三島武吉(1)
・本小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
・当時、中国の事は支那と呼んでいましたが、本小説では中国、中華という表現で統一いたします。
・話の中の用語については、登場人物&年表&用語集のページに記載していきますので、分からないって方は見てみてくださいね。
ではお楽しみいただければ!
2024/5/25 続編の都合上、一部話を書き換えました。
一九三二年七月某日
上海埠頭
黄浦江の上海埠頭に、赤と黒の大型旅客船がゆっくりと接岸を始めている。
下船の準備を整え、船内扉からデッキに出てきた三島武吉は、突然目の前に広がった異国の都会に目を見開いて立ちすくんだ。レンガ造り西洋式の建物が川に沿ってズラリと並び、まるでヨーロッパに来たかのようだ。街並みは船の旅行パンフレットや絵葉書で見てはいたものの、実際目の前で見るのでは迫力が違う。空気も匂いも日本とはまるで違い、すべてが初めて見て感じるものだった。
「これが上海か・・・」
しばらく唖然として眼下に広がる景色を見ていたが、下船の案内が聞こえ乗船客が移動を始めた事に気が付き、帽子を被って荷物を持った。旅慣れた夫婦の後ろについて、ゆっくりとタラップを降りる。身分証を見せてゲートを通過し、埠頭から広めの桟橋に進むと、陸地からの迎えや人力車の客引き、物売りなどの人々が待ち構えており、桟橋に入るなりあっという間に取り囲前れてしまった。三島の荷物を強引に引っ張ったり何かを一生懸命言ってくるのだが、いかんせん中国語は分からない。
「い、いや・・・私は・・・」
気後れして立ち止まっていると、その人だかりをかき分けて一人の男性がにこやかに三島に寄ってきた。
「三島さんですね?」
「はい、瀬戸さん・・・ですか?」
「ええ、はじめまして、上海学務課の瀬戸です」
「こちらこそ、三島武吉です。よろしくお願いします」
瀬戸は慣れた様子で客引き達を制しながら、三島が進めるように道を作る。それでも次から次へと声を掛けてきて、もし三島一人だったらそこから抜け出す事も難しかっただろう。
「お疲れさまでした。旅は快適でしたか?」
「ええ、神戸からだったので二日間だったんですけど、実によい船旅でした」
日本郵船「日華快速船」は、長崎と上海間を一日で結ぶ定期船であったが、関東方面からの場合、神戸港から長崎までの国内航路があり、乗り換えなしで上海まで行くことができる。観光航路を意識した旅客船なので船旅も快適に設計されていた。
「船酔いしませんでした?」
「三保の漁師町の出身ですから、船には慣れてます。あんな大きな船の揺れなんて揺れの内に入りませんよ」
「三保って静岡のですか?広重の浮世絵の?三保之松原の?」
「ええ、そこです」
「そうでしたか。珍しい地域からおいでだ、初めて会いましたよ。いや上海は九州の人間が多いんです、『長崎県上海市、下駄ばきで行ける外国』と呼ばれてるぐらいですからね」
「そうなんですか」
大通りまで降りるとそこに瀬戸が用意していた人力車が待っていた。瀬戸が手を上げると車夫がペコリと頭を下げて、三島の荷物を受け取る。二人が乗り込むと人力車は出発した。通りの真ん中は路面電車、その周りを車と人力車、自転車と人が往来している。交差点ではインド人が交通整理をしていたが、通りは縦横無尽だ。どういう秩序があるのか分からないが、これだけの交通でぶつからないで往来しているにはすごい。しかし地元ののんびりした田舎しか知らない三島は、そもそもこんなに沢山の車や人を見た事がない。クラクションを鳴らしスピードを出した車が人力車の横をすり抜ける度、ぶつからないかひやひやして気が気ではない。思わず鞄を両手で抱きしめていた。
「どうです?上海は」
「え、ええ・・・」
「うるさいでしょう?」
「ええ、何分田舎者なもので・・・・都会ですねぇ」
「ここは上海でも一番にぎやかな場所ですからね。ま、すぐに慣れますよ」
瀬戸はそう言って笑った。
上海では最近日本人の移住者が急激に増えていた。官僚や軍人だけではなく、金融商社など一般企業の進出、異国の地で一旗揚げようと渡ってきた一般人などが増え、公共機関も今までの規模のものでは廻らなくなり、新設する動きとなっていた。三島はその流れで新設された尋常小学校の国語教師として赴任する為、上海にやってきたのである。片田舎の教師が海外の学校へ行くなど、さぞや志を持って来たのだろうと思う所だが、三島には何の気負いもなかった。日露戦争勝利以降、国内は軍事主義を支持する気運が高まっていた。新聞紙面には諸外国における日本の活躍を称賛する記事ばかり並び、人々はそれを誇らしげに受け止めている。しかし三島の中では懐疑的な思いがあり、世の中の空気を重苦しく思っていた。そして近年、とうとう教育の現場にまで軍事主義の影が迫って来たのである。本当かどうか分からない事を子供たちに教える事に抵抗感を覚え、学校をやめようかと思っていた。そんな時、知人から上海の学校で教師をしないかと誘われた。海外ならこの空気から逃れられるのではないか、というごく軽い気持ちで受けたのである。
「今日はこのホテルでゆっくり休んでください。夜に夕食にお誘いに来ますね。宿舎と学校は明日ご案内します」
