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上海郷愁舞曲  作者: はががん
上弦の月の章
5/6

黒狼

2025年5月10日、エピソード『黒狼』完!

・本小説はフィクションです。実在の人物や団体、出来事などとは関係ありません。

・当時、中国の事は支那と呼んでいましたが、現在差別に当たる為、本小説では中国、中華という表現で統一いたします。

・話の中の用語については、登場人物&年表&用語集のページに記載していきますので、わかんねーって方は見てみてくださいね。

ではお楽しみいただければ!

登場人物

 楊傑    諜報員

 林彗麗   楊傑の妹で諜報員

 周     華報新聞の下働き。楊と林の情報屋

 戸部万里子 三島と同じ小学校の教師


 橋谷    荷受け会社社員

 大河内   プレスユニオン新聞記者

 広岡    華報新聞記者


 汪兆銘   行政院長

 胡信    汪兆銘の秘書官

 斎遥芬   胡信と同じく汪兆銘秘書官兼日本語通訳。


 


-------------------------

一九三三年 某月

 境界線というものは、どんなにきっちりと引かれたとしても、時間が経つにつれて緩くあいまいになるものである。相手への警戒心や敵対心があればきっちりと線を引くが、利害関係の一致や好意が生まれればその線は消えてなくなる。上海の外人共同租界区の境界線付近には、まさにそんなグレーゾーンがそこかしこに存在しているのである。


 蘇州河の貨物港の岸壁。木箱が積み上げられた貨物置き場の物陰に、黒いコートに黒い帽子の男が立っていた。街灯はなく、上海の歓楽街の明かりで辛うじて周辺の様子が分かる程度だ。時々通る船の明かりが貨物の間から差し込むが、そこに人がいる事には気が付きはしないだろう。男が煙草を吸うと、暗闇に赤い火の灯りが灯る。それが目印のようだった。

「へいらん・・・か」

 どこからともなく、男の低い声がした、日本語である。黒いコートの人物は、目深に被った帽子の間からその声の方へ視線を向け、日本語で答える。

「そうだ」

 おずおずと近づいて来たその人物は、手入れをしていない髪と髭、見すぼらしい身なりの壮年の日本人男性だ。ひとしきり煙草を吸って楊傑は地面に落とし火を踏み消す。男は、探るように帽子の下の楊傑の顔を見てきた。

「あんたが信用できるか・・・見せて貰いたい」

 楊傑は頷くと、コートを広げスーツの上着も開いて見せた。武器も何も持っていない事を見せた後、内ポケットから封筒を引っ張り出す。男は震えながらも頷いた。

「そっちのも見せて貰おうか?」

 手に持っていた薄い手帳のようなものを差し出した。

「三冊ある」 

 楊傑は受け取り中を開く。中国渡航者に発給された日本人身分身分証である。楊傑は懐中電灯を取り出すと、全部中身を開き文字や印を確認した。男は固唾をのんで見守っている。

三冊とも本物である事を確認した楊傑は、封筒からまた別の色の手帳を三冊差し出した。そこには中華民国身分証書と書かれていた。

「写真を貼ればどこへでも行ける」

「ああ・・・それと」

「それと、もう一つの約束のものだ」

 楊傑はマネークリップから百円札を三枚引き抜くと男に渡した。当時の百円と言えば今の五十万円相当の金額である。男は震える手をその金を受け取ると、感触を確かめるように一枚づつ撫で始めた。

「本物・・・なんだろうな」

「偽造じゃないさ」

 楊傑は帽子の下で笑って見せると、受け取った身分を封筒に入れ内ポケットにしまう。それから、ひらひらと手を振った。

「じゃあ、俺はこれで」

 楊傑が男に背中を向けて歩き出す。楊傑が少し進んだ所で、男は自分の背後に向かって頷いて見せた。途端数人の男達が飛び出して来て、楊傑を囲むように行く手をふさいだ。楊傑は少し驚いたように足を止めた。取引相手よりは身なりはいいが、顔つきは堅気ではなさそうだ。

「死にたくなかったら金と身分証を置いていけ」

 楊傑はぐるりと見渡す。どの輩の手にも短い刃物が握られ、楊傑に向けていた。

「これがドスという武器か?日本マフィアだな」

 感心したように言うだけで、動じない楊傑に輩の方が痺れを切らす。

「分かったらさっさと置け。それとも痛い目を見ないと分からないのか」

 そう言って一人が楊傑に向かってドスを突き出してきた。半身で避けたはずみで帽子が飛ぶ。

「やれやれ・・・」

 面倒くさそうに腰を折って帽子を拾おうとした楊傑に、再びドスを突き立てようと飛び込んできた。楊傑は刃物から距離を取りながら相手の手を掴み、横に流しつつ腕ごと捩じる。あらぬ方向に曲がった手からドスが取り落されると、すかさず空中で掴み、そのまま背中から心臓に突き刺した。あまりの速さに状況が呑み込めないまま他の男達も、慌てて楊傑に向かって来る。所詮ただ刃物を振り回すヤクザ者、多勢といえども訓練を受けている楊傑に勝てる訳もなく、一分もかからず全員地面に突っ伏したまま動かなくなった。

「ひ・・・:ひいい!」

 一番遠くで成り行きを見守っていた取引した男は、慌てて楊傑とは反対方向に走り出した。楊傑は背中から拳銃を引き抜くと一発発射した。弾は男の頭を貫通し、一瞬にしてパッタリとその場に突っ伏した。楊傑は取引した男に近づき、その周りに散らばった金と、渡した身分証を広い集め、ため息をつく。

「わざわざ気を気かせて日本円で払ってやったって言うのに・・・残念だったな」

 楊傑は様子を見渡した後、先ほど足で消した煙草の吸いがらを拾い上げると、暗闇に溶け込んで行ったのだった。




 黄浦江の上海埠頭では、赤と黒の大型旅客船『上海丸』の乗船が始まろうとしていた。最近の定期就航便は、日本から上海にやって来る航路では兵士と軍馬が半数以上で以前より一般人の数が減っており、逆に上海からの戻る航路には一般人の姿が多くなっている。日本と中国の状況がいかに緊迫したものかが分かるだろう。埠頭の乗船待合所には乗船者以外にも見送りの人達、土産や食べ物を売る売り子達でごった返していた。

「じゃあね、万里子さん」

「ええ、おばさまにもよろしくね」

 小学校教師の戸部万里子も、友人を見送りに埠頭に来ていた。同じ女学校を卒業した後、日本の銀行の上海支社に務めていたが、最近の上海との紛争を危惧して両親に戻って来るように切望されたそうだ。日本から許嫁が迎えに来て、今日帰国する事になった。異国の地で励まし合いながら過ごしてきた大親友である。別れるのはとても寂しかったが、許嫁と幸せそうな友人を見ていると、これでよかったと心の底から思う事ができた。

「万里子さんも、日本に戻ったらぜひ寄ってください」

 友人の許嫁も穏やかな笑顔で万里子に言う。

「ええ、ぜひ遊びに行きますわ」

「その時は、万里子の旦那さんも一緒に、ね?」

「え?私の?・・・・そうねぇ、きっと当分先の話ね」

 そう言って笑うと、友人はちょっと心配そうな顔をした。

「まだ上海で教師を続けるの?」

「ええ、そのつもりよ」

「お父様やお母様は、結婚しなさいって言わないの?」

「・・・・ええ、言うけど。私はまだ子供達と過ごしたいの」

 すると二人はニコリを笑った。

「だったら、早くよい方を見つけて、子供を沢山育てたらいいわ」

 そういう事じゃ・・・・と言う言葉を呑み込み。万里子は何とか笑顔を作って頷いた。

「それもいいわね。とりあえずは、二人の子供に会うのを楽しみにしているわ」

「手紙を書くわ、くれぐれも気を付けてね」

「ええ」

 友人は万里子の手を取ると、幸せそうに笑った。  

 


 同じ埠頭の待合所の片隅に楊傑の姿があった。周りには旅行代理店の者たちが、代理で取った乗船チケットや旅館のパンフレットを持って、客が来るのを待っている。客が来ると説明を始めたり、待合室へと案内していた。楊傑は茶色地に白ストライプの背広に眼鏡を掛け、髪を綺麗に分けた姿で穏やかに辺りを見回していた。周りの風景にすっかり溶け込んでおり、どこから見ても客を待つ旅行会社の日本人会社員である。いつものピリピリとした雰囲気は微塵もない。

「準一さん」

 人ごみの中から日本語で呼ばれ、楊傑は声の方を向いた。嬉しそうに手を振って近づいて来たのは、同じような背広の男性二人である。楊傑もにっこりを微笑でお辞儀をした。

「こんにちは、お待ちしていました」

 楊傑は日本語でそう言う。

「今日はお世話になります。私が竹田で、こっちが佐藤です」

 流暢な日本だが、アクセントに少し中国訛りがある。

「竹田さんと佐藤さんですね。これが日本行きの切符です」

 楊傑はパンフレットと切符を二人に差し出す。

「ありがとう」

「それから・・・」

 楊傑は二冊の日本の身分証を差し出した。それはこの前入手したあの身分証である。

「手続きにお借りしていた身分証をお返しします」

 二人の男性はそれぞれ受け取ると、中を開いた。自分の顔写真と日本人の名前が載っている。

「竹田さんは山口県出身、佐藤さんは長崎県出身・・・間違いないですね?」

 男たちは一瞬真面目な顔で身分証を確認したが、笑顔に戻ると楊傑に頷いた。

「ええ」

 それからパンフレットを差し示す。

「行先は旅程表に書いてあります、向こうでは私どもの係の者が待っていますから・・・くれぐれも気を付けて」

 それまで温和な笑顔を向けていた楊傑の表情が最後の言葉の時だけ鋭くなった。二人もしっかりと楊傑の顔を見て頷く。

「いろいろありがとう。・・・あなたも」

「・・・ええ」

 二人は楊傑を固く握手をし、乗船口へと向かって行った。楊傑はその背中を見送ると、小さくため息をつき、その場を離れた。




「まったく、積み荷が汚れちまったらどうしてくれるんだってんだ」

 そう言いながら、荷受け会社の橋谷は無造作に転がっている数体の死体を眺めまわしていあた。積み荷を運ぼうと早朝出社してみたら、このありさまである。

「警察もさして珍しい事じゃねえんだろうな。手が足りないから昼過ぎに行くって言いやがる」

 迷惑そうに言う橋谷だが、動揺一つしていない。つまり、ここではそんなに珍しい事ではないという事だ。橋谷のボヤキを聞きながら、事件現場の写真を撮っていたプレスユニオンの新聞記者大河内は、適当な相槌を返していた。

