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狼の女王  作者: 夕霧沙織
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三章 訪問者



 最初のカタログを送り出して早一ヶ月。

「王」三日振りに賢狼が城を訪ねて来て、喧騒の脇を擦り抜けて私の隣まで歩み寄った。

「どうしたの?」薬草をビニールで包みながら尋ねる。

「盛況で誰も相手をしてくれぬ」

 注文の葉書は回を重ねるごとに順調に増え、それに比例して作業の人数と時間も増えている。葉書と交換で荷物を持って行く郵便職員は最初は一人だったが、今では五人来るようになった。それでも品物によっては包んで直ぐに届けなければならないので、一日一度レイと私が山を降りて麓の郵便局まで持って行く。

「同族の者達も鉱物の採掘に協力していて余り構ってくれない」

「クゥン?」ボビーが鼻を賢狼の耳に擦り付ける。

「何、心配してくれずとも、儂は別に拗ねてなど………違う違う、女王。客人が来ておるぞ。先程山を七分まで登ってきておった、もう着く頃だ」

「お客さん?どんな人?」

「人間の男が二人。この辺りでは見かけない顔だ。山登りに慣れていないようだった」

 こんなに早く移住者?でも田舎好きならかなりの好条件だし、来ても不思議は無いか。

「ボビー、出迎えしてこよう」大臣とレイは薬草を採りに出掛けたばかり、リリアは向こうの机でセミアにお礼文の書き方を教わっている。お婆さんは午睡の時間だ。

 広間を抜けて玄関を出ようとした時、丁度ドアを叩く音がした。

「誰かいないか?」

「はい、どうぞ」


 ガチャッ。


「済まない、移住を希望したいのだが」移住者募集のポスターを掲げ、「城はここか?」

「はい。書類手続きは大臣執務室で。どうぞ、案内する」

 三十代後半。短く切った銀髪に細く切れ上がった眦、瞳はブラウン。キチンと皺の伸びた薄緑色のシャツと黒のジーンス、黒のジャケット。手には大きめの旅行鞄を二つ提げている。

「もう一人いると聞いたけど」

「ああ」男は切れ目を素早く左右に動かし、「大丈夫だな」後ろを振り返り、「アス、入ってきなさい」

「は、はい……」

 弱々しい男の声がして、ドアの端から人影が入ってきた。

「あ」

「クゥン?」

 肩まで伸びた黒髪、藍色の瞳。年は二十歳前後。身長は案内役の男より高く、百八十五センチ程。身体よりかなり大きめのベージュのシャツと、長い脚に丁度の青のジーンズ、上に太腿までの淡い茶色のコート。かなりほっそりした体格だ。

 そして、その整った顔は覚えがあった。

「アス、ここで移住の手続きをしてもらえるそうだ。疲れているとは思うが、もう少し辛抱できるか?」

 青年の顔はかなり青白く、今もドアノブにしがみ付いて立っているような状態だ。

「刑務官さん……僕は大丈夫です。山道に慣れてなくて」

「全くだ。斜面ばかりでほとんど舗装されていなかった。足に豆ができそうだ。それとももう既に痛むのか?歩けないならおぶって」

「い、いいえ……平気です。早く案内してもらいましょう。彼女を待たせるのも申し訳無いです」

 アスと呼ばれた青年は私に視線を向けぎこちなく微笑み、「お願いします」と頭を下げた。

「はい、どうぞ上がって」

 喧噪の広間の横を通り、ものの一分程で執務室へと辿り着く。ドアを開けると当たり前だが無人。

「ソファに座ってて。書類を用意する。飲み物は紅茶とコーヒーどちらがいい?」

「私は紅茶を。アスは?」

「僕も同じ物をお願いします」

「済まないが彼のにはストローを付けてくれないか?可能なら蓋付きのカップで」随分変わった注文だ。

「いいよ。準備してくる」

 給湯室で薬缶を火にかけ紅茶の支度。棚の奥から蓋付きの黒いカップと普通のを取り、使い捨てストローも出す。

 部屋に戻り書類棚から移住届を二枚出して、大臣の机から万年筆と朱肉を拝借しテーブルに並べる。今日はぽかぽかの日差しでそれほど寒くはないけれど暖炉に火も入れた。

「この犬、名前は何と言うのですか?」毛並みを撫でながらアスが訊く。

「ボビーよ。種類はラフ・コリー」

「賢いですね」緊張が取れてきたのか優しい微笑みを浮かべる。テーブルにはこの前用意したクッキー入りのバスケットが既に置かれていた。給湯室の棚からボビーが取ってきたようだ。

「うん。人間の言葉が解るの。あんまり教えてないけど命令もちゃんと聞くし」

「ほう」刑務官が近寄って、「SIT」ぺたん。「DOWN」べたっ。「STAND」ぱっ。「ようしよし!」撫で撫で撫で。ポケットから干し肉を取り出し、「ほらご褒美だ、美味いぞ」

