音で周囲は一瞬にして静まり返る。


 広場中の視線が集まった瞬間には、一人の男が宙を舞っていた。


 どさり、と鈍い音と一緒に男が地面に倒れこむ。足元に落ちたナイフを遠くへ蹴って、ココは残りの2人を見上げた。その手には自分の身長ほどの銀のロッドが握られている。

 いつそれが出されたのか、男達には見当もつかなかったが、今後ろで気を失って倒れこんでいる仲間は間違いなくそれで殴られた。そしてそれには見覚えがあった。

 銀のロッドの中央には、王立護衛団の紋章が刻まれている。これを持つことができるのは、そこに所属する者のみだ。彼女がどんな立場の人間なのかようやく気が付いて、残された男たちは息を飲んだ。


「……もう二人にも、チャンス」


 ココは笑顔を浮かべていたが、その声は冷たい。


「痛い目見たくないでしょ」


 なんだかどっちが悪役か分からないセリフだと思ってココは苦笑いを浮かべた。一応正義の味方らしく

「自首して」と付け加えておく。


「……くそ!」


 しばらく考えこんでいた男たちが、最終的に出した答えはココが望んでいなかった方の答えだ。刃物を片手に向かってくる二人を見て、ココは少しだけ楽しそうに「残念だなぁ」と口の端を舐めた。


 数分もしないうちに、広場の隅に、縄で縛られた男が三人横たわった。


「さて……」


 一仕事終えたココは、ロッドを短く押し戻し、真ん中の接続部分を外した。肘下ほどの長さになった2本のそれを腰のホルダーに戻す。洋服についた汚れを手で払いながら、縄を貸してくれた商人に礼を言った。


「なに、礼を言うのはこっちだ。あいつらには困ってたんだが、どうにもできなくて……」

「いいんですよ。仕事なんで、当たり前です」

「仕事……?」


 不思議そうにココの顔を見ていた商人は、突然ハッと顔色を変えた。そしてできるだけ小さな声で、尋ねた。


「王立護衛団の隊員か?」

「え、ええ、明日からそこで仕事をする予定ですけど」

「……そうか」


 その言葉に商人は複雑そうに表情をゆがめた。どうかしたんですか、とココが聞く前に、商人はもう一度短く礼を言うと、足早にその場を去って行った。いったい何なんだろうか。

 けれどぼんやりともしていられない。予定がすっかり狂ってしまった。とりあえず一度支部に行くなり隊員を見つけるなりして、男たちを引き取ってもらうように言わなければいけない。その後、隊舎に行って荷物を……

 ココはふと、足を止めた。

 さきほど、荷物を置いた場所に戻ってきた、はずだ。けれど、ない。そう、ないのだ。荷物がない。周囲を見渡しても、どこにも自分のトランクと、リュックサック、そして支部までの地図もない。慌てて周囲の人に聞いても、誰も荷物を知らない。

 さっきまでここに置いていた荷物がないんです。そう、ちょっと目を離しただけなんですけど。気が付いたら……、そう必死に説明すると、みな申し訳なさそうに言った。

 ――お嬢さん、それは盗られたんだよ。すまないね。ここは治安が悪くて。そう、盗られたんだ。え? 盗られた瞬間は見ていないさ。でもこの街は治安があんまりよくなくてね、スリなんて日常茶飯事さ。そんな街で荷物をほったらかしにしていたら、それは盗られても文句が言えないよ。


「……え、え、ええ!?」


 ココは絶望した。


「私の荷物ううううううううう!」


 広場の真ん中で、頭を抱えるしかできない。




 今日は新しい発見があった。自分の方向音痴だということだ。失敗だったのは、荷物を探そうと脇道に入ってしまったこと。本当に迷路のようで、自分一人がぎりぎり通り抜けられるような極細の道に入って身動きが出来なくなった時には、死さえ覚悟した。あのときたまたま通りがかった子供たちに引っ張り出してもらえなかったらとんでもないことになっていただろう。通行人に何度も尋ねながらようやく宿舎に付いた頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。


 宿舎の立派な扉の先で、ココを出迎えたのは、つややかな長い黒髪にたれ目のグラマラスな美女だった。ボディラインが強調された艶っぽいワンピースの上に、けだるげに白衣を羽織っている。彼女は煙草をふかしながら、頭の先からつま先まで怪訝そうにココを見た。