「あんたもこんなの撮ったって、ゴロツキの喧嘩の成れの果てなんざ、三面記事にしかならんだろう?写真のフィルムがもったいねえや」

「いやいや、どこにスクープが待っているかなんて誰にも分かりませんよ」

 笑いながらそう答える大河内は、接写でファインダーを覗き込みながら随分と鮮やかな手口だと思っていた。確かに死んでいる人間は身なりも粗末だし、ドスも刃こぼれも錆もひどい状態だ。ただ、やられ具合が綺麗なのだ。綺麗という表現はいささか不謹慎かもしれないが、ドスが刺さっている者も一刺でやられているし、額を撃ちぬかれている者もそれ以外の傷がなく、それ以外の銃弾はどこにもない。すべて一発で決めているのである。これは相手は半端者ではないプロだ。

「こいつどかしてもいいですかね?荷物出せないんで」

「ああ、どっかに寄せとけ」

「へーい」

 銃で撃たれた男を人足達が乱暴に横に転がした。

「ん?」

 開いた上着からくしゃくしゃになった紙がポロリと落ちる。大河内はためらいもなくそれを拾った。粗悪な鉛筆で書いたのだろう、文字は擦り切れてぼやけている。大河内は目を細めたり角度を変えたりしながらなんとか文字を読む。

「へ・・・い、ら、ん?」

 大河内の行動に気づいて覗き込んで来ていた橋谷を見るが、彼も首を傾げるばかりだ。

「なんか意味があるのかね?」

「いや、さっぱり・・・」

「もうあの世に行っちまってるんだ。どうでもいいこった。おーい、さっさと荷物を運んじまえ」

 橋谷はもう仏には興味なく、仕事へ戻って行った。大河内はパシャリとその紙の写真を撮り、上着の中に戻したのだった。

 



 それぞれの思いを乗せた上海丸は、それぞれの思いで上海に残る人々に見送られながら、日本海へ向けて小さくなって行った。船を見送った後、万里子は少し憂鬱な気分で出口へと向かった。当時、万里子の様に仕事についている女性は職業婦人と呼ばれ、本格的な女性の社会進出の最中だった。一方で所詮は結婚までの腰掛けであるという認識も根強く、男女共に二十代後半までには結婚するものだ、と言う考えがあった。万里子も結婚したいと思わない訳ではない。しかし今は教師という仕事を天職だと思っているし、一生続けて行きたいと思っている。だが周りからは結婚して家庭に入るまでの事、と当たり前に思われているのがもどかしかった。今は教師として子供達と向き合う事だけを考えていたいし、その為に努力をする事に全力を注ぎたいのである。理解して貰おうなんておこがましくて言えないが、そういう考え方もあるという事は分かってもらいたい、と思うのだ。

 欝々とそんな事を考えながら歩いていたら、いつの間にか大通りに差し掛かっていた事にまったく気が付いていなかった。

「〇✕△!!!!」

 突然何かを叫ばれハッとした時、急に周りの音が聞こえてきた。騒がしいほどの雑踏、車のクラクション。万里子は知らない間に車道に飛び出していたのだ、気が付いた時には目の前に馬車が迫っていた。

「きゃあ!」

 突然の事に、どっちに避けてよいのか分からず動けなくなってしまった。かろうじて馬は避けてくれたものの、車体にはまともにぶつかる。万里子は衝撃を覚悟して、強く目を瞑った。と、次の瞬間誰かに強く抱きつかれ、そのまま後ろに倒れたのである。

「・・・・」

「大丈夫ですか!」

 肩を揺さぶられ、呆然としたまま声の方を見る。そこには心配そうに覗き込む男性がいた。茶色の背広姿の楊傑である。

「あんなふらふらと道に出るなんて・・・危ないじゃないですか!」

「・・・・あ」

 楊傑は先に立ち上がると心配そうに覗き込み、万里子に手を差し出した。

「立てますか?」

 万里子は楊傑の顔を見たまま、ただ頷いてその手を掴み立ち上がった。楊傑は万里子の体を見てケガがない事を確認している。一方の楊傑は万里子を庇って道に倒れたからだろう、背広は泥だらけで肩口が破れてしまっていた。それを見た万里子は急に現実に引き戻され、青くなって頭を下げた。

「ごめんなさい!あ、あの、洋服弁償しますから!」

「え・・・?ああ・・・こんなのはすぐ直せます」

「いえでも!私のせいで、こんな事になってしまって。すいません!すいません!」

 万里子の様子に無事だと分かった楊傑は、安心してふっと笑った。

「すいませんじゃなくて・・・・ありがとうって、言ってほしいな」

「え・・・・。あ・・・ありがとう」

 万里子がそういうと楊傑はにっこり笑いかけ、少し会釈をしてその場を去った。万里子は無意識に楊傑の去っていく姿を、人ごみに消えた後も目で追っていた。




 特段何も変わりもない、いつもと同じ昼下がり。三島と他の同僚教師は、不思議そうに顔を見合わせたり、万里子の様子を見たりしていた。万里子は昼ごはんのお弁当の風呂敷を開けた所まではよいが、そのまま箸を持つと蓋を開けないでずっとその上を突いているのである。当の本人は心ここにあらずという面持ちでどこかをぼーっと見ていて自分のやっている事に気が付いていないようである。

「三島先生言ってくださいよ」

「ええー、私ですか?」

「同級の担任どうしでしょ」

「いや・・・それ関係ありますか?」

 いいからいいからと押し出されるように万里子の前に出される。三島はいつものしゃんとした様子ではない万里子に恐る恐る声をかけた。

「戸部先生・・・戸部先生?」

「は、はい」

 なんでしょうか?と笑顔で三島を見る万里子はいつも通りなのだが、状況が状況だけに逆に怖い。

「あの・・・さっきからお弁当の蓋箸でつついて何やってるんです?」

「え・・・あ!」

 はっとしてお弁当を見ると、あわてて蓋を取った。やっとお弁当の中身を食べ出した事で、同僚達も万里子から視線を外した。隣の席の三島はそのまま笑顔で話しかける。

「どうしたんですか?今日はずっとため息ばかりついて」

「そうでしたか?気が付きませんでした」

 そう答えてニコリと微笑むが、しばらくするとまた手が止まってはぁとため息をつく。まったく様子が違う万里子の様子に、どうしようかと周りを見るが、今まで 集まっていた同僚達は素知らぬ顔で散らばってしまっていた。どうしたものかと思っていると、窓越しにい用務員が三島に声を掛けてきた。

「三島先生、華報新聞の周さんが来てますよ」

「あ、はい!」

 助かったとばかりに勢いよく席を立った三島は、鞄の中にから封筒に入った原稿を取り出すと、そそくさと出口に向かった。

「華報・・・・新聞。・・・新聞・・・そうだわ!」

 突然の大きな声に周りがびくっとなっているのにも気が付かず。万里子は引き出しから紙とペンを引っ張り出すと、一心不乱に何かを書き始めたのである。



  裏門の傍で待っていた 周は、三島が来るのを見ると笑顔になりペコリと頭を下げた。

「三島サン、コンニチハ」

「ご苦労様です。いやぁ、いいタイミングで来てくれましたよ」

「え?」

「いえいえ、こっちの話です。はい、今回の原稿です」

「カクニンシマス」

 周は封筒を開ける。周は片言の日本語は話せるが読む事ができない。だから確認は指定された枚数があるかという事だけである。

「ダイジョウブ、アリガトウゴザイマス」

「よろしくお願いします」

 周はいつもの様に鞄に丁寧に原稿をしまい、蓋を止める。そして自転車にまたがるとペコリと三島に頭を下げて、走り出そうとした。

「待って!周さん!待ってーーー!」

 校舎の中から万里子が走って出て来る。普段のおしとやかな佇まいをかなぐり捨てた走りっぷりに、思わず三島は大きく脇に退いた。突然呼び止められて、思いっきりブレーキを掛けた周は驚きながら振り返る。万里子が息を整えながら、周の前に飛び込んできた。今まで声も掛けられたこともなかった万里子の出現に、周はただただ驚く。

「エ・・・」

「周さん。新聞に・・・・広告を載せて・・・いただきたいんです・・・」

「ハ、ハイ・・・」

「なるべく早くお願いします。お代は後で家から持って行かせますから!」

 そう言って折りたたんだ紙を周に差し出した。

「広告デスネ・・・ワカリマシタ」

「よろしくお願いします!いいですか、なるべく早く」

「ナルベクハヤク」

「そうです!」

 万里子はまるで生徒に教えるような口調で周に言うと、満足そうに頷いた。

  