「ワンッ!」尻尾をバタバタ上下に動かしながらがっついて食べる。普段の食事と明らかに反応が違う。何て馬鹿正直なコリーだろう。

 そうこうしている内に湯が沸き、三人分の紅茶を淹れてテーブルに置いた。

「これでいいの?」

「はい、ありがとうございます」蓋付きカップからチュウ、と一口吸う。

「ねえ、ストローで熱い紅茶を飲むのってどんな感じ?」

「え?そうですね……少し注意が必要です」

「何回か失敗したんだ?」

 ふっ、と青年の顔が綻ぶ。

「ええ。この前もアイスだと思ったら沸騰したコーヒーで酷い目に遭いました……あ」

 キイス氏は眉間に皺を寄せ渋面を浮かべていた。

「そんな話は初耳だぞアス。言ってくれれば冷ましてやるのに」

「藪蛇だったみたいね」私は大袈裟に肩を竦めた。「氷入れなくて大丈夫?」

「はい、丁度良い温度ですよ」

「そう」

 室温がまだ低いから冷めるのも早いのだろう。

「自己紹介が遅れた。私はクランベリー・マクウェル、この国の女王。こっちはボビー、私の家族」

「クゥン」コリーが頭を下げて親愛の情を示す。

「女王?そんなに若くして?大したものだ」

「どうも」実は若くもないのだけど。

「私はキイス・バーモン。“蒼の星”刑務所で看守の任に就いていた」

「成程、それで刑務官さん」

「キイスでいいと言ってはいるのだが。で、彼はアス。事情があって一ヶ月程前から一緒に住んでいる」

 ふとバーモン氏の袖口から白い物が覗いた。手首に、包帯?

「いや、世話になる女王陛下に隠し立ては良くないな。最初に話しておいた方が後々面倒にならずに済むかもしれない……実は、アスは記憶喪失なのだ」

「クッキー食べていいよ」二人に勧めて、「続き、どうぞ」

「プルーブルーの浜辺に打ち上げられていたのを私が助けた。しかし警察に問い合わせても該当する行方不明者は無く、覚えていた名前以外手掛かりは無し。医者は一時的な健忘だから何かの拍子に思い出すだろうと、それで私の家に」

「家に?」あれだけの騒ぎを起こしておいて?「面倒見がいいんだね」用心して聞いた方がいい、そう心の中で呟いた。

「昔、同じ場所で三つになったばかりの息子が波に飲まれて、そのまま……その海で偶然拾った青年、と思うと施設に放り出すのも可哀相になってしまってね。少し不自由はあるが生活の基本的な事はできる。だが記憶が無いせいか精神的に少し不安定で」

「水が怖いんでしょ?」

「え!?」

 いつの間にかアスの直ぐ隣に仮面を着けた妹が立っていた。

「ばあ」両掌を顔の前で広げ、ケラケラと笑う。「水の中をじーっと見てると飲み込まれちゃうもんね、奥にいる化け蛇に。こわいこわい」

「な……何で、あなたには分かるのですか、僕の心の中が……?」

 ふぅん、だからカップに蓋か。

「お兄さんの物語はとってもスリリングでロマンティックな百年に一度の傑作。ねえ、私に」

 一応姉の威厳で怒っておくか。

「セミア!!出て行って!!!」

「わぁ、五月蝿いようお姉ちゃん。そんなに怒らないで」

「白々しい!私の前で堂々と物語を盗ろうとするなんて、約束したでしょう!?」

「盗るんじゃないもん、合意の上で渡してもらうだけ。お姉ちゃんとの約束を破った事にはならないよ」

「僕の物語が、欲しいのですか……?こんなおぞましいだけの物でも、あなたを喜ばせる価値が」

「アス、耳を傾けちゃ駄目!!」「ワゥン!」

 言いながらポケットの中の胡椒瓶を探る。

(馬鹿だなセミアは)

 約束は約束、きちんと守ってくれないと困る。

 彼はゆっくりとセミアの小さな手を取る。

「そうだ、こんな恐ろしい物、あってはいけない……こんな物があるから、周りの人達を」

 妹はにっこりと笑い、手を握り返す。「私に預けてくれたら、もう苦しい思いをしなくて済むんだよ。それに誰も傷付かない」

「物語が無くなったら何も考えられなくなって、生きたまま屍のようになってしまう!!あなたはそれを望むの!?」まぁその前に妹のとばっちりで胡椒塗れになるけど。恐怖症がもう一つ増えても責任はセミアに被せればいいし。

「っな!?アス、止めるんだ!彼女から離れろ!!」

 バーモン氏が背後からアスに掴み掛り、無理矢理離れさせようとする。だが、まるで二人の手は石膏で固めたかのよう。

「おじさん変だよ。どうして邪魔をするの?お兄さんはおじさんのために言ってるのに。ねえ、アス?」

「ええ……刑務官さん、僕はもう……嫌だ」泣きながら妹の腕にしがみ付く。「セミアさん、物語を……早く楽にし」

(今かな)ポケットから腕を引き抜こうとした。


 ガタンッ!


「キイス!?どうしてあなたがこんな所にいるの!!?」

 甲高い声にバーモン氏の手が離れる。

「リリア……何故君が」

「私はこの国の第一王女よ!それより何、これは何の騒ぎ!?」

 つかつかと入ってきて、手を繋いだまま涙を流すアスを見る。

「彼は?」

 私が掻い摘んで説明すると、見る見るリリアの顔が紅潮する。

「キイス、どういうつもり!?この子をドニーの代わりにでもする気!?この子にはこの子の生きる道があるのよ!」

 バーモン氏の胸倉を掴み、凄まじい力で左右に振る。

「大体何であなたがここにいるの!?仕事はどうしたの!」

「……他人の君に話す事など無い」


 バシッ!


