4.奇妙な終幕
あの不可解な出来事以来、踊り場の足音も、玄関のチャイムが鳴ることも、人感センサーが反応することもなくなった。
全ては悪質なイタズラ、もしくは夢だったのだと割り切ることにした。
その異常を除いてはかなりの好物件だったし、一年足らずで引っ越すのは違約金などが発生してお金がかかる。両親に迷惑をかけたくなかったのもあり、私は301号室に住み続けて5年の月日が経った。
「とても綺麗に使ってくれてありがとうねぇ」
「とんでもないです。こちらこそお世話になりました」
専門学校を卒業してからしばらくは仕事をしていたのだけれど、転職して県外に引っ越すことになった私は、引っ越しの前日に偶然オーナーの男性と会う機会があった。
オーナーは清掃業者などを雇わず、定期的に自分で全フロアの掃除をしてくれたりしていたので、入居当初から顔見知りだったのだ。オーナーはとても人当たりのいいおじさんで、私が引っ越すことを知って寂しいと言ってくれた。
「実は、入居当初から5年も住んでくれたのは、君だけなんだよ」
「え?」
「他の人は2年とか、契約更新の時期に出て行った人も多くてね」
確かに、これまでに何度か引越し業者を見かけたことがある。でも、この5年の間にそこまで住人の入れ替わりがあったのは初めて知った。入れ替わりは激しかったが、幸いなことに空室がある期間はなかったという。
「あの、もう最後なのでお聞きしたいことが……」
「なんだい?」
「ここって、前に何か……よくないことがあったりしましたか?」
もう明日には出ていくので、最後にどうしても聞いておきたかったのだ。あの時以来、見るからに変なことは起こらなかったが、いつも何となく誰かに見られているような気がしていた。
その謎を解くには、これが最後のチャンスだと思えた。
するとオーナーの表情が曇って、彼は小さく溜め息をつく。その顔にはすでに「答え」が書いているようなもので、あの出来事は単なるイタズラや人間の仕業でなかったことに妙に納得してしまう自分がいた。
「……実は、前はここに3階建てのアパートがあったんだ。そこに入居していた若い女性が、ねぇ……」
オーナーの話によると、前に建っていたアパートもオーナーが管理していたものだったらしい。ここら辺は立地もよく大学なども多いので、学生の入居者が多かったのだという。
その入居者の一人に、綺麗な黒髪の女性がいた。彼女はオーナーと会えばにこやかに挨拶をしてくれるような、いたって普通の女子大生だった。だが、ある時を境に彼女の表情はだんだん暗くなり、とうとう見かけなくなったらしい。
そしてある夏の日、異臭がするという他の入居者の連絡により発覚したのは、その女性が玄関のドアノブを利用して自殺をしていたのだった。警察によると死後一週間は経過しており、夏だったこともあって腐敗が早く進んでしまったのだろうという見解だったようだ。
オーナーは後に女性の家族から聞いた話だが、どうやら付き合っていた恋人に浮気され、浮気相手の女性は妊娠していたそうだ。彼氏への恨みつらみが込められた手紙が発見され、女性が悩んでいたことは友人が証言してくれたのだという。そういった遺書や証言により、自殺だと判断されたのだとオーナーは話してくれた。
「その後に火事があってアパートは燃えてしまって、新しくマンションを建て直したんだよ。ただ、その件から3年経っていたし、このマンションで起きたことではないから、入居者には告知していなかったんだ」
申し訳なかったと頭を下げてくれたオーナーから最後に聞いたのは、女性が亡くなった部屋は「301号室」だったそうだ。
このマンションで起こった出来事ではなかったものの、この土地で誰かが亡くなっていた――きっと誰も亡くなっていない土地などないとは思うけれど、10年も経っていないうちの、比較的新しい出来事。しかも私が住んでいた「301号室」という偶然とあの不可解な出来事は、偶然という言葉では済まされない気がした。
(ただ、家に帰りたかったのか……それとも、自分を苦しめた彼と浮気相手を探していたのかな……)
何にしても、私はもうこのマンションから出ていく。新しい地の新しい家で、これからは生きていくのだ。
(成仏してくださいね)
出ていく前、すっかり何もなくなった玄関で手を合わせた。
これからは二度とあんな経験はしないだろう。むしろ、二度とないからこそ貴重な経験だったのかもしれないと、今なら思える。
「あら、そういえば次の家も301号室じゃない。覚えやすくてよかったわね、春香」
母から指摘されて、ハッとした。
実は内見の時、新築のマンションを紹介され、一目見て気に入ったので契約したのだ。人気の物件だったようで、運良く一室だけ空きがあると言われ、そこに決めた。それが奇しくも「301号室」で、最初に住んだマンションと全く同じ流れで契約したことを思い出す。
(いやいや、単なる偶然だから……それに事故物件じゃないって言ってたし……)
新築マンションを紹介される前、川沿いにある比較的綺麗なマンションを不動産屋から紹介された。モデルルームを内見していた時、担当の女性が言いづらそうに「実はご案内できるお部屋の隣がしん心理的瑕疵物件でして……」と教えてくれた。
簡単に言うと、前住人が自ら命を絶った物件ということだった。実際に事件が起きた部屋は新しい人が住んでいるが、その部屋の上下左右の部屋は安く提供しているのだと説明を受けた。ただ、あの不可解な出来事を思い出した私は、さすがにここには住めないと拒否したのだった。
そして次に紹介してくれたのが、新築のマンション。エリア的には事故物件のマンションと同じだが、かなり近いわけでもないので、ここに決めたのである。
近くに事故物件があるからと言って、このマンションに影響があるとは限らない。
そう思っていた私の考えが甘かったのだろうか。