 日本と中国国民党の要人による中日協議や会談は、中国国内ではかなりの頻度で行われていた。今日も日本大使と行政院長による会談が行われ、日中だけでなく諸外国のプレスも数多く参加していた。大日本帝国の有吉明特命大使(公使)と中国国民党の汪兆銘行政院長(のち副総裁)は共に穏健派であったので、会談はいつも通り建設的で前向きなものであった。会談後の公的な記者会見が終わり記者が帰っていく中、プレスユニオンの大河内は中国国民党の幹部面会で、控室前に残っていた。プレスユニオンは、中国の新聞による日本に対するフェイク情報や、日本の新聞の過熱報道を懸念した、官民共同発信の対国外向け英字新聞社である。日本政府の情報を正しく伝える事を目的としており、公平な視点での記事掲載で各国からも信頼されている新聞であった。そこの新聞記者である大河内も自他国の情勢に左右されず公平に接するので、諸外国の要人と腹を割った話しができる程信頼が厚かった。

「大河内さん」

 名前を呼ばれ振り向くと、華報新聞の広岡が煙草を片手にやって来た。広岡は会社は違うものの、中国語、上海語が堪能であり、両国の庶民生活にも明るい。いわゆる闇の部分について大河内は得意ではないので、補える間がらとして広岡とは懇意にしていた。今日は中国語ができない大河内の通訳として、同席する事になっていた。

「お疲れ様です」 

「この会談だけ聞いていると、日本と中国はうまく行くんじゃないかと毎回錯覚してしまいます」

 広岡がふぅっとため息をつく。大河内も頷きながら言った。両要人の発言が両国の政策方針に沿っているかと言うと、そうではないと言う事は、どの国のプレスも承知している事だった。

「確かに・・・両政府もこの会見の記事を読んで、歩み寄りの姿勢を見せてくれたらいいんですけどね」

「それができるのはおたくの新聞だけでしょうね。うちは載せても二面の隅に『会談が行われた』としか載せられないと思います」

 上海に住んでいる日本人でさえ、両国の要人会談に意味があるのか疑問を持っている。本土の人間など武勇記事には目を止めても、和平会談など感心さえないだろう。大河内がどう返事をしていいか考えあぐねていると、ガチャリと控室のドアが空き、中国人の女性が日本語で二人に声をかけてきた。

「お待たせしました。お入りください」

 二人が中に入ると、汪兆銘行政院長の秘書官である胡信が迎えてくれた。大河内と広岡、胡信と先ほどの女性秘書官だ。日本側の通訳と中国側の通訳を揃える事で、翻訳した内容がクロスチェックできるという事だ。国同士の信頼関係がないので致し方ないが、この四人は何度も会談や記者会見で顔を合わせている仲である。胡信は穏やかに大河内に話を振った。

「さて、有吉大使は満州国や日本の軍事侵略について懸念を評していたが、実際のところ日本帝国はどう思っているのか、行政院長も気にしておられる」

「そうですね、やはり有吉大使の姿勢は本土では少数派です。特に満州国統治の関東軍は日本政府のいう事も聞きません。日本政府と関東軍の動きは今後も注力する必要があるかと思います」

「そうか・・・日本も一枚岩ではない、か」

 当時中国国民党は、日本の軍事侵攻と中国国内で共産党の内紛という問題も抱えていた。日中どちらも数か月先は、情勢がどう動くかまったく読めない状況なのはお互い同じである。ここで広岡も口を挟んだ。

「日本本土では今特別高等警察という警察組織が、治安維持という名の言論や思想統制を行っています。その関係で最近反戦主義者や文化人が上海や天津に逃げて来ていたのですづが。・・・その警察組織の支部が上海にも作られたのです。今はまだ治安維持に対しての規制ですが・・・上海でも思想統制が行われるのは、時間の問題でしょうな」

「我がプレスユニオンも、いつまで中立を通した新聞発行ができるか・・・分からないですね」

 もしプレスユニオンに特高が検閲をし出したら、大河内は廃刊にする覚悟を持っていた。沈痛な面持ちで二人の話を聞いていた胡信も、大使や行政院長、ここにいる四人の願うような方向に向かってはいないと感じとったようだ。

「分かりました。ただ行政院長もこの先どういう状況になったとしても、いつか両国が歩み寄れた時に正常な意識を持つ人間は残さなければ行けないと言うお考えです。それに対して我々が今どういう事ができるのか・・・今後もいろいろ協力して行きたいと思っています」

「ええ、私もその考えに賛同します」

 胡信の言葉に大河内も大きく頷いたのである。 




 次の日の夕方、華報新聞社。

 周がいつもの様に、ゴミ捨て場から他社の日本の新聞を見繕って鞄に入れていると、広岡がやって来た。

「熱心なこったねぇ」

「ヒロオカサン、オツカレサマデス」

 ペコリと頭を下げるが、広岡が今自分が新聞を入れた鞄をジロジロ見てきたので、思わず鞄を両手で庇っていた。

「本土の新聞なんざ、いくら読んでも本当の事なんて分かりゃしないぜ」

「?」

 自分の顔を見てポカンとしている周を見て、広岡は言葉を中国語に切り替える。

「本土の新聞なんて、嘘しか書いてないよ」

「ああ、いえ。文字を読む練習用です。私は日本語の意味はまだ分からないので。字と写真が沢山あればいいんです」

 周はニコニコしてもう一度頭を下げると、横をすり抜けて出て行こうした。すると広岡が行く手を遮るように目の前に新聞を差し出して来た。今日の華報新聞の夕刊だ。当日の新聞は古新聞ではないので、勝手に貰う事はできない決まりである。周は困惑して、もう一度広岡を見た。

「はい?」

「周さんが昨日持ってきた尋ね人広告の原稿、載ってるから」

「え?もうですか?」

 訃報記事のような緊急性が高いものは、すぐに掲載されるが、尋ね人のような広告は数日かかるものだ。それがもう載っていると言う。

「あの学校の先生の家の使用人が持ってきた掲載広告料が破格だったんだそうだ。それで会社を上げて協力する事になったんだよ。周さんも、もしそれらしい人を見かけたら知らせてくれ、見つかったら金一封が出るかもしれんぞ」

 広岡はニヤリと笑うと、周の胸をポンポンと新聞で叩く。

「ワカリマシタ」

 そう言って、周はとりあえず新聞を受け取り、頭を下げてそそくさと退社したのだった。




 フランス租界区。入り組んだ路地の先にある石造りの建物のアーチを潜り、その裏口に入った周は、いつものようにそこで自転車を降りた。慣れた手つきで裏口のドアを開け、薄暗い廊下を進み、地下へ沈む階段を下りる。相変わらず空気が悪く、あちこちに積み上げられた新聞や紙束やらをよけながら、机の前に来るとその向こう側にいる人物に声を掛けた。

「楊さん」

 新聞を広げていた楊傑はちらっと視線上げると周に微笑んだ。

「やあ、周さん」

「新聞、持ってきました」

 そう言って近くの机に鞄を置いた。

「ありがとう、本当に助かるよ」

 楊傑は再び目を新聞に戻した。読んでいる新聞が、日本語ではなく英字である。

「英語新聞・・・読んでるんですね」

「ああ・・・これは日本の英字新聞だ」

 そう言って、表紙を見せる。

「『プレスユニオン』という外国向けの新聞さ。昨今の新聞報道と違って中日情勢についての日本帝国の姿勢や言い分がよく分かる。信用できる新聞だよ」

「そういう新聞があるんですね」

 周は持ってきた日本の新聞を鞄から出しながら言った。

「先日の行政院長と日本大使の会談が載っている。二人とも建設的に情勢の解決をするべき、と言っているが・・・まあ、あまり当てにはならないだろうな」

「ええ?いいんですか?汪兆銘はあなたの上官でしょう?」

「ちょっと違う、我々のボスは蒋介石であって、彼はボスじゃない」

 語気を強める楊傑に、周はちょっと驚いた。ふと手元を見ると、先ほど広岡から渡された華報新聞である。

「・・・そういえば、楊さんこの前港に行ってましたよね?」

「ああ。日本本土に仲間を送ったよ。無事東京に着いているといいんだが・・・」

 楊傑の任務は、本物の日本の身分証を使って偽装身分証に作り変え、彼らにはどのように日本人として振舞えばよいかを教える事だけだ。言葉に残る中国語訛りは、東京に行くことで解決できると踏んでいた。東京と言う場所は、上海と同じで地方からの出身者が多いと聞いている。多種多様な方言が混ざり、多少中国訛りがあっても方言だと言えば誤魔化せるはずである。うまくやれるか・・・後は本人達次第だ。

「計画は順調なんですね」

「順調だよ。特に日本身分証を手に入れる事はことのほか簡単だ。日本人は律儀だよ、ちゃんと本物の身分証を持ってくるからな」

 この前みたいな裏切り行為は多少あるが、楊傑にしてみれば造作もない事である。何気なく思いついて始めた計画だったが、それなりの成果が出ている事に楊傑は満足していた。それを聞きながら、周は華報新聞を広げ、三行広告欄の尋ね人を探す。尋ね人欄への掲載は一広告しかなく、三行以上の文章が載っていた。

「今日の華報新聞になんですが。あなたが埠頭に行っていた時間じゃないかと思うんですけど、人を探してるご婦人がいるんですよ。私が本人からその広告を受けたので気になってまして、なんて書いてるのか読めますか?」

 その人物を見つけたら金一封が出るとは口が裂けても言えない周である。周の差し出した記事を手にした楊傑は、それを中国語で読み上げた。

「『訪ね人:〇月〇日〇時〇分頃、上海港の待合所の付近の大通りにて、婦人をお助け頂いた茶色の背広三十代男性。其折肩袖を破いてしまいました。お礼と弁償致したく、ご連絡をお待ち致します。』・・・確かに二人を船に乗せた時間だなぁ」

