マリアンヌ
1章終了後、間もなくのお話。
ザイディーン王国第1王女マリアンヌ姫と近衛騎士団長ランドルフのこと。
ルーファスとフェリアスのエピソードの時間より、1年ほど遡ります。
もうずっと大好きな方がいる。
子供の頃からその方に憧れていたけれど、ザイディーン王国で唯一の王女である私の結婚は、他国へ嫁ぐことや国内でも貴族間のバランスも考えて、自由に決められることではなくて。
いつか、国のために最善の婚姻を結ぶことになるのだと、覚悟はしていた。
だけど、お兄様がダイアンサス皇国と友好的な関係を結び、他の大国との外交も順調なお陰で、私が他国へ嫁ぐ必要がなくなった。そして、国内の貴族間のバランスも、お兄様の婚約に伴うあれこれで整理されて、私は派閥や政略をさほど気にせず、嫁ぐことも可能になった。
そして、シャロンお義姉様が王太子妃の部屋に入ったことで、私の婚約者の選定がいよいよ始まることに。
「お父様、お兄様。私、ラルフ様に嫁ぎたいと思いますの。お許しいただけますか?」
婚約者の選定の知らせを聞いて、私はすぐに、お父様とお兄様に願い出た。
お父様はしばらく私を見て、口を開く。
「君は昔から彼が大好きだったね。王家としては、問題ないよ。彼は侯爵家の生まれだし、近衛騎士団長としても充分に実績がある。君が降嫁するのも問題ないんじゃないかな?彼が良いと言うなら許すが、ヴィクトールはどう思う?」
「ラルフが良いと言うなら、俺にも反対する理由は無いが、あいつは一人の女性と深い付き合いをしないタイプだからなあ。お前の夫となるとお勧めはしないぞ?」
側近というだけあって、ラルフ様の女性関係のことはよくご存知なお兄様だけど。
ラルフ様には、婚約者も特定の恋人がいらっしゃったこともありません。
「そんなこと良く存じております! でも、これからですわ。私、ラルフ様に求婚してもらえるように頑張ります! あ、お二人共余計なお節介は不要ですから!」
だから、私にもまだ望みはあるはず。ただ、王家からの婚約申し入れだと、ラルフ様は断れないから。
私はラルフ様が欲しいんじゃなくて、ラルフ様から望んでいただきたいの。
「そうか?だがまあ、可愛い妹を泣かすようなら、俺はあいつを絶対に許さないからな?」
お兄様が、いい笑顔でおっしゃっていた事は、聞かなかったことにした。くれぐれも余計なことはしないで下さいね。
「……というわけで、シャロンお義姉様?」
シャロンお義姉様と二人きりの茶会は、今日で2回目。ずっとお兄様に邪魔されて、なかなかお近づきになれなかったけれど、最近ようやくご一緒できるようになってきた。
「はい? あの、まだ義姉ではなくて……」
「ふふっ。嫌ですわ。お兄様はすっかり夫気取りではありませんか!それにもうあのお部屋をお使いになっておられるのですし、お義姉様とお呼びするのに、何も問題はありません」
シャロンお義姉様は、正確には、まだお兄様の婚約者なのですが、先日王太子妃の間に入られた。つまり、お二人が実質的に婚姻関係になったということ。
彼女は、私よりも2歳下のとても美しい方。艶のあるサラサラと流れるような黒髪。真っ白の陶器のような肌。小さなお顔に絶妙なバランスで完璧に配置された大きな紫の瞳に、とおった鼻筋、ピンク色に潤んだ唇と、その造形は素晴らしい芸術作品のよう。
最近は、その仕草に、なんていうか艶やかさも加わって。お兄様は、多分ご心配で、さっさと王太子妃の間に囲い込んだのだと思う。
私もお父様とお母様の娘だけあって、美人とは評されてはいるけれど、なんていうか次元が違うというか。少なくとも、こうやって向かい合っていると、歳下には、とても思えない。
だから、お義姉様と呼んでしまう。
そんな私に、諦めたように微笑んだお義姉様は、逸れた話を戻してくれた。
「そうですか。マリアンヌ様、私がラルフ様のことでお役に立てることはないと思うのですけど」
「そんなことはございません!だって、シャロンお義姉様は、あのヴィクトールお兄様をあんなに夢中にさせて、すっかり恋に落としてしまいましたわ。私、お兄様があんなデレデレとお義姉様を離そうとしなくなるなんて、もう本当に信じられなくて!」
