プロローグ
「……じ、人事異動?」
聞きなれない言葉だった。
ココは目を見開き、青みのある灰色の瞳で目の前の人物を見た。肉を刺したままのフォークが中途半端な位置で止まり、耳にかけていた濃灰色の長い髪が一房、滑るように落ちる。
テーブルを挟んで前の席で夕食をとるのは、ギール。ココの2倍はあるような屈強な体の持ち主の彼は、その容姿に似合わない上品な所作で根菜のポタージュを口に運ぶと、「そうだ」と小さく頷いた。
ゆっくりとフォークをおろして、ココは自分とは似ていないその姿を見た。ギールはちっとも動揺していないように見える。いまだ“人事異動”という言葉を処理できず、カップを持つ手が震える自分とは大違いだ。流し込んだぶどうジュースの味は分からない。あんなにも大好きなのに。
人事異動。
14歳でこの仕事についてから、おおよそ5年。初めて聞いた言葉だった。いや、正確にはそういうことがあることは知っていた。でも、まさか、そんなの、この村には関係ないと思っていたのだ。
大国、フィルニス王国の端の端、山々に囲まれたこの小さな村では。
平和極まるこの村で、各地に配属されている王立護衛団の隊員は2人。隊長のギール、副隊長のココ。そして忘れてはいけないペロ隊員。非公認ではあるが立派な隊員の彼は、夕食を終え、現在は宿舎という名の犬小屋でまったり眠っている頃だ。
凶悪な事件があるわけでもないこの村で、王立護衛団なんて言われてはいても、仕事はそんな大げさなものではない。人手不足の畑を助けたり、迷子の子供を捜索したり、旅人に道を案内したり、時には山から下りてくる熊を退治したり。大きな街では、当然もっと身の危険を感じるような仕事も多いと聞くが、ここではそんなこととはほとんど無縁だった。忙しいことはあっても、手が足りなくなるようなことは一度もない。
「……いつから?」
カップを置いて、ココは恐る恐る聞いた。
「期間は来月から。場所はディゴバだ」
ギールは淡々と告げた。
「ディゴバ……」
聞き覚えのある地名だ。つい数か月前まで、その名前はずいぶんと新聞をぎわせていた。
ディゴバ。そこはこの王国第3の街で、大きな港を擁する貿易の拠点でもある。世界中から様々な人間がやってきて商売をし、観光客も多いという。
しかし、半年ほど前に領主やディゴバ支部の護衛団まで巻き込んだ大規模な汚職事件が発覚してからは、街はずいぶんと不安定な状態が続いていると聞く。ディゴバ支部に勤めていた隊員の多くが解雇か移動になり、支部もまた、不安定なままだと。
「なるほど、だから……」
ギールさんが移動になるのか。
納得できる話だ。ココは小さく頷いた。
彼は今でこそこの小さな村で働いているが、昔は王都の本部で分隊長を務め、怪我で引退した後は養成所で教官を務めていたと聞いたことがある。人望も厚かったようで、今でも時々、教え子だったという人が休暇を兼ねて遊びに来ることもある。まだこの組織では珍しい女である自分が、無事に入隊試験をパスし隊員になれたのは、この人の指導のおかげだと心底思っている。
「ああ、だからお前が移動になる」
でも、正直心配だ。ギールさんがいなくなると、この村にいるのは自分とペロだけに……
「……ん? ……え?」
「だからお前が移動になるんだ、ココ」
その言葉を理解できず、ココの動きがビシリと固まった。
「え? い、移動? わたし?」
理解が追い付かずに単語をぼろぼろとこぼしたココに対し、ギールはいたって冷静だ。「そうだ」と、もう一度頷いたギールに、ココはゆっくりと自分を指さした。
「……え? ……え?! 人事異動って私!?」
「だから、何度もそう言っているだろう」
「な、なぜ!?」
ココは思わず立ち上がった。
「お、おかしくないですか。なにかの間違いじゃ……」
「間違いじゃない。さっき本部から正式な辞令が届いた。10日後にここを出発し、来月の頭からディゴバで任務にあたってもらう、と」
そう言うと、ギールは懐から一通の封筒を取り出した。つやつやとした質のいい封筒を、ココは震える手で受け取った。中に入れられた本部からの辞令には、“来月の頭からゴディバ支部で一番隊隊員として日々の任務にあたること”と示され、間違いなく自分の名前が書かれている。本部の総隊長のサインと、丁寧に押された朱色の印は間違いなく本物だ。
ココは気が遠くなって、倒れるように椅子に腰を降ろした。
「大丈夫か」
「……いや、ちょっと驚いて……混乱しています」
「そうだろうな。私も正直なところ、少し混乱している」