「……ずいぶん遅かったのね」


 ココはぐったりとしたまま「まあ」と頷いた。


「……なんだか小汚いし」

「うっ」


 こんな美人に“小汚い”と言われ、胸が痛んだ。事実だとしても、もう少し優しい言葉で言ってほしかった。ココは泣きそうになりながら「すみません」と謝った。

 ココの洋服は、先ほどの小競り合いと迷子のせいですっかり汚れてしまっている。鼻先に黒っぽい汚れがついているし、それなりにきれいにまとめてあった髪も、今はぐすぐすになってしまっていて、中途半端に毛が垂れている。本当は直すことだってできたが、半ばパニックになりながら荷物を探し、やっとの思いでここまでたどり着いたのだ。身なりに気を回す余裕はなかった。


「……手ぶらだし」


 そして結局、荷物は見つからなかった。


「……なんか、追剥にでもあったみたいな……」

「……う、うわああああん!」


 そこまで言われて、ココは地面に蹲った。つらすぎる。都会怖すぎる。まだ初日さえ迎えていないのに、つらい出来事が多すぎる!


「え? なに? 怖」

「ううう……荷物取られちゃったんですううううう!」

「ええ……」


 白衣の美女は突然泣き始めたココにドン引きだ。けれど子供のようにわんわん泣くココの姿が哀れに思えて、恐る恐るその背に手をのせた。


「あーなんていうか、大変だったのね」

「うう……都会怖い」

「まあ、なんていうか、落ち着きなさいよ。大丈夫だから」


 その小さな子供を窘めるような優しい声色に、ココは顔をあげた。

 鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔はなんだか間抜けで、笑っていはいけないと思いつつも、ついつい笑みが込み上げた。白衣の美女は煙草を足元に押し付けながら笑った。


「私はジュリエッタ」

「うう……ぐず……ココ、れす」

「よろしく、ココ。私も最近ここに来たばかりなの。それで先月からここの支部の医務室勤務」

「私は明日から、隊員として、働きますぅ」


 その言葉にジュリエッタから「え!」と声が漏れた。


「あなた隊員なんだ……いや、ごめん。なんかあんまりそう見えなくて……」


 ココは「大丈夫です」と鼻水を拭きながら体を起こした。

 大丈夫。だって私もそうは思わないと思う。明日から仕事ですーって、新しく来た隊員がこんなふうによろよろで、荷物もなく、半べそかいていたら、隊員だなんて絶対に思わない。初日からとんでもない失態をさらしてしまっている。


「どこの所属予定なの?」

「えっと……確か一番隊に所属予定で」

「うそでしょ!?」


 食い気味に言われた悲鳴にも似た言葉で、ココは自分の中で何かが折れる音を聞いた。そうです。分かってます。こんなのが働けるわけないですよね。

 がっくりと項垂れると、慌ててジュリエッタが「ちがう、そうじゃなくて」とココの両肩を持った。


「いや、そういう意味じゃないんだけど、いや、ちがわないというか」

「あ、フォローとか大丈夫です。こんな状況の私が悪いので」

「ああ、だから違うんだって! ……その、本当に一番隊の所属予定なの?」

「はい。確か……」


 封筒もごっそり取られてしまったので、確か、としか言えない。ああ、そうだ封筒……。異動の辞令もあの中だ。明日、新しい上司に会う際に必要なんじゃないだろうか。いきなり失くしたなんて、どうやって説明しようか……。

 ココの目がどんどんうつろになっていく。そんな様子を見て、ジュリエッタはどこか申し訳なさそうに言った。


「……なんていうか、がんばって……ね」

「はい……」

「と、とりあえず、部屋に行こう」


 ジュリエッタはまだ、複雑そうな表情で「そうか、一番隊……危ないんじゃ……」とぶつぶつ言っているが、ココの耳には入らない。明日からの生活や仕事をどうしようか、そればっかりが頭の中を占めている。


「あのう、ジュリエッタさん」

「ジュリエッタでいいわ。敬語もいらなーい。堅苦しいの苦手なのよね。歳いくつ? そんなに変わんないわよね?」

「19です」

「ほら、同い年じゃん」


 がーん。

 からからと笑うジュリエッタを見て、ココは絶望した。本日二回目である。

 彼女のグラマラスなボディ、特に胸元へと自然に視線が引き寄せられる。そして確認するように自分のを見れば、そこにはつつましい胸元。よぼよぼの自分とジュリエッタは何もかもが違う。