そう、あの、国と民のことだけを考えて、ひたすら政務に取り組み、どんなに綺麗なご令嬢からのアプローチにも目もくれず、結婚なんて義務だと割り切って、もっとも国のためになる婚約を、と言っていたお兄様が。
成人したてのデビュタントだったお義姉様に、その場で求婚して、結婚式も待たずに関係を持ってしまい、しかもとても大事に隣に置いている。
確かにシャロンお義姉様は、とても素敵な方だけど、私にもラルフ様に振り向いていただけるような何かを、ぜひ教えていただきたい。
でもお義姉様は、真面目な表情で首を降る。
「それはマリアンヌ様の勘違いだと思います。ヴィクトールの仕事を私がお手伝いさせてもらってるからですよ?」
「それでも!……まあ、いいですわ。とにかく私、なんとしてもラルフ様に私を好きになっていただいて、求婚して欲しいんですの」
きっと、お義姉様は無自覚なんだわ。ご自身への好意には、割りと無頓着なところがあるとは思っていましたけど。
「マリアンヌ様に請われたら、どんな殿方も喜んでお受けすると思いますけど」
シャロンお義姉様は、私をじっと見て、そう言った。
「シャロンお義姉様。私、ラルフ様から求婚していただきたいのです!お願いです!どうか協力していただけませんか?」
私は真摯にお願いしてみる。
日頃、お兄様と一緒にラルフ様と接する機会があるお義姉様なら、何かご存知かもしれないし。
「かしこまりました。私ではあまりお役に立てることはないかもしれませんけど。どうしたらいいのかしら?」
「ラルフ様とのこと、お話ししますので、どうしたらいいのかアドバイスして下さい!」
そうして、私はラルフ様とのことをお義姉様に語って、聞いてもらうことにした。
「私と、ラルフ様ことランドルフ・ルカ・タウンゼント侯爵令息がお会いしたのは、もう10年前の私が8歳のときでした。
ラルフ様は、お兄様がまだ5歳位のときから、将来の側近候補としてお側で共に過ごしていらしたけれど、彼が18歳になって近衛騎士としてお勤めを始めた時に、私初めて彼にお会いしましたの。
ラルフ様はまだほんの子供の私に、「お美しく可愛らしいマリアンヌ王女殿下を大切にお護りしますね」っておっしゃって、いつもスマートにお気遣いいただいて、優しくて。
時々私の警護に着いて下さるラルフ様に、ずっと憧れておりました。
私が16のとき、初めて公務で西の国境付近の慰問に訪れる機会がありました。その時、ダイアンサス皇国の政変の影響で、逃亡してきた軍人達に襲撃を受けましたの。
私とても不安で怖ろしくて、魔法も使えず、皆も守れず、ただ泣いて震えていることしか出来なくて。
王女として本当に情けなくて。
でもラルフ様は、敵をあっという間に制圧して、「よく我慢したな。もう、大丈夫だ。俺が貴女を護ると誓っているだろう?」って、私の涙を拭いて、笑って下さいましたの。
それからずっと、ラルフ様が大好きで。
ただ、私は王女だから、いずれ国のためにお父様が命じる相手と結婚するのだと思っておりました。だから、諦めていたんです。
ところが先日、父にラルフ様との婚姻は可能だと伺いました。
ただ、彼は無理に私から婚姻を強請れば、きっと断れないから、
それは嫌なんです。いつも大人っぽい綺麗な女性方との噂が絶えない方ですけど、私ちゃんと私自身を好きになってもらいたいんです。
ですから、どうやってラルフ様を落とすか? シャロンお義姉様、どうか力を貸して下さいませ」
私の話をじっと聞いていたお義姉様は、冷めてしまった紅茶を飲むと、優しく微笑んで私を覗き込むように見つめた。
「ふふっ。マリアンヌ様は、ご自身のお気持ちを素直にラルフ様にお伝えすればよろしいんじゃないでしょうか?駆け引きとか、落とすとか、そんなことは考えなくていいと思います。純粋な好意が、相手の気持ちを動かすこともありますよ?」
「シャロンお義姉様って、時々すごく達観してらっしゃいますよね?」
なんだか思わず、言ってしまった。
「そうですか?」
お義姉様は、目を瞬くと首を傾げる。
そして、少し考えるように言葉を続けた。
「ヴィクトールと私は、最初政略的な婚約だったんです。でも、共に過ごし、お互いのことを理解するうちに変わっていった気持ちを、ヴィクトールは、いつも言葉と行動で伝えてくれました。私は、お飾りの婚約者のつもりだったんですけど、いつの間にか絆されていまして」