瀬戸はそう言って先に人力車を降り、車夫に金を払うとホテルの中へ入った。人力車を降りると車夫は三島の前に荷物を下ろし次の客を見つけに走り去って行った。一人になった三島は改めて周りを見渡した。本当ににぎやかというか・・・騒がしい。あまりにもいろいろな音が混ざりすぎてそれを聞いているだけでも疲れてきそうだ。
「本当にこの街に慣れるんだろうか・・・」
ため息をつき、不安げに周りを見渡す。と、道の反対側で人力車を止める人に目が留まった。白いワイシャツと麻のスラックス、サスペンダーにパナマ帽といういで立ちの男性だ。三島からは後ろ姿が見えていたのだが、なぜかその姿に親近感を覚えた。その男性は車夫に値段交渉をしており、車夫が納得して頷くと料金を手渡し車に乗り込んだのである。
「え?・・・・岩田の伯父さん?」
車に乗り込み、その男性の横顔が見えた時、一瞬自分が異国にいる事を忘れてしまった。その顔は地元の近所に暮らす伯父の岩田三郎だったのだ。もし顔立ちだけが似ていたならそんなに驚かなかっただろう。その男性は背格好や車夫と話しているしぐさや雰囲気もつい最近まで会っていた伯父そのものだったのだ。
「あ・・・」
三島は慌てて駆け寄ろうとしたが、車のクラクションを鳴らされ立ち止まり、往来に遮られる。その間に伯父らしき人を乗せた人力車は走り去って行ってしまった。
「あれは・・・三郎伯父さんだよな。上海に来てるなんで聞いてないけど」
三島は目に残った先ほどの人物を思い返す。どう考えても伯父だったように思われる。普通だったら親戚の日本人が外国にいるなんて到底思わないだろうが、あの岩田三郎という伯父であれば、突然上海に来ているという事もあり得ない事じゃないのだ。
「どうしました三島さん?」
チェックインを済ませて鍵を持って出てきた瀬戸が三島を覗き込んだ。
「え、ええ・・・・知り合いがいたような気がして」
「ははは、沢山の人がいますからね。似ている人もいるでしょう」
そうですよね、と三島も笑ったがやっぱり気になる。
「このホテル電話はあるんですかね?」
「ええ、あると思います。聞いてみましょう」
「お世話になります」
後で伯父の所に電話を入れてみよう。三島はそう思ってホテルに入って行った。
「はい、〇〇商店です」
「あ、咲子さん。武吉です」
「あら、武吉さん?電話なんてどうしたんです?」
「ちょっと聞くけど伯父は今上海に来ているかな?」
「上海?・・・いいえ、社長は事務所にいますけど?」
「え?」
「お待ちになって」
「・・・・もしもし、武吉か?」
確かに電話の向こうにいるのは伯父の岩田三郎だった。
「伯父さん・・・日本にいますよね」
「お前どこかから掛けてるんだ?」
「上海です」
「・・・おお、着いたのか。変わりないか?」
「ええ、今着いた所で。ホテルから掛けてるんです」
「そうか、それでどうしたんだ?」
「あ・・・いえ。うちの家族に無事着いたと連絡してもらおうと思って」
「分かった、伝えておく。いいか、くれぐれも身辺に気をつけろ。そこは日本ではない、分かったな」
「はい、また電話します」
「うん」
ガチャリと電話を切る。伯父は日本にいた。やっぱりあれは他人のそら似だったか。まあ世の中には同じ顔の人間が三人いると言うし、もしかしたら自分にそっくりな人にも会うかもしれないしな。確認できた事ですっきりとした気分になった三島は、大きく伸びをして窓際の肘掛け椅子へ腰掛けた。石造りの床には段通のカーペット、猫足のベッドと同じ仕様のテーブルと椅子。普段畳の旅館しか使っていなかった自分としては、床に座る場所がない部屋の内装だけでも浮足立った気分になった。外灘辺りの高級なホテルってのは、きっともっとすごいんだろうな、と部屋を見渡し想像して見たりする。
それにしても、だ。三島は少し身を乗り出して窓の外を覗いてみた。よく言えば活気がある、悪く言えば騒がしい。目下が広い道だからだろう、車に自転車人力車などの往来がまったく途絶えない。今が夕方の帰宅時だからだろうか、それとも一日中この騒がしさなのだろうか。
「都会だなぁ・・・」
せめて夜中だけは寝られるように静かになって欲しい。外を眺めながらため息をついた三島は、これから始まる生活が楽しみというより、不安でしかなかった。
日本国内の新聞で「上海前線」と呼ばれていた第一次上海事変は日本側の停戦により終わったのだが、国内では日本の軍事的な勝利と報道された。日清戦争以来、日本は連戦連勝、大日本帝国は負け知らず、と言う言葉が事あるごとに紙面に踊り、国民の間でも進攻について肯定的な風潮になってきている。しかし・・・しかし事変が終結したばかりの上海に来て実際に生活をするようになって、それが本当の事のようには思えなくなっていた。
「先生、おはようございます」
「おはようございます」
租界区に新しくできた尋常小学校に赴任した三島は三年生の担任と国語の教科を受け持つ事になった。尋常小学校は今で言う公立の小学校である。子供達に笑顔を向けながら出席簿を手に取る。
「出席を取ります、江本与助君」
「はい」
「田口信子さん」
「はい」
名前を呼ぶと元気に手を挙げ返事をする。日本の小学校と変わらない光景だ。
「大島基一君」
「・・・・」
「大島君?」
三島が大島の席を見ると、誰もいない。
「・・・そう、か。来てないんでしたね」