 ココは胸元を抑えながら生気の抜けた笑みを浮かべた。


「うん…ジュリエッタって呼ぶよ……」

「元気ないわね。で、なに?」

「いや……その、荷物、戻ってくる可能性はないかなーっと思って。ほら、落とし物みたいな感じでだれか届けてたりしないかな、みたいな」


 ジュリエッタは幽霊でも見るような顔でココを見て「あんたねぇ」とため息交じりに言った。


「戻ってくるわけないでしょ」

「……やっぱり? 私の村では、返ってくることがほとんどなんだけど……」

「あんたの出身地のことは知らないけど、少なくともこの街では無理」


 ご愁傷様、と付け加えられて、ココはがっくりと項垂れたまま、ジュリエッタの後ろを歩いた。



 建物の中は質素だが、品のいい調度品が温かかな色のランプでぼんやりと照らされている。等間隔で並んだ扉を見ながら、「広いですね」と言えば、同じような大きさの宿舎があと3つあると聞かされ、ココは目を丸くした。もちろん隊舎ではなく街に住んでいる人も少なくはないそうだ。この支部に勤める人間はそれほど多いらしい。最初の間は迷子になりそうだな、なんて頭の隅で考えながら、必死に道を覚えた。

 ジュリエッタに「ここよ」と案内されたココの部屋は、5階の端から2つ目の部屋だった。


「まだ両隣は人が入ってないけど、一応常識ある暮らしをお願いね。大声で騒いだり、気に入らないからって隣の部屋の人間をぼこぼこにしたり、危ない薬品作って隣の部屋の人間を殺しかけるとかはしないで」

「な、なんか妙に具体的な……」

「ま、あんたは大丈夫だろうけど。はいこれ鍵。スペアはないから、失くさないようにね」


 ジュリエッタから受け取った鍵で部屋をあける。

 部屋の中はそれほど広くはない。大きな窓が一つあり、その前には備え付けのベットが一つ。ベットサイドにはランプもあり、机やイスもある。クローゼットの中には護衛団の隊服が3セットかけられていた。広くはないが、不自由ない暮らしが充分できそうだ。


「食事は1階の食堂で。お風呂は各階に1つ」

「案内してくれて、ありがとう」


 いいのよ、とジュリエッタは微笑んだ。


「私の部屋は4階。なんかあったらいつでも来て」

「うん」

「いろいろ大変だと思うけど仲良くやりましょ、ココ。明日の仕事後にでも、必要なものの買い出し手伝うわ」


 軽やかにウインクされて、ココは泣きそうになった。「ありがとう」と涙声で言うと「泣かないでよ」とジュリエッタはどこか呆れたように言った。


 ここにきて初めてやっていけそうだ、と思った瞬間だった。

 それからジュリエッタに洋服を借りてお風呂に行った。さっぱりして、気持ちも多少楽になったような気がする。部屋に戻ってベットに横になれば、すっかり暗くなった窓の向こうから人々のざわめきが風に乗って聞こえてくる。明るい場所には酒場があるんだろうか。

 当たり前だけれど、ここにはここの生活がある。そういう瞬間に触れると、なんだかうれしい。


「明日から、がんばらないと……」


 なんだか急に眠たくなってきた。ココは重たくなった瞼を閉じ、そのままベットに潜り込んだ。

 明日がいい日になればいいな。




 眠ってから、どれくらいたっただろうか。小さくドアが揺れた音で、ココは目を覚ました。窓の外はまだ随分薄暗い。のろのろとベットから起き上がりゆっくりとドアをひくと、足元に置かれたそれで一気に目が覚めた。

 私のトランク!!!

 叫びそうになるのを必死にこらえて、それをあけた。ドキドキして手が震える。中身は昨日泊まった宿を出た時と変わっていない。金や洋服などもそのままだ。辞令の入った封筒も一番奥にしっかり入っている。トランクには多少傷がついてはいるが、これくらい気にならない。

 ココは自分の子供を抱きしめるようにそれを抱きしめて、ほっと息を吐いた。


「た、助かったぁ」


 でも、


「いったい誰が……」


 周囲に人気はない。小さなつぶやきはだれに拾われることもなく、静かな宿舎の中に溶けていった。




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