夢
そこには、闇があった。
逃げ出したくなる程の深い闇が。
でも、聖は知っていた。その闇が、何を見せるかを。
そして、聖の予想通り、白いものが闇の中で浮かび上がった。それは、最初のうち、靄で、消えてしまいそうなほど、儚いものだったが、徐々に、それは形を取り始め、最後には人の形となった。白い死に装束を纏った男の子に。
『……が、死んだ』
男の子が悲痛な声で言う。辞めろっと、篁聖は言いたかったが声は出なかった。それは、聞く者の耳を塞がせたくなるほど、もの悲しいものがあった。聖に、できたのは己の耳を塞ぐこと。でも、塞いだところで、何の意味もなさなかった。声は聞こえてきた。
次の瞬間には、それまで宙をさまよっていたのが、嘘のように、見ているこちらが、引くほどに、力強くなる。
『お前が殺した。……を消した』
静かに告げられた言葉。だが、それは、明確に聖に向けられていた。
『どうして?』
そこには、聖に対する避難の意味が含まれていた。
男の子の目から溢れた涙。でも、泣いていることに、男の子自身気づいていないようだった。それが、頬を濡らしても、涙を拭おうともしなかったことから言えた。
それほどに、男の子は、何かに心を奪われているように見えた。聖は、男の子の視線から、逃げたかった。だが、視線から逃げることは、躊躇われた。
そして、気づく。
(ああ、そうか。君は……)
「……」
口を開くが、聖の口からは名が出ず、吐息だけを漏らす。
幾度か繰り返すが、出てくることはなかった。
そして、聖は唐突に気づく。
(わからない)
あれほど、近くにいて、自分の顔より見慣れた顔なのに、聖はその子の名が出てこなかった。
(なぜ?)
聖は、それでも、何度も足掻く。だが、ついに聖の口から、男の子の名が出ることはなかった。幾度か、繰り返した後、聖は、もう、諦めた。
彼の名を思い出せないことに対する、苛立ちと悲しみと罪悪感とがない交ぜになり、男の子の視線から、逃れようとするかのように、聖は目線を伏せる。
それでは、逃れられないことは分かっていたが、逃れたかった。少しでも、彼の目線から。なぜなら、聖には痛かったからだ。
それは、心なのかは、聖にも分からなかった。
答えがないことに、痺れを切らしたのか、再度問う。
『どうして?』
男の子の手がすがりつくように、聖の服を掴んだ。その手は余りに小さく頼りなく、払い除けるのを、躊躇わせるほどに……。でも、掴まれていることも、辛かった。
それに、次第に、問いかける声も弱々しくなっていた。顔を向ければ、先程まであった、強い瞳が今は不安に支配され、オドオドとしたものになっていた。
(どうして?)
それは、聖が何度も自分が分からないものに対して、問うてきたことだった。
困ったことに聖には、自分の疑問の正体さえ分からないのだ。
だから、これかなと思い、出す答えが、いつも変わった。今も、満足の行く答えは見つかっていない。それは、仕方ない。なぜなら、自分の出したい答えの問題が分からないのだから、仕方がない。
どこから一体、考えればいいのか、聖には分からなかった。
何が正しく、何が間違っていたのかが、聖には分からなかった。そもそも、そう考えること事態が間違っているのかもしれない。たぶん、そうだ。あれから10年経った今も……。ずっと考えている。考えても、出ない答え、それはまるで、砂の上に篭城を築こうとしているかの如く。もしくは、出口のない迷路に迷い込んだかのように、そのモヤモヤは、無限に感じられた。
できることなら、聖が、男の子に問い返したかった。
『何で、私にそんなこと聞くの?』と。でも、それが、出来ないことは、もう分かっている。何度も聞こうとしたが、なぜか声が出ないのだ。ずるすぎると、聖は思った。
疑問をぶつけるだけで、こちらの疑問は受け付けないということか。
だから、聖に出来ることと言えば、ただ、ひたすら彼が消えてくれるのを、待つだけだった。それは、聖に息苦しさと、居心地の悪さと何かに対しての罪悪感、それにただ、ひたすら耐えるしかなかった。陰陽師の力を持つ聖が何も出来なかった。
どれぐらいの時間が過ぎただろうか?