教室を見渡すと所々空席があり、全体の三分の一ぐらいになるだろう。これが今日だけ欠席ではなく、そもそも最初からいないという事に三島は心を痛めていた。どういう事かと言うと、先の事変の影響で学校に来れない子供がいるのだ。どこかへ逃げたのか、それとも戦線に巻き込まれて行方不明なのかも分からない。もしこれが清水の学校であったら、一つ一つ家庭を訪問して近況を把握するのだが、ここの校長より「それは不問」と言われた。そもそも人の出入りが激しい上海なので人間関係が希薄だと言う事もあるのだろうが、実際は総領事館が民間人の安否の実態を把握しきれていないのではないか?そんな疑問が頭を過る。しかし、今の三島はただ教室の空席を仕方なく見つめる事しかできなかった。
「先生、さようなら」
「はい、さようなら。気を付けて帰るんですよ」
「はーい」
生徒達が全員教室から出るのを見送って教室を出ると、丁度同じタイミングで隣の教室の先生も出てきた。
「三島先生、お疲れ様です」
「ああ、戸部先生。お疲れ様です」
同じ三年生を受け持つ戸部万里子だ。二十代半ば、日本の大学を卒業し、両親が医者で上海に行くことになった為、一緒にやって来てこちらで教師になったそうである。万里子はにっこり笑顔で三島の横に並んだ。
「上海は慣れました?」
「いえ、まったく・・・。まだ学校に慣れるのに必死です」
「そうですよね、赴任してまだ一か月ぐらいでしたっけ」
「はい。戸部先生はもう上海はお詳しいんですか?」
「そうですね、虹口の租界区内でしたら大体分かりますけれども」
虹口地区は、共同租界区ではあったが日本人が集結する日本人街だった。
「フランス租界には行ったりしないんですか?」
「私ほとんど租界区の外には出ませんわ。父に止められてますから」
「なるほど、そうなんですね」
「あ!すいません、今から銀行に行かないといけなくて」
「あら、でしたら早く行かないと」
「ええ、じゃあ失礼します」
「また明日」
銀行というものは昼の時間帯で閉まってしまう、三島は急いで帰り支度を済ませ、学校を出た。門を出た三島は、これからあまり足を踏み入れない場所に行かなければいけない事に、大きくため息をついた。門を出て川沿いに進むと、四川北路という大きな通りに出る。道の両側にはレンガ造りの三階建ての長屋のように切れ目のない建物が立ち、大体その一階部分は商店や食堂になっていた。ここは日本人街のメイン通り、上海日本人街で一番にぎやかな通りである。映画館やデパート銀行が立ち並び、夜の社交場は昼間はカフェの様相でご婦人方でにぎわっていた。
「ああ、やっぱり人が多い」
用があったから来たものの、普段は避けて通る道である。それにしても、ここは上海だとというのに看板やのぼり旗はすべて日本語、聞こえてくる声も日本語。往来を見ても日本人と少数の西洋人だけである。本当に異国にいる感覚はほとんどない。しかし中華との境界辺りでは排日抗日デモが連日のように起っており、警察や憲兵が厳しく監視していると聞いていた。その辺りに行けばまた違った光景が見えるのだろうが、三島は自分には関係のない事だと思っていた。自分はあくまで日本人の為に仕事で来ているに過ぎない。国同士のいざこざは国同士が関わる事で、自分には関わりのない事である。三島は目当ての銀行の看板を確認した後、帽子を脱いで入って行った。
フランス租界区。
夕暮れ時、一人の中年の中国人男性が自転車で大通りを走っていた。半袖のシャツにハンチング帽子、大きなカバンを斜めに掛けている。男は減速して注意深く辺りを見回した後、石造りの家の隙間の細い路へと入って行った。そして、とある建物の塀のアーチを潜り、裏口に入ると自転車を降りた。自転車を木陰に隠し、ゴミ箱の横にあるドアを開け中へと入る。廊下を進み、一番突き当りの階段を降りて部屋を仕切るカーテンを潜った。窓のないその部屋は、えんじ色の壁紙のヨーロッパ調の装飾で、大きな書斎机と作業机が置いてあった。書斎机の上には新聞が山の様に積んである、すべて日本語、日本の新聞だ。
「楊さん」
書斎机の方に向かって男が声を掛ける。と、机の向こう側からタバコをくわえて新聞を読む楊傑がひょいと顔を出した。
「ん、ああ、周さんか」
「今日の分です」
そう言って、周は鞄を開け新聞の束を取り出すと、山の上に重ねた。
「ああ、ありがとう」
「今日は朝〇新聞と毎〇新聞がありましたよ。それも二日前のが」
「へえ、最新じゃないか」
笑って答えると、楊傑は今周が持ってきた新聞を手に取った。周は林彗麗から紹介してもらった協力者で、上海の日系新聞『華報新聞社』に雑用係として働いていた。華報新聞社には上海市内には出回らない日本の全国の新聞が定期的に入って来る。楊傑はその新聞を周に集めてきてもらっていたのだ。控えめで穏やかな人柄が気に入られているようで、「日本語の勉強をしたい」と言って古新聞をもらって帰って来ても不信に思われなかった。実際、最低限の会話はできるが日本語は読めない。楊傑は複数の新聞の見出しを見てため息をついた。
「日本はロサンゼルスオリンピック一色か・・・」
一九三二年第十回オリンピックはロサンゼルスで開催され、日本は百数十人の選手団で参加していた。
「新聞社の人たちも、その話題で持ちきりですよ。それでなんて書いてあるんです?」
「『オリムピック 水上競技で連勝す』。男子も女子も水泳でメダルを獲得してるそうだ」
この大会では日本は水泳と陸上競技でメダルラッシュとなり連日紙面を賑わせていた。ちなみにこの時中国からは一名陸上で参加している。
「そうですか、すごいですね」
「うん」
そう返事をしたものの、楊傑は苦い顔で新聞をポンと机に投げた。
「しかし、あまりよくない風潮だな」