今更ながら、お兄様の必死さがわかったような気がする。
「お兄様、頑張ったんですね」
「私には、勿体ないことです」
シャロンお義姉様は、微笑んで目を伏せた。
「わかりました。シャロンお義姉様、ありがとうございます。私も頑張ってみます」
私も、ラルフ様に私の気持ちを素直にお伝えしてみよう。全部、ちゃんと、正直に。
お父様やお兄様には、大見得を切ったけれど、本当は自信なんてない。
私はラルフ様からみれば子供ですし、警護対象を護るのはお仕事ですし、王女の降嫁なんて、ある意味面倒でしょうし。
でも、ラルフ様は、ちゃんと無理なら無理とおしゃってくれるだろうから。それに甘えて、私の気持ちを伝えたい。
どんな形にしろ、私の中でこの気持ちに区切りをつけなければ、私はこの後の縁談には進めないから。
ラルフ様の夜勤明けのある日、お兄様に前もって彼の予定を確認してもらい、私はラルフ様の執務室のドアを叩く。
「おはようございます、ラルフ様!」
聞いていた時間ちょうどに訪れると、多分残りの執務を片付けていたラルフ様が顔を上げた。
「おはようございます、姫殿下。御用がありましたら、伺いましたのに?」
夜勤明けの疲れも見せず、ラルフ様は優しく微笑んで、立ち上がる。
「いいの。今日これからお時間大丈夫かしら?」
私は、一応彼に確認してみる。
「ええ、特に問題はありませんよ」
「では、折り入ってお話がございますの。少々お付き合いいただいてもよろしいでしょうか?」
そう言って、私は彼と共に、庭のガゼボに向かった。
少人数の茶会などを催すこともあるこのガゼボは、殿方と二人きりの内緒話をするのにちょうどよい。密室ではないけど、護衛を少し離して、音を遮る結界を張れば、声が漏れることもない。
「私、ずっとラルフ様にお伝えしたいことがあって」
結界を張った私は、立ち止まると座ることもなく、ラルフ様を見上げた。
「姫?」
エスコートしてくれていた彼は、不思議そうに私を見下ろす。私はドキドキと高鳴る胸をそっと左手でおさえた。
「私、ラルフ様のこと、ずっと大好きなんです」
そして、私は彼から目を逸らさず、ストレートに言い切った。
「!?」
彼の緑色の瞳が見開かれて、動きが止まる。
彼の驚きがそのまま、彼の左腕にかけている私の右手にも伝わった。
私は、ただその緑色を見つめたまま、続けた。
「幼い頃は、憧れでした。でも、成人して初めての公務で、ラルフ様に慰めてもらってから、ずっと大好きで、いつも目で追っていて」
驚愕から戻ってきたラルフ様が、慌てたように私の言葉を遮る。
「あ、あの。ちょっと待ってください。俺、いや私は、とてもそんな姫殿下に想われるような男じゃ……姫にとっちゃ、こんなおじさんだし、身綺麗でもないし」
その慌てように、私の緊張も抜けていく。
でも、彼のそうやって自分を貶める言い方に、私はなんだか悲しくなる。
「私こそ、ラルフ様がお好きな大人っぽい綺麗な女性じゃないし、後腐れなくなんて、苦しくてとても出来そうにはなくて、こんな子供っぽくて、貧相な体つきだけど、でも、好きなんです。ずっとずっと好きだったんです」
貴方にとっては、私は、ちっとも魅力的ではないかもしれないけど、でも、好きなの。
「姫!ちょっと、待って!え?泣いて……」
「!?ごめんなさい! 私、泣くつもりなんかなくて。やだ、こんな、ずるいですよね?ごめんなさい。ごめんなさいラルフ様」
涙が溢れて、駄目だと思うのに、どうしようもなくて、瞳からこぼれていく。
「ああっ!もうっ!!」
次の瞬間、そう言ったラルフ様の胸に、私の顔が押し付けられていて。彼の濃紺の上着に吸い取られていく涙に、私は慌てた。
「!? あの、汚れちゃう……」
離れようとしたけれど、頭の後ろに置かれた彼の手が離れなくて。いつの間にかもう片方の手も、そっと私の背に回っていた。
「そんなこと気にしないで下さい。俺は不精者なんで、ハンカチなんか持ってないんですよ。それに、姫の泣き顔を他の奴に見られるのも面白くないし、これで我慢してください」
「ラルフ様、びっくりして涙止まっちゃいました」
ラルフ様の行動に驚いて、思わず固まって、零れていた涙もすっかり止まってしまった。私は、彼の胸におずおずと手を伸ばし、そっと押してみる。