 周は頷きながら楊傑に聞く。

「心当たりありますか?」

「中肉中背・・・茶色の背広?」

 そう言いながら、楊傑は入口のコート掛けに無造作に引っかけてある背広に視線を移した。周もその視線を追い、背広を見る。

「あ、茶色の背広・・・ですね」

 周はその背広を見る為にコート掛けに近寄った。

「『其折肩袖を破いてしまいました』・・・あ?」

 周がその服を手に取ると、背広は転んだのか土と埃で汚れている。そして肩袖の部分は見事にざっくり裂けていた。

「もしかして、その尋ね人って・・・あなたですか?」

 楊傑は背広に視線は向けてしばらく記憶をめぐらす様に静止していたが、ああ!と声を上げた。

「あの時の人か!・・・お礼なんていいって言ったんだがな・・・」

 やれれやれとため息をつく楊傑に、周はあきれたような顔で楊傑を見みつめた。これは金一封どころの話しではない。

「日本人を助けるだなんて・・・・何をしているんですか」

「え?何してるって・・・」

「仲間を日本に送る任務中だったんでしょう?そんな目立つ事をして大丈夫なんですか」

 そんな事を言われるとは思っていなかった楊傑は、立ち上がって説明し始めた。

「いや・・・でも目の前で女の人がだ。ふらふらっと車道に飛び出して行ったんだよ。もう少しで轢かれる所だったんだぜ、放っておけるか?」

「そりゃ、おやりになった事は立派ですがね。場所が場所で日本人に扮した任務中ですよ」

「大丈夫だよ・・・。ああ!あの人は俺の事を日本人だと思っているんだろう?きっと二度と会う事もないだろうし」

「そうですかね?あの方はあなたを探し出す為に高額な広告料を支払ったそうですよ。そう簡単に諦めるとは思いませんけどねぇ・・・それに、同じ任務で港にはまた行くんじゃないんですか?」

 言い訳をしようにも、周の言う事は正論である。やっと事が面倒な事になっている事を理解した楊傑は、苦い顔で頭を掻いた。

「まあ・・・。次は当分先になるだろうし・・・今度行く時は違う変装をして行くから大丈夫だ!」

 一生懸命取り繕う楊傑を、本当ですかねぇと訝しげに見つめる周であった。




 プレスユニオンの上海支社は、日本の新聞社の中の一部屋を間借りしており、記者も大河内とそれ以外に二人いるだけのこじんまりとしたものだった。新聞は週に1回の発行だったので、毎日発行する間借先の新聞社のように四六時中バタバタとしている雰囲気はない。写真を現像をする為に出社した大河内は、現像室からせわしない人の流れを避けながら、自室のドアを開けた。途端騒がしい空気は遮断され、誰もいないオフィスはゆったりとした雰囲気で大河内を迎えた。早速大河内は現像した写真を机に広げる。すぐに記事にしなければならない写真はすぐに現像するので、今手元にあるのはどちらかというと上海支社の記録用だったり、大河内の趣味的な意味が濃い写真たちだ。租界区の華々しい歓楽街、新しくできた銀行の開業式、ワイタンの美しい街並みと雪・・・正直面倒な事に目を瞑れば、上海とはとても魅力的な街である。

「あ・・・」

 広げてゆくその中に、突然物騒な写真が飛び出した。この前の港での殺人事件の写真である。大河内はそれを取り上げ、記憶を呼び戻した。

「へいらん、ね」

 この新聞社はあくまで日本政府の広報新聞社であるから、上海でおきた民事事件を取り扱う事はない。だが、新聞記者の性と言うか、気になり始めるとそれは何なのか解明したくなるものだ。ほとんど興味本位で、大河内はあのメモの言葉について調べて見たのである。

 まず手始めに大河内は、港で殺されていた身なりに近い人間を租界区内で探し、聞き込みをしてみた。が、まったく何も情報は得られなかった。そこで華報新聞社の広岡に相談してみると、もっと下層で生きている者が世の中にはおり、そこへ聞き込みを行わないと無理だろうと言われた。広岡はとある地域と通りを指定し、ここで聞いてみるといいと言った。そこは日本租界区から少し離れた繁華街の裏、昼間だと言うのにまったく光が差し込まず、薄暗くじめじめとした路地で、入口に立った大河内も思わず足がすくむ思いだった。自分も上海在住は長く、たいていの事は知った気になっていた。しかし、ここは大河内の想像を超えた貧困層が住むエリアだ。意を決して踏み込むと、生活環境を無視した廃墟の様な有様と独特の臭いに吐きそうになった。路地には国籍人種関係なく、項垂れて座り込んでいる人間がひしめいていた。ヨロヨロと同じ場所を歩いている者、そこらあたり中から阿片の煙が上がっている。上海にやって来たものの、自分の租界区で生きて行けなくなった人間がここへ集まって来ているのである。大河内は気を取り直して、寝ている東洋人に日本語で声をかけてみるが大半「?」と言う顔をされる。いつもなら日本人と他国の人間の区別はなんとなくつくが、ここではまったく分からないのである。

「こんにちは」

「あ?誰だ」

何人目かの浮浪者がやっと反応して顔を上げた。大河内は丁寧に防止のつばに手をかけ会釈する。

「わたし新聞記者をしています、大河内と言います」

「ああ・・・」

「取材をしてまして、ご協力いただけないかと」

「?」

 浮浪者はいぶかし気に大河内を見つめる。大河内は慌てて先ほど買ってきた食べ物を差し出した。

「ええっと、あのこれよかったら」

 途端浮浪者は笑顔になり、頭を下げる。

「すまんなぁ。へえ、たい焼きかい、久しく見てなかったなぁ!」

「喜んでいただけて恐縮です」

 浮浪者は暖かいたい焼きを頭からかぶりつき、満足そうに味わっていた。大河内はしばらくその様子を見つめる。ごくりと呑み込んだ浮浪者がまた大河内を見る。しかし、その見方は先ほどとは打って変わって温和な表情だ。

「・・・で?何が聞きたいの?」

「『へいらん』って言葉に聞き覚えまりませんか?」

「へいらん・・・?へいらんねぇ。へいらん・・・」

浮浪者は、首を捻る。固唾をのんで見守る大河内。

「あ・・・」

「聞き覚えありますか?」

 浮浪者は思い出した様に頷きながら言う。

「たしか・・・斡旋屋でそんな名前の奴がいる、って聞いた事あるな」

「斡旋屋、何の?」

「日本の身分証を渡すと、中国の偽造身分証をくれる奴だ」

亡命の斡旋屋か!と大河内は頷く。上海事変や満州事変で日本政府のやり方に疑問を持った者達は多数いた。日本本土で次々と取締りに合い投獄されていると言う新聞記事は、そういった考えの者たちに深い恐怖を与え、日本国民であればいずれ自分もその対象になると考えるようになる。その事から昨今の中国や近隣諸国に亡命する日本人が出てきていたのである。需要に応えるように、様々な亡命の斡旋屋が活動しているとは聞いていた。『へいらん』が斡旋屋の名前だったと知り、大河内はすべてに合点が行った。

「まあ、俺たちみたいなもんは偽造身分証より、身分証を金にできる方がありがたい訳だがね」

 興味なさそうにそう言ってのける浮浪者に大河内は心底驚く。

「日本に戻れなくなるんですよ?いいんですか?」

「戻る?日本に戻ったって今の生き方が変わる訳じゃない。どこにいたって俺たちみたいな奴は変わらんさ。ま、あんたみたいなご立派な人には分からんだろうな」

 浮浪者はそう言って大河内の身なりを眺めて来た。大河内は自分の価値観で相手に話しかけていた事に気が付く。大河内は反省し、その言葉を受け入れ、気を取り直して質問を続けた。

「それでその斡旋屋の『へいらん』ですが、どんな人物なんでしょうか?」

「うーん・・・数ある斡旋屋の中でも結構な高値で買い取ってくれるって噂だが・・・」

「噂?」

「『へいらん』と直接会った人間は誰もここにはいないんだよ。会ったと思われる奴は、みんないなくなってる」

「という事は、無事にどこかに逃げているか、それとも・・・」

 接触した者は大陸の方へ逃げているか、もしくはこの前のように殺されているという事か。

「まあ、どちらにしても、『へいらん』という斡旋屋は、仕事をしくじったりしないという事だ」

「なるほど・・・・」

 この後、この浮浪者の証言を手掛かりに『へいらん』をさらに突き止めようとしたが、所在どころか接触したという人間さえ見つからなかった。一般紙の記者であれば、もっと貪欲に取材をするのだろうが、プレスユニオンでは記事にはならない。自分の完全な興味でしかない取材にこれ以上踏み込まず手を引く事に決めた。

 そんな事を考えていると、コンコンと部屋をノックする音がし、大河内が返事をする前にガチャリと開いた。入って来たのは、間借り元の顔なじみの記者だ。とても焦った顔をして、大河内に言った。

「大河内さん、特別高等警察の方が来ているんですが」

「特別高等警察?」

 そう言っている間に記者を押しのけて二人の男が横柄に入って来た。

「ここがプレスユニオンのオフィスか?」

 部屋の中や机の上を嘗め回す様に見る。

「室長の大河内です」

 大河内がそう言うと今度は大河内をじろじろと眺めまわした。

「英字新聞などと洒落たものを出している割には随分と地味な部屋だな」

「・・・」

 初対面の印象は最悪である。多分この先も印象がよくなるなんて事はないだろうな、と大河内は思った。

「今こちらの新聞社にも挨拶したところだが。今後上海の日本租界は特別高等警察により取締りを行う事になったので承知しておくように」

 大河内は冷静になる為に、大きく息を吸って特高の二人の警官の顔を見た。

「プレスユニオンは官公の新聞です。日本政府が伝えたい事だけでなく中国政府の伝えたいことを、偽りなく記事にするのが使命です。そもそも我々は検閲対象にはならないと思いますが?」