「どうしてです?」
「勝利、勝利、勝利・・・オリンピックでも戦況でも勝利ばかりを協調している」
日本では先の上海事変で爆弾を抱えて中国側の鉄条網を自爆破壊した日本兵士が『爆弾三勇士』と名づけられ、戦線中の美談として大々的に取り上げられていた。本や映画や歌にもなるほど一世風靡したのだ。しかし、それが帝国政府の意図なのか、それとも新聞社の意図なのか・・・どちらにしても日本が軍国国家として突き進む事を、メディア全体で煽っているように楊傑の目には見えていた。
「周さん、頼みがある」
「ええ、なんですか?」
「日本人の中で日本から逃げたいと思っている奴らがいるかどうか探ってほしい」
「逃げたい人・・・」
「もしくは金がいる奴ら・・・つまり、日本の身分証を金で売ってもいいと思っているか、身分証を引き換えにしてでも大陸内に逃げたいと思っている人間だ」
「身分証・・・ですか」
「そうだ、日本の身分証を金と中国の身分証に交換してやる、そう言って食いついてくる奴がいるかどうか知りたい」
「なるほど・・・」
周は租界区内の路地や公演の片隅、路上に寝転んでいる日本人達を思い浮かべ、需要はあるのではないかと踏んだ。
「分かりました。・・・でも声を掛けてその気になったらどうするんです?」
「その後どうするかは・・・まあこっちで考えるさ」
そう言って笑うと楊傑はまた新聞の山の中に沈んで行ったのである。
一九三三年、六月。
三島が上海に来て一年が過ぎた。
この一年の間に世の中は目まぐるしく動いていた。二月にはリットン調査団の満州視察報告により国際連盟総会で満州からの日本軍撤退が採決されたのを受け、国連を脱退する事が決まった。国連の代表だった松岡洋右が採決後遺憾の言葉を述べて議場を退出したという報道には、よくやった!と国民からは支持され称賛された。しかし、日本はこれで世界から孤立した事になった。日本はすべてを満州国の発展に掛けるしか術がなくなったのだろう、最近では上海租界でも満州への移住招致をそこら中で目にする。
それから内地(日本本土)では、五・一五事件以来、危険思想取締りが強化され、特別高等警察、通称「特高」の動きが目立つようになっていた。キャンペーンと称した重点取締りにより、文学者、大学教授、芸術家などが続々と逮捕された、と毎日のように新聞に載っている。内地に比べれば上海はまだ取締りは緩いが、特高が幅を利かせるようになるのも時間の問題だろう。
三島は、と言えば、やっと上海の生活に慣れてきた。当初は景色を見ただけで疲れていたのだが、半年たったぐらいから諦めがついたのか最近はそんな事もなくなった。上海に慣れたと言っても、生活リズムが出来てきたという意味であり、三島に日本租界の外に出る気は一切ない。それどころか生活用品を買う以外はほとんど外出もせず、たまに見たい映画があって出かけるがそれぐらいである。
仕事では今年も三年生の担任になったのだが、去年と様子が違い教室に空席がなく、もう一クラス追加された。半分の生徒が内地から移住してきた家庭の子供で、三島の担任クラスに限らず、全学年同じ傾向である。内地からやってくる日本人は月を重ねるごとに多くなり、最近はかつては英国人が住んでいた地域にも日本人が住み始めたと聞いていた。
「三島先生、また載ってますよ!」
「え?」
職員室でお弁当を食べていると、同僚の先生が新聞を広げて近づいてきた。
「『街燈の 蛍彩る 水面かな』いいですね~」
「ははは、お恥ずかしい。読み上げないでくださいよ」
唯一の趣味と言えば、新聞社が募集している短歌俳句の欄へ応募する事だろうか。応募者が少ないからか、三島の俳句は度々こうして紙面に取り上げられる。
「これってガーデンブリッジからの景色の事でしょう?分かります!川べりの街燈って蛍の光みたいですよね」
万里子も頷きながらそう言うと、ますます三島は手を振って恐縮した。
「戸部先生も!恥ずかしいので解説しないでください」
そんな会話に近くの席の先生達も集まって来た。三島の俳句を感心して眺めている。
「蛍ですか・・・今日本も蛍が綺麗でしょうな」
「ええ、私の出身地も蛍が沢山飛んでいました」
「うちの田舎じゃ夜家の中まで入って来てたなぁ」
みんな懐かしそうに目を細めた。もちろん中国でも蛍はいるが、この大都会の租界の中では環境が悪すぎて到底出会う事はできない。三島だけでなく、みんなこの雑然とした街の中に故郷の面影を無意識に探している事だろう。故郷を思い出しありし日の光景が思い浮かんだ。
「祖父も祖母、学校の友達・・・みんな元気かな」
三島も地元の三保の友人や親戚を思い出す。近所の子供たちと浜辺や小川に行って遊んだ光景が目に浮かび、三島は少し感傷に浸った。
「三島先生」
と、職員室のドアが開き、教頭が三島を呼んだ。
「はい」
「ちょっと校長室へ来てくれ」
「・・・はい」
あわてて教頭について校長室へ行くと、部屋には校長の他に知らない人物が一人いた。
「三島先生、こちら華報新聞社の広岡さんだ」
「華報新聞?」
「編集部の広岡徳次郎といいます」
そう言って広岡は三島に名刺を差し出す。はあ・・・と生返事をして受け取ったものの、校長室と新聞記者という組み合わせに惑った。
「実は各学校に華報新聞へコラム掲載の依頼があってね。週に一回掲載で各学校で持ち回りなんだが、それをぜひ三島先生にお願いしたいそうなんだ」
「私ですか?」
するとにこやかに広岡が言う。