いつのまにかメインディッシュを食べ終え、勤続20年を迎えるベテラン使用人のルイーズさんにデザートを持ってくるように頼む姿は、とてもじゃないが混乱しているようには見えない。元々感情表現が豊かな人ではないが、それでももう少しリアクションがあってもいいはずだ。ココはじっとりとした目でギールを見る。
「……うそじゃない」
「……一人娘が移動になるんですよ」
その言葉に、ぴくりとギールの眉が動く。ようやく変わった表情に、ココはちょっとだけほっとした。
「あんまりギールさんをいじめちゃだめよ、ココ」
デザートのフルーツタルトを運んできた使用人のルイーズは、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「混乱していないわけないのよ。だって、この手紙、ギールさん昨日の朝一番に受け取っているの」
「え?」
「あんまりにもショックで、1日、ココに伝えられなかったのよ」
「ルイーズ」
それ以上の言葉を制したギールの顔は真っ赤だった。
「……あなたがこの家にやってきてからずうっと、ギールさんはココのことがなによりも一番大切ですからねぇ」
ギールの前にデザートを並べると、ルイーズはいたずらっぽくウインクをして入り口の隣まで下がった。
ココはこの家にやってきたときのことを、うっすらとだが覚えている。ひどい雨の日、ココはギールの屋敷の前で彼に拾われた。どうしてギールの屋敷の前にいたのかは分からないし、それまでどんな生活をしていたのか、なにも覚えていない。
そんな、なにもなかった自分を、ギールはまるで本当の子供のように愛し育ててくれた。
「……お父さん」
ココにとって、ギールは仕事の上司でもある。自宅兼職場のような場所なので、私生活と仕事の境目の曖昧だ。
だから普段、ギールを“お父さん”と呼ぶことは少ない。それがついついこぼれてしまうくらいに、どうやら感傷的になっているらしい。急にこの人と別れるのだという実感が湧いて、鼻の奥がつんとなった。
「……お前がいなくなるのは、父親として、とても寂しい」
ギールはそこまで言って、こらえるように唇を噛んだ。「だが……」
「お前の上司としては、とてもいい機会だと思っている」
「……いい機会?」
「ああ」
ギールはほんの少しだけ口の端を緩めた。
「お前には才能がある。一生この小さな村で過ごすのはもったいない」
ココは息を飲んだ。彼に、こうして面と向かって褒められたのは人生で初めてだったから。もちろん一人前の隊員になるまで見捨てずに育ててくれたので、この仕事に向いていないわけではないだろうとは思っていたが、それでもやっぱり不安になるときはあったのだ。
「ココ」
優しく名前を呼ばれて、ココは蚊の鳴くような声で「はい」と頷いた。
「今回の異動はお前の才能や、仕事に対する情熱を発揮できるいいチャンスだと、私は思う」
「は……はい」
「お前はこの村以外で仕事をしたことがないから、きっと不安だろう。だが、安心しろ。お前の力はこの国のどこでだって通用する。お前の上司として保証する」
泣きそうだ。いままでの努力が全部報われたような気持ちだった。
「だが、それでも大変なことはある」
「はい」
「その時は、お前が今まで、私やルイーズ、村の人々からもらったものがきっと支えになる。お前は努力家で、一生懸命だ。真っすぐで、人を愛せる人間だ。大丈夫。どんな困難も乗り越えられる。父親として保証する」
ついに溢れた涙が頬を伝い、情けない声が出る。ココはそれをこらえるように背中を丸めた。
本音を言えば、異動は不安だ。この村から出たのは、入隊試験のために王都へ行ったときのただ一回だけ。でも、この人がそう言ってくれるなら、やってみようと思える。これはいい機会だと思える。がんばってみようと思う。
「そうよ、ココ」
ハンカチを差し出したルイーズが、反対の手でココの背中を撫でながら言った。
「大丈夫。あなたならできるわ」
ココにとってギールが父親代わりなら、ルイーズは母のような存在だった。ギールの指導に泣くココを慰め、相談に乗り、ココの成長を見守り続けてきた。
「それに、これはチャンスよ」
「うぅ……チャンス?」
ハンカチで盛大に鼻をかんで、ココはルイーズを見上げた。
「恋人を見つけると言う意味でもね!」
太陽のような笑顔でルイーズは言った。ココの涙はぴたりと止まり、デザートを食べていたギールは盛大にむせた。
「え……ルイーズ?」
「あなたのことよ、ココ。私は知ってるのよ、あなた3年前にフラれてから、誰ともお付き合いしていないでしょう?」