「答えになってないわ!」

「暴力を伴う尋問は立派な犯罪だ」


 バシッ、ビシッ!


「全部白状しなさい!」

「断る」

 どうやら私の出番は無くなったようだ、しばらくは。



「それは大変だったねえ」

 修羅場から脱走してきた私達をお婆さんは優しく迎え入れてくれた。

「初めて来てくれた移民がよりによってリリアお嬢ちゃんの前の夫と、死んだダニー坊の身代わりとは。……ところで大丈夫なのかい?」

「うん。今こっちに呼び戻してる所」

 人形のようになっているアスの耳元で妹が何かを囁く。しばらくそれが続くと、虚ろだった目に微かな意思の光が見えた。

「……ぁ……セミアさん?僕は一体……」

「私がさっき耳の傍で喋ったでしょ?あれで一時的に夢の世界に行ってたの」

「夢……いつも見るのとは違う……よく思い出せない、でもとても幸せな……僕の中にもあんな穏やかな夢があるなんて」

 自然に青年の口元が緩む。

「ありがとうございます、セミアさん。久し振りに肩の力が抜けたみたいです」

 妹は、硬直していた。機械が設定に無い動作のボタンを押されたみたいに。

「セミアさん?」

「今のは……?」放心状態で問う。「私に感謝なんてしないで。私には本が、物語達がいるの!生きている人間が干渉して来ないで!!」今まで聞いた事の無いヒステリックな叫び。やっぱり、妹は何かが異常だ。

「セミア」

「いえ、セミアさん」妹の手を強引に掴む。「僕の物語には、しっかりとあなたへの感謝が刻み込まれているんです。こうして発する言葉は幾ら否定してもらっても構いません。ですが、書かれた物語にまで否を唱えるのはあなたの主義に反するのではないですか?」

「……アスなんて大っ嫌い」頬を膨らませて手を振り解こうとするが、大人の男と幼女では力が違い過ぎる。

「僕の物語が欲しいのでしょう?さ、どうぞ。何時でも抜いて下さい」

「言われなくてもそうする!」

 捕まっていない方の手が音も無くアスの胸に埋まる。

「っセミア!!?止めろ!!」

「黙っててよ!!」

「クラン!お前も止めさせてくれ!」

「……その必要は無いかも」

「は?」

 今の妹の目にははっきり迷いがある。

 しばらく探った後、腕に力が入った。物語を掴んだらしい。

「見つけた」

「今、握っているんですか?不思議な感じがします。あの、セミアさん」

 手に力が込もる。

「僕の物語の最後に登場してくれてありがとうございました。あなたに出会えて僕はとても幸運です。もう誰かに手を掛けてしまう事も無く、心が初めて晴れやかになれました。刑務官さんには、面倒を掛けて済みませんと、そう伝えて下さい」