「他の学校は校長推薦で担当者をお願いしてるんですがね、この学校にはぜひ三島武吉先生に書いてもらいたいと、直接お願いに来たんですよ」
「どうしてです?」
「わが社の俳句欄にいつも投稿してくださってますよね?」
「ええ」
「評判がいいんですよ、三島さんの俳句。そこを見込んでのお願いです」
俳句には名前と職業が載っていた、この狭い租界内で教師と言ったら見つけるのは簡単だろう。話に合点がいった三島は、笑顔で首を横に振った。
「お断りします」
校長や教頭はまさか断るとは思わず、驚いた表情で三島を見た。
「なぜだね?うちの学校にとっても誇らしい事だ」
「国語の教師なんだから、お手の物じゃないか」
「・・・・」
「私も君の俳句を楽しみにしていた読者だ。適任だと思うんだかね」
「三島先生?」
三島はしばらく俯いて何か思い詰めていたが、意を決して顔を上げると広岡をまっすぐ見た。
「私は・・・・国家の宣伝戦略に協力するつもりは・・・ありません」
その場が凍り付く。新聞紙面を見れば満州国への移住推進、戦地での武勇、武功の為の国民生活態度の推奨などなど「お国の為に」という言葉がちりばめられている。もちろんこのコラムもそうした挙国一致運動の一端である事は容易に想像がついた。そんな風潮に対し、そういう事を口にしないという事が、今の自分ができるささやかな抵抗だと三島は思っている。だからこの発言も口にしたくはなかったのだ。
「三島先生・・・・」
眉をひそめて校長がたしなめようとすると、広岡がふふっと笑った。
「協力する必要はありませんよ・・・三島さんにはあの俳句のような、ああいうコラムを書いて欲しいんだ」
「・・・・」
怪訝な顔で広岡を見つめた。
「確かに企画意図はあなたの想像する通りです。でも、あなたの俳句の中の故郷を懐かしむ心はお上の言う『軟弱者』などではない。兵隊の英気を養う為にも必要なものです。何か言って来たら私が責任を持ちます。私が書かせた事にします、もちろん露骨に検閲に引っかかる内容は困りますが、そうでない範囲なら構いません。三島さん、お願いします」
穏やかに笑顔を浮かべているが、広岡の目は真剣に三島を捕らえた。もしかしたら広岡が三島を指名した理由は、広岡なりの世の中へのささやかな抵抗なのだろうか・・・であれば、それぐらいの抵抗なら協力してもいいかもしれないな、と三島は思った。
「・・・・分かりました」
「ありがとうございます」
広岡はほっとしたような嬉しそうな笑顔を作ると小さく頭を下げたのである。
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上海の空気も随分と涼しくなった十月。職員室の窓の外の木々が黄色や赤に染まっているのを眺めながら仕事をしていると、 事務員が窓越しに三島に声をかけて来た。
「三島先生、周さんが来てますよ」
「あ、ありがとうございます」
三島は封筒を手に取り、職員室を出て裏門に向かう。門の外側では小柄な中年男性が立っていた。楊傑の所に出入りしていたあの周である。
「周さん」
周は三島が来るのを見ると笑顔になりペコリと頭を下げた。
「三島サン、コンニチハ」
「ご苦労様です」
そう言って封筒を渡す。周は月に一度コラムの原稿を受け取りにやって来るのだ。片言の日本語ではあるが、愛想がよく一生懸命コミュニケーションを取ろうとしてくる。その姿勢があまり外国人に馴染めない三島でも初対面から打ち解ける事ができた。三島が初めてちゃんと関係した中国人である。
「アズカリマス」
「はい、お願いします」
両手で原稿の封筒を受け取った周は、かなり年季の入ってくたくたになった鞄に折れ曲がらないよう丁寧にしまう。こういう所も好感が持てる。
「周さんは日本語はどこで覚えたんですか?」
「新聞社ノ中、使イマス」
「そうですか」
周はハッとして鞄をごそごそし、日本語の新聞を出した。
「新聞ヲ読ミマス!」
「すごいですね!勉強熱心ですねぇ」
そう言うと、周は嬉しそうに笑い頭を下げた。帰る周の背中を見送り、三島も職員室に戻って行った。
その夜の事である。
テストの準備でいつもより遅くに宿舎に帰って来ると、建物玄関ドアのポーチライトの下にたたずむ人影があった。入口で誰かをまっているのか、タバコを吸いながら時折建物を見回している。なんだろう?怪しい人間だろうか、と警戒した三島は両手で鞄を抱えると、背中を丸めてその人物の横をすり抜け中へ入ろうとした。するとその男が三島に声を掛けてきた。
「やあ、三島さん」
「え?・・・広岡さん?」
ライトの下にいたのは華報新聞社編集部の広岡だった。広岡は吸っていたタバコを足元に落とし踏んで火を消す。見ると足元に十数本の吸い殻が転がっている。
「広岡さん?え、ずっと私を待ってたんですか?」
すると広岡はにやりと笑った。
「ええ、いや気にせんでください、記者は待つのが仕事ですから」
「は、はあ・・でも、なんで」
「今日はお礼を兼ねて夕食にお誘いに来ました」
「お礼?」
「三島さん、フランス租界のナイトクラブは行った事がありますか?」
「ありませんよ」
「そうですか・・・じゃあ、ぜひ行きましょう!」
「いやいや、私はそういう所は嫌いでして」
「何をいいますか、教師でしょう?だったら、知見は広い方がいいに決まってる。さっ、行きましょう行きましょう!」
「ちょ、ちょっと・・・!」
三島が状況を理解できないでいる中、広岡は三島の背中に手を掛けると、大通りに向かって押し出す様に連れ出した。