ココはその衝撃的な言葉で倒れかかった体を寸前でこらえた。
「……ココ、お前恋人がいたのか?」
そう尋ねたギールは平然を装ってはいるが、フォークが2本に見えるほどブルブルと震えている。
「いや、彼とは付き合ってはいないから!」
「あら? でも3日くらいは付き合ってたじゃない」
「ルイーズ! あれは忘れたい歴史なの。3日じゃ付き合ってたって言わないでしょ!」
「3日は付き合っていたんだな……」
ギールの手がさっきにもまして震えている。これ以上情報を与えると倒れてしまいそうだ。「落ち着いて、違うから」となだめながら、ココの脳裏によみがえるのは、今まで見事に玉砕してきた哀れな恋心たち。
初恋の相手に「僕より強い相手はちょっと」と断られてから、告白した相手に同じ理由で断られ続けたこと3回。最後は半ばやけくそのような気持ちだった。村の腕相撲大会でギールに次いで準優勝した相手に告白し、無事に恋人になった。と思ったら、3日目に「君のようにたくましすぎる相手は無理だよ」と苦い笑みとともに断られたとき、ココの心はぽっきり折れた。もう、しばらく恋愛はしたくない。
そう決心したのがもう3年以上前だったと思う。忘れかかっていた傷を突然ほじくり返されて胸がじくじくと痛む。ココは胸元を押さえて「ルイーズ、もうそれ以上は……」と絞り出すように言った。
「あら、なぜ? あなたももう恋人の1人や2人いてもおかしくない歳よ」
「そ、そうなんですけど」
「恋はいいわよ」
ふふ、と頬を染めて笑う彼女はいまだ夫とラブラブだ。休日は2人で手をつないで歩いているのを見る。
「……いい出会いがあるといいわね」
すこし寂しいけれど、と付け加えられて、ココは困ったようにルイーズの頬に手を伸ばした。
「泣かないで」
「あら、泣いてたかしら?」
「ばっちり泣いてますよ」
ルイーズに借りたハンカチでその頬を濡らす涙をぬぐうと、強く抱きしめかえされた。懐かしい香りだ。昔はよくこうしてもらったな、と思い出す。
「ココ」
名前を呼ばれて視線を戻すと、ギールは咳ばらいを一つして、穏やかな表情を浮かべた。
「私も、王都でいろいろな人間に会って、いろいろな経験をした。とても嬉しいことも、耐えがたいような出来事もあったが、今、そのすべてに感謝している。すべてが、今の私を構成する、大切なものたちだ」
ギールは過去を懐かしむように、少し遠くを見て言った。
ココはギールの昔のことをあまり知らない。どうしてあれほど多くの人に慕われて、実力もあるのにこの小さな村にいるのか。どうしてずっと一人なのか、自分を拾ってくれたのか。子供のとき何度か聞いたことがあったが、ギールはかたくなに答えてはくれなかった。
だから、いま、過去を懐かしむように目を細める彼を見て、ココは安心した。この人にとって過去は、もしかしたらとてもつらいものなんじゃないかと思っていたから。
「お前にもいい出会いがあることを願っている」
「……うん。ありがとう。私にもいい出会いがあるかな」
「ああ。お前がお前らしく、まっすぐに向き合えば」
ココは思い出した。ずっと昔、小さいころ、ギールに鍛えられながら何度も言われたことを。
『いいか、ココ、この仕事には多くのものが必要だ。力だけじゃない。何かに立ち向かうとき、愛や、勇気や、根性が必要だ。それを忘れるなよ』
あい、ゆうき、こんじょう。
強面のギールから出てくるその言葉は少し違和感があったけれど、それでも彼はいたって真面目だった。いつからか、その言葉はココの宝物になった。
入隊試験に向けて大変だった時も、入隊試験のときも、この仕事を始めてからも、迷ったときはいつもこの言葉を思い出した。
困難を乗り越えて、まっすぐに生きるための合言葉。
「私、頑張ります」
「ああ」
「一生懸命、やります」
「ああ、お前なら大丈夫だ」
フルーツタルトを口に運んだ。ベリーが大好きだと言ってから、ルイーズが作るフルーツタルトはいつもベリーが土台から零れ落ちるほど山盛りだ。甘酸っぱさを飲み込むと、無意識に言葉がこぼれた。
「寂しい」
あ、と口を押えると、ギールは眉尻をわずかに下げた。
「私もだ」
結局それを聞いたら、一度止まった涙がもう一度溢れた。ルイーズの優しい母親の手が「泣き虫ねぇ」と小さな子供をあやすように背を支える。
新しい仕事や環境に期待だってしている。でも、形になって表れたのは寂しさだけ。「こんなはずじゃ」と必死に涙をふく。けれど結局、頭にそっと乗せられたギールの暖かくて大きな手に、ココの涙は止まらなかった。