 アスは目を閉じる。「ですがセミアさん、あなたの辛そうな姿がただ一つ気懸かりです」

「え…………?」

 妹の手が、力を失って胸の中から滑り落ちた。

「アス、それは一体どういう」

「わ、私は……普く物語の管理者だもの。透明な、収集者なの。辛くなんて、ないもん……そんな事考えてる暇があったら、楽しい物語を探しに行く」

「では多くの物語を得て、あなたの心は満たされたのですか?」

「止めて!!入って来ないで、人間のくせに!!!」

 叫び声を上げながら精神空間を開き、あっと言う間にその中へ逃げて行ってしまった。

「ほらね」予想していたとは言え呆気に取られるしかなかった。妹があれだけ欲しがっていた物語を前に逃亡するなんて。

「……クランベリーさん、刑務官さんを頼みます」

「クランでいいよ。え?」

 アスはドアを開いた。

「僕、セミアさんを探してきます。まだ近くにいるはずです」

「妹は精神世界に入ったのよ。こっちの世界では捕まえられない」

「いえ、必ず直ぐにこの近辺に出てきます。諦め切れていないなら、絶対」

 確信の発言、根拠も無いのに思わず信じてしまいそうになる。

「……見つからなくても夜には帰ってきて。女王命令」

「はい、了解です」

 しょうがない。バーモン氏には適当に嘘を言っておこう。



「ふんだ……」

 むくれながら少女は夜の路地裏を歩く。アスの予想通り、そこは王国の麓の街。

「たかが人間のくせに。アスなんて大大大っ嫌い……」

 言葉を頭の中で反芻する度全身がむずむずしてくる。物語に接している時には感じた事の無い感覚。

 むかむかしながら堂々巡りにならない程度に角を曲がり続けると、奥から男同士の話し声が聞こえてきた。

「所長、こちらにはいません」

「この街を捜索し終わったらクオルの方へ行くぞ。船着き場の証言で二人は共に下船している。必ずこの近辺に潜んでいるはずだ」

 こっそり近付くと、軍服のような深緑色の服を着た男が二人向かい合っていた。胸に金色の紋章、そしてつばの付いた帽子を被っている金髪の男の方が所長っぽい。

「キイスはともかく、アスを野放しにはできない。あの怪物に何人の職員がやられたか……」

「やはりキイス看守の言うように、一度精神鑑定を受けさせるべきではないでしょうか?あの暴れ方は尋常ではありません」

「検討している、が全ては本人を捕獲してからの話だ」

 一瞬脳裏に彼らが集団で道に網を仕掛ける光景が浮かんだ。

「ふ」

 慌てて口を押さえて笑いを堪える。ここで見つかる訳にはいかない。

「キイスも馬鹿な事をしてくれた。息子同然に可愛がっていたとは言え、まさか脱獄させるとは」

「真面目な看守が、あんな周到な準備をしてまでアスを逃がすなど……確かに彼は囚人達を襲ってからずっと独房で拘束服付き。世話をする看守としては見る度に身を裂かれる思いだったのでしょう」

「だが奴は職務を放棄した。背任者として審議に掛けなければならぬ」

 所長は首を横に振り、「せめて身元が分かれば奴の目も覚めるだろうに。未だに判明していないそうだな」

「はい。連合政府の方にも問い合わせてみましたが、一致する行方不明者はいないそうです」

「参ったな。あの浜辺の海流から言って、プルーブルー付近で落ちたのは間違い無いのだが……海底から昇ってきたのでもない限りは」

 そうだよ、と思わず口から出そうになる。海から来たんだから地上で探しても無駄。

 取り合えずこれ以上はいても仕方ない。気付かれない内に精神世界の道を開けて逃げてしまおう。もうあの物語はいらない。アスが捕まろうと捕まるまいと自分には関係無い。城の本だけ読んでさっさと姉の目の届かない所に行ってしまおう。


「セミアさん!!」


 振り返る。路地の角に幾分息を荒げた青年が立っていた。透明なはずの自分を真っ直ぐその瞳に映して。

「良かった……皆さん心配しています。もう日も暮れて寒いです。さ、帰りましょう」

「馬鹿っ!!?早く逃げて!!!」

「え?」

「受刑者発見。路地裏だ、至急応援を」所長は腰に下げていた無線機に向かって喋る。「近くにキイスも潜んでいるはずだ。街の出口を封鎖しろ」

「……あ、刑務所の制服……あなた達も刑務官さんですか?」

 警戒心ゼロの彼の質問に、刑務所所長は子供にでも接するように言った。

「ああ。アス、キイスはどこにいるのかな?」

「所長?」

 部下の耳元に小声で囁く。

「報告書には普段は素直で極めて大人しいとある。それに安心させておけば暴発の危険も減るだろう。居場所さえ聞き出せば後は麻酔で眠らせておけばいい」

 まるで動物を捕まえるように言う。

「残念ながら刑務官さんは一緒ではありません。多分まだ」

「アス!!」制止の声を上げ、夜道を歩いて冷たくなった手を掴む。「こいつらは敵だよ。アスをもう一度牢屋に入れに来たの。気を許しちゃ駄目」

「え……僕を、どうして……?刑務官さんはもういる必要は無い、海の無い所でゆっくり静養しよう。昨日、そう言ってあのきつい服を脱がせてくれたんです」

「何と言う事を……キイスの奴め、服の鍵まで偽造していたのか。以前から計画を練っていた証拠だな」

「看守が首謀者のようですね」

「ああ。この様子だと本当に何も知らされていないらしい」

 路地の角から続々と制服の連中が私達を包囲するように集まってきている。着実に逃げ道を塞がれていく。

「刑務官さんが悪い事をしたなら、それは多分僕のせいです……海を見ると凄く気分が悪くなって頭が、気が狂って、落ち着くと刑務官さんの手が、僕の手が血塗れで――――そんな事が何度も、あって、でも刑務官さんは大丈夫だって、包帯したまま一晩中付き添ってくれて」

