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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編童話シリーズ

禁断の果実

作者: 八代 秀一

「駄目だよ。ここに入っちゃいけないって、親方様が言ってたじゃないか」


 鼻水でカペカペになった兄の袖を強く引いて、弟は言った。

が、兄は一瞥もくれずに、その手を素気無く振り払い、


「馬鹿だな。バレなきゃ罪は罪じゃない。要は見つからなければいいのさ。それにおまえは、柵のあっちに何があるか知りたくないのか?」


 鉄条網の隙間をすり抜け、エデンの園へと忍び込む兄の後ろ姿を見送りながら、弟は幼いながらに眉を顰めずにはいられなかった。


 バレなきゃ罪は罪じゃない?

本当にそうなのだろうか。

例え誰も見ていなかったとしても、約束を破ったことには変わりないではないか。


 案の定、数日もせずにエデンの園に忍び込んだことがバレて、兄は親方様にこっぴどく叱られた。

そしてこの世界に新たにルールがひとつ追加されたのである。


 エデンの園に無断で侵入した者には、生涯働き続けなければならない労働の罰を与える。


 弟には、「労働」が何なのかはわからなかったが、新たなルールによって自分たちの自由が制限されたということだけは漠然と理解できた。


「兄ちゃん、もうやめようよ」


 性懲りもなく悪事を働く兄の裾を引いて、弟は懇願した。

エデンの園には知恵の実と呼ばれる果実が実っていたらしく、今度は小鳥たちを唆してその果実を盗もうというのだ。


「馬鹿だな。親方様はエデンの園に入るなとは言ったが、知恵の実を盗むなとは言っていない。そもそもルールで決められていないのだから、破ったことにならないだろう」


 鼻を膨らませて得意げに言う兄を見上げ、弟はまたぞろ眉を顰めずにはいられなかった。


 ルールで決められていなければ、破ったことにはならない?

本当にそうなのだろうか。

ルールで決まっていなくても、駄目なことは駄目に決まっているではないか。


 案の定、数日もせずに知恵の実を盗んだことがバレて、兄は親方様にこっぴどく叱られた。

そしてこの世界にまたひとつ新たなルールが追加される。


 知恵の果実を盗んだ者には、生涯他人を信用することができない不信の罰を与える。


 弟には、「不信」が何なのかはわからなかったが、新たなルールによって自分たちに自由が制限されたということだけは漠然と理解できた。


「兄ちゃん、もうやめようよ」


 性懲りもなく悪事を働く兄の腕を掴んで、弟は諫言した。

今度は、先日盗んだ知恵の実を栽培して売ろうというのだ。


「馬鹿だな。親方様は知恵の実を盗むことは禁じたが、売ることは禁じていない。こいつは法の抜け穴ってやつさ。例外や抜け道ばかりのザルみたいなルールなんて、俺にはあってないようなもの。知恵の実なんて食べなくても、あいにく俺は賢いんだよ」


 例外や抜け道ばかりのザルみたいなルール?

本当にそうなのだろうか。

法の抜け穴をついて悪事を働くことは、本当に賢い生き方なのだろうか?


 案の定、数日もせずに知恵の実を盗んだことがバレて、兄は親方様にこっぴどく叱られた。

そしてこの世界にまたひとつ新たにルールが追加される。


 知恵の果実を栽培、販売、食した者には、生涯食事を摂らなければ生きることができない空腹の罰を与える。


弟には、「空腹」が何なのかはわからなかったが、その罰の重さだけは漠然と理解できた。

なぜなら兄が初めて親方様に口答えをしたからだ。


「事ある毎に、あれは駄目、これは駄目。こうも、ルール、ルールで縛られたのでは息苦しくて仕方がない。大体、こんな穴だらけのルールを作る、親方様が間抜けなんじゃないか」


 すると、親方様は寂しそうに笑い、諭すようにこう言ったのである。


「ルールや法律は、正義の基準ではない。誰かが決めてやらなければ、何がやって良いことで、何がやって悪いことなのかを自分自身で判断できない愚かな者たちへの配慮だ。そしておまえが言う法の抜け穴は、このぐらいは他人に決められなくても自分自身で善悪の区別ぐらいつくだろうという、私からの期待と信頼の表れなのだよ」


 言下、親方様は判決を下すように右手のガベルを振り下ろした。

白樺の木槌がサウンドブロックを叩き、カン、カンと甲高い音を辺りに響き渡る。

と、それを合図に、大きな鎌を携え、黒い襤褸を纏った農夫の集団がどこからともなく現れ、一陣の風のごとく一瞬のうちに兄を連れ去っていったのである。


「親方様、兄はどうなるのですか?」


 恐る恐る弟は尋ねた。

すると親方様が天を仰ぎ、おぼろげな記憶を探るように遠い目をして、


「さぁな、私にもわからぬよ。私はルールを決めるだけ、裁くのはこの世界をお創りになった神様だからね。ただ、古い言い伝えでは、神様の裁きを受けた罪人は記憶を消され、肉の檻に閉じ込められて、自らが生きる為に他者の命を喰らいながら、寿命と呼ばれる刑期のあいだ、ずっと死の恐怖に怯えて暮らすらしい。そして私の下した罰は、そこで執行されるという話だよ」


 弟には、親方様の言葉の意味はまるでわからなかった。

ただひとつ理解できたのは、自分は無知であり、兎角この世は謎ばかりということだけ。

だからだろう。

弟の胸にその欲求が芽生え、禁断の果実が実をつけたのは――。


 ――知りたい。

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