06 怪異の正体
『合わせ鏡』とは、二枚の鏡を向かい合わせに置くことである。
そうすると鏡の中に鏡が映り、その中にまた鏡が映る。一対の鏡の中で、それぞれ無限に鏡が続いていくのだ。
これに関する怪談も、いくつか存在する。たくさんある鏡の一つに自分の死に顔が映るとか、どれか一枚が異界と繋がっていて悪いものを呼び寄せてしまうとか。
実際に僕も意図せず合わせ鏡を覗いてしまったことがあるけれど、そのまま吸い込まれてしまいそうな途方もない気分になって、ゾッとした覚えがある。
「合わせ鏡って、怪異に繋がるイメージですよね」
「現世で合わせ鏡をしても、よほど条件が揃わない限り、異変が起こることは稀だ。だが、この『狭間の世界』は異界への連絡通路みたいなものだから、鏡の向こう側の世界へも通じやすい」
樹神先生が僕に片方の手鏡を渡してきた。
「服部少年、この鏡を俺の方に向けて構えてくれ。無数の鏡のどこかに、木全さんの身体に纏わり付く『念』を発している霊体がいるはずだ。邪気を受信したら教えてほしい。そこから侵入する」
「へぇ、そんなことできるんですね。あれ? これって……」
受け取った鏡から、百花さんの香りを感じる。
「目的以外の悪霊を寄せ付けないように、百花さんに術をかけてもらってあるんだ」
「なるほど」
僕は言われた通りに鏡を持ち、感覚の回線を開いた。ただし、自分の感覚とそれ以外とが混ざってしまわないように、自我の輪郭をしっかり意識する。
「木全さんは彼の隣に。私の合図で鏡の中を覗いてください。少し酔うかもしれませんが、深呼吸して気を落ち着かせていれば大丈夫です」
「あ、はい……」
公佳さんが僕のすぐ横に来る。この『念』の気配を覚えておかねばならない。
先生がもう一枚の手鏡を構えると、二枚の鏡が真正面から向かい合う。
「さぁ、今。覗き込んで」
シンプルな黒枠の手鏡。赤い世界を反射している。
そこに映るのは全く同じ意匠の手鏡。その中にも同じ鏡があり、またその中にも同じ鏡があり……
まるで無限回廊のように、鏡のトンネルはどこまでも伸びていく。見つめるほどに気が遠くなり、不意に自分自身の形を見失いかける。
突然、視界がぐるんと反転するような錯覚に陥った。
いや、錯覚じゃない。実際に、景色の左右が逆になっている。
いつの間にか鏡の黒枠が頭上にある。二枚の鏡が作る通路の中に入り込んでしまったらしい。
黒枠をくぐる。ぐるんと反転。
黒枠をくぐる。ぐるんと反転。
黒枠をくぐる……
「うっ……」
公佳さんが口元を押さえて僕の腕を掴んだ。
僕も視覚が混乱して、目が回るようで少し気持ち悪い。
先ほど食べた胃の中のものが存在感を主張してくる。ただし、この軽い吐き気のおかげで現世と繋がる自分の身体の感覚は維持しやすい。
そうする間にも、黒枠は頭の上を通過していく。
さらに何度か反転を繰り返した時、急に全身に怖気が走った。皮膚をびりびりと刺激するような邪気だ。すぐ隣にある『念』と同質の。
「先生、ありました!」
「よし」
先生が言い放った。
「服部 朔、木全 公佳さん、二人とも止まれ」
それは左右不覚となった僕の脳内に、まるで鼓膜を介さず直接響く。穏やかだけど良く通り、自然と心の奥深くまで入り込む。
途端、視点の移動はぴたりと止まった。
気付けば再び、僕たちは赤く染まった本丸エリアにいる。ただし、右と左の位置関係は現世とは逆だ。
「なぜ鏡に映る像は左右だけが反転し、上下は引っくり返らないか分かるか。天と地は誰が見ても不動だが、左右は主観的な認識によるものだからだ。どの立場からものを見るかによって、対象物の右と左は簡単に入れ替わる」
まだ少し頭がぐらぐらしている僕や、その場にへたり込んで苦しそうな様子の公佳さんとは対照的に、先生は背筋を伸ばして平然と立っている。
「木全 公佳さん、自我を手放さないように」
その言葉を聴いた瞬間、公佳さんはハッとしたように顔を上げた。
「……あれっ?」
「大丈夫ですか?」
「あ、はい、酷い眩暈が止まりました……」
『容喙声音』。名前を呼んだ相手の意識や行動に強く働きかける特殊な声。思念伝達の一種でもある。それが先生の持つ異能だ。
先生はある方向を指さした。
左右の違う名古屋城天守閣。その陰から、身体半分はみ出したそれは。