 極度の興奮からか不自然な息の詰まりが生じている。

「悪いのは気違いでおかしい僕です。刑務官さんは悪くありません。どうか罰さないで下さい、お願いします!」

 深く深く頭を下げる。

「……善処はしよう。安心しなさい」見え切った嘘。どんな場合であれ、囚人の脱走に協力すれば懲罰は免れない。

「さあ、アス。私達をキイスの所に案内してくれ。そうすれば彼の罪も少しは軽くなるだろう」

「巫山戯ないで!!そんな気さらさら無いくせに」

 思わずの激昂に、彼等の目にも透明でなくなる。好奇の色がすっごく気持ち悪い。

「お嬢さんはこの街の子かな?もう夜だ、早く帰らないとお母さんが心配しているよ」

「親なんていないもん!――私達から離れて」

 両手を広げて守る様に彼の前に立つ。

「そうもいかない、これも仕事なのでね」

 視線に吐きそうになりながら睨み返す。

「怖いお嬢さんだ。アス、可愛いお友達が出来て良かったね」

「セミアさん……」

「離れないで。あいつら、隙を突いて薬を使ってくるつもりだよ」

「くすり……精神安定剤ですか?」

 鈍過ぎて逆に可愛いとさえ思ってしまう。身長は私より一メートル近く高いのに、中身はまるで子供なんだから。

「まさか。あいつらが持ってるのは麻酔、猛獣も一撃で倒すぐらいの強力な奴」

「僕が暴れ回るから……だから」

 腕を思い切り抓る。

「いた……」

「気をしっかり持って!いい、何とかここから逃げるの」発言の内容に自分でも驚愕する。「またあんな牢屋に戻りたくはないでしょ!?」

「……牢は構いませんが、海は……怖くて、とても嫌です。波音だけでも、思考がそちらに集中してしまって……頭が」

「こいつらを撒いてお姉ちゃんの所に戻ろう。お姉ちゃんなら絶対守ってくれるから」

 戸籍は既におじさんがクオルに出しているはずだ。国民なら女王に交渉の権利がある。

「女王様……」拳に力が戻る。

 どうする?自分は兎も角アスの肉体は精神世界に入れない。後は囁きで夢へ落とすか、物語の具現化で蹴散らすか。

 その時、所長のすぐ脇を黒い何かが通り過ぎたような気がした。瞬きして目を凝らしたが、既にいない。こんな寒いのに虫が飛んでいたのだろうか?

「お嬢さん、余り大人を困らせないで。さあアス、帰ろう」

 彼は未だ怯えながらも強い意志の眼差しを向けた。

「……その前に、刑務官さんに話が聞きたいです。僕を逃がすために本当にそんな事をしてしまったのか、刑務官さんの口から直接聞きたいんです」


「それは駄目だぜ、坊や」


 周りを囲んでいる職員達が豹変していた。下卑た笑いを顔に貼り付かせ、護身用の警棒やスタンガンを出している。

「いけない坊やにはお仕置きしないとなあ、皆?」

「そうそう。どうせ犯罪者なんだ、全員で美味しく頂いちまおうぜ」

 何、この異常な変化。理性が一瞬で飛んだとしか考えられない。

「お嬢ちゃんも参加するかい?」

「おいおい、お前そういう趣味かよ」

 冗談じゃない。こいつら正気を失ってる。

「所長さん……!?」

 もがく彼の背に所長は抱きつき、手にした注射器を腕に突き刺そうとしている。

「止めて下さい!!何を」

「大人しくしていろ!これは治療だ。安心しろ、目が覚めた時には全て終わっている」

 針がアスの服の二の腕を掠める。一瞬きの猶予も無い。

「止めろ!!」

 所長の手に飛び付いて注射器を奪い、地面に叩きつける。パリンッ!

「このガキ!!」

「きゃぁっ!!」

 男は力任せに腕を振り回す。しがみ付き切れなかった私の身体が宙を舞う。

「雲さん!」咄嗟に民家の壁にふよふよとした白い物を出現させ、衝撃を吸収させる。

 人間を助けようなんて、らしくない。頭の中でその言葉がリフレインする。この状況を打破する方法を考えるのには非常に邪魔で鬱陶しい。

「離して下さい!!」

 腕の桎梏から辛うじて逃げ出し、私の隣へ戻ってくる。何か、お姉ちゃんのボビーみたい。

「どうしてしまったのでしょう……?皆さん、美味しくって」

「物語の整合性がつかないのは間違い無いね」アスが汚れた言葉を続けないよう会話で遮る。「十数人が一斉に狂気に侵されるなんて、薬でもやっていないとまず有り得ない」

 だけど観察する限り、覚醒剤などに見られる瞳孔や呼吸の変化は窺えない。肉体的には正常のまま、精神が本能に突き動かされている状態だ。

「逃げ、ましょう。今の刑務官さん達は凄く嫌な感じ、いえ、凄く危険です」

「同感」

 でも完全に通路は塞がれ、どこへ逃げられる?

 何を思ったか、アスは壁に立て掛けてあった二メートルはある木の棒を手に取った。それを槍術の構えに持つ。

「すぅ……」

 深呼吸するにつれ、瞳の中から恐怖や迷いが消えていく。

(まさか、身体の記憶……?)

「まだ麻酔は何本も残っている。おいお前ら、早くこいつらを押さえ付けろ」

「了解でさあ」

「へへ、悪く思うなよ」

 前後から四人の男が同じタイミングで私達に飛び掛かってきた。

「きゃ」

「動かないで」


 ヒュッ、ダダダダダダッ!


「ぎゃっ!?」

「ぐえっ!」

 棒が鮮やかに舞い、暴漢達の急所を寸分の狂い無く連続して突き入れる。背後であろうと関係無く、だ。動くなと言った通り、私の服の一センチ横を凶器が華麗に踊る。手足の関節をやられて立っていられなくなる奴、鳩尾に突き込まれて胃の中の物を盛大に吐き出す奴。

「く、くそっ!何をしているんだ、のろま共!!」

「ちぃっ!全員で押さえるぞ!」

 武器を振りかざし襲い掛かってくる十数の男達。あの数を一人でいなせるはずが無い。

「アス!私も」

「ありがとうございます。ですが」


 ヒュゥン!


