縮まる極限の距離
追いつかないはずが、
前回の立方根を解いたあと、僕は自信を失った。そりゃ、解答にはたどり着いた。でも、あっけにとられたあの娘の顔が頭から離れない。解答の順番はあれでよかったはずだ。そもそも担任に相談にきたってことは、あの問題が分からなかった訳で。二つめの別解はあの娘が解いたんだ。そこまでは楽しそうだったんだけどな。複素平面がまずかったな。何が不味かったって、複素解析は、僕を惹きつけてやまない。だから、複素平面に熱中するあまりあの娘を忘れてしまったんだ。
数学の問題でこんなにモヤモヤすることはなかった。難しさのあまり頭を掻きむしりそうなことはあっても。しかし、あの娘はやってきた。少し、深刻な顔をしてる。一緒に図書室に移動した。黒板のあるスペースに。
「これって、どういうこと?」
あ、可愛い声だな。おとなしいと思っていた彼女が、微笑みながら、問題を差し出した。あれ、模擬テストとか、そういう感じではない。問題というか、話はこうだ。
「逃げる亀が遅くて、追うアキレスが速くても、アキレスは亀に追い着けない。なぜなら、アキレスは追い着く以前に、亀が走りはじめた点に着かなければならず、したがって、亀は常にいくらかずつ先にいるからである」
ゼノンのパラドックス、アキレスと亀である。僕も小学生のころみたことがある。でも、そのときはこのパラドックスの破り方が分からず、モヤモヤしたまま、パラドックスそのものを忘れていた。この娘が思い出させてくれたわけだ。
いまなら、小学生のときには知らなかった武器がある。極限だ!高校生になると、無限個の和が有限値になることがあることは知っていた。
「ゼノンのパラドックスだね!」
「やっぱり、知ってた?なんだか、主張は正しそうなんだけど、ありえない結果になって。どうして、こんなことになっちゃうのか、気持ち悪くて、、」
「分かる!僕も昔、このパラドックスをみて気持ち悪いと思いながら、そのままにした。思い出させてくれてありがとう」
「太郎君も、同じ感覚だったの?解ける?」
あ、僕の名前は、岡太郎。この娘の名前を調べなかった僕はきっとイカれてるんだな。
「解いたことないけど、いまアイデアが」
「ほんと?」
いや、解けるはず、解けるんじゃないかな、、。僕は黒板に数式を書き出した。ドラマのようにカッコよくはかけない。一行書いては、うーむ、と式を見つめる。黒板消しは使わない。
「まずは、亀とアキレスの速度をVt、Vaとしよう。そして、亀の最初の位置をD0、アキレスの最初の位置を原点0にしよう」
アキレスが亀の初期位置までたどり着く時間t1とすると、アキレスはt1の時間をかけてD0進んだことになる。
Va・t1=D0 (1)
となる。その間、つまり、t1の時間に、亀が進む距離D1は、
D1=Vt・t1 (2)
になる。
「よし、いい感じ。0とか1は、亀のいる位置と時間につける添字であり、アキレスが到着する位置と時間でもある。これをnステップ後の式に発展させて、nを無限大にしたらどうなるか、って考えてるんだ。うまくいくかはわからないけどね」
僕は、弁解半分、自分のやってることを知って欲しい、興味を持って欲しい気持ち半分だ。
「なるほど、数列と極限ね。なんかゼノンのパラドックスって、わけのわからないことだったけど、数学になりそうな感じ!」
さて、(1)と(2)を眺めてみる。(1)で与えられた変数は、D0で、得られた変数はt1だ。(2)では、t1が与えられて、D1が得られる。ゼノンの主張はこの繰り返しだ。あれ?意外と簡単?
いま、アキレスが第nステップでさっきまで亀がいた場所までの距離Dn-1だけ移動する。
Dn-1=Va・tn (3)
その間、亀が進む距離は、
Dn=Vt・tn (4)
tnを消去すると、
Dn=Vt/Va・Dn-1 (5)
だ。亀よりアキレスが速いからVt<Va、Vt/Va<1になる。おー、なんの工夫もなしに、そのまんま等比級数じゅないか。
Dn=(Vt/Va)^n・D0 (6)
「あとの計算お願いしてもいい?」
「え、あ、、!そうか。級数の和が亀の進んだ通算の距離だ。つまり、これを計算するんだよね。亀の進んだ距離Lnは各ステップDiの和だから、こうだよね?」
Ln=Σi=1,n Di (7)
書くの面倒だから、a=Vt/Vaとして、
Ln=D0(1+a+a^2+a^3....+a^n) (8a)
aLn=D0(a+a^2+a^3....+a^n+a^(n+1)) (8b)
式(8a)から(8b)を引いて、
(1-a)Ln=D0(1-a^(n+1)) (9)
Ln=D0(1-a^(n+1)) /(1-a) (10)
「ほんとだ!数列の和で最初に習う等比級数の和だ。a=Vt/Va<1だから、無限級数の和は収束するよ!」
L∞=D0/(1-Vt/Va)
=D0・Va/(Va-Vt) (11)
彼女は言った。
「普通に計算したらどうなる?」
亀の時刻tの座標は、
Lt(t)=D0+Vt・t (12)
アキレスの時刻tの座標は、
La(t)=Va・t (13)
アキレスが亀に追いつく時間は、Lt(t)=La(t)より、
t=D0/(Va-Vt) (14)
よって、追いつく位置は、
Lt(t)=La(t)=D0・Va/(Va-Vt) (15)
「これって、ゼノンさんの進み方で亀が移動する距離って、亀さんがアキレスさんに追い抜かれるまでの距離ってこと?」
「そういうことになるね。つまり、、、」
「ってことは」
僕を遮って彼女が言う。
「ゼノンさんは、追い抜くまでの時間を無限に区切って、あたかも永遠に続くと思い込んでたってこと?」
「そういうことになるね。きっとゼノンだって迷ったんだ。でも、こうして、パラドックスはあっさり破られた」
「やったね!パラドックスを破ったんだね。嬉しい!」
やった。嬉しそう。やっぱり、気になるから聞いてしまおう。
「あの、、大変申し訳ないのですが、お名前を聞いてもいいですか?」
なんで、ドキドキするんだ、、。
「え、最初に言わなかった?」
??いつ?最初に図書室にいくとき呼吸ができなかったときかも。
「山口理香子、ヨロシク、岡太郎君。」
「や、山口さん、ヨロシク。数学が好きなの!」
「うん、数学が好き。また質問してもいい?」
「よろこんで。あ、でも、あまり人に教えたことなくて。あと、数学に熱中するとみさかいが、、」
「大丈夫。知ってる。次はもっと難しい問題を用意しておくね」
と彼女は言った。
大丈夫。知ってる。って、どういう意味か気になる。わかってる。彼女は、「数学」が好きだと言ったんだ。でも、嬉しい。