作家の一手
「やっと終わった」
作家の麗は原稿をやっと書き終えた。彼はすぐさまそれを編集者に送るべく、メールソフトを開いた。
麗はベテランのSF作家であり、デビューから20年が経っていた。彼はデビュー時に個性的なSF小説を世に出し、SF界の重鎮と目されていた。彼の作品は科学的というよりは哲学的であり、どちらかと言えば、人間の生を問うためにSF的な仕掛けを使っているという感があった。
麗は書き上げた作品を編集者にメールで送り付けた。彼は書き上げると、時間をおかずに編集者に送る事にしていた。編集者はすぐにでも返信をよこすだろう。作品が本になって世に出るまでにはまだ間がある。
麗はハーマンミラーのチェアの背もたれに体重を預けた。目をつむり、さっきまで眼前に展開していた世界を鎮めようとした。
彼が一つの作品を書き終えていつも感じるのは「これで死に対して一歩リードしたぞ」という事だった。これはチェスだった。
神はどういうわけか、人間とチェスを指したがった。人間はこれまでこのチェスに勝った事はない。人間が負ける事はわかっている。だがこのチェスから降りる事はできない。人間は最善の手を指し、ほんの少しばかり神を焦らせる事ができるかもしれない。人間に可能なのはその程度の事であり、いずれこのゲームに負けて、こちらが奈落に落ちるのは目に見えていたが、それでもこのゲームで大切な一手を指したという快感は何ものにも替え難かった。
あるいは…麗の中では次のようなイメージもあった。盗人が、墓荒らしをしようとしている。盗人は墓をこじ開け、中に侵入してくる。盗人がいずれここに来るのはわかっている。しかしその前に墓の財宝をどこか別のところに置いおけば、盗人を出し抜く事ができる。彼らは墓の中に入り、棺のまわりに財宝がない事に失望して、悔しがるだろう。それはいい気味に違いない。
彼にとって自分の書く作品はチェスにおける会心の一手であると共に、どこか別のところに隠した財宝だった。麗は自分の作品をそのようにみなしていた。
彼は窓の外を眺めた。庭で子供たちが遊んでいた。姉と弟で姉は9歳、弟は7歳。晩婚だったが、今の妻と結婚して麗は自分を幸福と考えないわけにはいかなかった。
麗は作家として成功していた。嫉妬故に彼を誹謗する人間もいたが、彼の作品の価値を認めない人間はほとんどいないと言っても良かった。もしそういう人物がいたとしたら、その人物は単にそうしたものの価値を認められないだけなのだ。哀れな、悲しい奴なのだ。
麗が窓の外を眺めていると、子供達が麗の存在に気づいた。二人は麗に手を振った。…いや、手を振ったの娘だけだった。息子は何かに夢中だった。土いじりなのか、草むしりか、何をしているかわからなかったが、何かに夢中でまわりが見えていないところが子供の頃の自分にそっくりだと麗は思った。
麗は手を振った。娘は天使のような笑みを見せると、くるりと振り返って息子の方に駆け寄っていった。麗は至福の時を感じた。自分は幸運な人間だと改めて考えてみた。
彼はふと前を見た。パソコンのモニターが真っ黒になっていた。麗はぎょっとした。パソコンが壊れたかもしれない。
モニターには自分の顔が映っている。狼狽している、髪の薄くなった中年男。どこから見ても凡庸な中年男性だ。
その時、何故かはわからないがふと、麗の心に暗いものがよぎった。(果たしてそうだろうか?) 誰かが囁いた気がした。(果たして…本当にそうだろうか? それであっているだろうか? それは"正解"だろうか?)
麗は若かった頃を思い出した。彼はほとんどの青年がそうであるように、不幸な青年だった。彼は大望を持っていたが不幸で貧しい青年だった。あの頃の彼はあくせくとしていた。世間に認められる為に必死だった。自分の力を示す事に夢中だった。人々の冷たい視線がいつも敵だった。あの頃の彼は不屈の戦い抜く精神を持っていた。
(本当にそうだろうか?)
再び、声が聞こえた。麗は不安になった。彼は急に自信がなくなった。彼は考えた。(本当に人生はチェスなのだろうか? 本当に私は…自分の財宝を逃す事ができているのだろうか?)
麗は自分の思いを振り切るように、パソコンの電源ボタンを押した。何秒か押すと、電源が落ちた。もう一度電源ボタンを押すと、パソコンは立ち上がった。
パソコンはいつもの起動画面になった。マウスを動かして、パソコンの状態を調べてみたが不具合はなさそうだった。インターネットもいつも通り閲覧できた。
「壊れてないじゃないか」
彼はメールソフトを開いた。もう編集者から返信が届いてた。紋切り型の感謝の言葉が並んでいた。
「ふう」
彼は背もたれに体を預けた。…おそらく半年後ぐらいにこの作品は世に出るだろう。すると評論家とか言われる業界の端にぶら下がっている連中は私の作品を理解出来もしない癖に、褒め上げるだろう。
というのは、私の新作は出版業界では一種のイベントになっているからだ。出版不況で誰も本を読まない世界の中で、私の新作は話題性を持っている。だから彼らは私の作品を褒める。理解できなくても。彼ら自身が業界で生き残っていくためには、私の作品を褒めるしかないのだ。
そんな風にして私の作品を中心にして、小さな「祭り」が開かれる。それで出版業界はいくらかの金を得る。他に比べればぱっとしないが、しかし私の作品も業界からすれば貴重なものなのだ。
「弱気になるなよ、麗」
麗は自分に言葉をかけた。そう、弱気になる必要などどこにもないのだ。
「今までお前はやってきたじゃないか。自分の信念を、哲学を貫いてきたじゃないか。…不安になる事など何もない。私は作家だ。作家として生き、作家として死ぬ。…それでいいじゃないか。作家にとっては作品が全てだ。そうだろう? 弱気になる必要はない。そうだ、弱気になる必要はない。私は作品の中に"全て"を置いてきたじゃないか」
麗は自分の頬を叩いた。そう…弱気になる必要はない。彼は作家として既に成功しているのだ。
麗はマウスを動かしてパソコンを休止状態にした。彼は外に出るつもりだった。気分転換の必要がある。
彼は立ち上がり、机の上の財布を取り上げポケットにねじ込んだ。彼はお気に入りの帽子を被った。彼は仲のいい友人に連絡をしようと考えていた。今から飲みに行こうと言っても、何人かは来てくれるだろう。作家というのは日中も暇な人間が多い。彼らは書かなくてもいい理由をいつも探している。
麗は鼻歌を歌いながら、部屋を出ていった。ドアが閉じる音がした。バタン。
部屋の中には静寂だけが残された。
パソコンのモニターには、ハーマンミラーのチェアと本棚が映っていた。その光景は微動だにしなかった。モニターは誰にも言われる事なく、主人が不在の空間を画面の上に捉え続けた。そしてそれは麗の妻が夕暮れ時になって、麗の部屋を掃除するまで続いた。
※本作品はSF作家のレイ・ブラッドベリのインタビューが元になっています。
レイ・ブラッドベリが「小説を書き上げて編集者に送った時に、「これでまた自分は死神に一歩リードしたと思う」」と言っていた事がこの作品の元となっています。
ただこの発言は私が本屋で立ち読みして記憶した事なので、はっきりとは覚えていません。どの書物に書いてあったかも不明ですが、レイ・ブラッドベリが言っていたのは確かであるとは思います。




