俺は高尚な人間でありたい
と思い込んでいた。
このサイトにしてもそうなのだが、恋愛とか、そういうことで煩悶、苦しむことは、ああ、アホくさい、下等なことだと思っていた。もっと生きる意義だとか、そういうものについて考えている人間の方が高尚であると思っていた。
それで、今日たまたま、なんとなく、新作に上がっていた恋愛小説を読んだ。
まったく面白くなかったし、くだらなかった。いい文でもなかった。しかし、登場人物は考え、苦しんでいた。そこで気づいた。俺の高尚というのもただ、これが形を変えただけのくだらない下等なクソ以下の悪臭漂う、ほら、よくあるだろう。掃除していない風呂場の隅、排水溝にもこびり付いていない、すみっこに溜まっている小山。チンカスのような、何か。そういうものであるという事に気づいた。
おれは何に喜びを感じて生きていけばいいんだろう。ただ見た目に気を使って、かわいい女とヤッて、それを男に自慢して、そのグループ内での地位をあげて、金をもうけて、そのまま死んでいくことが、くだらないとしか思えないこの脳みそは、腐っている。なぜこうなってしまったのか? おれは思い切り蹴とばされみじめに死んでいきたい。なぜか、それを理想とすら思っている。ドフトエフスキーの地下室の住人のたとえ話にあった、宿敵に銃を撃たずして死んでいく乞食、ああいうメロ的でくだらない負け犬がおれの人生の目標になりつつある。なぜだろう、あんなもの、クソだとわかっているのに。
たぶんおれのこれは、そういうやり方がうまくできない、ルサンチマンから来ているんじゃないかなぁ、と思う。ほら、みろ! またこういう横文字を使って、『でへへ、おれってさ、ほんとはインテリなんだぜ。へっ、へっ、へっ。』と、思わせたがっている。いや、そんな事はない。おれは多分知的障害を持っているんじゃないかな、と思えるぐらい、ばかである。人の三倍かそれぐらい一つのことを覚えるのに時間がかかる。
醜い姿を煙に巻くのはやめよう。要するに、モテたいのに、モテない。金持ちになりたいのに、なれない。愛されたいのに、愛されない。そういう世界との折り合いがうまくつけられず、こういうメインロードから外れた路地に逃避しているだけなのだと思う。それがみじめで仕方ない。だから、おれはそれを、高尚というギフトラップに包んで、特別なものだという。
だからってどう生きろっていうんだ? 今更そう作りかわってしまった脳は、何も喜べない。ひとまず、それを探してみよう。いや、探し終わっている。それが、高尚を追う事でしかない。世間と比べ、特別でないから、なんだっていうんだ? 恵まれていないから、なんだっていうんだ? おれの人生は、おれだけのものでしかない。それは、間違いなく、良い事だと思う。ポジティヴだと思う。(また! )
だからおれはとりあえず、高尚を追う。それでいいじゃないか。
もう一度、死にかけたいと思う。今回は、純粋に死にたいわけではない。脳がおれの意識以外によってつくりかえられたあの時、薬という暴漢におれの脳みそがレイプされ、精液をぶちまげられたとき、おれは救いを得た。いや、そんな大げさなもんでもなけりゃ、人生を変えるものでもなかったな。慰め、自慰、一先ずしこしこやって、溜まった精液を発射し、ふぅ、すっきりした。当面は大丈夫だな、という具合。そういうものがほしい。少しずつ狂っていった人間にこの正常な線はキツすぎる。慰めが欲しい。金を思いきりためて、南米に行き、ヤーヘかペヨーテを思い切りやりたい。あ、これっていつかの小説で見た、アメリカのナイキショップや、アメリカのヒルトンホテルに泊まることが、生涯の夢、という、ばか日本人みたいだな。
死ぬのはくだらない事だ。簡単だけど、ちっとも面白くない。死んだ後は暗闇、それが一生時間もわからないまま続くのだと思う。意識が残っているのか残っていないかは、おれは神じゃないのでわからない。ただ、もし残っているとしたら、その時退屈すぎて思い出すのがナイキショップやヒルトンホテルでの思い出よりも、ヤーヘやペヨーテをやって狂った幻覚を見た時のことや、宿敵を殺さず立ち去った時のこと、100万人が集まるロックフェスのステージでその群衆と溶け合った事の方が、いくらか面白いし、慰めになるんじゃないかなぁ、と今はおもう。