死島百帆子の沈痛 Ⅱ(短編)
1
その日、死島百帆子は個室の中でひとり目を閉じ、顔をくしゃくしゃにしながら便座に座っていた。
「ふっ、んっ、んっーー はぁ、はぁ…あかんわ。」
三日前から続くひどい便秘に死島は悩まされていた。出そうと思うから余計に出ないのだろうと思い、死島はスマートフォンを取り出し、完全リラックスした状態で事に挑むことにした。
そしていつも閲覧している5ちゃんねるのまとめサイトを開いた。相変わらず下世話な下らないスレッドが並んでいる。すると下の方に「毎日快便で痩せすぎワロタwww」というスレッドを見つけた。
「あ、これ絶対宣伝のパターンや。姑息なっ!騙されへんでっ!」
昨日「便秘薬」で検索したのを死島は思い出した。その中で一番効果のありそうな便秘薬のクチコミや商品をヤマゾンなどで調べていたのだ。すると今日、どのページを開いても広告欄が「便秘薬ズドーン」になっていた。あるサイトでは「うわっ、私の便通悪すぎっ!」というキャッチコピーとともに、女性が手を口に当てているものもあった。クリックするとやはり「便秘薬ズドーン」であった。
死島は広告の罠にひっかかるまいと次々と胡散臭い広告を華麗にスルーし、気になる記事を見つけては開き、閲覧を楽しんでいた。
「私のスマホ経験値をあなどるでないわっ ふふふ…おっ?」
死島の頬が緩んだと同時に、腸もリラックスしたのか、一時的に緩み始めた気がした。
よしきた!と思いそのまま力んだ。
「ぬぉっ、んくっ、とりゃっ!」
今を逃せば後はない…死島はスマートフォンを上着のポケットにしまい、目を閉じて集中した。
「ぬぉーっ!」
凶器の様な第一弾を渾身の力を込めてひり出した。 スポッと栓を抜いたかのような第一弾が去った後、するするっと体内の残留物が一気に吐き出された。死島は恍惚な表情で爽快感に身を任せていた。その表情はまさに恵比寿様のようだった。
「ふぅ、出産は辛いのう」
悟りを開いたかのようにひとりごち、トイレットペーパーを引っ張ろうとした。だがまったく感触がなかった。慌ててペーパーホルダーを開けると、茶色いロールの芯がこんにちはと言わんばかりに目に飛び込んだ。
「え、マジで?」
死島は恵比寿様の表情から一転、能面のような顔になり、この先のプランを脳内シュミレーションしていた。そして自身の三十七年間の人生経験というビッグデータを駆使して導き出した答えはすぐに出た。死島はロールの芯を手に取り、端の方から器用に裂いていった。すると一枚のひし形の紙になった。多少ざらついてはいるが、この状況を打破するにはこれしかないのだと自身に言い聞かせた。
「よし、いける」
意を決して最終処理に挑んだ。なんとか事を終え、水を流そうと後ろを振り向くと、タンクの上にスペアのトイレットペーパーが2つ置いてあった。
「っざけんなよっ!」
死島は舌打ちし、ひりひりする尻を押さえながらレバーを引こうとした刹那、上着のポケットに入れていたスマートフォンがするりとずり落ち、便器の中へと綺麗なシュートを放った。
「ぎゃーーーーっ」
気が付くと見覚えのあるいつもの天井が見えた。死島は自分の部屋の布団の中にいた。窓からはさんさんと初夏の日差しが差し込んでいる。
「あれ、私寝てたっけか?てかさっきのは夢なんかいっ」
やけにリアルな夢だったなと思いながら、布団の上に温かみのある重さを感じて体を起こした。
「もーちゃん、いたんでちゅかー 暑いからどいてくれまちゅかー」
今年十三歳になったご老体の飼い猫、モーラはフレーメン現象を起こしていた。死島はなぜか慌てて充電中のケーブルが付いたスマートフォンを探り、匂いを嗅いだ。
「てかなんで私匂い嗅いでるんやろか…最近寝ぼけ方が半端ないな。。」
そうひとりごちながら画面を見ると、小学校からの同級生である大林隆一からメッセージが来ていた。
”元気してるんか?”
