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狼の女王  作者: 夕霧沙織
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二章 繋がり


 翌朝。

「おや、クランちゃん。おはようねえ」

 お婆さんの後ろでちゃっかり車椅子を押す妹の姿。

「ねえねえお婆ちゃん!その後はどうなったの?」

「そうだねえ……あら、どうだったか、思い出せないねえ。続きは今度でいいかい?その代わり今朝見た夢のお話をしてあげようか」

「うん!私夢の専門家なの。お婆ちゃんの夢も分析してあげる」

「クゥン」

 ボビーが尻尾を振りながら妹の傍に寄る。

「あ、おはようボビー、お姉ちゃん!二人も夢分析して欲しいの?」

「おはよう。もう全部返してきたの?」

「うん。勿体無いけど、一応一通りは読んだから覚えてるし」

「そう。もうあんな事しないでね」

「勿論」瞳に正反対の感情の光を浮かべながら頷く。恐らくこれ以上言い聞かせても徒労に終わるだけだろう。狡賢いから少なくとも私の目の届く範囲では犯行に及ばないとは思うけど。

「苦しむ人が出るんだから……胡椒とタバスコで」

「ひぃっ!!」不意打ちの駄目押しにセミアの顔が引き攣る。

「おや、どうしたんだいセミアちゃんは?ねえクランちゃん?」

「きっと昨日悪夢でも視たんだよ。リリアに言って特別スパイシーな朝食を用意してもらえばパッチリ目が覚めるはず」

 ぶるぶるぶる……楽しい。

「それはいいねえ。お婆ちゃんも偶には辛い物が食べたいよ。この年になると気を遣われて香辛料の無い物ばかり食べさせられてねえ。昔は激辛のカレーが好物だったのに」

「おはよ、女王様」レイがお婆さんの後ろから声を掛ける。そのさらに後ろに大臣。「何の話してたんだ婆さん?」

「辛い物が食べたいなあって話をちょっとねえ」

「いいですな。寒い内に一度皆でチゲ鍋でも囲もうか?妹君はどうだ?辛い物は食べられるか?」

 不意に話を振られてピクンッ!となった。

「う、うん」

「それは良かった。なら今度倉庫から土鍋を探してくるとしよう。昔買ったのが仕舞ってある筈だ」

「リオウ大臣。ちょっと耳を貸して」

 ごにょごにょ。

「な、何ですと……!!?本当にそれを政策に?」

「うん。で、取り急ぎ宣伝用ポスターを作って欲しいんだけど。宇宙船の各駅と主要な街に掲示するとしてざっと百枚。原稿は私が書くとして、どれぐらいで出来る?」

「活版なので時間は多少掛かりますが、印刷自体は二時間もあれば」

「分かった。ご飯が終わったらすぐ書く。アドバイスして」

「は、はい。陛下の仰せのままに」

「何だ、早速何か始めるのか?」好奇心に目を輝かせてレイが尋ねてくる。

「うん」

「俺も手伝う。ああ、そうだ出掛けるならお嬢ちゃんも一緒に行こうぜ」

「嫌」セミアは目を吊り上げて全面拒否。「私お婆ちゃんのお話聞くの」

 魂を盗るとしたらお婆さんか。出掛けている間に悪さをして逃亡する可能性は十二分にある。が、甘い。

「タバ」

「ぎゃあっ!」凡そ少女の物とは思えない悲鳴を上げて耳を塞ぐ。

「完全にトラウマ化してるな……セミア、言う事聞いた方が身と本のためだぞ?」

「セミア、新しい本欲しくない?“黄の星”に行くから好きなの選ばせてあげようと思ったのに。ここの本は帰って来てからでもゆっくり読めるけど、新刊は“碧の星”では中々置いてないよ」飴と鞭。断れまい、損得勘定の巧い妹なら。

「うう……何でも買ってくれる?」案の定迷いの声を上げた。

「予算の許す範囲ならいい」

 妹はウロウロとその場を何度も回り、とうとう折れた。

「約束は守ってね」

「勿論」

「あとタバスコは」

「考えとく」

 私はニッコリ笑いかけた。



 運命とは、このような場合を指すに違いない。

『あ……』

 別方向から来た四人が、ドンピシャのタイミングで十字路の真ん中で出会う、なんて奇跡的な状況が偶然に起こりえるだろうか?