途端、警官の顔が不機嫌になる。連れてきた記者は青ざめた顔で大河内を見つめた。警官は大河内に詰め寄った。

「どういうものであっても新聞は新聞だ。我々が検閲することに変わりはない!」

 相手が顎を上げて大河内を見下したが、大河内も逆に胸を張り言い放つ。

「そうですか、新聞は日本大使館ならびに有吉大使の承認を得ている記事です。大使館は中国本土での政府代表権がある機関です、あなた達はその傘下で活動する身分ですよね。検閲を行う事に異議はありませんが、もし検閲で引っかかった場合には、大使館の方から意見を出してもらうことになるので、そのおつもりで」

 怒りを押さえながら、警官は大河内を睨みつけた。

「有吉大使がいる限りは安泰と思っているようだが・・・いつまで続くか見ものだな」

 大河内はしっかりとその目を受け止めて、ふっと微笑んでやった。一瞬とびかかりそうなそぶりを見せたが、もう一人に肩を叩かれ警官達は踵を返して部屋を出て行った。

「はぁ・・・大河内さん。勘弁してくださいよ。修羅場になるかと冷や冷やしましたよ」

「ははは、すいません。あまりに威張り腐っているのでつい」

 確かに自分のこの抵抗が長く続くとは思ってはいない。いずれ取締りという名の暴走を大使館でも止められない時期が来のだろう。しかし抵抗できるのなら権力を使ってでも抵抗してやるつもりだ。1秒でも長く自分は日本人として正しい事を述べていたい、大河内はそう心に決めたのだった。




 一方華報新聞の方にも特高が同じ件で来ていた。民間新聞の記者達は神妙な面持ちで特高の警官の話を聞いている。遠くのデスクから同じように聞いていた広岡だが、頭の中では次の取材先の段取りを考えていた。制服を着た男が何やら偉そうにふんぞり返って、威圧的に言葉を発している。文字にする価値のないと判断した言葉は、自然と無視する事できる広岡だった。多分であるが、ここにいる記者達のほとんどが広岡と同じ事を考えているはずだ。誰もかれも右から左に聞き流してるだけである。

「それから記者の皆さんには、我々への情報提供をお願いしたい」

 前方から紙が配られた。1枚とって順番に後ろにまわって来て、最後の一枚が広岡に渡される。

「この資料に載っているのは上海警察が今まで調べた要注意人物、要注意団体である。今後特高の取締りの対象になるものであるから、心当たりがある者はすみやかに特高へ申し出るように」

『俺たちに特高の岡っ引きになるようにとでも言うのか?上海の情報源をみすみす警察に渡す訳ないだろう』

 広岡は内心鼻で笑って資料に目を落とした。資料に載っている名前や団体にちらほら見知った名前が見受けられたが、中にはただの主婦のお茶倶楽部などもあって、酷い捜査対象リストだな、と読み進める。が、とある名称を確認して広岡は青ざめた。自分が主催している秘密結社の名前がそこに載っていた。

『まさか・・・もう掴まれたのか!』

 広岡はそこでやっと顔を上げ、前にいる警官の顔を見た。特高の警官は変わらない様子で全体を見渡しながら伝達をしているだけだ。だが広岡には、遠くから通り過ぎる警官の視線が一瞬自分を捕らえ『お前を捕まえに来た』と言われているような気がして、危機感を募らせたのである。


ーーーーーーーーーーー(↓2025年5月10日追加)

「ローズブルー・・・ここか」 

 夜の上海で一番にぎやかな大通りに面したナイトクラブの前で、大河内は看板を見上げてつぶやいた。突然「話がある」と広岡から呼び出されたのだが、店まで指定される事は珍しい。ナイトクラブ自体は付き合いで行くことはたまにあるが、日本租界外の中華ナイトクラブは来た事がなかった。そもそも日本人が入れない店が多いのだ。フランス租界区の真っ只中、周りを見ても日本人は見当たらない様子に、指定はされたものの本当にこの店で合っているのか大河内は不安になって来た。

「ニーハオ、えっと・・・?」

 入口前のカウンターに立っているボーイに恐る恐る声を掛ける。ボーイは無表情で大河内を眺めた後、日本語で言った。

「日本人?」

「・・・はい、広岡さんという人と待ち合わせです」

「・・・OK」

 え?と思う程、広岡の名前を出した途端ボーイは穏やかに微笑み頷いた。ボーイに促され中に入る。中に入ると今後はウエイターが席まで案内してくれた。すれ違う客はほとんどが西洋人で、東洋人の姿はちらほらとあるが、日本人はいないようだ。だが先ほどの広岡の名前を出した時の店員の態度を見た感じでは、広岡は常連客なのだろう。ウエイターが案内したのは、舞台に近い右側のソファ席だった。席の間隔も適度にゆったりとしていて、ホール全体では騒がしいが、席の居心地はよさそうだ。舞台の照明は落とされており、フロア中央ではピアノで居心地のよいジャズが演奏されていた。大河内はひとまず酒を注文し、広岡が現れるまで演奏に耳を傾ける事にした。

「大河内さん、お待たせしました」

「ああ、広岡さん」

 数十分後にやってきた広岡は、大河内を覗き込みにっこりと笑った。友人の登場で大河もやっとほっとする。

「突然お呼び立てして申し訳ありませんでした」

「いえ、予定もありませんでしたから、構いませんよ」

 背広姿の広岡は、やってきたウエイターに中国語で飲み物を注文する。その様子がとてもスマートで、広岡がこういう場に来慣れているという事が分かる。すぐにバーボンのボトルとグラスが運ばれ、酒を注いだ広岡は一口飲み、周りを確認するようにぐりと見渡した。

「最近は日本租界の中では心置きなく話しができる場所がないので、ここまでご側路いただきました」

「よくこの店には来ているようですね」

「ええ、まあ。ここは私の中では上海で一番安全な店ですからね」

「安全、なのですか・・・」

「新聞記者の言う、安全な場所という意味です」

 舞台の明かりが薄く付き、バンドの演奏が始まった。スローテンポな音楽に誘われ、フロア中央には人が出てきてダンスタイムとなった。一層ナイトクラブ感が増す。

「どうですか、最近は?」

 広岡の問いかけに、そうですねぇと考える。

「そうだ。港の事件の件、広岡さんに聞き込み先の助言をもらった件ですがね」

「・・・ああ、あれですか。どうでしたか?」

「ええ、おかげさまで進展しましたよ」

 大河内はこの前の浮浪者との会話の内容を話した。大河内としても記事にする気もないし、取材もこれ以上する気もない。逆に華報新聞で扱いたいのであれば、記事のネタにしてもらえばよいと思っていた。

「斡旋屋だったんですね・・・その?」

「『へいらん』ですね」

「その『へいらん』という斡旋屋が港の殺人事件の犯人だと?」

「いえ、それは分かっていません。あの殺人がどういうきっかけで誰が殺したのかまでは・・・まあ、私がそこまでの興味はないというか」

 広岡は軽く頷いた。

「『へいらん』は日本人だと言う事ですよね?」

「多分・・・分かりませんが、聞き込みをした相手は別段何も言っていなかったので」

 広岡はしばらく黙り込んで何かを考え始めた。

「まあ、その人物がどちらの人間かは置いておいてですが・・・。『へいらん』は中国語かもしれませんね」

「は?」

 大河内は驚いて広岡を見る。

「日本語だと意味が分からないですが、中国語だと意味がある言葉です、例えば・・・」

 そう言って広岡は、胸ポケットからペンを取り出し、コースターに字を書き始めた。 

黒藍、黒蘭、黒染、黒嵐、黒狼・・・

「これはすべて『へいらん』と読むのですか?」

「ええ、私が思い浮かぶ限りですが。言いたいことは中国語であれば意味があるという事です」

 そうだったのか、と大河内は納得した。やはり中国語が分かると見方も広がるな、最初っから全部広岡に相談しておけばよかった、と大河内は思った。広岡は考え深そうにそのコースターを眺める。

「これから特高の取り締まりも厳しくなるでしょうから、こう言う事を生業とする人達も増えてくるのでしょうな」

「ええ、この前特高が社にやって来ましたよ。上海でも特高を増やすようです」

「ああ、そちらにも来ましたか。うちにも来ましたよ。とうとう上海も本土のように厳しい統制が始まるんでしょうな」

 ホールの照明が落ちた。先ほどまでスローだった演奏が、トランペットの先導で軽快な演奏に変わった。舞台の中央にスポットライトがあたり、登場した派手なチャイナドレスの女性が英語のジャズナンバーを歌い始めた。フロアにいる客も楽しそうにリズムを取りながら聞いている。大河内もその歌手を見つめ、音楽に聞き入った。弾圧が厳しくなれば、こうして気軽にジャズを聞く事も難しくなるのだろう。今までできていた事ができなくなるのはとても苦痛を強いられる事だ・・・はたして我々日本人はこれからそれに耐える事ができるのだろうか・・・。煌びやかなステージを見つめながら、脳裏には事務所にやって来た特高の顔がちらつき、大河内は憂鬱な気分になった。

「大河内さん・・・」

「はい」

「大河内さんに、これを預けておきます」

 見ると机の上に大河内がマル紐で封をした厚めの封筒を差し出していた。大河内はその封筒をとりあげ、中身を見た。中には数冊のノートと冊子が入っている。

「ノートですか」

 ノートを開くと、新聞のスクラップや写真とメモ、そして日記のような文章が無造作に詰め込まれていた。スクラップは五・一五事件の記事だったり、作家伊藤十一郎の留置場での病死の記事などが貼り付けられ、その脇に『これは特高よる拷問死である』と書かれていた。あるページにはびっしりと文字が書き込まれている。

『〇月〇日20時 〇〇会館地下にて決起集会を行う。我々は上海の租界区が軍国主義に屈しない為の準備をしなければならない。その為に我々ができる事は・・・・』

 パラパラとめくると、同じような集会が行われており、いわゆる秘密結社の記録のようである。

「これは・・・秘密結社の証拠品ですね」

 集会での議事録が細かく記載されており、メンバーと見られる写真まで入っていた。これはかなり信憑性の高い秘密結社の証拠ではないか。

「さすが広岡さん・・・一体こんなのをどこで入手したんですか?」

 ノートの間からぱらりと写真が落ちた。拾い上げてみるとどこかの部屋で撮った集合写真だ。名前の記載はないが、租界区の住人であれば探し出すのは簡単だろう。しかしなぜ、こんなスクープを広岡は自分に渡して来るのだ?そう思って広岡を見返した。

