5.301号室の訪問者
年が明けた1月に引っ越しをして、その年の夏。
仕事が忙しくてお盆にも実家に帰る余裕がなく落ち込んでいた私の元に、香澄が遊びにきてくれた。
「元気にしてる?」
「香澄、来てくれてありがとう〜! すごく気分転換になるよ」
「それならよかった!」
香澄の笑顔を見ると元気になるのは間違いない。玄関で出迎えてすぐ、彼女は玄関マットを見やった。
「そういえば、前に誕生日プレゼントに玄関マットあげたことあったよね?」
「あ、ああ……うん。そうだったね」
少し忘れかけていた記憶が蘇ってくる。エントランスではなく突然玄関のチャイムが鳴り、かなり驚いたあの日の出来事を思い出して苦笑した。確か、あの時に香澄はピンク色を基調とした、花と猫の柄がプリントされた可愛らしいマットをプレゼントしてくれたのだ。
実は、あの家で使っていたものは引越しの時にほとんど処分してしまった。何となく使い続けたくないと感じたからだ。だから申し訳ないと思いつつ、香澄からもらった玄関マットもその時に処分した。
今はあの頃とは違う青色の玄関マットを敷いているので、無意識にあの時の恐怖を思い出さないようにしているのだろう。
「そういえば、聞いてよ! 彼氏に浮気されてたんだよ、私!」
「え……?」
「大学時代のサークル友達なんだって! 私らは専門だったからさ、そういう交友関係知らなくて……振ってやったわ!」
「そうなんだ……」
よくある、と言ったら失礼かもしれないが、既視感のある会話にゾワっとした。
香澄の話を聞く限り浮気相手は妊娠などはしていないようだが、最後に前のマンションのオーナーから聞いた話が頭をよぎり、徐々に心拍数が上がってくる。
香澄は「まぁ、まだ若いからさ。他にいい出会いがあると思ってスッキリさっぱり終わらせたよ!」とあっけらかんと言うので、元カレに恨みを抱いたりはしていないらしい。
そんな友人の話にホッとしつつ、心のどこかでこの話が引っ掛かっている自分がいた。
それからしばらくしたある日。
1LDKの部屋をキンキンに冷やすために、玄関とリビングを繋ぐドアは閉めて、リビングと寝室を繋ぐドアは開けたまま昼寝をしていた。前に住んでいた部屋より少しだけ広いが、ドアを開けていれば十分に冷える。
普段は昼寝なんてしないけれど、この日はどうしても眠気が襲ってきて、仕事の疲れを取る意味でも1時間程度眠ろうと思ってアラームをセットした。
「あっつ……」
アラームが鳴る前に、異常な暑さで目が覚めた。
「冷房……全然効いてない……?」
私は暑がりなので、冷房の温度は23度で設定したはず。それなのに異常なほど暑くて薄く目を開けると、開けっぱなしのドアの先に見えるリビングに誰かが座っているように見えた。
「めがね……」
仕事中はコンタクトだが、家ではメガネをしていないとハッキリと見えない。枕元に置いていたはずのメガネが見つからず、ぼやけた視界に映っている“誰か”はゆっくりとこちらを振り向く動作だけが確認できた。
こちらを振り向いたその人は片手をあげて、しきりに動かしている。心なしか口元は笑っているように見えるが、表情までは分からない。ただ何となく分かったのは、長い黒髪の女性、ということだった。
「だれ……?」
友人や家族が家に来る予定はない。合鍵を渡しているのは母だけだが、母はロングヘアではない。
そして気がついたのは、その人が動かしている手が、手招きをしているということ。口元に笑みを浮かべ、私に向かって手招きをしている。
私は感覚的に「あの人だ」と分かった。
あの、前に住んでいたマンションで不可解な出来事を起こしていた原因だと、直感的に思ったのだ。
(なんで⁉︎ あのマンションに憑いてるんじゃないの…… ⁉︎)
どくどくと心臓が早鐘のように脈打ってきて、ぎゅっと目を瞑った。とにかく今はここをやり過ごすしかない。
すると、またあの日のようにキーンっと耳鳴りがして、金縛りが始まった。今回は布団を被る余裕もなく、ただただ目を瞑ることしかできない。それでも、リビングにいた「彼女」がこちらに近づいてきているのは分かった。
「ねえ……あんたも道連れよ」
誰かに凝視される感覚が突き刺さる中、顔の目の前で女性の声がした。
聞こえないふりをしたまま固く目を瞑って耐えていると、いつの間にか気絶していたらしい。けたたましいアラーム音でハッと目が覚めると、部屋の中はキンキンの冷蔵庫のごとく冷えていた。
そして、リビングには誰もいなかった。何だか怖かったので、浴室やトイレ、クローゼットやベッドの下まで見てみたけれど、髪の長い女性はどこにもいないのを確認した。
それからしばらくして、私は前のマンションのオーナーに連絡を取った。
どうしても彼女の言う「道連れ」の意味を知りたかったからだ。実は引越し前に話した時、オーナーの名刺をもらっていた。
オーナーの話では、私以外にあのマンションで何かあったという人はいないらしい。私と同じタイミングで入居し、出て行った人たちは怪奇現象が原因で出て行ったわけではなく、それぞれに仕事などの事情があったのだという。
ただ、私の話を聞いたオーナーが、ある人に確認を取ってくれた。それはアパートで亡くなった女性の友人で、当時の彼氏と浮気相手の女性の写真を送ってくれたのだ。
「……入居時の私と似てる、かも……」
彼氏も浮気相手も、亡くなった女性と同じ大学に通っていて、同じサークル仲間だったようだ。その時の写真が残っており、女性の友人が印をつけてくれた浮気相手の女性は、前髪は真ん中分けのセミロングで、身長も私と同じくらいだった。どことなく顔立ちも似ていることから、ある一つの仮説が立った。
「私を浮気相手の女性だと勘違いして、連れて行こうとしてる……?」
もしかすると、そういうこともあるのではないだろうか。
だから彼女はあの土地を離れ、私に憑いてきたのではないか?
嫌な仮説だが、そうとしか思えない――私は早急にお祓いをしてもらい、それからは「彼女」と会うこともなかった。
成仏したのか、はたまたあの土地に帰ったのか、定かではない。
私は結局地元に帰ることを決め、今は両親が所有している古民家で一人暮らしをしている。
あれで解決したと思いたいが、私はいまだにコツコツと鳴る足音も、チャイムの音も、人感センサーも、オレンジ色の明かりもトラウマだ。極力これらに出会わない生活を選択している。
ただ、今でもふとした時に、誰かの視線を感じることがある。
それが「彼女」なのかどうか、私には知る術はない。
終