『お前らも外から逃げて来たのか?』

 私から見て右方向から来た物憂げな二十歳前後の男が訊く。

『うん。あのさ、大父神様の屋敷ってどっち?』正面からの溌剌としたこれまた二十歳前後の女が私も知りたかった事を尋ね返す。

『この道を真っ直ぐ行った所にある一番大きな建物です』左からの十六歳ぐらいの青年が自分の来た道を指差して答える。

『お前がディーの発掘してきた機械人形か。ほぅ、見た目じゃ全く普通の人間と区別が付かないな。よくできてる』右の男が左の男をしげしげと観察して言った。

『僕を御存じなんですか?』

『それはそうさ。開発者が発狂して既に亡い人形、しかもここまで精巧なら噂を小耳に挟むぐらいはする……ぅ』

 彼は胸を押さえた。顔が見る見る青白くなっていく。

『ちょっと、大丈夫!?』女性が背中を擦る。『僕お医者さんを呼んで来ます!!』青年が駆け出そうとした。

『ま……待て。ズボンの……ポケットに薬が』

 私は座り込む男のズボンから何とか白い錠剤の小瓶を引き摺り出し、鞄に入れていた水のペットボトルと共に彼に渡した。

『済まない……』

 ごくっ。

『大丈夫?』

『どうにか……』

 血色は良くないままだが男は立ち上がる。右手に握る小瓶には掠れた文字で鎮痛剤とあった。

『ホントに大丈夫?医者には掛かってるの?』

『ああ。いつもの発作だ、もう大分楽になった』

 嘘だ。この男、多分虚無の病に罹っていて、自分でも嫌と言う程自覚がある。

 孤児院にいた時も、ある日突然友達や先生が胸の激痛を訴え病院に送られた。その数日後、彼らの死と共にここへ移る用意をするよう通告されたのだ。感染はしなくても、何人もの患者が出たその場所は闇に侵され始めている。事実私と兄が孤児院を出た数時間後、後から出発するはずだった友人達と僅かに残された先生は孤児院もろとも闇に沈んだ。

 平然と外を歩いていると言う事は、恐らく街に張り巡らされた大父神の力で感染しないようにしているのだろう。でなければ迷惑千万だ。既に三人共ベッタリ身体に触ってしまった。

『ならいいんだけど……』

『大父神に何か用なのか?』ぶっきらぼうに尋ねる。

『ちょっと違う。私巫女で、大父神様の―――あわ、言っちゃいけないんだった!』

『??』

『えっと……私は生まれつき変わった才能があるらしくて、大父神様のとは違うけど、宇宙を支えるには必要なんだって。だから呼ばれてるの』

『今屋敷にいる神候補とは違うのか?』候補?

『ううん、全然関係無い。神様になれる資格無いもん』首をブルブル振って彼女は否定する。

『あの人達が神様なんですか?まだ小さい子もいましたよ』機械人形はどうやら知っているようだ。

『だがそうとしか思えない。そう言えば今日も二人来るって話だぞ』

『はい』

 三人が一斉にこちらを見る。

『君が!?凄いなあ』

『おいおい、ガキばっかりじゃないか。何考えてやがる……』

『ねえ、本当に私神様候補なの?』

『ああ、多分な』

『ふうん。そう』

 他の候補がどうであれ、私が選ばれる事はまず無いだろう。候補の一人は何でもできる優秀な兄だ。

『神様ってどうやって決めるの?』

『知るか。でもまぁ、ただ人間の鑑みたいな奴が自動的に選ばれる訳でもないみたいだぜ。歴代の大父神の記録を見ても何故こいつがみたいなのが半分はいる』

『この宇宙より前の記録があるんですか?』

『まあな。母さんが大父神に借りてた資料がまだ家に置いてある。……そう言やその中に天魔とは別に“巫女”って要職があったような』

 男が女性を一瞥し、『人には其々役割があるって事か』と呟いた。

『あ、僕買い物の途中だったんだ。皆さん、これで失礼します』

『一緒に行こうよ。私も大父神様の……あ、大父神様に会わなきゃいけないし』下手に誤魔化して、彼女は私の手を繋いだ。とても温かい手。

『うん』

『案外狭い街だ、また会う事もあるかもしれない。またな』

『落ち着いたら僕の家にも遊びに来て下さいね』

 真逆に遠ざかる二つの背中を見ながら、胸に不思議な予感が広がっていった。

 この四人はいずれ再び集うだろう、と。



「……ん」

 着陸のベルが鳴っている。いつの間にか眠っていたらしい。十年も寝ていたのにまだ足りなかったのだろうか。

「お姉ちゃん、もうすぐ着くよ」持って来た本を読みながらセミアが言う。

「うん」

 エレミアと言う街に越してきた日、私は彼等三人に出会った。………あれ?その後何度も会っているはずなのに続きが思い出せない……?寝過ぎて頭が惚けてる?

「クゥン?」ボビーが心配して私に擦り寄ってくる。「何でもない、ちょっと昔の夢を見ただけ」ふさふさの頭を撫でる。「ボビーが私の横へ来る前の事」

「起きたのか?」通路を歩いてきたレイが私の顔を覗き込む。「大分強行軍だったからな、無理もない。後はプルーブルーで終わりだし、船着き場で休んでていいぞ。ポスターは俺とセミアで貼ってくる」

「別に……平気」

「ボビー、クランの事は任せた。終わったらすぐ戻ってくるからな」

「クゥン」

 ボビー、勝手に同意するんじゃない。長い付き合いなのに飼い主の意向も分からないのか。

「ああ、頼んだぞ」

「ワン」

 もしかしてレイが飼い主だと思い始めている?さては昨日の干し肉に釣られたな、恩知らずコリーめ。

「すぐ終わらせてくるよ。ああ、やっとお城の本が読める」妹は妹で全く人の話を聞こうとしない。

 その十分後、船は“蒼の星”プルーブルーに到着し、私とボビーを仮眠室に置いたまま二人はさっさと街へ行ってしまった。

「……あのねボビー」

「クゥン?」

「そんな甘えた声出しても駄目。いい?急いで二人の匂いを辿っ」

 て、と発音しかけた瞬間、ボビーの顔つきが変わった。

「グ……グルルルッッッ……」

 温厚なラフ・コリーは滅多にこうした唸り声は出さない。周りに警戒を促す合図だ。

「どうしたの?」簡易ベッドから起き上がる。「外で何か聞こえた?」

「グルル……ウゥ、ワン!ワンッ!」大声で吠えながら、入口のドアを自らのもこもこな身体で押さえ付ける。

「外なら二人が危ない。ボビー、そこを」どいて、そう言おうとした。


 ドンッ!!


