祝賀会で彼女が消えた…残ったのは手だけだった
王城の大広間は、いつもより眩しく感じた。
天井に浮かぶ魔法灯がゆっくりと回転し、金色の光が床に揺れる。
楽団の弦が澄んだ音を響かせ、貴族たちの談笑が波のように広がっていく。
その中心で、俺――クラウスは、場違いなほど硬く立っていた。
師団長試験に合格した。
それは誇るべきことのはずなのに、胸の奥は落ち着かない。
祝われることに慣れていない。
そもそも、こんな豪奢な場に立つ自分を、まだ受け入れられていなかった。
「……相変わらず、緊張してるね」
背後から聞こえた声に振り返ると、リディアがいた。
淡い青のドレスに身を包み、魔導士らしい落ち着いた雰囲気を纏っている。
けれど、その瞳はいつも通り柔らかく、俺の硬さを溶かすように笑っていた。
「緊張してない。……たぶん」
「たぶん、ね」
くすりと笑う。
その笑顔を見るだけで、胸の奥のざわつきが少しだけ静まる。
「せっかくの祝賀会なんだし、少しは楽しんだら?」
「楽しみ方がわからないんだよ、こういうのは」
「じゃあ――教えてあげる」
そう言って、リディアは手を差し出した。
白く細い指先。
魔導士特有の魔力の気配が、淡く揺れている。
その手が、俺に向けられている。
「踊ろう、クラウス」
「……俺、踊りなんて」
「大丈夫。私が引っ張るから」
その言葉は、祝賀会の喧騒よりもずっと静かで、
けれど確かに俺の胸に届いた。
迷う理由はなかった。
いや、本当は迷っていたのかもしれない。
でも、彼女の手がそこにあるのなら――
俺はそっと、その手を取った。
温かい。
驚くほど、温かかった。
その瞬間、周囲の音が少し遠くなった気がした。
魔法灯の光が揺れ、リディアの髪に反射してきらめく。
彼女は微笑んだまま、俺の手を軽く引いた。
「ほら、行こ」
ぎこちない足取りで、俺たちは人々の輪の中へと踏み出した。
楽団が新しい曲を奏で始める。
優雅で、どこか懐かしい旋律。
リディアの手の温度だけが、やけに鮮明だった。
リディアに手を引かれ、俺は輪の中心へと進んだ。
周囲の視線が一瞬だけこちらに集まる。
けれど、彼女は気にした様子もなく、軽く息を吸って俺を見上げた。
「大丈夫。私に合わせてくれればいいから」
「……わかった」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ熱くなる。
こんな場で、こんなふうに手を取られるなんて思ってもいなかった。
音楽がゆるやかに流れ始める。
リディアが一歩踏み出し、俺の手を軽く導く。
その動きは驚くほど自然で、俺のぎこちなさを包み込むようだった。
「ほら、できてるよ」
「……本当に?」
「うん。クラウスは思ってるよりずっと上手」
そんなはずはない。
でも、彼女が言うと、不思議と信じられた。
魔法灯の光が揺れ、リディアの髪が淡く輝く。
彼女の瞳はまっすぐで、俺の動きを確かめるように見つめてくる。
距離が近い。
手の温度が、鼓動と同じリズムで伝わってくる。
「師団長、おめでとう」
踊りながら、リディアが小さく言った。
「……ありがとう。でも、まだ実感がない」
「そうだろうね。ずっと努力してきたの、知ってるから」
「見てたのか?」
「見てたよ。ずっと」
その言葉に、胸が強く揺れた。
リディアは続ける。
「あなたは真っ直ぐで、不器用で……でも、誰よりも仲間を大事にする。
だから、師団長になったって聞いたとき、すごく嬉しかった」
「……リディア」
「だからね。今日くらいは、胸を張っていいんだよ」
彼女の笑顔は、祝賀会の光よりも眩しかった。
気づけば、俺は自然に彼女の手を握り返していた。
その温度が、心の奥まで染み込んでいく。
音楽が少しだけ盛り上がる。
リディアがくるりと回り、ふわりとドレスが広がる。
戻ってきた彼女の手を、俺はしっかりと受け止めた。
「ね、言ったでしょ。できるって」