夜のフランス租界区に徒歩で行くのはさすがに危ないからか、近距離なのだがタクシーで向かった。日本租界区の繁華街とは一味違ったネオンや風景に三島は落ち着かず車の窓ごしにキョロキョロしてしまう。
「ここです」
そう言って車が止まり降りた場所は、夜だとは思えない程明るくて、昼間かと思うほど人でごった返していた。日本語はまったく聞こえず、西洋人や身なりのいい中国人が行きかっている。そして目の前にあるひと際煌びやかな建物の入口に吸い込まれるように入って行った。
「ローズブルー・・・・」
三島が店のネオンサインを読み上げる。入口近くにいた花売りのおばさんから薔薇を一輪買った広岡が三島の腕を取った。
「とある人からのおすすめの店でね、さ、入りましょう」
広岡は入口のウエイターに流暢な中国語で何かを話し、札を手渡した。ウエイターは頷くと二人を席へと案内した。
「三島さん、こういう所が初めてなんですよね?いい席取りましたから」
「は、はあ・・・」
二人は舞台に近い右側のソファ席に案内された。ソファに収まると広岡はウエイターが用意した酒をグラスに注ぎ三島に手渡した。
「ありがとうございます・・・」
三島は居心地が悪そうに背中を丸め、こそこそとグラスに口をつける。人生初めてのナイトクラブだ。夜も遅い時間なのにホールはほぼすべて埋まっている。入口の状況と違わず、客はほとんどが西洋人と少数の東洋人。見た感じ日本人の姿はない。ステージ上ではジャズが演奏されているのだが、客のしゃべる声と混ざりあってもはや騒音でしかない。そして酒とタバコと人数分の香水の匂いも混ざりあい、何がどんな匂いなのかも分からなくなっている。早くも三島は頭痛がしてきた。
「今上海で一番賑わっているナイトクラブですが、日本人はめったに来ないんですよ。だからゆっくり気兼ねなく羽を伸ばせます」
広岡は上機嫌で酒を煽り、タバコに手を伸ばした。が、三島にとっては居心地が悪い以外なに者でもない。まわりの外国人・・・日本人以外の人間すべての視線が自分の事を非難しているように思えて仕方ないのだ。広岡は手慣れた感じで中国語でウエイターに酒の追加注文をしている。三島は我慢できずに立ち上がった。
「広岡さん、私まだ明日学校があるんです、こんな所で遊んでる時間はないんですよ。帰ります」
「まあまあ、時間があるかないかなんてね、そんなの自分の価値観でしかないんですよ。今日は私の価値観に合わせてもらっても、この先損はないと思いますがね」
それでも三島が食い下がろうとした時、ホールの照明の明かりが落ち、ビッグバンドの華やかな音楽が鳴り響いた。何事かと三島がステージに目を向けると、スポットライトの明かりの中に一人の女性がやって来た。白地に黄色の牡丹の花が刺繍されたチャイナドレス、ウェーブの掛かった前髪と夜会巻を黄色の薔薇で飾っている。スタンドマイクに手を掛けると、凛とした歌声が響いた。クラブ歌手・・・知識として知っていたが、実際見るのは初めてだった三島は、スポットライトの中に立ち、堂々と英語でジャズを歌う女性を唖然と見つめる。
「ここの歌姫、林彗麗ですよ。他のクラブにも歌手は大勢いますがね。英語のジャズを歌わせたら彼女がダントツでしょうな」
どれだけ広岡は豪遊しているのか・・・あきれたものの、彼女の歌とこの演奏をもっと聞いていたいという気持ちが強くなり、三島は座り直すとグラスを手に音楽に聞き始めた。同じアジア人ではあるがやはり日本人とはどことなく違う。エキゾチックな魅力に溢れた林彗麗は三島の目に新鮮に映り、そして美しかった。
「そうだ、お礼といいましたが・・・三島さんのお陰で社の業績がよくなったんです」
「どういう事です?」
「コラムですよ、ダントツに評判がいいんです。新聞社の評判も上がったと局長も喜んでました」
ええ?と広岡を見返し驚いたように笑う。
「そんな、ただのコラムです。他の先生方みたいにこの状況下で役立つ事とかいい事とか全然書いてないですし」
「それがいいんですよ。社にも『三島さんのコラムを増やしてほしい』と手紙や電話が来る程です。紙面を御覧なさい、どこを見ても戦争の事、戦時下の生活の事ばかり。三島さんのコラムは内地の田舎の懐かしい風景や兄弟の話でしょ?ほっとするんですよ」
「そうですかね」
「『挙国一致』と声を揃え、今は軟弱な事を口にする事さえはばかられる風潮だ。それは新聞紙面でも同じ事ですが、三島さんはある意味コラムという形でそれを言ってのけた。読者だって本当は言いたいんです、大ぴらにね」
三島は広岡の発言に首を傾げた。であれば、それを掲載している華報新聞だって三島と同じ事をしている事になる。
「でも・・・それで大丈夫なんですか?」
「今の所は大丈夫です」
広岡は眉を吊り上げて笑った。歌が間奏に入ると、林彗麗がゆっくりと舞台の右側にやって来た。三島達の席まで来ると、広岡が先ほど入口で買った赤い薔薇一輪を彼女に差し出した。彗麗はにっこり笑うと身をかがめて薔薇を受け取った。そしてちらりと三島にも視線を向け笑顔を見せる。思わず顔を真っ赤にして三島が頭を下げると、クスリと笑い中央へ戻って行った。広岡がそんな三島を見てニヤニヤしている。三島はあわてて水を一気に流し込んだ。
「三島さんは本は読まれますよね?」
「そりゃもう。国語教師ですし」
「伊藤十一郎・・・知っていますか?」
「ええ、作家の、労働文学の人気作家ですよね?」