 ドアに何か重い物がぶつかる音がした。その衝撃でボビーが一瞬弾き飛ばされかける。磨りガラスに赤い物が飛び散った。

「ボビー、COME HERE!!」

「ウゥ、ワンッ!」

 引っ掛かっていたドアを一人と一匹掛かりの体当たりで破り何とか脱出する。命令を受けたボビーは機敏な動きで私の隣に付き、周囲の気配を探りながら前足を踏ん張り、何時敵が襲って来ても反撃できるよう臨戦態勢を整えている。

「大丈夫?」

 ドアの前に倒れている船着き場の職員はドアに叩きつけられた衝撃でか気を失っていた。足と腕に複数の引っ掻き傷や噛み傷。ドア以外にも壁や床に出血が拡散していた。

「STAY。警戒して、私はこの人を手当てする」

「ワンッ!」

 出血している傷を回復魔術で治療し、心拍数や呼吸に問題が無いのを確認して、彼を仮眠室に引き摺って入れた。見た目は派手だが命に別条は無い。

「よし」ふさふさの頭をわしわしと撫でる。命令する事自体稀だが、聞いてくれた時は勿論最大限褒める。言葉が伝わりにくい分こうしたコミュニケーションはとても重要だ。

「ウゥゥ……」

 傷害犯の微かな音を感じ取ったのか低い唸り声で威嚇する。他に職員が来ない所を見ると、全員逃げたかやられたか。

「祝福の剣」

 呼び掛けた瞬間、両手に重い感触。銀の太刀に天使の装飾。神の加護を受けた舞う双剣。

 柱の影が一瞬揺らめいた。ベシャッ、と濡れた音。気付いた時には既に目の前に敵がいた。

「グアウッ!!」

 ボビーが普段は隠している臼歯まで見える程口を開け、暴漢の腕に勢い良く食らいつく。二十歳ぐらいの男は目を真っ赤に血走らせ、噛み付かれていない方の腕で長毛の奥の喉元を突く。

「ギャンッ!!」跳ね飛ばされ、苦しそうに舌を出すボビー。流れ出した唾液に血が混じっている。声帯が傷付いたのかもしれない。

「舞い踊れ!」

 二つの剣が魔力によって意志を持ち、別々の方向から男の両足を切り裂く。

「グァァゥッ!!!」ボビーが背後から飛び掛かり、頭を押さえ付けるように覆い被さる。そこに私の剣が手を床に縫い止めようと真上から突き刺さ、

「フゥゥ……」

 男はボビーの前足を掴むと無理矢理壁に投げ飛ばし、素早く軌道から外れる。

「ギャン!!」嫌な音がしたような気がした。今度はダメージが大きくてすぐに起き上がれないようだ。

「ボビー、私はいいから隠れてて!!」一気に自分の血の気が下がっていくのを感じる。これ以上下手に攻撃命令を出したら。

「グルルル………」

 叩き付けられた脚をよろめかせ、再び立ち上がって戦闘態勢に入る。表情にはいつもの温厚さは微塵も無く、正に手負いの獣。殺気を滾らせ、男に三度飛び掛かろうと姿勢を低くしている。

「フゥ……フ」

 男が口の端で笑った気がした。次の瞬間、

「キャァッ!!」

 素早過ぎる。圧し掛かった男が、ガブッ、と何かを噛んだ。

「い………っ!!!!!?」

 数秒遅れて左腕が千切れそうな激痛。離した男の口は真っ赤で、歯の奥に服の切れ端と赤いぐにゃぐにゃした物が覗いた。左半身が途端に麻痺し、ただ流れ出る液体が氷みたいに冷たい。

 その目を私は見た。と言うより身体がショックで動けなくてそれしかできなかった。蛇のような冷たい両眼に宿る、憎悪。

(ふぅん……)

