第3話
「セイレーン?」
感じた愛おしい気配に、ネレデイアは覚醒する。彼女に呼ばれた気がしたのだ。
アーデルリィヤと伴にこの界に戻り、存在が再構築され、馴染んできた頃だった。
ここには他に6名の創造主と呼ばれる者がいるが、アーデルリィヤはネレデイアを助け、彼の大陸にも気を配っていた。
「ああ、君の愛し子だね」
アーデルリィヤがそう言って、ネレデイアと共に様子を覗う。
セイレーンは子を産んでいた。そして、今、彼女のその命が尽きようとしていたのだ。
ネレデイアはそのことに激しく動揺する。
愛し慈しんだセイレーンが、死を迎えることに恐怖したのだ。
アーデルリィヤは、そんな彼を不思議そうに眺めて言った。
「一体君はどうしてしまったんだい? あの娘の力が混じったせいで、下界の愛し子に感情を揺らされている? おかしいね。もともと我らにそんなモノはなかった筈だけど」
「アーデルリィヤ、我はセイレーンが愛おしい。下界に渡るまで、確かに知らなかった感情だ。だが、一度知ってしまえば、それを捨て去ることが出来ない」
「ネレデイア。我々が創造した人間の魂は、肉体が死ねばやがて魔力と共に浄化され、時間をかけてまっさらな状態となった後に、再び新しい身体に宿りなおす。我らと違い、短い生を生きる者たちは、その生の記憶を持ったまま生まれ直すことはないよ。
君の愛し子の魂も、次に生まれてくるときには、君の力と共に浄化され、彼女の中から君の記憶と力は消えて、君を覚えてはいない。
ただ、彼女の中に混じりこんだ君の力が浄化されるのには、しばらく時間がかかりそうだ」
「嫌だ!」
ネレデイアは、想像しただけで、絶望する思いだった。
セイレーンの魂から、自分の存在が消えてしまう。人間は死と同時にその記憶が失われ、彼女の魂は新しく生まれ変わる。
そして、自分だけがあの愛おしい存在を忘れること無く、苦しいまでの彼女への愛情を抱えて永遠を生きて行く。
ほんの一瞬の彼女との逢瀬。もう二度とこの手に抱き締め、口吻けることも出来ない存在。だが、その記憶と存在は、ネレデイアの在り方を変えてしまう程で。
アーデルリィヤや他の創造主達には、それがわからない。
ネレデイアを理解することが出来ないのだ。
だから、誰もネレデイアを止めることはしなかった。
「セイレーンが、我を忘れてしまうことは、許さない」
「ネレデイア、一体何をするつもりなんだ?」
「セイレーンは、我の愛し子だ。我の力を分け愛した、我だけの愛し子。彼女の中から、我の力が消え、その想いや記憶が無くなるのは許せない」
だが、アーデルリィヤも理を説くことは出来る。創造主に定められた理。
「ネレデイア、創り出した下界の魂には、我らは干渉出来ないだろう? 諦めるんだ」
「セイレーンとその子には、我の力が混じっている。だから、その力に干渉する」
自分の力になら、ネレデイアも干渉出来る。自身の力を分けたのだ。自分の中に混ぜられたセイレーンの力が彼に影響を与えたように、二人は全く別の存在というわけではない。
「セイレーンに混じりこんだ我の力に祝福を。我を忘れること無く、かの魂に結び付き、力を持ち続けたままに我と同じ色を持って魂を巡らせよ。我の創造するモノがお前を迎えに行き、次の生へと繋げることをおよそ100年をもって繰り返す。
そして、セイレーンと我の子に宿りし我の力よ。その力は王となる男児の生きる間、その魂に寄り添わせて継承する。セイレーンの愛した国を守り、セイレーンの魂を守護するのだ」
ネレデイアは、祝福をもってセイレーンを縛り付けた。
アーデルリィヤは、ネレデイアを興味深げに見た。
「君は再構築されたばかりで、無茶をする。まあ、君が決めた運命だ。執着という感情を持った創造主の大陸がどうなるか? 君の愛し子達がどう生きるか? それを眺めるのも一興だな」
かの愛し子はどうなっていくのか? 変質したネレデイアと彼の大陸は他の大陸とは何が違っていくのか? アーデルリィヤは興味深い観察対象が出来た事に、笑みを浮かべたのだった。