死島は返信をした。
”ぼちぼちですお。最近の私のマイナーブームは草むしりどすw”
返信を待っていたが、彼の返信が返って来ることはなかった。死島はスマートフォンを放り投げ、布団から出た。今日は母から店の材料の買出しを頼まれている。身支度をした後、愛車FIATに乗り込みエンジンをかけた。
ブロロロロ、と心地良い二気筒エンジンのサウンドが、黒ん兵衛の駐車場に響き渡った。
2
死島は店から車で一分の所にある大型スーパーEYONへ向かった。駐車場に綺麗に納めるのに五分かかった。
「やっと着いた。運転は疲れるわ」
食料品売り場に行き、母から預ったメモを見ながら材料をカートに入れていく。
「んーと、後は鶏肉と…紅生姜か」
頼まれたものを全てカートに入れ終えた死島はレジへ並んだ。ふと奥のレジに目をやると、いちゃついた様子の男女の姿が見えた。
(まったく、ええ歳こいて昼間っからいちゃつきよってからに。)
死島は心の中で毒づいていた。見たところ、男の方は40代といったところか。長身でなかなかハンサムだ。
(くそっ!めっちゃタイプやないか!此奴らもしや不倫か?相手はどんな女じゃいっ)
女の方はレジで会計をしている為後ろ姿しか見えない。背が低く髪型は三つ編みであった。死島はおやっ、と思った。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちですか?」
死島の順番が回ってきた。ポイントカードを提示しつつ、奥のレジで会計を済ませたその女を目で追った。
「お客様、もしもし、お客様。カードの方が違うようなのですが」
しばらくすると女が男の方を振り向いた。その見覚えのある顔を見て死島は唖然とした。山本陽子だった。
「まじか。。」
「え、ええ、まじです」
店員はカードを間違えただけでこんなに驚愕する客は初めてだと言わんばかりに苦笑気味にそう言った。その客の表情はまるで猫がフレーメン反応を起こしたかのような顔だったからだ。
「お客様?もしもし」
死島はふと我に返り提出していたカードを確認した。それはいつも一人カラオケで使用している「ピック・エコー」のメンバーズカードであった。
「あ、すいません。こっちですね」
「あ、はい、それです。ありがとうございます」
死島は視線を元に戻した。しかしすでに二人はその場から姿を消していた。
(くそっ、見失った! しかしどういう事やっ)
会計を終えた死島はカートを押し、愛車FIATの後ろに付けた。リモコンキーでハッチを解錠し、買い物袋と鞄を収納した。
「ふー、疲れた。しかしとんでもない事を知ってしまったな。どーいう関係なんや二人は」
先程の光景を思い出し、バタンッとハッチを閉めた。車に乗り込もうとポケットからキーを取り出そうとしたが見当たらない。落としたのかと思い地面を探した。だがやはりない。
「あれ?どこ行ったんやろ。さっきハッチ開ける時はあったのに。あ!」
死島はハッチのガラス窓を覗いた。買い物袋と共にFIATのロゴが輝いたキーがポツンと置いてあった。慌ててハッチを開けようとするがもちろんロックされてしまっている。運転席を開けようとしたが解錠していないが故に開くはずはなかった。
「え、これっていわゆるインロックってやつちゃうん?」
しばし考え込んだ後、死島はポケットからスマートフォンを取り出し、親経由でJAFを呼んだ。スマートフォンをポケットに入れておいたのが幸いだった。鞄の中にしまってたらと想像するとぞっとした。JAFが到着するまでの間その場に立ち尽くしていると、見覚えのあるラパンが死島の横を通り過ぎていった。山本陽子の車だった。通り過ぎたラパンのリアガラスには楽しそうに会話しているであろう二人の男女の影があった。死島のFIATのリアガラスには買い物袋と置き去りにされたキーがあるだけだった。
「何この違い?え、どーいう事? ヨーコと私は運命共同体なはずちゃうん!」
山本陽子――小学校からの同級生であり、今でも続いている数少ない死島の友人である。彼女は同じ地区に住んでおり、死島と同じく実家暮らしの独身女だ。彼女とは運命を辿る上で同じ匂いがしていた。死島は陽子との将来のビジョンを独居老人仲間、行きつく果ては孤独死仲間と勝手に決め付けて安心していた。その彼女が男を連れていた…その事実を目の当たりにして死島は不安になった。
JAFが到着し、FIATのロックが解除されるまでに約三時間を要した。抜け殻のような思考の中で、盗難されにくい車なんだなと場違いに感心していた。死島にとってそれはそれはとても憂鬱で長い時間であった。