時間の感覚が消え失せた頃、男の子はゆっくり、横に首を振った。
それは、あたかもダメだと言われているような気がした。
男の子は、哀れむような視線を聖に投げかけてくると、現れたときと同じように、徐々に形を失い、煙のように消えていった。暗闇にただ、一人取り残され、聖はまるで闇に食われそうな感覚になる。徐々に闇は濃くなり、そこにあるもの全てを浸食するかのように蠢き始めた。
(嫌だ。来るな〜)
そう叫んだとき、ようやく思い出す。己が陰陽師で有ることを。聖は指を切り血を付けて、その札を投げる。その途端、闇は消えた。
身を切り裂くような思いの中で、聖は目覚めた。
そこは、見慣れた自分の部屋であることを確認し、聖は安堵する。
(情けないな。なぜ、今頃こんな夢を)
最近は、見ることもなくなっていたのに……。それは、昨日届いた一通の手紙と一輪の花のせいだ。
届いたというのは、語弊があるかもしれない。それには、名前だけで宛名も送り主の名もなく、切手一枚すら張られてなかった。ただ、せいへと平仮名で書かれていただけだ。それは、届いたと言うんじゃなく、自ら届けにきたという方が、正しいだろう。わざわざ、部屋まで。ご丁寧なことだ。
手紙には.こう書かれていた。
『真実を白日の下へ。時は満ちた』と書かれた手紙と、花は曼珠沙華の造花。花言葉は、確か、聖の許嫁によると、情熱、悲しい思い出、独立、再会とか、あきらめとかって言う、意味だと、言っていた。何か意味深だ。
目を見張るとは、このようなことを言うのかと、聖は思った。人に悪夢を見せるのには、十分役に立った。この手紙の送り主に文句を言ってやりたかった。でも、それより信実とは、何のことだ?
そこに、聖は引っかかったが、何せあの人、聖にとっては、従兄弟のやることだ。こちらが、考えても意味のないこと。文句を言ってやりたかったが、でも、それは言えなかった。なんせ、送り主が分からないと、けして言う訳じゃない。これ以上ないと言うぐらい送り主は、はっきりしてる。ただ、その送り主が5年前から行方知れずになっているからだ。
聖は、その手紙に一別する。
(あの人は変わらないでいらっしゃるようだ)
と、嬉しく思う。反面、文句の一つぐらい、言わせろとも思う。いつも、あの人は突然、何の脈絡もなくやった。だから、いつも周囲は驚かされていた。でも、みんな「困ったものだ」と言いながら、それでも、笑って「仕方ない」と、あの人を許してしまう。そんな、不思議なオーラがあった。
だから、5年前も、あの人ならと、みんなが思った。5年前の消えたときも、突然だった。しかも、それまで、何の変化も見られなかった。何ら、いつもと変わらず、朝食を共にしたし、学校へと送りだしてくれた。ただ、いつもなら、とっくに帰ってくる時間なっても、帰ってこなかったと言うだけで……。だから、嫌な予感が、聖を襲った。でも、会社だろうと、何とか思おうとしたが、20時過ぎても、21時を回ってもあの人は帰ってこなかった。聖はその間、外でずっと待っていた。心のどこかでは、聖は、あの人はもう帰ってこないのだと分かっていても、認めたくなかった。22時を回り、23時を回った頃には、ずっと、雨に打たれ続けた体は、もう冷えきっていた。でも、そんなことどうでも良かった。これで、あの人が帰ってくるなら。そう思っていた。しかし、それは、家の管理を任されている茅場によって、壊された。一括されたのだ。
「いい加減になさい。もう、よろしいでしょう。あなたの満足は、もう満たされたはずです。そうしたら、さっさと、中に戻りなさい。仮にもあなたは、篁の名を継ぐ者。その人間がとる行動とは、到底思えません。恥を知りなさい」
「なんだと」
怒りに任せて九字を切ろうと聖はする。しかし、茅場にそれは、阻まれた。それも古典的な方法で。
「な、何をする」
「篁ともあろう人が、人に九字を切るとは、何を考えているのですか?」
聖は叩かれた頬を触る。そこは、熱を持ち、熱かった。