「あれが『念』の発信源だ。ずいぶんでかいな。自身も大量の『念』を吸って膨れ上がっているんだ」
どす黒いモヤの塊でできた、巨大な人型の何かだ。邪気の圧がここまで来る。
「服部少年、俺は今からあれの相手をする。君は結界を作って彼女を護れ。ついでに彼女からその『念』を引き剥がしといてくれ」
「簡単に言いますね」
「できるだろ」
「まぁ、やってみますけど」
すぐさま僕はその場で柏手を打った。
ぱぁんと音が弾けた刹那、気の流れが巻き起こる。先ほど現世で読んだ靭く清浄な気が、一時的にできた階層の亀裂から僕の元へと注ぎ込まれる。
さすがのパワースポット。すごくいい。
両手を組み合わせ、強く握り込む。すると、僕を中心にして気が球体状に凝縮する。ちょうど僕と背後の公佳さんをすっぽり覆う形の結界だ。
ちらりと振り返れば、『念』は気の圧によって綺麗さっぱり公佳さんから弾き飛ばされていた。よし。
「僕の側から離れんといてくださいね」
「は、はい」
先ほどよりも、彼女の表情は穏やかだ。
良かった。僕は小さく微笑んでみせた。
我が師匠からは景気の良いサムズアップが送られてくる。
「さすが」
「どうも」
僕は助手なので、その役目を果たすのみだ。
先生は長い脚を開いて立ち、澱みを纏った遥か背の高い相手に対して、低く澄んだ声で呼びかけた。
「お前はなぜ彼女を狙う? 何か理由があるなら教えてくれ」
耳障りな悲鳴がそれに応える。
次の瞬間、『念』が天守閣の屋根を乗り越え、猛烈なスピードで先生へと突進してきた。
先生が懐中時計型スマートウォッチを翳す。
「捕縛」
その一言は、波紋のごとく谺した。
今にも先生に触れんとしていた『念』が、寸前でぴたりと止まる。
黒いモヤの巨人は見えない糸に縛られ、自由を奪われていた。
懐中時計の蓋には特殊な紋章が刻まれている。容喙声音の周波を電磁波で強化することにより、名を知らない相手にまでその対象を拡げることができる。形から入るのは伊達じゃないということだ。
しかし拘束をすり抜けた『念』の一部が、なおも向かってくる。
「先生! 左!」
「『右』だよ」
先生は左手に見える右手を振るって攻撃を弾いた。
紛らわしい。確かにいつもスマートウォッチを握っているのは利き手である右の方だけれど。
「お喋りする気分じゃないみたいだな。残念だよ」
今度は、ゾッとするような冷徹な声。
「この馬鹿でかい霊体さえ消えれば、彼女を苛む『呪い』も消えるだろう。あの『念』全てを強制的に浄化するのは骨だな」
そう言うや否や、先生の発する気が増幅した。
相手を縛り付ける力が『念』を圧迫し、バチバチと音を立てる。
「その闇の昏さを識れ」
気の波濤が迸る。『念』が凄まじい勢いで逆流する。敵が発する『念』を、敵自身に流し込んでいるのだ。
狂気じみた絶叫が耳を劈き、飽和した『念』が爆散していく。
その衝撃波がここまで届く。しかし、結界の中にいれば何の影響もない。
ところが、背中から呻き声が聴こえた。
「うぅっ……!」
「えっ? どうしたんです?」
「く、苦し……」
見れば、公佳さんが胸元を押さえて蹲っていた。
何が起きている?
「先生! 何か変です!」
「どうした?」
「その攻撃、彼女にも障っとるみたいです」
先生はこちらを一瞥し、攻撃の手を止めた。
「……確認の必要があるな」
そして敵に向けてスマートウォッチを握り直す。
「正体を現せ」
張りのあるテノールと共に放たれた先生の気が、今度は相手の構成物を丸ごと包み込んだ。
巨人が、見る間に縮んでいく。黒いモヤは、次第にごく一般的な人間の大きさへと収束する。
僕たちの目の前に現れたその霊体は、女性の姿をしていた。
公佳さんが愕然と呟く。
「嘘……あれは……」
女性が面を上げる。肩まで伸びた髪の合間から顔が曝け出された。
厚く腫れぼったい瞼。こちらを睨み付けるような細い双眸。何よりも、右頬の半分を覆う痣が酷く目立つ。
「やっぱり知っとる人なんですか?」
僕の問いかけに、公佳さんはただ首を振るばかりだ。
先生はもう一度、声に異能を乗せて唱えた。
「真名を示せ」
名を縛れば、より強力に容喙声音の支配下に置くことができるはずだ。
しかし。
「私の、名前は……」
その、お世辞にも美しいとは言い難い風貌の霊体が喉から絞り出すように紡いだのは。
「木全、公佳……」
僕の背後にいる依頼人の女性と、全く同じ名前だった。