3
死島は唐揚げにする為の鶏肉をフライヤーで揚げながら山本陽子の事を考えていた。そういえば最近は彼女と連絡を取り合っていない。よくよく考えればその間に彼氏たるものが出来ていたとしても何の不思議もない。彼女は栄養士として給食センターで働いている。故に様々な出会いもあるだろう。外部からの参入を避け身内ばかりで仕事をしている自分の環境とはまったく違うのだ。例えばこの唐揚げを作るのには鶏肉が必要だ。それには今日の買出しのように外部から調達してこなければならない。同じく出会いというものもそうなんではないかと、間もなく出来上がる鶏の唐揚げを眺めながら死島は思った。そして揚げ上がった出来立ての唐揚げをキャベツの千切りと共にステンレス製の器に盛り付けた。秘伝のドレッシングをかけた後、死島はこっそり一つ食べた。サクッとした衣の食感の後に訪れる肉汁たっぷりのジューシーな味わいと、さっぱりと酸味の効いた秘伝のドレッシングが鶏肉の脂っこさを中和させ絶妙なハーモニーを醸し出しており、実に旨かった。恋愛もこんな風に美味なのだろうかと死島は感慨に耽った。
「ひーちゃん、揚がったらそのまま6番さんに出したげてー」
奥から母の声がした。はっとして我に返り、盛り付け直して6番テーブルへと運んだ。
「おまたせしました。あ。」
そこには見覚えのある顔があった。小学校からの同級生である谷山誠と貝柱浩二だ。二人は楽しそうにビールを飲んでいた。
「お、きたきた。かしわの唐揚げ」
谷山誠は死島が運んだ唐揚げを嬉しそうに目にした。するとおやっというような顔で死島を覗き込み、こう言った。
「何か量、少ななっとらへん?」
「いや、そんな事ないと思いますけど?」
死島は狼狽を悟られないように極めて冷静に言った。
「こんなもんやろ。あ、おかわりで。」
貝柱浩二は残り少ない生ジョッキのビールをグイと飲み死島に告げた。谷山誠はまだ死島の顔を凝視している。
「もしやオヌシ、食べたか? 唇が脂っぽいぞ」
「んなわけありますかいな。リップ塗っとるだけどす」
さすがに狼狽が露わになりそうになりかけたが、咄嗟に思いついた嘘で誤魔化した。
「ならええんやけど。あー、それでな貝柱君…」
死島は貝柱から預った空のジョッキを手に取り厨房へ向かった。谷山誠は昔から恐ろしい程に鋭い人間だと大林隆一から聞いてはいたが、まさにそれを実感した瞬間であった。あなどれないなと死島は思った。そういえば、谷山誠も独身を貫いている。恐らく彼の場合、アンテナの感度が良すぎてその辺りの事柄が裏目に出ているのだろうと勝手に推測し、勝手に納得した。
繁忙時間帯も過ぎ去り、休憩の時間に入った。死島は、久しぶりに山本陽子にメッセージを送ってみることにした。
”元気ですか? 最近どないしとん?”
すると一分も立たない内に返信が返ってきた。彼女もスマホを弄っていたのだろう。
”元気やで。ひーちゃんも元気?”
”ぼちぼちですわ”
”あ、あのな、私もうすぐ結婚するかもしれん”
「え。」
驚愕の返信に、死島は言葉を失った。恐らく大林隆一もこんな感じだったのだろう。ただし返信の内容のレベルが格段に違いすぎた。かたや「結婚」で自分は「草むしり」だ。死島は再びこの台詞を口にしていた。
「何この違い?え、どーいう事? ヨーコと私は運命共同体なはずちゃうん!」
休憩が終わり、営業中の階下へ戻った。しばらくして、チリンっと来客を告げる音とともにドアが開いた。
「いらっしゃいませ…」
二人の中年男がテーブルへ着いた。その一人を死島はどこかで見た事があった。
「あ、瓶ビールちょうだい。コップ二つな。それと…そやの、ブタ焼いといて。おう、オマエは?」
人相のあまり良くない年増の男が、死島がどこかで見かけたであろう男に尋ねていた。
「じゃあ僕は、ミックスでお願いします」
目つきは鋭いが低姿勢な物腰のハンサムな男がそう答えた。
「ビールはキリンとアサヒどちらに…」
死島が銘柄を尋ねると年増の男の顔色が変わった。
「あほんだらっ!キリンに決まっとるやないか!早う持って来んかい!」
「ひゃうっ。かしこまりましたっ」
怒鳴られた死島はピンと背筋を伸ばし、敬礼しながらそう言った。冷蔵庫からビールを取り出し、どこかで見たことのある男を懸命に思い出そうとしていた。
「んー、誰やったっけなー…めっちゃ最近見たような気がするんやけどな…」
瓶ビールとコップを持ってテーブルに置いた刹那死島は思い出した。
(あ!そやっ!今日の昼間ヨーコと一緒におった男や! ということは彼氏か!)