「入手したんじゃありませんよ。これは私のものです」

「え?」

「私の主催する秘密結社のものです」

 大河内は唖然として広岡を見つめた。そんな大河内を見て、広岡は鼻で笑いながら写真を指さした。

「ほら、ここにいます」

 大河内が写真に目を戻し、大河内の指の先を辿ると、真ん中に広岡がいた。

「あなたが・・秘密結社の主催ですって」

 今までの広岡の印象は、新聞記者としての信念は持ってはいるものの、世の中を俯瞰して見ているようで厄介な事はのらりくらりとかわして生きているというものだった。まさか秘密結社を作り、反戦活動を主導しているなど夢にも思わなかった。広岡は大河内が手にしている資料を見ながら口を開く。

「このスクラップの中には、取材や聞き込みで得た大日本帝国政府の隠ぺいや嘘について記事にする事ができないような証拠があります。本土や上海、天津や満州で取材をする中で、日本政府が今行っている政のその先にあるのは、我々日本人という人種を破滅に導くものであると分かり、私は自分の胸にしまっておく事ができなくなったんです。なんとしてでも、日本人は正しく今の状況を知るべきなんです」

「それで、秘密結社を作ったんですか・・・」

 広岡は静かに頷いた。バーボンをグラス一杯に注ぎ、一気に煽る。そしてふうっと大きくため息を着くと、興奮した口調は消えいつも通りの飄々とした雰囲気に戻った。

「さっき、わが社にも特高がやって来たと話しましたが、彼らの資料にこの秘密結社の名前がありました。重要容疑者にはその主催者・・・つまり私の事が載っていたんです」

「特高はそれが広岡さんだと突き止めているんですか?」

「いえ、多分まだでしょう。しかし、時間の問題だと思います」

 あまりにも性急な展開に大河内はただただ驚く事しかできない。

「大河内さん、私はあなたを信頼できる新聞記者としてこの資料を預けたい。この資料の内容は、いつか日本がまともな思考に戻り受け入れる世の中になったら、貴重な歴史の証言となるでしょう。闇が晴れるその時まで、この資料を残したい。あなたなら、この資料を隠し通せるはずだ」

「広岡さん・・・あなた」

 大河内の言いたい事を察して、広岡は清々しく微笑んだ。

「なあに、見つかるまでは今まで通り、華報新聞社の記者であり続けますよ。しかしその時が来たら・・・私は潔く捕まり、今の大日本帝国のやり方を盛大に批判して散ってやると心に決めています」

 目の前にいる人物は、本当に今まで付き合ってきた華報新聞社の広岡なのか。大河内は自分が広岡という人間の一部としか付き合っていなかった事を思い知った。いや、広岡だけではないのだろう。結局人と付き合うと言うのは、その人の一面と付き合うという事なのだ。相手の違う側面を知った時、人は一体どう受け入れ、どう向き合うのだろうか・・・。

 大河内は広岡の覚悟を決めた横顔を見る。そして封筒に目を落とし、そっと自分の目を閉じた。しばらくの沈黙ののち、大河内は目を開いた。

「・・・生きていて欲しいです」

「え?」

「私は・・・あなたに生きていてほしい」

 そんな事を言われるとは思わなかった広岡は真意を探るように大河内を見た。

「恥ずかしながら、私は今まで広岡さんのような広い視野で世の中を見ていなかった。先の事は先の事であって、今起こる事が何よりも重要だと思っていました。闇が晴れる・・・その時までに今何をするのか・・・。広岡さん、あなたの言う通りだ。いつになるのかは分からない、それまで自分達が生きているのかも分からない、でも。この闇はいつか必ず終わります。その時には間違いを追及する生き証人が必要です、もちろん私も追及します。私はその時まで生きていたい。そして、その時にはあなたも一緒にいて欲しい」

「大河内さん・・・」

「これまで警察の目を盗んで集会をやって来たんでしょう?潔く捕まるなんて綺麗事を言う資格なんてもうあなたにはないんですよ。ここは泥臭く足掻いて生き延びる事を考えるべきじゃないですか」

 ニヤリと笑う大河内を驚きの表情で見つめていた広岡だったが、ふっと噴き出して笑い始めた。 

「・・・ははは、いやぁ今気が付きましたよ。あなたは私と同じ人種だったんだってね」

「我々はお互いの一面しか知らなかったという事ですな」

「あなたと言う人の心根を知ることができて、うれしいです」

「私もだ」

 二人は笑い合うと、グラスを合わせた。なんだかもう恐れる物はない、そう言う清々しさを覚え、体が軽くなった気分だ。

「きっと、いい方法があるはずです。考えましょう」

「ありがとう、大河内さん。あなたにお任せます」

 広岡は素直に大河内に会釈した。広岡も満足げに頷いた、とは言えだ。特高が広岡の事を突き止める前に動かなければいけない。さて、どうしたものか・・・。ふと先ほどの『へいらん』の話を思い出す。

『もし”へいらん”が見つかれば、なんとかなるのかもしれない』

 一つの可能性として、大河内はある人物へ相談をしてみようと思った。



 フランス租界区にあるモリス邸では在北京英国大使館からの視察団の晩餐パーティが催されていた。中国国民党の幹部や英国領事館や在上海の英国人が集まり和やかに談笑をしている。そのパーティーに歌手として彗麗が呼ばれていた。パーティーの要所要所で英語や中国語での歌をピアノの横で歌い、歌わない間はゲストに混じって談笑する。単純に華を添える役割ではあるが、こう言う場に自分が呼ばれる場合は別の意味が含まれてる事を知っていた。つまり国家として内密な情報を取り扱う場であったり、要人の保護が重要だったりする場合だ。しかし、彗麗が見る限り、中国と英国だけの集まりではあるが、それほど重要な取り決めが行われるような雰囲気はなかった。となると、もう一つ考えられるのが・・・

「林彗麗、久しぶりね」

 彗麗が英大使と談笑をした後、汪兆銘の秘書である斎遥芬が彗麗に近寄ってきた。

「あら、行政院長の付き添いかしら?」

「ま、そういう事ね」

 奥の方で、英国大使と談笑している汪を見る。斎遥芬とはそれほど親しい訳ではない。こういったパーティーや、たまたま一緒の会議に呼ばれた時に顔を見る程度である。

「あなたに、ちょっとお願いがあるの」

「それはあなたのボスからの話?」

「まあ、そうね」

 やっぱりそっちだったわね。つまり今回彗麗を呼んだのは、お仕事の方だったという事だ。

「なにかしら?」

「ある人物を探してほしいの。その人物は日本人に偽造した中国身分証を売って国内に逃がしている斡旋屋らしいわ」

「・・・斡旋屋?」

 彗麗はちょっと驚いて斎遥芬を見た。斎遥芬はグラスを見つめたまま頷いた。

「ちょっと引っかかるのが・・・聞いた話ではその斡旋屋は斡旋する日本人に日本の身分証を交換条件にしているようなのよ」

「そうなの」

 彗麗は話の方向が見えてきた気がして、グラスを口につける。 

「その人物は日本人?中国人?」

「どちらか分からないようなのよね。でも、仮に斡旋屋が日本人だったとして、取り上げた身分証を何に使うのかしら?」

「あなたはその人物が中国人じゃないかと思う訳ね」

 それには明確に返事はしなかったが、そういう事なのだろう。

「なにか情報は?」

「その人物は『へいらん』と呼ばれているようなの。聞いた事ある?」

 彗麗は思わず苦笑いをする。兄さん、随分と有名人になったこと。

「そうね・・・で、その『へいらん』が見つかったら、どうするの?」

「頼みたい事があるの。もちろん、その斡旋屋にとっても悪い話じゃないわ」

 彗麗はちらりと斎遥芬を見る。斎遥芬も彗麗に目を合わせた。まあ、この秘書さんも大方政府関係者ではないかと言う目星はついているのだろう。彗麗は斎遥芬を見ながらニコリと笑った。

「心当たりを当たってみるわ」

「よろしく」 

 そう言って斎遥芬もニコリと微笑み、ワインを一口飲んだのである。


 楊傑にとって、所属機関からの公式な呼び出しは面倒ごとが増えるというイメージしかない。指定された建物に入ると、自然と大きなため息が出た。呼び出しの手紙をよこした彗麗にどんな話なのかを聞いたのだが『詳しくは分からないから、行って聞いてみて』と素っ気なく返されてしまった。指定された場所は政府の施設ではなく、会員制サロンである。

「お客様が来られました」

 受付の案内係に連れられて部屋に入ると、そこには中国人の男女がいた。男性の方は大分年配で、女性の方は彗麗と同じぐらいの年齢のようだ。どちらもスーツ姿でいかにも政府関連の人間と言う感じである。

「汪兆銘秘書官の胡信だ」

「同じく斎遥芬です」

「軍統の楊傑です」

 三人は顔に笑みを張り付けて握手した。汪兆銘の秘書だって?国民党の行政院長が一体自分になんの用なんだ?諜報員の所属する軍統は蒋介石直下の部門で、汪兆銘とはほぼ関連がない。確か彼には彼所有のなんとかという諜報部門があったはずだ。そっちに頼まないとはどういう事か。