すると、回されていた彼の両手に力が籠った。
「はあ。でもしばらくこのままで。
マリアンヌ姫、俺にとって姫は、可愛くて、美しい、敬愛する姫殿下でした。貴女が成人したての公務で賊に襲われたとき、怖ったろうに、震えながらも健気に、侍女達に声を掛けていましたね。いつだってそのお立場を意識して、優しく気高く振る舞っていらっしゃる。俺は、そんな貴女を近くでお護り出来るだけで、満足だったんですよ」
彼の声が静かに響いてくる。でも、彼の胸にあたったところからは、彼の少し早い鼓動が感じられた。
彼の緊張が伝わってくる。
きっと、私を傷つけないように言葉を選んでくれているのだと、申し訳なくなった。
「ラルフ様。ごめんなさい、私、わがままを……」
そう言って、彼から離れようとした私の頭からは手を離してくれたけど、背に回る手はそのままで。ラルフ様は言葉を続ける。
「最後まで言わせて下さいよ。姫には俺の素行の悪さもバレているようなので、言い訳はしませんが。10歳も下の貴女が、まさか俺のことを好きだなんて、想像もしていなくて。だから」
ラルフ様の言葉の続きを待って、私は顔上げてもう一度、彼を見上げた。
「……?」
じっと私を見下ろす緑色の瞳が、私の顔を写している。
「俺を好きだと言ったこと、もう、取り消せませんよ? 拗らせた男の愛情を受け止める覚悟はありますか?」
「!? それって、ラルフ様?」
彼の言葉がすぐには理解できなくて、もう一度頭の中で反芻する。
「姫、答えて下さい」
強い視線が、私を射抜いていく。本気なのだと、理解できた。その気持ちの重さも。
胸の奥から湧き上がる気持ちは、歓喜。答えなんて、決まってる。
「はい!ラルフ様からいただけるお気持ちが愛情なんて、とても嬉しい!」
そんな私に、ラルフ様はホッとしたように笑うと、そっと頭を撫でてくれた。
「拗らせてますけどね。でも、もう、撤回も返品も出来かねますので。
姫、貴女に求婚出来る権利をもぎ取って参ります。ですから、今は誓いだけ」
ラルフ様が、姿勢をただし、私の前に跪く。そして、私の手を取り、顔を上げて視線を合わせた。
「マリアンヌ姫、愛する貴女に、私の生涯の忠誠を捧げます」
そうして指先に口づけたラルフ様は、再び泣き出した私に、今度はちゃんと彼のハンカチで涙を拭いてくれて、もう一度抱きしめてくれた。
今日は、お兄様とお義姉様の昼食にご一緒させてもらっている。
ラルフ様と私の婚約が整うことになったので、その報告。
「ずいぶん早かったなあ。ラルフの求婚」
お兄様の言葉に、シャロンお義姉様がクスクスと笑いながら、言った。
「あら、ヴィクトール?ラルフ様のお気持ちに気づいてなかった?」
ええっ?お義姉様?ご存知だった?だから、ただ伝えれば良いって……
お兄様も呆れたようにお義姉様を見ている。
「お前、他人の恋愛感情には、わりと敏感だよな?」
「そうですわね。でも、お義姉様はご自身のことはあまり」
思わず、そう言うと、お兄様が口を挟んだ。視線が怖い。
「マリアンヌ。もう言うな」
お兄様、他の方からの好意に気がついて欲しくないんだわ、とやや引きながら、私は口を閉ざす。
シャロンお義姉様は、そんな私達には気にせず続けた。
「でも、ラルフ様は、マリアンヌ様のことを、時々なんとも言えない視線で追っていましたよ? 良かったですね。おめでとうございます」
そうだったんですね。ラルフ様と気持ちを通わせて、いろいろと聞かせていただきましたけど、お義姉様には、漏れていたようです。
ですから、祝福してくれる気持ちが嬉しい。
「ありがとうございます。シャロンお義姉様」
「お前達二人が、幸せになるのは嬉しいよ。おめでとう」
お兄様も、ラルフ様からこれまでの女性関係については弁明があったらしく、まあ、納得はしてくれた。
だから、敢えて言わせてもらう。
「……お兄様とお義姉様も、事情がお有りなのは察していますけど。私も、お二人の幸せを願っておりますわ」
お兄様とお義姉様は、顔を合わせて視線を交わすと、やがて、お兄様が口を開く。
「ああ、そうだな。ありがとう」
どことなく決意めいたものを感じる言葉だったけれど、それ以上は尋ねない。
きっとお二人なら大丈夫。私もラルフ様も、そう信じている。