 精々気絶するまで観察しておくとしよう。こんな事件に巻き込まれるなど滅多にできない。


「離れろ化け物!!」


 男が横から誰かに襲い掛かられるのが横目で見えた。


「ガウゥッ!!」


 ボビーの牙が暴れる男の足に突き刺さる。ふくらはぎから血が噴き出す。

 騎乗位で暴漢を押さえ付けたレイが、上で構えたナイフを頸動脈に向けて振り下ろし、


「止めてくれ!!!!」


 声が響く。その意味を理解する前に出血多量で私の意識は途絶えた。



「これでいい。数日安静にすれば快癒するでしょう」

 天使はそう言い、今度は犬を診察し始めた。

 クランは左の二の腕の肉を食い千切られて発見当時血だらけだった。今は取り合えず傷は塞がっているが無くなった所が不自然に凹んでいた。

「ああ……咽喉の奥に深い傷ができています。全身に鞭打ちと……おや、右の前足が腫れている。罅が入ってますね」

 神への言葉を唱え、両手から放出される癒しの光を犬に浴びせる。ぐったりと横になった身体の傷が見る見る塞がっていく。

「クゥン」癒されながら気絶した主に向かって不安そうに首を伸ばす。

「もう少し待ちなさい。傷をきちんと治してからです」

 慣れた手つきで頭を撫で治療を続ける。

 部屋の外からの声で大人しくなった暴漢は、やって来た警官達にそのまま連行された。いや、大人しくなったは正確ではない。声を聞いた途端いきなり白目を剥いて気絶したのだ。お陰でナイフを盛大に外して床に突き刺さし、中々抜けずに苦労する羽目になった。

 彼等の後ろから来たのがこのイスラフィールと言う穏やかそうな天使(つまり件の風呂覗きだ)。船着き場の空き部屋を借りて一人と一匹を癒している最中だ。

「?レイさんもどこか怪我を?診ましょうか?」

「いや、いい」

 天使は、自分はクランの保護者のような者だと説明した。断じて悪い奴ではない。でなければ自分をボウガンで狙った奴を赦すものか。少なくとも俺は絶対根に持つ。

(心臓を釘で引っ掻かれ続けているみたいだ)

 流血し苦しむ彼女に俺は何もできなかった。俺が早く船着場の異変に気付いていれば、急いで戻っていれば―――。

「くそっ……!」悔しさに拳を強く握り締める。

「余り自分を責めないで下さい。あなたは充分クランベリーのために行動しました」

「五月蝿え!!」

 分かっている。この天使に非は無く、たかが人間に怒鳴られる筋合いは全く無い。理性ではそう理解しているのだ。

「わ……悪い。済まない、あんたに八つ当たりしてもしょうがないのに……」


 ぼろっ。


「!?」

「……身体の傷はこうして癒せても、私では決してクランベリーの心の傷を治す事はできません。……幾度目の目覚めであっても、私は何もできない……」


 ぼろぼろ。


「お、おいイスラ」

 ブルーの目から零れる涙は鮮やかな朱色をしていた。

「私は彼女が哀れで仕方がないのです、レイさん」

「あんたの体質も俺からは相当哀れに思えるんだが」人を吃驚させるためとしか考えられない仕組みだ。「一応確認しておくがドッキリじゃないよな?」

 天使は首を傾げ「どっきりとは何ですか?」逆に訊き返された。

「いや、悪かった。話を続けてくれ」

「はぁ……ちょっと待って下さい」

 イスラは右側の頭を押さえた。

「……はい、了解しました」

 何者かと交信を終えた彼は癒しを止め、怪我が完治しているのを確認する。

「クゥン」

「済みませんレイさん。私は急ぎ大父神様の御所へ戻らねばなりません……クランベリーを頼みます。なるべく滋養のある物を摂らせて下さい」

 涙をハンカチで拭き取り、天使は一礼してドアを開いた。白の法衣に残った赤が散っている。

「用が済んだらまた来いよ」事情はよく分からないが、少なくともクランには彼が必要だ。「保護者なんだろ?」

「……勿論。今度こそ或いは……では」



 イスラフィールが水晶宮を覆い隠す結界に侵入すると、宇宙の唯中でありながら白い雲の棚引く景色へと変貌した。

 宇宙船を水晶宮のいつもの場所に係留する。入口には甲冑に身を包んだ番人の天使が二人。瓜二つの体格、真ん中に鏡でも立てているようだ。

「異常ありません」

「そうか、御苦労」

 たとえ労いの言葉が無駄な人形に過ぎないと分かっていても、イスラは常に人に接するように話し掛けていた。何かが変わるのを願うように。


 ギィィッ………。


「おや」

「イスラか。ガキのお守はどうした?」

 帯刀した赤髪の天使は好戦的な目を向け、「何だ、とうとう縊り殺しちまったのか?」

「まさか。大父神様の妹君ですよ、できるはずがない。少し下界に行ってきました。それよりミーカール、あなたも謁見ですか?」

「いや、一仕事終えてきた所さ。あーあ、爺の異教徒なんて二度とやりたくないぜ。延々命乞いはするわ、小便は漏らすわ。最悪ったらありゃしねえ。シャワー浴びて着替えてもまだ臭う気がする」

 口ではそうぼやいているが、イスラは知っている。異教徒を牢獄へ連行する際、ミーカールがどれだけ残虐な拷問を加えているかを。彼が牢獄を不幸にも通り掛かった時など、多くの囚人達が血の涙を流し土下座をして通り過ぎるのを待つのだ。何故なら彼は気分次第で牢から適当に囚人を引き摺り出し、魂のみの彼等に更なる加虐を行う、但し女性を除いて。基本的にフェミニストを貫いている彼は女に悲鳴を上げさせるような真似はしない。彼女らの目に触れるのを恐れ、囚人の首根っこを掴みながら通路をウロウロするのは些か滑稽な光景ではある。