 ソファに向かい合って座ると、胡信はまっすぐ楊傑を見つめ、斎遥芬は紐とじ表紙のファイルを開いた。

「君はなぜ汪兆銘の秘書が自分を呼び出したのか、疑問に思っているだろうね」

「ええ」

 素直に返事をすると、二人は苦笑する。どうやら初対面の印象は悪くないようだ。斎遥芬が笑いながら言う。

「林彗麗に協力してもらって、『斡旋屋』なる人物を探してもらっていました。もう少し時間がかかると思っていたのです。まさか彼女のお兄さんだったとはね」

「そういう事だったんですね、あいつ、何も教えてくれなかったものですから」

 今度は胡信が口を開く。

「君は『へいらん』という名前で、日本人を中国国内に逃がす斡旋屋をやっているそうだね」

「ええ、任務の一環です」

「どういった任務なんだね?」

 どうやら、日本人を助けているように思われて呼び出された様子である。楊傑背筋をのばして説明した。

「我々の仲間を日本の主要箇所に潜入される為に大日本帝国の身分証が必要だからです」

 なるほどと二人は頷いた。が、また胡信はいぶかし気にさらに尋ねて来る。

「その日本人達を逃がす時、中国の身分証を渡しているそうだね?君の腕なら奪ってしまう事だってできるはずだろう?なぜだね?」

「渡しているのは偽装身分証です。もう一度言いますが、私のこの活動は大日本帝国の身分証を手に入れるのが目的です。金ではなく、身分証を出させるのは他にもある斡旋屋に比べて警戒される場合が多い。相手を納得させる為に交換条件として中国の偽装身分証を渡すと言うのは、優位な条件として掲示できるんです。暴力で奪わないのは、事件になって日本の警察が動いたりしたらやりにくくなるからです。それに、逃げた日本人が偽装身分証を使って何かトラブルになったとしても、私には関係のない事ですから」

「つまり君は任務遂行の中で、日本人から力ずくで奪うより、身分証を交換条件にして逃す方が全体の影響を考えて最善の方法であると考える、そういう事だね」

「はい、彼らがどうなろうかは知った事はありません。日本人を逃がす?そんなつもりはありません」

 胡信は少々困惑して頷き、斎遥芬を見た。今の回答が気に入らなかったのか?彼らは一体自分に何を求めているのだ?楊傑も内心困惑した。斎遥芬は持っていたファイルを一旦机に置き、鞄から国民党の印字の入った封筒を取り出すと、楊傑の前に差し出した。

「なんです?」

 楊傑が封筒を取ると、斎遥芬は静かに話し始める。

「知っているとは思いますが、汪行政院長は日本との関係回復を模索して日本大使と対話を重ねています。残念ながら、党内では抗戦派が大多数で支持は得られていないのですが・・・」

「ええ、知っています」

「その事で行政院長には沢山の日本人の知り合いがいます。今回その中の日本人から、ある人物を助けてほしいという依頼があったんです。その人は、現在特別高等警察の容疑者となっていて、時間があまりありません。捕まったら確実に死刑になるでしょう」

「その人物を逃がしたいという事ですか。どういう容疑なんですか?」

「思想犯です。上海で反戦を訴える秘密結社を主催していたそうです」

 それなら大陸内に逃がしても、我々側に害が出る事はないだろう。楊傑はすんなり頷いた。

「いいでしょう。なんとかやってみますよ」

 楊傑としては、いつも通りのやり方で逃がそうと思っていた。封筒の中身を出してみる。そこには逃亡させる日本人の写真とプロフィール、それに中国の身分証が入っていた。

「これは・・・」

手触りが違う。これは本物の中華民国発行の身分証である。開いてみると、すでにその日本人の写真が貼ってあり、国民党の党印が押してある。そして『この者は中華民国国民党より保護を受け、中華国民はこの者に危害を与える行為を禁ずる』つまり、国民党が逃がしたこの日本人の身柄を保護し保証する、言う事である。

「政府が公認で、この日本人を助けると?」

「そうです」

 楊傑はあまりの事に、あんぐりと口を開けて二人を交互に見返した。いくら政府関係者の知り合いと言っても、日本人を公的に保護をするというのは聞いた事がない。

「この人は日本の新聞社の記者です。我々ともよく知った間柄で、日本大使と我々との会談や記者との情報交換などでの日本語の通訳や翻訳をしていました。中国についてもいい面悪い面両方をよく理解しています」

「彼は我々の友人なんだ。和平の会談にも尽力してくれた。今の日本の軍国主義に潰されてしまったら、我が国としても大きな損失となると思う」

「しかし、政府が公認で逃がす価値がある人物・・・なんでしょうか?それとも他に目的が?」

 楊傑の問いに、胡信はいい質問だと思った。

「行政院長はこの先どういう状況になったとしても、いつか両国が歩み寄れた時に正常な意識を持つ人間は日本人であれ中国人であれ残さなければいけない、と言う考えだ。この人物は将来の関係構築の為にも生かしておきたい人物だと、我々も同意している」

 斎遥芬が慎重な面持ちで追加する。

「大きい声では言えませんが、日本大使も同様の意見です」

 ずいぶん壮大な話、そして確かにこれは国家的任務であると言う事は十分に分かった。一応任務の内容としては納得できたが、疑問点はまだある。

「この任務がこの日本人を国内に逃がすという事は分かりました。しかしなぜ私なんですか?」

「なぜ?」

「だって、行政院長の直下にだって同様の任務を遂行できる人物はいるでしょう?なぜわざわざ管轄外の軍統の私に頼むのです?」 

 これには胡信も斎遥芬も困惑したようだ。斎遥芬が確認するように尋ねる。

「あなたの事を事前に調べさせてもらいました。あなたは、日本人ですよね」

 久々に言われた言葉だった。楊傑は少し顔をしかめて頷いた。

「ええ、そうらしい。あまり記憶はありませんが」

 胡信は当たり前のような口調で言った。

「この任務は中華民国と日本の将来を繋ぐ目的がある。だから君が最適任者だと見込んだん訳だ」

「どうしてです?」

「どうして?」

「私が日本人だからって、なぜ私が日本人を助ける事の適任者と思ったんですか?」

「それは・・・」

「私は日本人の親に捨られ、瀕死だった所を養父母に拾われたんです。私に残っている日本の思い出は何もないばかりか、恨みしかない。私は確かに日本人ではあるが、れっきとした中国人です」 

 何もない中国大陸の真ん中でトラックから突き落とされた時の驚きと、両親が自分を捨てたという事が分かった時の絶望感だけは幼い記憶の中にあっても、思い出すと今でも気分が悪くなる。もちろん自分が日本人であると言うのは、当局の限られた人間しか知らない事だ。気づいているかもしれないが妹の彗麗にも言っていない。正直、面と向かって「お前は日本人」と言われるのは楊傑にとって不快でしかないのである。 

「私は中華民国国軍事委員会調査統計局共謀員、任務は対日本諜報活動。その一環で日本人を利用しているにすぎません。私は日本という国に対して何の感情も持ち合わせてない」

 同じ事を以前どこかの誰かに言った気がした、と楊傑は思った。楊傑と胡信はしばらくお互いの目を離さなかった。胡信は納得したのか数回頷くと、楊傑から目を離す。

「分かった。君の言葉とその覚悟は、我が国の諜報員として至極当然であり、誇らしく思う。では、こうしよう。君は軍統と我々行政院は直接の関係はないと言うが、行政院も国民党の同じ組織だ。そして我々には正式に中華民国国民の身分証を発行する権限がある。今君は偽造した身分証を作って任務を行っているが、我々が正式な身分証を発行し君に提供しようじゃないか。君は中華民国にとって無害であり、将来有益になると思う日本人を見つけ国内逃亡を政府として手助けする任務を遂行する。どうだ?」

 つまり自分がやっていた仕事が正式な任務となったという事だ。今まで以上に日本の警察の目をかい潜らないといけなくなるが、それはそれほど難しい事ではない。断る理由は何もないように思える。

「いいでしょう、その任務お受けします」

「納得してもらえてよかったよ」

「それで、今後はどのようにすれば?」

「我々から要請する場合は今回使ったルートで伝える。それ以外は条件に合った人物であれば、君の判断に任せるよ」

「了解しました」

 楊傑は入ってきた時と打って変わり、心から笑顔を作ると二人と固い握手をした。さて、初仕事であるこの人物をまずはどう逃がそうか・・・そんな事を考えながらドアに向かって歩くと、後ろから胡信が声を掛けて来た。

「楊傑君」

「はい?」

 振り返ると、胡信がまるで息子を見るかのような目をして楊傑に微笑んでいた。

「君はまだ若い。いつか分かるよ、この先いろいろと知る事になるだろう」

「・・・・」

 ペコリと一礼をした楊傑だが、その言葉をどこかで聞いたように思った。



 周が租界区からの原稿の回収を終えて華報新聞に戻ってくると、身なりのいい壮年の夫婦と思われる日本人が車から降りて来た。入口で待ち構えていた社員が丁寧に頭を下げて二人を社内へと案内する。有力者だろうか、何か仕事の話かな・・・と思いながら、周は原稿の入ったカバンを持って、編集局へ上がって行った。

「どうも、戸部さん。お待ちしておりました」

 夫婦が通された応接間では、華報新聞の坂本支社長と伊藤編集長、そして広岡が待っていた。戸部夫妻つまり万里子の両親だ。日本租界区の病院の医院長で、経済界にも名を連ねる有力者だ。支店長が戸部夫妻に席を勧めて座り、その後社の二人も向かいの席に座る。広岡は夫妻側の横あたりに立って話を聞く事にした。夫妻の夫の方が早速不満そうに口を開く。