「さすが知ってますね」
労働文学とは過酷な労働環境を描いた当時流行った小説などである。
「広岡さん、彼の作品お好きですか」
「ええ、まあ。興味深い作家でした」
「うん・・・残念でしたよねぇ。確か逮捕された警察署で病死したんですよね、心筋梗塞でしたか」
すると、広岡は持っていたグラスを机の上に置く。林彗麗がしっとりとしたバラードの曲を歌い始めた。
「いえ・・・彼の死は病死じゃない。彼は拷問されて死んだんです」
「え?」
「家族に戻ってきた遺体は傷だらけで、奥さんは司法解剖を望んだが、認められなかったそうです」
「・・・・本当なんですか」
「東京の仲間が取材をした確かな情報です。彼だけじゃない、特高に捕まり拷問で亡くなった人はもっといるんです。新聞では一切載ってはいませんがね。三島さん、悲しいかな今、新聞に載っている事が真実ではない事が多い・・・そういう時代になってしまったんです」
林彗麗の歌うバラードが、なぜか広岡の憂いの帯びた横顔に沁み込んで行くような感覚を覚えた。一体、広岡は何を考えているんだ。
「では出ましょうか」
「え?出る。まだショーは途中ですが・・・」
「あなたに見せたいものがあるんですよ」
そう言って広岡は暗い客席の中で席を立った。さっさと行ってしまう広岡を唖然と見ていたが、こんな場所に一人残されても困る三島はあわてて広岡の後を追った。
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広岡がウエイターに言葉を掛けると、ウエイターは頷いて、二階へ上がる階段の傍まで案内し、階段横の目隠しカーテンを少しだけめくった。潜り抜けるとそこにはドアがあった。
「シャジャノン(ありがとう)」
広岡はウェイターに会釈し、ドアを開けた。急に暗くなり肌寒い風が吹き抜けた事で外に出たのだと分かった。建物裏手というか、建物と建物の間の細い路地に出たようだ。広岡は懐中電灯をつけて左側へと歩き出した。細い路地は左右に分かれながらくねくねと蛇行し、まるで迷路のようである。速足で進む広岡に三島は聞きたい事も聞けず、とにかく必死でついて行くしかない。道幅が少し広い所に出ると、広岡は突き当たった先の蔦に覆われた柵ドアを開けた。入った先はどこかの敷地のようで、建物づたいに暗い中を進んで行くと、一つのドアの前に出た。広岡はポケットから鍵を取り出し、そのドアを開ける。広岡が中を照らすと、短い踊り場の先に地下へと伸びる階段が見えた。広岡が中に入り、階段を降りてゆく。三島も後に続く。階段はらせん状になっており、降り切った所で広岡が足を止めた。目の前は真っ暗で、三島は恐る恐る口を開いた。
「・・・・ここは」
「ようこそ、私達の集会場へ」
広岡がそう言ってパチンと電気のスイッチを入れると、暗闇だった空間に次々と薄明かりが入り、大きなホールが姿を現した。
「集会・・・場?」
窓が一つもなく床は土間で、木製の簡易な椅子と机が隅の方に固めて置かれている。正面にはちょっとした台があって、選挙事務所のような作りと言うのが一番近いだろうか。確かに集会場でのようである。呆然と立ち尽くす三島に、広岡はゆっくり部屋を見渡しながら話し始めた。
「集会は不定期でやってるんです。日時は新聞の通信欄のある個所に分かるように載せています。一回で大体百人程が集まっていますな。この薄暗い中だし、顔は全員隠しているし名簿もないので、誰が誰なのかはまったく分かりません」
三島は脳の理解が追いつかず体が動かなかった。広岡は三島の様子にはお構いなしに、近くにあった椅子の背もたれに両手をかけると、俯いて言葉を続けた。
「さっき私は『新聞に載っている事が真実ではない事が多い』と言いました」
「・・・あ・・・ああ」
広岡は三島を見る。
「三島さんは、満州国は本当に王道楽土と言われる楽園になると思いますか?上海での戦線は本当に終わったと思いますか?日本は・・・戦争に勝利すると思いますか?」
「・・・・」
「我々聞屋の使命は、真実をいつわりなく記事にする事で、そうでなければ意味のない仕事だと思っています。しかし今のご時世、真実を真実のまま載せる事が出来なくなっている。この先、新聞は我々の言葉ではなく政府の言葉で紙面は埋め尽くされるのでしょうな」
椅子の背を叩く。
「私はね、今回の国連離脱の件で日本が思っている以上に世界から追い込まれる事になる、と言う内容を記事にすると決めておるんです。今ならまだ載せる事ができる、しかしいつそれも検閲に引っかかるか・・・まあ時間の問題でしょう。多分、公の場で堂々と言える最後のチャンスだ」
三島は混乱で瞬きを繰り返していたが、やっとかすれた声が出せた。
「あなたは・・・秘密結社を作った、って言うんですか?ここで、ここで集会をしているんですか?」
「・・・・ええ、ええそうです。政府のプロバガンダではない、我々が命を掛けて取材をした真実を国民に伝える為です。自分の国で何が起きているのか、自分の国の事ですよ、知る権利はあります。その為に私は秘密結社を作りました。そして・・・私はあなたに協力してほしいと思っています」
三島の中で悪魔のような危険なものに広岡が変貌した。思わず後ろに後ずさる。広岡はスーツの内ポケットからタバコを取り出し火を点け大きく吸った。