「あなたに付き合って、この人も外にいてくれたんですよ。あなたに他人の仕事を増やす権利はありません」
『そんなこと私は頼んでない』と言おうとして、ヒジリは、辞めた。
なぜなら、その人が心配してついていてくれたことが、分かったからだ。けして、物見遊山と言うわけじゃ無い。
ずっと付いていてくれたんだと、それに気づく。
「ごめんなさい」
聖は小さな小さな声で謝罪する。
相手は首を振り、聖を抱きしめる。
「そんなこと、よろしいんですよ。それより、早くお風呂に入りましょう」
茅場に無理矢理、腕を引っ張られ、風呂場に連れてこられると、洋服の上からシャワーをかけられる。
「何をする?」
聖が怒って言えば、茅場は何の感情もこもってない目で冴え冴えと言う。
「この方が熱もこもって暖まりやすいんです」
本当かっと、聖は思う。
茅場はシャワーヘッドを聖に押しつけると出ていく。
そして二人になり、彼女は泣く。
「聖様、お可哀想。卓様も今出て行けば、聖様の置かれる状況が、ますます悪くなると分かっているはずなのに、何を考えていらっしゃるのかしら?」
「あいつにはあいつの理由がある。他人が、どうこう口を挟めるものじゃない」
何かを含むように言う。
「茅場様もあんまりです。あんなに乱暴に扱わなくっても」
抗議の声を上げる。
「自分の置かれている状況を見定められない子供は、この家では生きていけない。強くなるしかないんです。仮にも陰陽師で名高い篁の人間がすべき事ではありません。それも分からないなら、問題外です」
「でも、泣きたいときに泣けないなんてかわいそうすぎです。そんな、家変です」
「そうだね、聖にとっても味方の君まで消えるんだから」
クスッと笑いながら茅場は言う。ハッとしたように、彼女は、隣を見る。茅場は薄ら寒い笑みを浮かべながら言う。
「残念だよ。君はよく仕事をやってくれていたのに」
「何を狙っているんですか? 聖様から、親しい人を遠ざけて、何を企んでいるんですか?」
「さぁ、それは、私には? 親方様に聞かないとね。これは、私の命じゃない。親方様の命だ」
彼女は、悔しそうに唇を噛む。それはある意味、絶対的な命。逆らうことは許されない。だから彼女に言えたのは、悔しいけど、この一言だけだった。
「御意」
そう言って、頭を下げた。
「これは、親方様からだ。少ないが、慰労金だとでも思ってくれればいい。いらなければ捨てろ」
そう言って、薄い封筒を渡す。
聖が風呂から、戻ると、茅場が一人でいた。
「もう二度と、あのような無意味なことなさらないで下さい」
「無意味か」
「はい」
「そうか」
それで、悟る。あの人は、もう帰って来ないのだと。
先程までいてくれた女の人がいないことに聖は気づく。なぜ? あの人ならいてくれるはずなのに。キョロキョロすると、茅場は、おかしそうに笑っていう。
「どうかなさいましたか?」
「あの人は、どこに?」
「聞かなくても、お分かりになるのでは?」
暗に辞めさせたと示唆され、聖は悔しく思う。
「悔しいですか? だったら、守れるだけの力を付けなさい。今のままでは、何も守れませんよ。良いのですか?」
皮肉げに茅場は笑う。
「つけてやるさ」
聖が叫ぶように言う。
「では、私はそのときを楽しみにしております。あなたに頭を下げられる日を」
明らかにバカにしてると分かることを言われ、聖は憤慨する。
「今に見てろ、おまえの頭を床にこすりつかさせてやる」
聖は言った。
「では、待ちましょう。ですが、私はあまり気が長くないので、そのおつもりで」
言外に、早く見せてみろと言われ、聖は唇を噛む。まだ、自分には力が足りない。
と、茅場に言われたのだ。
悔しいが、その通りだった。
あれから5年経った。状況は何も変わらない。茅場にああは、言ったが、具体的にどうすればいいのか聖には、分からなかった。
そもそも、あいつが死んでから、聖の周囲が大きく変わったのは……。