 ふと彼の隣にいつもの人形がいない事に気付いた。普段はいつも見せびらかし半分に連れているのに。

「彼女はどうしました?」

「ああ、あいつならおねむの時間だよ。義体っつうのも疲れるんだな結構」

「怪我は?」

「無えよ」

 彼女の話で少し機嫌が良くなったようだ。

「あーあ。爺ぃ引っ張ってくるのやらせりゃ良かったぜ。あいつ俺よりは異教徒に警戒されねえから」

 ミーカールが警戒心を煽る言動をするせいでは、と言葉が喉元まで出掛かった。

「ちっ。お前退屈じゃねえのか?毎日毎日子供の世話なんて、俺なら半日で止めてるね」自分だって似たような事をしているのに完全に棚に上げている。

「あなたは神の敵と戦うように創られていますから。元々プログラムが違います」

 そう、私は大父神様の最後の――――。

「おや皆お揃いで」

 バサリ、と翼を羽ばたかせ、ウーリーエールが窓から入ってくる。茶色掛かった短髪に、緑色の目。

 矯正の必要も無いのに掛けていた眼鏡を外す。どうやら人間に化けてうっかりここまで外し忘れていたらしい。

「久し振りですねウーリーエール。今日は下界の仕事は休みですか?」

「何言ってるのさイスラ。世間様は今冬休みの真っ最中じゃないか。講義の補習と忘年会は年末に済ませたし、次に行くのは四日後の新年会」

「はぁ?お前人間と酒飲んでる暇があったら仕事しろよ」

「会は重要な仕事さ。ミーカール、人間共は酒を一緒に飲まない奴には講義の予算出さないんだ、特に大学なんて超閉鎖社会はね。機嫌を取るために賄賂もするしおべっかも使う。君みたいに気に入らない奴を片っ端からぶち殺して牢に入れるのとは次元が違う」

「本業をしろ本業を」

 分厚い生地のローブの袖に隠していた両手を、両手代わりの義手を出して頭の下で「やれやれ」と言うポーズを取る。

「肝心の相手がいなけりゃどうしようもないよ。大父神様もその辺は御了解済みさ。まぁ、居場所は大体見当が付いているんだけどね。如何せん範囲が広大過ぎるのと、探すだけでも多大なリスクだ」彼は薄く笑う。「彼女、やっぱ相当な知能犯だね。前触れ無く暴発するけど―――僕みたいに腕が引き千切れたら涙の一つぐらい流すかな。いや、あの時は泣いてたか。――“あれ”は結局直ったのかな?」

「ウーリーエール」

「イスラ、あれは本当に悲劇だったよ。そして滑稽な喜劇の始まりだ」

 彼は壁に背を凭せ掛けた。

「君も気を付けるがいいさ。所詮クランお姫様は僕ら天使とは格が違う。どんなに情を移した所で彼女は可愛い愛玩動物に過ぎない。……彼女のために何かしてやろうなんて考えない事だ。特に大父神様に背くような真似は、ね」

「おい、イスラが裏切るって言うのか?」

「まさか。彼は僕の知る限り『二番目』に敬虔な神の僕さ。ただ誘惑を受けやすい立場だから、一応警告してみただけ」

「……あなたの憂慮も最もです。ですが、私は神に創られた身。あなたの言うような感情は持ち合わせていません。クランベリーを見守るのは、それが神が私に与えたもう使命だからです」

 反論しながら私の心は他の事に激しく揺さ振られていた。『二番目』、重過ぎる単語に。

「それもそうだ。……仮に裏切って彼女の味方をした所で、君の戦闘能力は僕等には到底及ばない。どうして大父神様は四天使の中で君だけ極端に弱く創ったのだろうね?」

 二人は知らない。自分達が大父神の一部を投影した存在だと言う事に。神の御心にある感情の強弱が、そのまま自身の強弱になる。

「君がせめてジ」

「大父神様に呼ばれていますので、私はこれで」自主的に台詞を遮る。

「ああ、そうだったな。早く行って来いよ」

 長い廊下を抜け、神の玉座への扉を開く。

「大父神様」

 神は氷城を見つめていてイスラには気付いていないようだ。

「下界より戻って参りました。何か御用でしょうか?」

「……あ、イスラフィールか……」

 振り向いた神の顔は昨日妹と歓談していた時と全く違い、目は落ち窪み肌は死人のような土気色をしていた。凡そ宇宙を統べる者の顔ではない。

「なぁイスラフィール……何故クランはずっと僕の傍にいてくれないのだろう……?僕が奴に劣る物があるから、だからあの子は………!!」

 神は悪鬼の形相で叫ぶ。

「奴が憎い!!憎くて憎くて気が狂いそうだ!!!出来る事なら、今すぐこの手で心臓を抉り出して」

「大父神様!どうか理性を保って下さい!!」

 封印など無いかの如く、闇からの侵食は神の御心を着実に蝕んでいっている。

「そんな事をなさればクランベリーがどんなに悲しむでしょうか。しかも彼女は聡明です。兄と言えど手心など加えず罪を糾弾するでしょう。大父神様、クランベリーを、ただ一人の大事な肉親を敵に回すおつもりですか!?」

