61.掌握
リシャナはこれまで、あえて政治の中枢からは距離を置いてきた。エリアンが洞察しているように、リシャナが指示を集めている範囲を考えれば、下手にかかわりすぎると、リシャナがヘルブラントを押しのけてしまう可能性があるからだ。もしくは、ヘルブラントの指示範囲も広いため、王位争いになる可能性も高い。それらを避けるために、リシャナは北に引きこもっていた。
それをあえてやれと言われる。多分、やってできなくはない。昔教わったことはあるし、人心掌握は軍隊を掌握するのとそう変わらないだろう。……たぶん。
エリアンの執務室、というか司法長官の長官室を覗く。リシャナに気づいたエリアンは手を振って官僚たちを追い出した。エリアンはリシャナの手を引いて、彼女を自分が座っていた豪奢な椅子に座らせた。
「よく考えると、若いのに大した重責だな、エリアン」
ルーベンス公爵を継ぎ、二十歳を過ぎたころから、エリアンはこの国の法律をつかさどっている。高位の貴族であるとはいえ、若いころから重責を担っていたものだ。
「あなたほどではないな。陛下と話はできたか?」
座らせたリシャナに覆いかぶさるように椅子の肘置きに手をつき、顔を寄せてきた。人払いをしたが、どこで聞かれているかわからない。一応盗聴を排除するためのおまじないを持っているが、完全ではない。この態勢なら睦み会っているように見えるだろう。
「ああ……早急に取り掛かりたい。情報を出せ」
こちらからもエリアンの頬に手を寄せながら言った。エリアンによると、主にアイリの異母弟ダーヴィドが暗躍しているらしい。ダーヴィドはリシャナと同い年らしい。どうでもいいが。
ダーヴィドとヴェイニは、少し前からリル・フィオレに滞在していた。去年の夏ごろからだ。もう半年ほどになるか。二人は、というよりもダーヴィドはなかなか有能だった。その半年ほどで、有力な貴族や官僚の何人かを取り込んでいる。もともと、ディナヴィア諸国連合に同情的だった貴族たちだ。
彼らが精力的に活動しているために、宮廷内はレギン王国……を通してディナヴィア諸国連合に傾いている。ヘルブラントの容体が悪いのも影響している。本人は何も言わなかったが、おそらく、内腑を患っているのだろう、というのがエステルの見解だった。
もし、ヘルブラントに何かあれば、王位はどこへ行くだろう。息子のアーレントは十二歳だ。後見人、護国卿が必要になるだろう。リシャナが戦場に出たのは十三歳の時で、その時にはすでに責任を背負っていたが、ヘルブラントが後援していたし、教育係がついていた。アーレントにもそういった存在が必要になってくる。
リシャナが護国卿になるのが、一番すんなりいくと思われる。ヘルブラントがいなくなると考えたくはないが、請われればリシャナも断るつもりはない。
だが、ダーヴィドはアーレントを通してリル・フィオレを支配することを目的として来ているはずだ。アーレントの叔父として後見人になることをねらっているだろう。単純なアーレントから見た立場だけ見れば、ダーヴィドの立場はリシャナのものとそう変わりない。
ダーヴィドとヴェイニは、リシャナに敵対するほどではないが、不満を持つものを取りまとめて行ったようだ。自分が権力を握った暁には便宜を払う、という約束で。なんとなく、王位継承戦争時代、リル・フィオレの不凍港を与える約束でディナヴィア諸国連合の協力を取り付けたロドルフを思い出した。
ということは、現在のヘルブラント王政でも取り立てられていない人物たちがダーヴィドたちに協力しているわけだ。国外から来たにしては頑張っている。
「……こちら側、しかも中枢に近い部分に内通者がいるだろう。一人は母上か」
「ご明察。もう一人は王の秘書官だな。どちらもおよがせているところだ」
さらりと怖いことを言われた気がするが、リシャナは気にしないことにした。それにしても、王太后もリシャナに権力を渡したくないばかりにレギン王国と手を組むとは。そんな兆しはあったけれど。王太后も帝国から来た国外の人ではあるので、気が合うのだろうか。国の規模が全然違うが。
「ところが、敵側も一枚岩ではない」
ダーヴィドとヴェイニは、今は協力しているが、実のところ、二人ともリル・フィオレで覇権を握ろうとしている。たとえリシャナを排してリル・フィオレを掌握したとしても、今度はこの二人で権力争いが始まる、と言うわけだ。戦略としては、間違っていない。リル・フィオレに大きな地盤を持つリシャナを排除しようと思えば、外国から来た二人は手を組まざるを得ない。
「そこをついてやろうと思う」
「……情報戦は任せる」
「あなたも苦手ではないだろう?」
「できなくはない、と言ったところだ」
やり方は知っているし、必要であればやる。今回のように。
「任された。その前に」