「ひーちゃん、ひーちゃん、ちょっと」
父の芳路が厨房の影から身を隠すようにして小声で手招きしていた。死島は何事かと父の側へと行った。
「あのおっさんな、コレもんやで慎重にな」
そう言って芳路は人指し指を頬に当て、斜めに切る仕草をした。死島は手を口に当て”うわっ”という仕草をした。
「あの若い方は見たことないんやけどな。初めて見る顔やわ。どっちにしても北山組のもんに間違いないやろ。あ、わしちょっと用事思い出したさかい、上におるわ」
そそくさと逃げていくように芳路はフェイドアウトした。
北山組――この辺りでは名の知れた裏社会の組織だ。スーパーマーケット事業や不動産事業を表向きには行っている。分かりやすい例でいえば「スーパーマーケットKITAYAMA」であろう。しかし、彼らの収入源がこの表社会の生業だけで成り立っているわけではない事くらい、商業を営む父も母もよく理解している。
死島は彼等の座っているテーブル席の隣の席を片付ける振りをしながら聞き耳を立てた。
「どや、あの件はうまく行っとるんか」
「ええ、貯蓄はかなりのもんですわ」
「ほう、どれくらいや」
「本人から二千万と聞いとります」
「ほう、しかしよう貯めたもんやの。さすがは独身女や。どっちにしてもオマエに惚れまくっとるんやろの。上手く言いくるめて全部回収してくれや。頼むぞ」
死島は焦った。
(間違いない、ヨーコは結婚詐欺に合おうとしとる)
だが、何も出来ない。ヤクザ相手に何も出来るわけがない。逆らったら最後、この店の存続も危ぶまれる。違法ではあるが開業時に北山組からの恩恵を受けたと、今は亡き創業者のサヨ美婆さんが言っていたと聞く。歴史を紐解くと、北山組あってのこの店なのだ。
自分に唯一出来る事と言えば一刻も早く山本陽子に連絡しなければいけないと言うことだけだった。
4
日曜日に当たる翌日、死島は午前中に山本陽子と会うことにした。昨夜あの後すぐにメッセージを送ったのだ。
”ヨーコちゃん、明日休みやろ? 久しぶりにお茶でもどない? 結婚の話も聞きたいし”
”ええでー。どこでお茶する?”
”10時頃にガスティンにしよか”
”了解”
ガスティンは死島の数少ない行きつけのファミリーレストランだ。無論訪れるのはファミリーではなくいつも死島一人だ。
「久しぶりやん、いつ以来だっけ?」
「確か同窓会以来やないっけか?」
同窓会。大林隆一が影の指揮者となって二、三年前お盆や正月に行っていたイベントだ。
「え、そんな前になるかぁ」
死島は注文したアボガドシュリンプサラダを口に運びながら本題に入った。
「しかしびっくりしたわ。ほんまに結婚するん?」
「うん その予定」
「どこで知り合ったん?職場?」
「ううん、婚活サイト」
「え、ネットなん?」
死島は陽子が教えてくれた婚活サイトをスマートフォンで検索した。画面には「80%の人が出会う関西最大級の婚活サイト」というキャッチコピーとともに、爽やかな新緑の中男女が楽しくトークをしているような写真が現れ、システムや入会方法などが、ステップ形式やQ&A方式の分かりやすい説明で優しく案内してあった。この先に入るには会員登録をし、ログインしなければならない仕様になっている。死島は一番下までスクロールし、小さな文字で表示されている「特定商取引法の表示」という欄を開いた。そこには会費や支払い方法、事業社名が記載されているのを死島は知っていた。その情報によると入会費5万円、月会費1万円となっており、事業者名は北山商事となっていた。
「なぁ、ヨーコちゃん、その彼にお金の事とか聞かれんかった?例えば貯金額とか」
「え、特に聞かれてへんけど?」
死島はおやっ、と思った。確かにあの男は二千万円と言っていた筈だ。
「付き合ってどれ位になるん?」
「んー、三ヶ月位かな」