 神ははっ、とした表情になった。我に返ったらしい。

「クラン……」

「ええ、彼女のためにも闇に飲まれてはなりません。落ち着いて、どうか自我を保って下さい」肩を掴んで視線を合わせる。

「クラン…………あの子が悪いんだ」

 昏き瞳の光。

「そうだ……そうじゃないか。僕はあんなに認められようと努力したのに、クランが全部台無しにしたんだ。お前だっておかしいと思うだろう?クランは特別な取り柄も何も無い子供なんだ。なのにどうして――――!?」

 無表情。

「……甘い事など考えず、あの時一緒に殺しておけばよかったんだ」

「!!?」

 一瞬後、神は木漏れ日のような弱い光の宿った目で私をまじまじと見た。

「……イスラフィール?どうした、そんな怖い顔をして……」

「いえ。御顔の色が余りにも悪いので驚いてしまいました」手を離す。

「ああ……どうも眠れなくてな」

 苦しそうに死の臭いの混じった息を吐き出す。

「時々、夢の中が真っ暗で……闇が意志を持って僕に襲い掛かってくる。それに捕まると、膨大な呪詛の言葉で頭が割れそうになって……目が覚める」

「寝室へ行きましょう。よく眠れる薬を用意します。それを飲んで、横になっていれば楽になりますよ」

「そうか……ありがとう」

「礼など無用です。私は大父神様の僕ですから」本心をありのままに喋る。

 肩を貸して寝室まで移動し、神をベッドに寝かせた。

「ではこの薬を」

「待ってくれ。クランは今下界のどこにいるんだ?何をしている?」焦り気味に尋ねる。イスラはかいつまんで経過を説明した。

「怪我は治しましたので、クランベリーの体力なら一週間もすれば完治しますよ」

「そうか……その暴漢は?」

「連行されて、今頃は人間の法機関かと。取り調べが終わればすぐにでも牢に行くのでは」

「あの子に大事が無くてよかった」覇気無く笑う。「女王か……やはりあの子は民衆を束ねる宿命なのか……そうか」

「今はゆっくりとお休み下さい」

「ああ……」白い散剤を口に含み、水を飲む。

 ゴクッ。

「強力だな……もう瞼が重くなってきた……」ふわふわとした声で主は呟いた。

「はい。何も心配なさる事はありません。クランベリーは私が」

「イスラフィール……僕は、僕は……あの子に酷い事をしている……」

 目が不自然に見開かれ、軽い痙攣の発作が二、三回起こった。

「僕はもう……耐えられない……!後何回僕は僕でいられるのか……どんどん自分が自分でなくなっていくんだ………」

 眉を顰め、唾を苦しげに嚥下する。

「もしお前に魂が宿っているなら……僕を………して」

 最後の言葉の数秒後、穏やかな寝息が規則正しく漏れ始めた。幸い悪夢からの攻撃は免れているようだ。

「……お断りします、大父神様。お休み下さい、良い夢を」




 カン、カン。


「……これにて閉廷します」

 被告人は俯いたまま、結局一度も本官の方を見なかった。

「被告人、大丈夫ですか?」

 だから法廷を出て思わずそう声を掛けてしまったのは単なる気紛れではなかった。

「……ぁ、なたは、さっきの」

 彼は両脇を屈強な刑務官に腕を押さえられ、今正に牢獄へ行こうとしている所だった。

「何故抗弁しなかったのですか?精神病のせいだと言えるだけの証拠は揃っていた、減刑のチャンスだったんですよ?」

 一段高い所で本官はずっと待っていたのだ、彼が幻覚症状を訴える時を。一言でも発言すれば精神鑑定が行われ、減刑と治療が確実に可能だった。なのに。

「僕は……人を傷付けてしまったんですよ、裁判官さん。無差別に襲い掛かって獣みたいに暴力を……どうして刑を減らして欲しいなんて頼めるのですか?僕は、罪人なんですよ……」

 裁判官初日にして判例通りにいかない裁判。後味が悪過ぎる。

「今からでも遅くないです。控訴して下さい」凡そ裁判官の言う台詞ではない。二人の刑務官がギロッ、と新米を睨んだ。




 ブゥ――――ン……。


「流石文明の利器。一瞬ですよ一瞬」大臣が出てきたコピー紙をしげしげと眺める。

「すげえ。しかもちゃんと写真通りの色が出てる」

 なけなしの予算を持って中古家電店から探してきたスキャナー付きプリンタは正常に紙を吐き出し続ける。それを横目にレイアウトを考えながら白紙に糊で商品の写真を貼り付ける。商品説明は文章の巧いセミアが横にちょこちょこっと書く。