「セミアさんにこんな荒事をさせる訳にはいきません。もう少しだけ我慢していて下さい」



 約束の時間を過ぎても戻って来ないアスを探しにレイは王国の中、バーモン氏と私は手分けして外へ探しに出た時、既に事件は起こっていたと聞いた。

 街の警察署の待合室の席に座って約二時間。すっかり夜は更けていた。


 ガチャッ。


「あ、皆さん……こんな夜遅くまで待っていてくれたのですか?」

「アス!」

 バーモン氏は青年を強く抱き締めた。

「刑務官さん……ごめんなさい、僕……」

「どこか怪我は!?痛い所は」

「大丈夫です」

 長身のズボンの裾を妹が掴んで立っている。

「セミアは大丈夫だった?」

「クゥン」

「……アスが守ってくれた」

 ボビーの頭を撫でながら彼女は怒りを含んだ口調で、「どうしてもっと早く来てくれなかったの?」

「勝手に出て行ったのはそっちでしょ?精神世界を渡れないのにどうやって追い掛けろって言うの?……アスに感謝しなさい。セミアが精神世界に潜っている間もずっとこの辺りを探し回ってたのよ、病気なんてお構い無しに」

「女王陛下、悪いのは僕です。不用意にセミアさんを傷付けるような事を言ってしまったから」

「いいえ。セミア、もしもの事があったらそれはあなたが悪い。あなたが飛び出していったのが最大の原因」

「セミアさん、そんな事は無いんです。僕が探しに行ったのはそうしたかっただけで、あなたには何の責任も」

 俯いた妹の唇が微かに動いた。

「……めん……さ、い」

「セミアさん?」

「ごめん……なさい、迷惑掛けて……」

 アスは膝を折り、小さな両手を包み込むように持った。

「迷惑だなんて全然思っていません。セミアさんが無事で本当に良かったです」

「もう一つ……残念な事言ってもいい?」俯いたまま妹は呟く。

「ええ、どうぞ」

「私……もうアスの物語欲しくないの。興味は相変わらずあるけど、取ると……死んじゃうから、嫌。……がっかりしてるでしょ?まだ苦しまないといけないのか、って」

 物語を諦める、それも生きた人間の影響でなんて、妹の行動原理に真っ向から反している。そう想定外でもないけど。

「ごめんなさい、役に立てなくて」

 頭を深く下げて謝る。

「……セミアさんは僕の病気の原因が見えているのですか?」

 妹は仮面の奥の目をチラッと向けて「うん」小さく頷いた。

「では治る可能性は?」

「……夢療法なら、もしかしたら治るかも。悪夢に精神が耐えられればの話だけど」

「やって頂けますか?」

「え……」妹は目をパチクリさせた。

「セミアさんは専門家のようなので。治療費は余り出せませんが」

「私に……?夢はある程度導けるけど、やった事無いよ。それでも?」

「はい、セミアさんなら大丈夫。僕が保障します」

 鳩が豆鉄砲。

「私を信じても意味無いのに……いいよ、そっちの椅子に横になって」

 指示された通りに彼は仰向けに寝た。四人掛けの待ち合い席から長い脚がはみ出している。

「取り合えず、療法が向いてるかテストのために夢の極浅い所に潜ってみようか。今から昼と同じように夢の世界に飛ばす。夢の中では左手に白いリボンが巻き付いているの、私が帰ってきてと言ったらそれを手繰って戻って来て」

「分かりました。やってみます」

「多分大丈夫だと思うけど、リボンが切れたら自分でこっちまで上がってこないといけないよ。私の言葉を聞いて指示に従うの。大丈夫、アスなら戻って来られる」

「はい」

「セミア、何時間ぐらいで終わる?」

「早いよ。何も無かったら十分ぐらいじゃないかな?」

「なら私達は取り調べを聞いてくるよ。それから皆で城に帰ろう」

「了解。じゃあ身体の力を抜いて」

 彼の瞼が徐々に下がっていくのを横目に、私達は取り調べ室に入った。

「私は何もやっていない!」

 所長らしき人と警察官が向かい合って座っている。他大勢は留置所にでも放り込まれているのだろう。

「嘘を吐くな!あのお嬢ちゃんの証言通り、あんたが使おうとした睡眠薬入りの注射器の破片が現場から発見されている!それに近隣住民があんたらの会話の一部始終を聞いていた!二人を暴行しようとしていたのは明明白白だ!」

「違う!アスを説得していたらと、突然顔に何かが当たったんだ……気が付いたらここにいて、その間の事は何も覚えていない。本当なんだ!」

 嘘を吐いてはいなさそうだ。仮に嘘だった所で全く意味が無い。

「じゃあ何であれだけ大量の睡眠薬と、部下に武器を持たせていた!?」

「彼は一度暴れ出すと見境無く人を襲う。自衛と一般人の安全、速やかなる事態の収拾のためには仕方が無かった」

 つかつかとバートン氏が歩み寄り、所長の胸倉を掴んだ。


 バシッ!