いくら何でもたったの三ヶ月で相手と結婚するなんてありえないと死島は思ったが、敢えて言わないでおいた。
「その人、ヨーコちゃんにお金使わせてばっかりやなかった?」
死島はスーパーで彼女が支払いしている時の事を思い出していた。
「いや、いつも奢ってもらってるで?この間、服買ってもらってん」
山本陽子は嬉々とした表情で死島に言った。とても幸せそうな彼女を見ていると、詐欺疑惑の事実を言い出すにはさすがに辛すぎた。
「ヨーコちゃん、今幸せ?」
ドリンクバーのカプチーノを飲みながら死島は聞いた。
「うん、幸せやでっ」
少女のような無垢な笑顔が死島の心を更に痛めた。こんなにも苦く感じるカプチーノは初めてだった。
数日後、山本陽子からメッセージがあった。
”結婚話、破談になりました。お話することがあるのであとで店にお邪魔します”
「あぁ、やっぱりか。はぁ、あの時やっぱり言ってあげたほうがよかったなぁ。はぁ。」
結局あの日、死島は言い出すことが出来なかった。
来客を告げるドアがチリンッと物悲しげに開いたと思うと、いつもとは雰囲気の違う山本陽子が入ってきた。泣いていたのだろう。目が少し腫れていた。誰も居ない喫茶ブースの奥のテーブルをすすめた。死島は何も言葉をかける事が出来ず、陽子の口が開くのを待つしかなかった。
「昨日な、突然彼がゴメンって…騙しててごめんって…」
陽子は嗚咽を漏らしながら話し出した。死島はえっと思った。詐欺犯がそんな事を言うだろうか?
「実はな…」
陽子によると突然彼から別れ話と真相を突きつけられたそうだ。 何と彼は警察の人間で、いわゆるおとり捜査官だったという。婚活ブームに乗っ取り形を変えた出会い系サイトや詐欺の実態を調査していたらしい。
このサイトの実態は酷いものであった。絶対に結婚できないシステムになっており、会費やキャンセル料、高額なお見合いセッティング費用など、泳がすだけ泳がせて搾り取ろうとする悪質なものだった。
お見合いは実際行われるのだが、もちろん相手はサクラ会員であり茶番劇である。そしてこの茶番劇にはお見合い費用を得る目的の他に、情報収集という目的も存在し、貯蓄や財産など巧みな話術でサクラ会員が聞き出すというものだった。高額な貯蓄や財産を持っていると判断できた会員には、お見合いを成立させ最終的に結婚詐欺にまで持っていくという恐ろしいものであった。
あの男が死島の店に来たのは捜査の最終段階であったのだろう。 死島の店に来た翌日、つまり死島と陽子がガスティに居た日に、北山組の幹部連中を逮捕したらしい。あの時の二千万という台詞はICレコーダーで証拠録りするための彼の作り話だろうと推測すれば合点がいった。
「でも、入会金とか、月会費、無駄になっちゃったね」
「ううん、それは全然平気。彼が全額返してくれた。捜査に協力してもらってたのに当然だって」
「そか、じゃあお金は何も被害にあってないんやな」
「うん」
「詐欺に引っかからなくて済んでよかった」
最終的には被害に合わずに済んだという事が分かり、死島はほっと胸を撫で下ろした。
「あんな、今日の服な、彼が選んで私に買ってくれたやつやねん」
いつもと雰囲気が違うなと感じていたのは彼女の服装のせいだった。しかしセンスのある大人っぽいその服はとても陽子に似合っていた。
「一緒に大阪まで行って、デートした時に買って貰ったん。これ似合うんちゃう?って」
そう言って陽子は号泣した。
死島ははっとした。お金うんぬんではなく陽子にとってはこれも立派な詐欺被害なのではないかと。
「彼の事ほんま好きやったんやな」
「うん」
陽子は泣きながら頷いた。
「よし、今日は飲みますか。仕事は休ませて貰うわっ」
死島は立ち上がり、慣れた手付きで黒ん兵衛のドリンクバーからレモンサワーを注いだ。そして自分の分と、失恋してしまった目の前の大切な友人にそっと差し出した。