「でもクラン。こんな石ころや雑草、本当に売れるのかよ」

「うん。見る人が見れば百パーセント買う」

 クオル王国を狼達の山も含め一日掛けて回って分かったのは、足の便こそ最悪だが実に豊かな土地だと言う事。人口が少ない故に未開拓の土壌は肥沃で、勝手に自生する植物のほとんどは麓に降りれば存在しない希少種のハーブだ。セミアの知識によれば絶滅して現在の辞典に載っていない物も多数あるらしい。山の方にはこれまた希少な宝石や最近注目され始めたレアメタルなる物が岩壁に剥き出しのまま放置されていた。

 しかも何とほぼ全ての山に跨って、巨大な一つの地下遺跡が作られているのだ。狼達に案内されて浅場を歩いてみたが途轍もない。王国が興る前からあったと賢狼は言ったが、一体誰があれだけの規模の物を山をくり抜いて建造したのだろう。そして、狼も足を踏み入れた事の無い地下深くには何があるのか。

 コピーが全部出来た所で製本し、最終ページに注文票を何枚か挟み込む。

「クランちゃん、これはどういう商いなの?」カタログを見ながらお婆さんが尋ねる。

「古美術商同士は商品を競売に掛ける前にこういうカタログで事前に目ぼしい品物を探しておくの。無駄に競りに参加して資金を減らさないためにね。

これはそれと似たような物で通信販売と言われてる方法なの。このカタログを麓から一週間に一度登って来る行商人に渡して、行商人はとにかく人が集まる所にこれを置く。捲った人は注文票に住所と欲しい品物を書いて郵便に出す。受け取った私達は商品を銀行の振込用紙と一緒に送る。顧客は品物を確認してお金を振り込む」

「店より面倒だな」

「でも店舗はいらない。包装作業なら城の中に充分スペースあるし。それに通信販売なら交通の不便はほぼ関係ない」

「そうね。でもよく思い付いたねえ、お婆ちゃん感心するわ」

「資源が手付かずで残ってたのはラッキーだった。それも無かったらかなり難しくなってたと思う」

「この前のポスター。あれ効果あるのかな」

「実際に人が来るのはしばらく後のはず。まず商売が軌道に乗って、クオルに注目が集まらないと」

「随分威勢の良い事書いたからなあ。只で一軒家支給、仕事は選びたい放題、引っ越しは国からの補助金支給あり。こんな田舎でなきゃ最高の条件だ」

「そうでもないよ。クオルが有名になれば多分」

「何だよ?」

「秘密」

「はぁ?あんだけカメラ持たせて東奔西走させたのに、肝心な所は教えてくれないのかよ」

「大きい事は言えない。失敗するかもしれないから」

 商品の品質は最高に近い。だが、買い手が初めに判断するのはカタログの写真だ。安物のカメラ故写りはごく平凡、購入したいと思わせられるかどうかは微妙な線。

 レイは適当にページを開き、「大丈夫だと思うぜ。まぁ、買う人間は本当に限られていそうだが」

「最初は“黄の星”と“白の星”の学術施設を中心に、後は船着き場に一冊ずつ」

「……売れるのか、本当に?」

「見る人次第だと思う」

 本を束ね、もう一時間もすれば行商人が入ってくるであろう玄関に積む。



 話終わった本官は手前のコーヒーの最後の一口を飲み干した。

「意外です」宝君は驚いた表情。「ここに来た先輩が仕事の話をするなんて」

「まあ、確かに……」

 街の郊外に建つ平屋のプレハブ。元は学校の部室だった物を廃部に伴い本官が私用に引き取った。五人も入れば身動きが取れない程狭い中、さらに狭くしているのが全面作り付けの本棚とぎっちり詰まった書籍。

 元聖書研究部、現四天使研究会。会員二人の小さな同好会だ。と言って、宝君は同部後輩のよしみで時々立ち寄る程度。廃部になってからは自前の聖書も持っていないし日曜礼拝もしていない。

「でもその場合、先輩ができる事って無いですよね?裁判終わっていますし」

 本官の願いも虚しく、彼は裁判翌日刑務所へ移送されていった。

 愛用の聖書をパラパラ捲るが、こんな時に限って目を引く文言が見つからない。

「落ち込んでます、先輩?」

「まあ」

「だから裁判官なんて止めておいた方がいいと言ったんです。同じ法律家なら弁護士とか検察なら立場がはっきりして余計な悩みを抱えなくて済んだのに」

 それを言われると辛い。

「“神々しく比類なき攻防の裁き”なんてただの伝説ですよ。そんな、一生掛かっても見られるかどうか分からない物が見たいなんて気が知れません」本官の指が丁度そこで止まる。