「坂本さん、もう一か月近く経ったのですよ。何も情報がないというのはどういう事ですか?」

「情報については沢山寄せられています。しかし、ほとんどがガセでして」

「ほとんどが懸賞金目当ての偽情報か、人違いなんです。なにぶんお嬢様の覚えているだけの情報ですので、写真などがあればいいんですが」

 今度は婦人の方が歎願するように言う。

「うちの娘がやっと好きな方を見つけたんですのよ。私達としても探し出してお会いしたいんです。何か他にいい方法はないんでしょうか?」

 そうですねぇと考え込む支店長と編集長。広岡にはそれがただの『ふり』だとすぐに分かった。情報提供だけに頼っている訳ではない、新聞社の記者も取材の合間に聞き込みをしているのだ。つまりプロが動いているのに何も情報がないというのは、もう上海にはいないと言うのが社の見解である。副支店長が言いにくそうに提案をした。

「それでは、もう一度広告を出しましょう。それから、我々記者も動員させます。それでいかがでしょう?」

 他に方法がない訳だから、二人も承諾せざるを得ない。

「それでお願いします。懸賞金については倍額にしましょう。もちろん、記者の方々も見つけた場合は同額の懸賞金を支払います」

 それを聞いた編集長は思わず「おお」と言う顔で広岡を見た。広岡も二人に見えないようにニヤリと笑い返した。

「娘の為に必死ですな」

「そりゃ、一人娘の大恋愛だからね、親心っていうもんだ。ま、よろしく頼むよ」

「はいはい」

 編集局に戻った編集長と広岡は談笑しながらそれぞれの席に戻った。広岡は部屋の入口近くの休憩場所で、御用待ちで座っていた周に中国語で声をかけた。

「周さん、ちょっと協力してくれるか」

「はい、なんでしょう?」

「例の人探しの先生の親御さんが今しがた訪ねて来てね、懸賞金を倍にすると言って来た」「・・・ああ、あの人ですね。まだ、見つからなかったんですね」

 周はわざとらしく笑った。

「そこでだ、中華の新聞にも人探しの広告を出そうと思うんだよ」

「え・・・?」

「そういう場合は、俺が書くより周さんが書いた方が説得力があると思うんだ。見つけたら俺たちにも奨学金が出るそうだから、その時は山分けとしようぜ」

「あ、あの・・・。中国語であの人探しの広告を出すんですか?なぜです?探している人は日本人なんでしょう?」

「これだけ日本租界に出して情報がないんじゃ、すでに上海を離れているか、徴兵されたかもしれない。だが、もう一つの可能性として中国人かもしれないというのも無きにしろあらず、そう思わないか?」

「・・・まあ」

「先生が出会ったのは事故を助けてくれたその一瞬。たまたまその時の日本語がうまくて、日本人だと思い込んでいるだけってのも考えられるだろう」

「・・・・そうですね」

 周から血の気が引く。広岡は徐々に楊傑に近づいてきている。広岡は華報新聞の中で強烈な異端児だが、記者としての鋭さも群を抜いている事も周はよく分かっている。彼が本気を出したら楊傑を見つけてしまうかもしれない。それに懸賞金が倍というのは、日本人にとっても大金だが、中国人にはとんでもない金額になる。それを目当てに血眼になり探す人間は多いはずだ。これは本当にまずい展開になってしまった。

「分かりました。何社かに尋ね人の広告を出してみます」

「請求書は全部俺当てに出してくれ、頼んだぜ」

 そう言って広岡に背中を叩かれた周は作り笑いで頷いたが、内心はどうにかしなくては・・・と焦っていた。


 

「どういう事よ」

「どういうって・・・こういう事だよ」

「どうする気?」

「どうする気と言われてもだなぁ・・・・」

 楊傑は困った顔で、鬼の形相の彗麗をチラリと見た。周にフランス租界区のカフェに連れ出されたまではよかったが、そこに彗麗が腕を組んで待ち構えていたのである。庭園のパラソルの下、大きな帽子に小花のワンピース姿の彗麗は人目を惹く程の美しさだったが、その姿を見た楊傑には、赤龍が火を吹いて威嚇しているようにしか見えなかった。楊傑は戦々恐々とした思いでテーブルに着いた。周も同じテーブルに着いたが、なるべく巻き込まれないように少し椅子を離していた。元々周は彗麗に雇われた者である。周は今回の自体をどうしたらものか、と彗麗に相談に行った。話を聞いた彗麗はまずは疑われない為にも広岡の指示通り人探しの広告は出す様に周に言った。ただ楊傑が見つかる前に何とかしなかればならないだろう、という事で作戦会議となったのである。彗麗は今までの経緯を周から聞いたのだが、まさか常に冷徹で沈着な兄が女性がらみで不手際を起こす事など想像もつかなかった。

「紳士的な事はいい事だけれど、ちょっと目立ちすぎよね」

「じゃあ、どうすればよかったんだ?あの人が馬車に引かれるのを見てろと?」

「まあ・・・確かにそんな事していたら、私は軽蔑しますけど」

「だろ?」

 彗麗としても、楊傑がやった事は素敵だと思っている。

「・・・まったく、女性の扱いに関しては経験が足らないのよ。もっと遊びべきね」

 彗麗はため息をつく。

「・・・・」

 何も言い返せず考え込む楊傑の姿は、この二人以外の人間はなかなか見る事はないだろう。話が本題になかなか入らない事に痺れを切らした周が割って入る。

「とにかく、見つかる前に何とか収拾しないと・・・こんな事で日本側にあなたの正体がバレれたら、お粗末すぎて目も当てられません」

 楊傑は若干投げやりに答える。

「何とか見つからなければ、最後は諦めるだろうさ」

「いえ、あれは見つかるまで探し続ける覚悟ですよ。なんせ家族総出ですしね」

「そうなったら彼女を・・・」

「まさか口を封じるとか言わないわよね?」

「・・・・」

 どんどん険しくなる彗麗の顔を、困った表情で楊傑は見返した。

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

「自分が捲いた種でしょ、ちゃんと考えて」

 楊傑は助けを求めるように周を見る。周もどちらかと言えば楊傑に同情しているので、なんとか思いつく事を口にしてみた。

「そうですね・・・・戸部先生に、何とかあなたの事を諦めてもらうしかないでしょうね」

「諦めてもらう?」

「例えば、彗麗さんと恋人のフリをして戸部先生に見せつけて・・・」

「「嫌です」」

 綺麗に声をそろえて拒否する二人に、周はため息をついて黙り込んだ。それでも楊傑は周の『自分の事を諦めてもらう』作戦にピンと来たのである。手っ取り早く、どうしたって諦めるしかない方法が一つある。

「そうか・・・これを使うか」

 楊傑は内ポケットから、この前港で奪った日本人の身分証の内の残っていた一冊を取り出したのだった。



 戸部万里子は、自宅の居間で目の前に広げられた品々を呆然とした眼差しで見つめていた。その日、突然警察が戸部家にやってきて、

「お嬢さんがお探しの方らしき人物が見つかりました」

 そう言われた。歓喜したのも束の間、警察官は居間に揃った戸部家族の目の前に、汚れた衣服や小物などを並べた。

「これは一体・・・」

 戸惑いながら警察官に聞くと、静かに説明し始める。

「中華警察から連絡がありました。蘇州で日本人旅行者と思われる男性が、交通事故で亡くなったそうです。この時期ですから遺体は当局の方ですでに荼毘に伏され保管されているそうです。当局に身元確認の為、遺留品のみ送られてきました」

 万里子は目の前に置かれた茶色の背広手に取った。確かに色には見覚えがある。そして、あの時破れた袖と同じような箇所が破れており、継ぎ当てがしてあった。

「どうです?見覚えはありますか?」

「ええ・・・確かに・・・見覚えがあります。似てる気がします、でも。でも、これだけであの方かどうかは・・・」

 すると警察官は置かれた遺留品の中から身分証を取り上げた。事故の時の衝撃か、身分証は所々折れ曲がっており損傷が酷い。警察官は写真のページを開いて万里子に渡した。

「この男性ですが・・・」

 写真も状態も折れ曲がっていたり擦り傷があったりしたが、そこにはあの時自分を助けてくれた男性の顔があった。万里子は悲痛の表情を浮かべる。万里子の様子を見て察した両親も落胆の表情を浮かべた。

「残念です」

 万里子の中で、大きな何かが抜け落ちた。なんと言えばいいのか・・・落胆でも、虚しさでも、悲しみでもない・・・無。万里子は身分証の写真を手でなぞった。あの一瞬で見た真剣な顔、やさしい笑顔・・・・お会いしてもっといろんな表情を見たかった。もっといろんなお話をしたかった。あなたの事をもっと知って、私の事も知ってほしかった。

 万里子は背広をもう一度を手に取りしばらく眺めた後、あの時の感触を思い出すようにその服を抱きしめたのである。



 深夜のフランス租界区。

 街灯の明かりも避けるようにして、帽子とコートで顔を隠しながら一人の男が足早に歩いていた。男は突然止まり辺りを見回した後、路地へと入って行く。そして一つの建物のドアを見つけると、ぴったり寄り添い顔を上げた。広岡である。広岡はメモを確認し、ドアを教えられてた手順でノックした。メモを握りしめ待っていると、ドアが開く。入口は真っ暗で、広岡は伺う様に辺りを見渡し慎重に中に入っていった。数歩中に入った時、背後でドアが閉まる音がし、明かりがつく。まったく人がいる気配を感じていなかった広岡は驚いて振り返った。ドアの前に楊傑が立っていた。広岡は見てすぐに分かった。

「『黒狼』・・・ですね?」

 なるほど、例のご令嬢が探していたのはこの男に違いない。あーあ懸賞金は貰い損ねちまったなぁと少々残念に思った。楊傑はにこやかに広岡を迎える。

「いらっしゃい、まあ座ってください。ここはフランス租界区ですから、日本政府は手出しできません、ここは安全ですよ」

 広岡は黙って頷く。この先へ進めば、自分は日本を捨てる事になる。それでも、生き延びてみる事に掛けてみるのもいいじゃないか。ねえ、大河内さん。

 広岡は頷くと、部屋の中へ入って行ったのであった。


                                         黒狼 終わり

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