リシャナが座った椅子の肘置きに手をつき、囲い込むようにしていたエリアンは、片手でリシャナの顎のあたりをつかむと深く口づけてきた。リシャナが領地を動けなかったため、代わりにエリアンが王都にほぼ駐在しており、そういえばしばらくこういう触れ合いもなかったな、と思った。
エリアンがのしかかるように口づけを深めてきて、呼吸と言うよりも体勢が苦しい。位置が悪く押し返せないので、彼の腰のあたりをたたいた。
「……なんだ」
「なんでお前が不満そうなんだ。体が痛い」
不満そうに唇を離したエリアンをにらみ返しながら、リシャナは言った。エリアンは「なるほど」とうなずくと、リシャナの手を引っ張って立たせた。
「すまん。だが、久々にあなたを堪能したくなってしまった」
「この情勢下で? あきらめろ」
期待のこもった眼で見られてもだめだ。この不安定な情勢で、リシャナが動けなくなるのは困るのだ。というか、困るのはエリアンの方だろう。リシャナと言う旗頭がいなくなる。
「……ままならないものだ」
「権力はあった方が便利だが、煩わしいこともあるな」
「あなたが言うと、わがままだと言われるぞ」
王に次ぐ身分を持つのだ。エリアンの言うことももっともである。
「ではエリアン。また後で」
「ああ。また後で」
リシャナとエリアンは、それぞれ宮廷の掌握作業へ向かった。
「で、この状況なのか」
次に動かす駒を考えるそぶりをしながら、ヘルブラントが言うので、リシャナは「そうですね」と兄の出方を身構えながらうなずいた。
「いくら何でも早すぎないか!? 一日もかかってないぞ!?」
珍しい兄の全力のツッコみに、リシャナは眉をひそめた。
「早急に、と言ったのは兄上ではないですか。それに、昨日の今日ですから、一日は経っています」
「いやいや、早いだろう! 三日はかかると思っていた」
「……仕事が早いのはエリアンですね。私ではありません」
そう。リシャナが動き出した時点で、エリアンによる根回しはほぼ終わっていた。リシャナ自身が手配したものもあるが、ほぼエリアンの有能さのおかげである。リシャナは、一晩で宮廷内を掌握した。
「……だが、助かった。ありがとう。エリアンもねぎらってやれよ」
「……彼のおかげなのは確かですが、あのにやついた顔を殴りたいですね」
「照れ隠しか? 前科があるんだから、お前、気をつけろよ」
見たか、ほめろ、と言わんばかりの顔が腹立たしいのである。ヘルブラントが言うように、エリアンのおかげなので別に殴ってはいないが、にらみつけてしまった。
「ダメだ。負けだ、負け。年を取ると頭の回転が鈍くなっていかんな」
そういうヘルブラントは三十八才だろうか。まだそんなに悲観する年齢ではないと思うのだが。リシャナは決着のついたチェス盤を眺める。
「私もそれほど強い方ではないのですが」
「リュークが強かったな。リッキーはそもそも、ルールを理解していなかった。そういえば、姉上もこういうゲームに強かったな。お前は知らんだろうが」
「アルベルティナお姉様ですか。なんとなく、わかります」
リシャナは結果的にではあるが、末っ子だ。一番上のアルベルティナとは十歳年が離れている。リシャナが八歳の時に嫁いで行ったから思い出はそう多くないが、気の強いやさしい人だった。
「リュークと言えば、ニコールや姫たちはどうしている?」
「元気に過ごしています。私のいない間の采配は、ニコールに任せてきました」
アールスデルスにはほとんど貴族がいないので、仕方がないのだ。リュークが苦手だった分、ニコールが得意であるというのもある。
「お前のところの姫は?」
「元気ですよ。父親の顔を覚えていないと思われます」
「それは夫を返してくれと言う遠回しな訴えか? 無理だ」
「わかっています」
この状況で、リシャナと婚姻を結んだことで王族となっているエリアンを宮廷から引き離せない。ヘルブラントとリシャナを除けば、彼が政務上の最高権力者なのだ。ヘルブラントは、王妃のアイリを政治から遠ざけている。
「……お前には苦労をかけっぱなしだな」
「……私は兄上のことが好きなので、多少の苦労は構いません」
そう言うと、ヘルブラントに変な顔をされた。
「お前、どうした? さすがに無茶をしすぎたか?」
「……エリアンに言われたんです」
「なるほど」
納得された。リシャナが妊娠中に、エリアンに言われた言葉である。リシャナは黙り込んでしまうタイプだが、エリアンは言葉を尽くしてくるタイプなのだ。
「利用していたことは認めるが、俺もお前のことが可愛いぞ」
リシャナもちょっと目を見開いて、兄を見て目を細めた。
「もう、可愛いと言われる年ではありませんよ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本気を出しに来たリシャナ。