「本官がロマンチストだとでも」

「それ以外の何なんです?」

 四天使と悪魔が大父神の膝の下、魔に魅入られた人間を裁く項にたっぷり目を泳がせる。

「…………………本官、馬鹿に見えるだろうか?」

「いえ。志望動機と四天使オタクと言う事さえなければ至極立派ですよ先輩は。御両親もさぞや自慢の一人息子なんじゃないですか?」

「正直だな宝君は」




『ここっぽい』女性が辺りを見回して、『他に屋敷っぽい家無いし』

 青髪の青年が言っていた通りの突き当たりにあった、白い煉瓦造りの一際大きな家。


 ギィィッッ………。


『お邪魔します』

『誰かいますか?』

 真紅の絨毯が敷かれた孤児院よりずっと広い玄関。兄ともう一人エメラルド色の髪の女の人が立ったまま話している。

『お兄ちゃん』

『あ、クラン!良かった、はぐれた時はどうしようかと』

 兄は微笑んで私の頭を撫で、女性に『彼女が今言ってた妹のクランベリーだ』と紹介する。

『初めまして。私はルウ、よろしく』切れ目の彼女は硬い表情で挨拶した。『そっちの彼女も候補?今日来るのは二人だって聞いているけど』

『違う違う。私はそんな大それた者じゃなくて、大父神様の傍にいるてん』

『てん?』

『あー、てん、てん……そう!大父神様の傍にいる天丼!』

『は?大父神の傍にそんな物無かったわよ』眉を上げ嘲る表情。

『あ、あはは……そう、だよね。旅の疲れで頭が回ってないのかも』

『きっと凄い長旅だったのね。心底同情するわ』

『いや、院からは半日ぐらいだったんだけど……』彼女は弁明しかけて、『ま、いっか』明るく諦めた。

 私は兄に向き直り、『お兄ちゃんはもう挨拶してきたの?神様ってどんな人?』疑問を口にした。兄は少し考えた後、

『見た目は普通のお爺さんだったよ。うん、本当にどこにでもいそうな。来次第クランにも会いたがっていたよ。部屋はそこの階段を上って右の廊下の三番目』

『ふうん。行こう』

『あ、うん』

 階段にもふかふかカーペット。靴音が消える。

『先に入る?聞かれたくない話なら終わるまで下でお茶でも飲んで休んでる。疲れたし』

『そんな、年下なのに気遣ってくれなくていいよ。一緒に入ろう。多分神様候補なら問題無いはず』

 兄とあのルウと言う女の人も候補のはずだがすっかり気が動転しているらしい。

『あ、でもやっぱり本当に選ばれた人じゃないと……院の先生も無闇に一般人に話すのは災いの元って』

 どうやら巫女と言うのはかなりの危険を伴うようだ、彼女の迂闊さと正比例して。

『ここだ』

 二人で指差して一、二、三。間違い無い。仮に間違っていたとしてもどうと言う事無い気がするけど。

『入ろ』

『え、ちょっと、一回深呼吸させて。まだ心の準備が』


 トントン。


『あ……』

『大父神様、お目通り願います』多分二度と使わないな、この台詞。

『どうぞ』

 女性の声に驚く。兄は嘘を吐いたのだろうか?

『失礼します』

 ノブを回し、ドアをゆっくりと開く。

『よく来ました。……あら、どちらが私達に仕える巫女?』

 神々しい六翼の女性は、溢れんばかりの輝きを内包した微笑みで尋ねた。彼女が立つ隣にはアンティークの椅子に座る老人が一人。この人が大父神?天使の後光のせいでみすぼらしいお爺さんにしか見えない。

『私です、エカリーナ様』女性が両手を祈りのポーズにして天使の前に跪いた。『お会いできてとても光栄です』

『私も嬉しいです、可愛らしい巫女』エカリーナ様は彼女の手に口付けを落とす。『院からの長旅で疲れたでしょう?向こうの部屋でゆっくりお話ししましょう、温かいハーブティーを淹れるわ。ドゥース、後は頼みます』

『ああ。……クランベリー、だったかな?』

 天使と女性がドアの向こうへ消えた後、お爺さんは疑問形で口を開いた。光が消えた分くすみは無くなり、普通のお爺さんになった。

『はい、大父神様』

『敬語など使わなくていい。……そうか、良かった。年を取るとどうも名前が覚え辛くてね……ええと、さっき来た君のお兄さんは』

『ジェード』

『そうそうジェード君。彼はとても気真面目だ。いつもああなのかね?』

『大体は。昔から頭良かったから』

『興味深々な様子で色々と質問されたよ。神様など人に比べれば退屈なのにとてもなりたげだった。……クランベリーはなりたいかね?』

『別に。なった所で特に何をしようとも考えてないもの。やりたい人がやればいいと思う』

 正直に話すと何故か大父神様の顔が和らいだ。

『全然興味無いのか、そうかそうか。ところでクランベリー、エカリーナをどう思うかね?』

『綺麗で優しそうな人としか。でも四天使様に六枚翼の人なんていたかな、と思って』

『彼女は違う。もっと上の高度な存在、私などよりずっと敬われる御方だ。そうか、良かった……これで安心だ』

 心底ほっとした笑みを浮かべ、『彼まで駄目だった時はどうしようかと思ったが……』そう呟いた。

『おお、そうだ。今夜はゆっくり休んで、明日ディーの屋敷へ行ってみるといい。彼は実にユニークだ。きっとクランベリーの良い友達になってくれるだろう。聞いているよ、孤児院の友人達は全員原初の闇に………ああ、済まない。思い出させるつもりはなかったのだ。ただ、宇宙が終わる前にこの街で少しでも楽しい思い出をと』

『大父神様?……分かった、行ってみる』

『ああ、この屋敷を出て東の通りを真っ直ぐ。赤茶けた壁と玄関いっぱいに並んだ花が目印だ』




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