「学校の先生って軍国教育をしたくない方が多いんです。そりゃそうでしょう、誰が教え子達を軍国少年少女に育て戦場に送りたいものですか。ほら、最初に会った時、職員室で三島さんも言ったでしょう?『政府のプロパガンダに協力するつもりはない』って」
「・・・・」
「教師はみんな同じ事を言います。言葉は違いますが、先生と言うのは理路整然として弁が立つ、表現が直接的なので一発で検疫にひっかかってしまうから厄介です。しかし、その点あなたは違った。あなたは反戦の思いを今のこの時代に合った表現で言い現わしている。そして、それは人々を動かす」
三島が広岡に初めて会った時、この人は世の中へささやかな抵抗をしたいんじゃないか、と思った。それであれば協力してもいいと思ったが、広岡はその時三島の心にも反戦を訴えたい気持ちを見つけたのだろう。まさか、ここまでの活動をしていたとは思いもしなかった。活動家なんて遠い存在のもので自分の知らないどこかでやっていると思っていた。知っていたら、関わる事さえ拒否していた。が、今自分は活動家といる、集会場に足を入れている。頭が真っ白になり、めまいがした。
広岡はタバコをもみ消すと、真剣に三島を見た。
「三島さん、あの台の上に立ってもらえませんか?」
三島は最初うまく息が出来ず言葉が出なかったが、落ち着くように大きく息を吸って、やっと声が出た。
「じょ・・・冗談じゃない、冗談じゃない!何を言うんですか、そんな事できるわけないじゃないですか。そもそも・・・そんな活動に参加したら、逮捕されたら家族はどうなるんです?上海だから許されるものではないでしょう?日本にいる家族がどんな目にあうか・・・。そんな事できないですよ。私はただの一般人だ、日本に、ただこの時代に、こういう時代に生まれてしまっただけの事だ。仕方のない事なんだ」
「・・・・・」
黙ったまま見て来る広岡に、責められているような気分になり、三島はよろよろと下がると机にぶつかったがお構いなしで言葉を続けた。
「あなたは私を意気地がないと思われるでしょうな?ああ結構、それで結構です。あなたみたいな勇気も大義名分も・・・私には関わりのない事だ」
広岡は目を伏せると黙って小さく頷いた。
「広岡さん・・・今日の事は全部忘れます。・・・新聞社で会いましょう」
三島は帽子を被ると元来た階段を登ろうとした。
「奥の階段を使うといい、日本租界区の裏手に出ますから」
足を止めた三島は広岡を見ながら指し示された方へ向かい、そこにあった階段を登った。今日の事は全部忘れる、忘れるんだ・・・。そう心に言い聞かせていると、背中からぽつりと広岡の声が投げかけられた。
「残念です」
数か月後・・・
フランス租界区。
街灯の明かりも避けるようにして、帽子とコートで顔を隠しながら一人の男が足早に歩いていた。男は突然止まり辺りを見回した後、路地へと入る。そして一つの建物のドアにぴったり寄り添い顔を上げる。広岡であった。広岡はメモを確認し、ドアを規則に沿ってノックした。メモを握りしめ待っていると、ドアが開く。広岡は伺う様に辺りを見渡し中に入った。ドアが閉められほっとしたところで、目の前に立った楊傑を見た。
「『黒狼』・・・ですね?」
楊傑がにこやかに迎える。
「いらっしゃい、まあ座ってください。ここはフランス租界区ですから、日本政府は手出しできません、ここは安全ですよ」
広岡は頷くと、部屋の中へ入って行ったのである。
あの日から、広岡とは顔を合わせる事もなくなっていた。コラムを取りに来るのは周だけだったし、三島が華報新聞社へ行く事もなかった。あれから広岡が言っていた通り、しばらく華報新聞では日本が国連を離脱した事での経済危惧の記事が一面を飾っていた。しかし検閲があったのだろう、ある日を境にピタリとその問題は取り上げられなくなった。三島自身もあの日の事は完全に忘れ去っていて、いつも通りの平穏な教師生活を送っていた。
そんなある日。三島が宿舎の部屋で夕食を終え本を読んでいた時である。玄関のドアが激しくノックされ、思わず飛び上がった。
「はい?」
ドアの向こうで男の声が答えた。
「特別高等警察だ。開けなさい」
「え・・はい」
特高が?なぜ自分の所に。三島が恐る恐るドアを開けると、二人の背広の男が立っていた。
「三島武吉だな」
「はい」
刑事の一人が三島に警察手帳を見せ、もう一人はその間に部屋の中を注意深く覗いてきた。
「な・・・なんでしょう?」
「華報新聞社の広岡徳次郎を知っているだろう?」
「え、ええ・・・、広岡さんは、華報新聞社のコラムの担当編集者ですが」
「行方を追っている。何か聞いてないか?」
「いいえ、聞いてません。え?行方?あの・・・広岡さん、いなくなったんですか?」
三島の驚いた物言いが本当に知らないのだと伝わったのだろう。二人の刑事は顔を見合わせた後、もう一度三島の方を見て言った。
「・・・・もし何か広岡から連絡があったら、すぐに警察に通報せよ。分かったな」
「はい、分かりました」
刑事たちが帰ってゆく背中を見ながら、三島はゆっくりとドアを閉めた。
広岡がいなくなった・・・。つまり秘密結社がバレたという事か。もしかしたら特高の捜査が進めば、自分があの集会場に行った事も知られてしまうかもしれない。そうしたら自分は特高に捕まるのだろうか?いや、自分は誘いをきっぱり断った。きっとちゃんと話せば問題ないだろう。あの時誘いに乗らなくて本当によかった、と三島は胸をなでおろしたのであった。
三島武吉(1) 終わり
三島武吉編は、あまりにも長くなりそうなので、いったん前半として完結します。