漂う意識が、急速に引き上げられていく。
今自分が、いつ、どこにいるのか? 不安定さに、目覚めたくないと脳が拒否をする。
だが、優しく頭を撫でる手が、耳元で愛しげに囁く低い声が、そっと彼女の目覚めを促す。
この手が守ってくれると、大丈夫だと……彼女は知っている。
「シャルロット」
そう、彼がその名を呼ぶ声は、シャルロットだけの特別。
「……ヴィクトール」
ゆっくりと瞼を上げると、見慣れた碧色が、優しげな色を湛えてシャルロットを覗き込んでいた。
「おはよう」
そう言って、ヴィクトールはシャルロットの唇を軽く啄む。
「昨日、私……」
「神国で寝落ちしただろ?シャウエンから聞いて迎えに行った」
「ごめんなさい。あ、でも、ありがとう」
ヴィクトールはその言葉に笑って頷くと、彼女の髪をくしゃりとかき混ぜて、起き上がる。
シャルロットがこの王太子妃の間に住むようになってから、ヴィクトールとはほぼ毎晩共寝をすることになった。ヴィクトールの部屋かシャルロットの部屋の寝台かは、休む時間によって変わるが、朝をこうして共に迎えることは、今となっては日常である。
ヴィクトールと出会って、もう2年が過ぎていた。
最近シャルロットは、どうも夢見が悪い。
しばらく思い出すことがなかった過去の夢を、頻繁に見るようになった。ネレデイアの干渉を受けているのかもしれない……
だが、やはりヴィクトールの影響も大きいと思う。
こうやって彼と過ごす時間が、嬉しくて幸せで……つい、望んでしまう。
いつまでもこうやって共に過ごしていくことが出来たら、どんなに幸せだろう?
彼と家族になって、子供を産んで、一緒に歳を重ねて生きていく。
そんな人生を望んでみたくなる。
でも、それでいいのかと、心のどこかで警鐘がなる。期待と不安とが入り混ざり、不安な気持ちがネレデイアの夢となって顕れているのか?
繰り返しの運命は、ネレデイアが与えた祝福だが、この大陸の創造主である彼は、今も尚セイレーンを愛し続けているのだろうか?
もう、二度と相見えることのない人間を、未だ想い続けているのだろうか?
何故……
何故セイレーンとしての生を終えたあのとき、そのまま逝かせてくれなかったのか?
ネレデイアは人間とは感覚が違うところで存在している。
1,000年以上の時が過ぎたのに、同じ想いを抱き続けていられるものなのか?
わからない。だから、怖い。
ヴィクトールやこのザイディーン王国に災いとなることはないのか?
ネレデイアと言葉を交わしたい。
かつてのように、話をしたい。
過去の記憶の中ではなく、今の彼と話をしたい。
今の彼は何を思って、セイレーンを繰り返しの運命から解放しないのか?
アーデルリィヤ……
シャルロットは、突然心に浮かんだその名に、ハッとする。
かつてネレデイアを助けた異界の創造主の一柱。
かの神ならば、ネレデイアのことを教えてくれるだろうか?
かつて、ネレデイアの祭壇で、セイレーンはアーデルリィヤの声を聞いた。もう一度、アーデルリィヤは、今のシャルロットの声に応えてくれるだろうか?
「シャルロット?どうした?」
ヴィクトールの声に、シャルロットは顔を上げる。
すっかり身支度を整えたヴィクトールが、心配そうに彼女を窺っていた。
「ごめんなさい。もう起きるわ」
そう言って寝台から体を起こしたシャルロットの脇の下に手を入れて、ヴィクトールは彼女をヒョイと抱き上げた。シャルロットの驚いた顔を見上げて、ニヤリと笑う。
「また独りでいろいろ考えてるんだろうが……突っ走るなよ?」
「……うん。ありがとう」
そんなヴィクトールに今日もまた愛しさが募って、シャルロットは苦しいくらいに胸がいっぱいになった。
アーデルリィヤが管理する大陸は、おそらくテンザント公国と交易のあるアーリヤ大陸。
神国の祭壇での邂逅が無理なら、或いは、大陸を越えることも考えた方がいいかもしれない。
シャルロットは、後でシャウエンとヴィクトールに相談してみようと、自らも朝の支度を始めたのだった。