「……リディアがいるからだ」
「そうだね。私は、あなたを支えるのが得意だから」
その言葉に、胸が熱くなる。
この瞬間が、ずっと続けばいい。
そんなことを、初めて思った。
リディアの手は温かい。
その温度が、未来を照らすように思えた。
――この手を、離したくない。
そう思った瞬間だった。
音楽が、ふっと途切れた。
ほんの一瞬の沈黙。
その静寂は、祝賀会の喧騒の中では不自然なほど重かった。
リディアが小さく瞬きをする。
俺も、何が起きたのか理解できずに周囲を見渡した。
次の瞬間――
光が弾けた。
耳をつんざく破裂音。
天井の魔法灯が一斉に砕け、金色の破片が雨のように降り注ぐ。
空気が震え、床が揺れ、誰かの悲鳴が遠くで響いた。
「クラウス――!」
リディアの声が聞こえた。
けれど、その声は途中でかき消された。
視界が白く染まる。
熱いのか、冷たいのかもわからない衝撃が全身を包む。
何が起きているのか理解できない。
ただ――
俺は、リディアの手だけは離すまいと、強く握りしめていた。
世界が揺れる。
床が割れる音。
魔力が暴走する気配。
人々の叫び。
すべてが混ざり合い、遠ざかっていく。
白い光がゆっくりと収まっていく。
耳鳴りが残り、世界が歪んだまま戻ってくる。
俺は、握っていた手を見た。
――リディアの手だけが残っていた。
温かい。
さっきまで踊っていたときと同じ温度。
指先がかすかに震えている。
「……リディア?」
呼びかけても、返事はない。
俺の隣には、誰もいなかった。
祝賀会の大広間は崩れ、炎と煙が立ちこめている。
騎士たちが叫び、魔導士たちが防御魔法を張り巡らせている。
王族の護衛が走り回り、瓦礫が落ちる音が響く。
けれど、そんなものはどうでもよかった。
俺の手の中には、
さっきまで未来を照らしていた温度だけが残っている。
理解が追いつかない。
何が起きたのかもわからない。
ただ――
手の温度だけが、現実だった。
俺はただ、それを見つめていた。
周囲の喧騒は遠く、まるで別の世界の出来事のようだった。
瓦礫が崩れる音。
魔導士たちの詠唱。
騎士たちの怒号。
炎のはぜる音。
すべてが、膜越しに聞こえるようにぼやけていた。
俺の世界には、
この手の温度しか存在していなかった。
「クラウス! 無事か!」
誰かが叫んでいる。
肩を掴まれ、揺さぶられる。
けれど、俺は顔を上げられなかった。
リディアの手は、俺の掌の中で静かに震えていた。
その震えが、彼女の最後の痕跡のように思えた。
「……リディア」
名前を呼ぶ。
返事はない。
当然だ。
わかっている。
わかっているはずなのに、胸が理解を拒んでいた。
さっきまで、隣にいた。
笑っていた。
俺の手を引いて、踊っていた。
未来の話をしていた。
そのすべてが、
この温度の中にまだ残っている。
「クラウス、離れろ! ここは危険だ!」
誰かが俺の腕を掴んで引こうとする。
だが、俺は動かなかった。
動けなかった。
手の温度が、ゆっくりと、確実に冷えていく。
その変化が、何よりも恐ろしかった。
何よりも、現実だった。
リディアの笑顔が、光の中で揺れる。
さっきまで確かにそこにあった温度が、指先から逃げていく。
俺は、ただ見つめていた。
この温度が消えてしまう瞬間を。
この手が、ただの“遺されたもの”に変わる瞬間を。
世界が崩れていく音がする。
人々の叫びが響く。
炎が天井を舐める。
それでも、俺の世界は小さな掌の中にあった。
温度が――消えた。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに落ちた。
涙は出なかった。
叫びもしなかった。
ただ、そこにあったはずの未来が、音もなく消えていった。
俺は、冷たくなった手をそっと胸に抱いた。
祝賀会の光はもうない。
音楽もない。
笑顔もない。
残っているのは――
この手だけだった。




