3.人感センサー
玄関の外に誰のものかも分からない髪の毛が落ちていた日から、数ヶ月。
季節はすっかり春から夏、そしてもう冬になりそうな冷たい気配を感じている。
あれ以来、私の部屋の前に髪の毛が落ちていることはなかった。ただ、厄介なことがあって――
(……“来そう”)
マンションに帰ってきて、エレベーターを待っている時にそう感じることがある。その勘は驚くほどよく当たり、何かが来ると感じた時は背後の踊り場で足音が聞こえるようになった。
最近分かったことだけれど、この足音は3階から降りてきているようだった。
3階から降りてきて、2階の踊り場で止まる。1階には降りず、エレベーターを待っている私の背中を見つめているように感じる。それがなぜなのかは分からない。足音が止まって振り向いたこともないので、本当に誰かいるのかすら分からない。
コツ、コツ
5階に止まっていたエレベーターを待っている時、私いの予感は当たった。2階の踊り場で足音が止み、背中を凝視されている気配に身を強張らせた。
(エレベーター、早く来て……!)
普段は感じないのに、足音が聞こえた日はやたらとエレベーターが来るのが遅く感じる。 早く来いと念じてもエレベーターの速度は変わらず、ただ私は後ろを振り向かずに待つことしかできない。
コツ
(え⁉︎)
エレベーターが2階を通り過ぎたのと同時に、一歩階段を降りてくる音がした。その瞬間、背中にドッと冷や汗が噴き出る。キーンっと耳鳴りがして、金縛りにあっているかのように足が動かない。もう一段、降りてくる足音が聞こえて、エレベーターの扉が開いた。
「……っ」
無我夢中でエレベーターに飛び乗る。周りのことなんて何も見えず「3」と「閉」のボタンを連打した。
エレベーターの扉が閉まるまで自分の足元をじっと見つめて、足音の主を見ないように努めた。足音が近づいてきたのは初めてで、どうしたらいいのか分からなかった。
エレベーターに乗ったとしても、普通の人なら階段を駆け上ってきたらすぐに追いついてしまうほどの段数しかない。部屋に入るまでに、もしも足音の主と出会ってしまったら――
コツコツコツコツ
エレベーターの扉が開くと、下の階から急ぎ足で上ってくる音が聞こえてきた。私の部屋は301号室で、階段のすぐ隣にある。一歩でも遅ければ、私は足音の主に捕まってしまうだろう。
そんな焦りが出たのか、うまく鍵をさせなくて落としてしまった。
「やめてやめてやめてっ」
震える手で鍵を拾ったところで、間近に足音が迫ってきた。その音は性急ではなく、いつものようにゆっくりとした足取り。だが確実に、このままでは鉢合わせてしまう。
「開いて、開いてっ!」
必死に鍵穴に鍵を差し込んで回す。カチャリと音がして、ドアを開けて中に飛び込んだ。すぐに鍵をかけ、ドアチェーンもかけたあと、息が漏れないように口を手で塞いでドアに背中を預けた。足の力が抜けてずるずると座り込むと、ドアの向こうから足音が聞こえてきた。
コツ、コツ……
階段の上り下りの音ではなく、ドアの向こうで足音が止まる。
息ひとつも漏れないように呼吸を止めているが、ドアの向こうにいる“何か”は立ち去る気配はない。ドアスコープを覗けば、きっと誰かが立っているのだろう。でも、見たくない。見てはいけない気がした。
息を殺し、ドアの向こうの気配に耳を澄ませた。すると、少しの時間動かないでいたからか、玄関のオレンジ色の照明が自動でオフになる。薄暗い室内が今日はどことなく恐ろしく見えて、ぶるりと体が震えた。
ピロリン ピロリン
暗い室内にインターホンのモニターの光がついて、空間をパッと照らした。ひどく大きなチャイム音に驚いて、思わず飛び上がった拍子に腕が当たって傘立てが倒れる。ガシャンっと傘が倒れる派手な音がして、ごくりと唾を飲み込んだ。
ピロリン ピロリン
チャイム音をよく聞くと、これはエントランスからの呼び出し音だった。極力音を立てないように部屋の中に入り、モニターを覗くと、この辺りを担当している宅配ドライバーの顔が映っていた。
「は、はい」
「こんにちは! 宅配です〜」
「い、今開けます……!」
ドライバーを招き入れると、いつの間にかドアの前から気配が消えていた。ドアスコープを覗いてみても部屋の前には誰にもいなくて、その代わりに荷物を持ったドライバーの男性がスコープの端から現れた。
一度ドアチェーンをしたままドアを開けて外を確認すると、ドライバーの男性一人だったのでホッと胸を撫で下ろした。
「あの、ちょっと聞いてもいいでしょうか……?」
「はい?」
「エントランスからここに来るまでに、誰かとすれ違ったりとかしませんでした……?」
男性は顎に手を当て、宙を見つめる。しばらく考えた後に「いえ、誰とも会いませんでした」という返答をされた。
「エレベーターは何階で止まっていましたか?」
「3階ですね。待っている間も、誰も出ていかなかったし、入ってきませんでしたよ」
「そう、ですか……」
彼の返事は私にとってあまり喜ばしいものではなかった。
こんな悪質なイタズラをしている人が人間だとしたら、上の階に逃げて潜伏しているか、そもそもこのマンションの住人か、どちらかの可能性が高い。
ただ、これは本当に「人間」のイタズラなのだろうか――?
「お母さん……」
受け取った荷物は実家からの贈り物だった。料理上手の母から冷凍で数品のおかずが届いて、中には小さなメモ帳に「頑張って!」と書かれていて、何だか涙が溢れそうになる。
荷物の中に入っていたおかずをレンジで解凍して、久しぶりに食べる母の味にホッとした。
(家の中なら安全……きっと大丈夫。気を強く持たなくちゃ)
その日は荷物が届いたことを報告するために両親とビデオ通話をして、長時間話していた。23時を回った頃にやっと電話を切り、入浴をしてからベッドに入ったのは結局、24時を過ぎていた。
神経がすり減るような出来事があったので、布団を被るとすぐに眠ってしまったのだ。次に目が覚めたのは「カチ」という小さな音が気になり、ふと目が覚めてしまった。
(まだ3時過ぎ……)
枕元に置いてあるスマホを見ると、時刻は午前3時。
まだまだ眠る時間はあるからと目を閉じようとした時、真っ暗なリビングがぼんやりとオレンジ色に染まっていることに気がついた。
閉めたと思ったはずの寝室のドアも開いていて、そっと顔を覗かせる。リビングから玄関に続くドアは閉まっていたが、ドアの真ん中に細長く嵌め込まれている磨りガラスの向こうが煌々と光っていたのだ。
(え……?)
玄関の照明は、人感センサーだ。
動いているものを確認したら、オレンジ色の明かりがつく。
どくどくと心臓が早鐘のように脈打つ音が耳の奥に響いて、ベッドの上で身動きが取れなかった。
玄関の照明はしばらくすると消えて、また「カチ」と音がして明るくなる。それを何度も繰り返していて、ゾッとした。
まさか、“何か”が入ってきたのではないか、と――
「……ッ!」
あまりの恐怖に、私は布団を頭から被ってぎゅっと目を瞑る。するとキーンっと耳鳴りがして、金縛りが始まった。
リビングに続くドアがキィっという小さな音を立てて開くのが分かり、ヒタヒタと床を歩く裸足の足音がする。しばらくすると、その足音は開けっぱなしの寝室の前で止まった。
必死に息を押し殺していると、突然ふっと気配がなくなった。そして、私の意識もそこで途絶えた。