「うっ!?」

「見損ないました、所長。貴方の所にアスは絶対返させません。言っておきますが今の私達はこちらの方が治める国、クオル王国の住民です」頬を殴った拳を下ろしながら元上司に告げる。

「うん。二人は私の国で罪を償ってもらう」

「それより警官さん、彼等をもっと締め上げて下さい。特に以前刑務所内で受刑者に暴行を働かなかったかどうか、プルーブルーの警察と連絡を取ってじっくり調べた方がいい」

「キイス私達を裏切るのか!?」

「先に裏切ったのはそちらだ!先程の二人の証言は全て隣で聞かせてもらった。貴方方は権力と武器を笠に乱暴狼藉を働いた畜生だ!こんな連中と一時でも同僚だったかと思うと吐き気がする!」

 二人と言っても詳しい状況説明を行ったのはほとんど妹だ。アスは体力と精神力を使い果たしたのか、青い顔をして時折警官の問いに頷くぐらいだった。それにしても流石宇宙一本を読んでいるセミア、場の情景が脳裏に浮かぶほど適格な話し方だった。

「何かの間違いだ!」

「見苦しいぞ!!」

 私はそっと取調室を出て、もう一度セミアの所へ行く。

「お姉ちゃん、もう終わったの?こっちはまだだよ」

 思わず欠伸が出る。ふわぁ。

「クゥン?」

「何だ、お姉ちゃんおねむなの?一緒に寝る?」

「いい。あのね、訊きたい事があるんだけど」

「何?」

「彼等が変になる前、周りで何か起こってなかった?所長さんは顔に何か当たったって言ってる」

 妹はちら、と眠る青年を確認した。

「そろそろ帰ってくるかな。……見間違いかもしれないけど、あいつらの間にほんの一瞬黒い影みたいなのが見えたよ。ホントちょっとの間だったけど、虫にしては大きかったかもね。それが原因?」

「かも。でも、これで少なくとも罪逃れのための妄言を吐いているのではないと分かった」

「別に全員有罪でいいんじゃないの。アスだって精神障害があるのに刑務所に入れられたし」

「怒ってるの?」単純。

「どうせお姉ちゃん、その何かがあいつらを暴走させたと思ってるでしょ?」

「ええ」それしか考えられないじゃん。

「じゃあどうしてあんな風になったのかな?人間ってね、理性が外れると自分が本来したい方向に行動するのよ」昼間のセミアみたいにね。

「……セミアは何かはあくまで傍因で、主因は彼等の願望だって言いたいのね。だからそんな危険な連中は牢屋にぶち込んでおけと」拍手喝采物の正論、私も同感だ。

「お姉ちゃんが次に言いたい事は解るよ。でも人間は願望を理性で抑えてる、その傾向が無意識にあってもそれは罪ではない、だからやっぱり何かを突き止めよう。彼等は無罪だ」

「正解。だけどセミアはこう反論するかも。何かで発現するぐらい強い望みなら、何かが無くても行われる可能性は十二分にあるね、って」

 くすくす。

「お姉ちゃんてもしかして凄く頭が切れるの?」

「さあ?協力した方がいいと思うよ。何かが次にアスをおかしくさせるかもしれないし」

 ぶっちゃけ連中が有罪でも無罪でも構わない。ただ、あの誠実な青年が苦しむのは余り見たくない。

「被害者の経験から?」

「まぁ、そう。治療の障害になるかもしれないし。何かがこれ以上誰かを襲わないように取り合えず予防線を張っておかない?私は最近似たような事が無かったか聞いてくる。セミアはアスの傍にいて。狂気に侵されても夢に落とせるんでしょ?」

「勿論。あ、でも私が先に何かに当たっちゃうかもね」

 ふっ。

「実は既に当たってたりして」

「お姉ちゃんてさ、真面目な話嫌いでしょ絶対?私にお説教する時凄く醒めた顔してたもん。何でこんな事やってるんだ私、みたいな。説得なんてするよりアスを胡椒とうう、タバスコ塗れにした方が手っ取り早いとか考えてなかった?」

 私はニッコリ笑おうと努力した。

「そんな生温い悪戯でセミアを追い払えるなら安い物ね」

 プラン的には胡椒を振り掛けた後、間髪入れず背中から紅茶をセミアの服の中に流し込んで、それでも駄目なら――秘密。

「ひっ!!」

「……ぅ………ん」

 眠り騎士は目をゆっくりと開け、何かを探すように眼球を緩慢に動かした。

「どうだった?夢での事、何か思い出せる?」

「男の子と……女の子がいました。歳は……女の子が十歳、男の子が六歳ぐらいです。二人はしきりに砂浜遊びに誘ってきました。海が怖いと言っても、何度も何度も行こうと……彼等は僕の……家族、なんですよね?」

「うん、お姉ちゃんと弟」

 アスは上半身を起こし、頭を押さえた。たった十分程で一日中重労働したかのように疲れ切った表情。

「夢の中は最初結構大変なの、でもすぐ慣れるよ」

「もうすぐ城に引き上げるけど、それまで起きていられる?」

「はい」

「助かる」バーモン氏と言えど暗い山道でおんぶするのは大変だ。

 財布の小銭のいくらかを妹の掌に乗せる。

「そこの自販機で何か選んであげて。セミアも何か飲んだら?」

「そうだね。咽喉乾いたし」薄く笑い「ありがとお姉ちゃん」

「どういたしまして」

 それだけ言って私は取調室に取って返した。



 翌朝、朝食を終えた私は屋敷を出た。兄は流石意欲満々で、早速屋敷の蔵書を借りて部屋に籠ってしまった。

『お姉ちゃんはご本好き?』

 四人目の神様候補は私よりずっと下の六歳ぐらいの女の子。名前はセミア。物語が大好きで今は屋敷の本を全部読もうと奮闘中。兄よりさらに速い読書スピードなので近いうちにそれは達成されるだろう。

『まあ、それなりに』

『へー。じゃあね、こんなお話知ってる?』

 ルウお姉ちゃんや大父神のお爺さんには余り相手にされていないらしく、彼女は夕食の後ずっと私の部屋で話していた。内容といい語り口といい、子供の話とは思えない程引き込まれてしまった。幼くして天性のストーリーテラー、セミアはそう言う子だった。

『お姉ちゃん、明日お兄ちゃんに会いに行くんでしょ?朝早い内に行った方がいいよ。昼間はよく街のあちこちに出掛けてるから』

 妹のアドバイス通り早目に家へと向かう。こっちで良かったかな?


