空を自由に飛びたいな
空を自由に飛びたい。
子供のころからずっと思っていたあたしの夢だった。
空を浮かぶ鳥を見て、鳥になりたいと思った。
妥協して、自由に飛べるのなら虫でも良いと思った。
夜中、枕元で飛んでいる蚊の羽音がうるさくて、やっぱ虫はやだと思った。
それでも空を飛びたかった。飛行機や気球ではなく、自分の体で宙に浮かんでみたかった。
だが年を経るごとに、それは夢であり、現実ではそんなことあり得ないと思うようになっていった。
そして、大学生になったあたしは、その夢すらも忘れかけていた。
そんなとき、あたしは一瞬、夢を叶えた。
トラックにはねられたのだ。
人の体って、こんなに簡単にぽーんって飛ぶんだって思った。
――ま、自由に飛んだわけじゃないけどね。
そしてあたしは死――ななかった。
どうやら当たりどころが良かったようで、体は何ともなかった。頭は元々悪いので関係ない。
だがそんなことはどうでもいい。
事故の後、理由は分からないが、あたしは身体を自由に宙に浮かせることができるようになっていた。幽体離脱ではなく、本当に飛べるようになっていた。
今が旬の異世界転生の亜種みたいなものかもしれないけれど、理由なんてどうでもいい。
あたしは歓喜した。
だがこの自由に飛べる能力に喜んだのもつかの間。
なかなか使い道がないのだ。
生身の人間が自由に空を飛べたら、本物の超能力者だ。それを知られたら、間違いなく平穏な生活ができなくなってしまう。あたしのモットーは平穏第一である。
だが空を飛ぶ能力を知られたら、あたしは強引に芸能界にデビューさせられ、弄ばれて、利用価値が亡くなったら、NASAに拉致され宇宙人と交尾させられてしまうに違いないっ!
というわけで、せっかく念願の空を飛べる能力を手に入れたのに、思ったより自由に空を飛べていなかった。
自室に無駄に高い棚を設置して、そこに物を置いてみているが、狭い家の中で浮かんでもつまらないし、地震が起きて崩れたら怖い。
結局自由に空を飛べるのは、人の目が避けられる夜だけで、どこに移動するわけでもなく、お金を得る等の付加価値もなく、ただ浮かぶだけだった。
それでも、その瞬間は何物にも変えられないほど幸せな時間だ。
夜。大学生として安アパートで一人暮らししているあたしは、そっと家を出て、アパートの屋上に上がる。
「……よし」
軽く息を吐く。
空を飛ぶのにコツはいらない。ただ飛ぼうとするだけで良い。
最初に感じるのは、両足から身体を支える重さが消えることだ。
体がゆっくりと宙に舞っていく。
子供の手を放れた風船が宙へ飛んでいくよりもずっと遅いペースで、だが確実に、あたしの体は空へと吸い込まれていく。
マンションの屋上がどんどん小さくなり、他の建物の明かりもやがて視界の下へと消えていく。
そしてあたしは、夜の闇と一体になる。
この瞬間が一番好きだった。
水面に身をゆだねて浮かぶように、空にふわふわと浮かぶ。
上空に舞う夜風が少し冷たく感じるけれど、心地よい。
あたしは自由な空でリラックスしながら、日ごろのうっ憤を晴らすかのように空に向かって大声を上げた。
「ねぇ。知ってる?」
翌日。大学に向かおうとしたあたしは、噂好きの大家さんに捕まった。
「何ですか?」
「昨日、このアパートの上空に女の幽霊が出たんですって。目撃した人によると幽霊の声まで聞こえてきたらしいわよ。『教授の馬鹿―っ。単位よこせ―』って。きっと単位をタテにセクハラされて自殺した女子学生じゃないかって、噂なのよ」
見られたっ?
……ていうか、すみません。単位はあたしがサボって落としただけです。
夜空で叫ぶ声は思ったより通るようだ。それより、空を飛んでいるのも見られてしまったのはヤバい。
よくよく考えれば、夜中に出歩く人もいるし、夜空だって見る人もいる。
決して、夜だからって安全ではないのだ。
幸い、あたしだとばれることはなかったけれど、これ以上の疑惑を出さないため、夜の空中遊泳は断念することになってしまった。
それでも自由に空を飛ぶことを諦めきれないあたしは、一つの案を思いついた。
夜中といえど、住宅街だからだめだったのだ。
誰もいないところなら、誰にも見られないのだから自由に飛べる。つまり、誰もいないところにいけばいいのだ!
というわけで休日。
あたしは公共機関を乗り継いで、人気のない田舎というか秘境まで向かった。
空を飛べるのに、電車を使っての移動である。もともと一目云々以前に、あたしの能力はふわふわ浮くだけで、移動には向いていないのだ。
駅からはタクシーを使って、さらに人里離れたところに向かう。
「……本当にここでいいのかい? もしなんか悩み事があるんなら相談に乗るよ?」
「いえいえ。大丈夫です。ありがとうございました」
なぜか心配されながら、あたしはタクシーを降りた。
目の前に広がるのは広大な森の海である。
タクシーが去って行くと、人工的な音が全く消えた。
それでも虫や野鳥の声が騒がしい。
「よし」
意識を集中して、空に浮かぶ。
「すごい。わぁぁ。これ、良いっ!」
眼下に広がる緑の絨毯。空の青色と緑の境界がはっきりと見える。
暗い夜空では味わえなかった臨場感。太陽の光を感じながら飛んでいると、本当に鳥になったような気分だった。
後日。
動画投稿サイトに、樹海の上空に若い女性の幽霊が浮かんでいた、という動画がアップされて、一躍話題になった。
どうやら、調査目的で近くを飛んでいたドローンに、あたしの姿を撮影されてしまったようだ。
幸い、遠くに映っていただけで特定までには至らなかった。
けれど、あたしを乗せて樹海まで連れて行ってくれたタクシーの運転手さんが、テレビの取材を受けてどや顔で話しているのを見たときは、気が気でなく、殺意まで浮かんだ。
あたしは空を飛ぶ能力を持っている。
けれど、自由に飛ぶことはできない。
あと、スカート派のあたしとしては、空を飛ぶときの服装も、結構深刻な悩みどころだったりする。