そして、聖は気づく。あれからだった。そうだそれからだ。親方様、聖の父親が許した者しか、聖に近づくことは、出来なくなった。そして、許された者も、必要以上関わってはならず、必要最低限の用件以外話すことを固く禁じた。それだけ、跡継ぎを奪った罪は重いと言うことか。と思うと、笑えた。私が死ねれば、良かったのに。そう思わずには、いられ無い。
唯一、許された人間は、茅場だけ。でも、聖の思いは何も満たされない。だって、腹に一物、二物どころか、十物ぐらいありそうな人間だ。そう言う男だからこそ、聖の教育係になれたのだろう。その茅場も今では、親方様付きにまで昇進し、聖の元から去った。
聖は気分を入れ替えようと、窓を開ける。窓を開けると昨日から降り始めた雪で、外は白銀の世界になっていた。そこは誰にも踏み荒らされてなく、まるでそこは人が入ることの出来ない《禁忌の世界》に思われた。
どんなに望んでも、そこには自分は入れない世界と聖は思う。でも、入れないからこそ、そこに、思いを馳せるが……。
いっそ入れないなら、壊してしまえと思い、暴挙に及び、自らの望みを絶とうとしたが、その度に後悔するという、思いに晒された。
壊したところで、望みは消えるわけではなく、さらに望みは増すという、悪循環だった。それでも、雪が降ると、そうせずにはいられなかった。そうせずには……。
雪が降る度に思い知らせた。
だから、聖は、雪が嫌いだった。なぜなら、雪は自分が孤立無援であることを如実に教えたから。
これほど、単純明快な答えはない。
でも、雪を踏み荒らし、その後、呆然としている聖を見て、卓は笑っていた。
『どうして、おまえは後悔すると分かっているのに、壊してしまうのかね?』
そう聞かれる度聖は、キュッと唇を噛みしめ、俯いた。
何も答えようとしない聖に、卓は苦笑いして、頭をグシャグシャと掻き回した。
だが、その手も、もうない。
そして、聖自身も、雪をもう、踏み荒らすことはなくなった。
イヤ、正確には踏み荒らせなくなったのかもしれない。
いつの頃からか、踏み荒らすための第一歩が、踏み出せなくなったのだ。
(いつから?)
そう考えて納得する。
(あいつが死んでからだ)
静かに目を閉じると、あいつの顔が浮かぶ。
自分の顔より見慣れた顔。生まれたときから、ずっと一緒だった。当たり前のように、いつも一緒だったから、別れがくるなんて、思わなかった。
別れは突然、やってきた。それも、一方的な死という別れが。その日のことを聖は覚えていない。
「あまりのショックなことに、忘却したんでしょう」
というのが医師の見解だった。でも、どうせ忘れるなら、あいつの存在そのものを忘れられたら、よかったのにと、聖は思う。でも、存在は覚えているのに、なぜか名前は忘れた。思い出せない。
それが、申し訳なく思い、誰にも聞けずにいる。たぶん、あの夢の子はあいつだ。私を責めているのか?
お前が死んだとき、そもそも私は何をしてたんだ? どうやって、お前は死んだんだ?
聖には、何も分からない。それが信実。分かるために何をすれば良い。たぶん、あの人の起こした行動に、意味がある。それを待つしかないなと思う。茅場に聞けば、多分、あの人のやろうとしていることは分かるが、頭を下げたくない。茅場とは、なんせ卓は無二の友だ。卓は、信実を白日の下にと、望んでいるんだから。私が、一番望んでいることだ。
でも、あの人が、無事だと、分かって、嬉しい反面、腹も立つ。
何をやってるんですか?と。でも、それは、たぶん私のためだろう?
そうは思う、なぜなら、あの人は、意味のないことは、けしてしない、それも他人のためには動かない。だから、私のため。
ムカつくが何かある。聖はそう思った。全部出てきたときに、それは意味をなすんだろう。それを、私は待つしかない。でも、けして、あの人のことだ。私を傷つけるものじゃないだろう。そのぐらいは、信頼してる。だから、分かるときが、楽しみだと、聖は笑う。