 バシャバシャ!


 水音に気が付いて横を流れる澄んだ川を見た。中央付近で茶色い何かが水飛沫を上げている。

『犬……?』

 泳ぎが苦手なのか、岸に上がれずに少しずつ下流へ流されていっている。

 近くに使えそうな物は無い。そうこうしている間にも水を掻く前足が元気を失くし、流されるスピードが上がっている。

『待ってて』

 整備された川ならそう深くはないはず。靴と靴下を脱ぎ、川に入った。

 見た感じと違い意外と流れは急だ。脚に力を入れながら犬の元へと進む。

『よし』ようやく手が届く距離。私は犬の前足を掴んで来た道を戻ろうと。


 バシャッ!


 脚が底に着かなかった。勢い良く水の中に引き込まれる。

『がっ……げほげほ……!』

 水面に頭を出して入り込んだ水を吐き出すものの、脚先に川底が当たらない。完全に溺れている。

『クゥンクゥン!』

 犬が何とか泳ごうとするが、私という重りが邪魔で無駄に水を掻くだけだ。

 手を離さないと二人仲良く溺死だ――手を。


『離すな!!!』


 バシャンッ!


 ザブザブと水音が近くなって、太い腕に背中から抱えられる。

『もう大丈夫』

 そのまま岸に到着すると、昨日の青髪の青年があたふたしていた。

『あなたは……だだ、大丈夫ですか!?水とか飲んでません?』

『平気』返事をして一度だけ水を吐き出す。

『ボビーは?』

 振り返ると長めの黒髪を後ろで軽く縛った青年が犬の背中を撫でていた。犬が手に合わせて飲んだ水を吐く。

『クゥン』

『よしよし。もう大丈夫だな。毛にも大分水含んでるなぁ、家に帰って乾かそうな』

 ボビーと呼ばれた犬はどうやらラフ・コリーのようだ。前に図鑑で見た事がある。

『クゥンクゥン』

 私の隣に移動し、上目使いに鳴く。

『ボビーがお前は勇敢なお嬢さんだって。俺の家に来いよ。服とか乾かさないと風邪引くぞ。あ、クレオ。着られる服あったっけ?』

『確かディーさんのお母さんの服がクローゼットにありましたよ。僕、先に戻って準備してますね』

『ありがと』

 青髪の青年が走り去った道は、丁度私が行こうとしていた方向だ。

『あなたがディー?』

『そうだよ。お前は』

『クランベリー。神様の候補』

 歩きながら私達は話した。ボビーはずっと私の横に付いている。

『大父神のお爺さんに言われてあなたを訪ねに来たの』

『爺さんが?あれ、ルウとセミアの時はそんな事無かったぞ』

『面白い人だから私の友達になってくれるだろうって、言ってた』

『そっか』ディーは屈託の無い笑顔で、『こちらこそよろしく、クラン』握手。さっきまで水の中にいたのにとても熱かった。

『クゥン?』

『何?』

 私が屈むと、ボビーは片手を差し出した。

『うん、ボビーも友達』肉球を握る。

『クゥンクゥン!』

 嬉しそうに鳴き、私の頬をペロペロ舐める。

『くすぐったい!こら、止めて!!』

『はは、楽しそうだなぁ。何ならクランに飼ってもらうかボビー?』

『ワウンッ!』

 ブンブン首を縦に振るコリー。

『そうか。なら決まりだな。よろしくクラン』

『え、私はいいけれど……あなたの飼い犬でしょ?』

『いや。ちょっと前に他の街から逃げ込んできて、飯やってたら居着いちまっただけ。飼ってくれるなら嬉しいよ。ボビーもその方がいいみたいだし』

 くるくるとした黒い目が返事を催促するように動く。

『クゥ……?』

『―――うん。今日からボビーは私の家族、いい?』

『キュゥン』

 兄以外知人のいない見知らぬ土地、正直心細かった。……このコリー、もしかしてそこまで読んで?

『ねえボビー、私が寂しいと思って付いていてくれるの?』

『……クゥン?』

 演技なのか本当に分からないのか毛だらけの首を捻る。

『ディー、これは誤魔化してるの?それとも質問を理解できてない?』

『俺だって完璧にボビーの言葉が分かる訳じゃないけど、さっきは少し目が泳いでた』

 そう言っている内に到着。お爺さんの言った通り、様々な花が門の前から所狭しと咲き乱れている。

『ただいまー!』

 元気の良い家の主が玄関のドアを開ける。私達を待っていてくれた青髪の青年と――。


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