60.レギン王国の使者
結局、リシャナが王都に向かったのは、それから十日後のことだった。エリアンおよびその他臣下の皆様から嘆願が届いたのである。つまり、早く来い、と。
「陛下は目覚められたようだけれど、ご不調が続くなら、あなたが議会を先導しなければならないんじゃない?」
ニコールに指摘されて、なるほど、と思った。それもそうだ。その引継ぎをしたいのだな、と気が付いてリシャナは出立することにしたのである。
途中、吹雪に見舞われたので時間はかかったものの、無事にウィリディス・シルワ宮殿に到着して安心したのはリシャナだけではないだろう。
「雪の中、大変だっただろう」
迎えに出てきたエリアンがねぎらってくるが、リシャナは夫をにらんだ。
「呼び出したのはそちらだろう。状況は?」
声を潜めて尋ねたリシャナの腕を掴んだエリアンは、そのまま回廊の壁に彼女を押し付けた。耳元で囁くように状況が述べられた。
「王妃の異母弟と、甥が来ている。少し前から交流を図るためと言う名目で滞在しているのは知っていると思うが、陛下が倒れてからは、王妃の憂いを晴らすため、と言って内政にも口出しをしてくる。正直、俺たちだけでは突っぱねきれない」
「お前にしては弱気な発言だな?」
「こういう時、身分がものをいうからな。これまで政治にかかわってこなかった王妃も止めきれないようだ。だが、あなたなら」
リシャナはがっつり政治にかかわっているし、王の妹と言う身分もあるのでエリアンたちができなかった強硬手段をとることができる。
己の役目を確認したリシャナは、エリアンの頬に手を当てて顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いな?」
「あなたに言われる日が来るとは。大丈夫だ。あなたの顔を見たら元気になった」
「そんなわけあるか。物理的に休息をとれ。しばらく私が請け負えるからな」
王がいなければ、公爵であり王の妹の配偶者であるエリアンが最も身分が高いだろう。いろいろと大変だったはずだ。エリアンはリシャナに軽く口づけると、体を離した。
「まず、陛下の元へ向かってくれ。顔が見たいと言っていた」
「わかった」
そこで何を言われるのか恐ろしくもあるが、見舞わないわけにはいかない。エリアンによると、大事をとってまだ休んでいるそうだ。
「アリアネは元気か? ずいぶん大きくなったんじゃないか?」
もう半年以上娘に会っていないエリアンが歩きながらリシャナに尋ねる。リシャナは「そうだな」とうなずいた。リシャナも去年の夏に一度リーフェ城を離れてひと月ほど王都に滞在したのだが、その間にもアリアネは大きくなっていた。
「もう立って歩きまわっている」
「ぐっ……なぜ俺は娘に会えないんだ……!」
リシャナが出産して一線を退いていた上に、ヘルブラントが倒れたからではないだろうか。ツッコむのはやめておいた。
それにしても、エリアンはすっかり親ばかになっている。いや、過保護でも別にいいのだが。気にかけられないよりは、気に掛ける方がいいに決まっている。
「……まあ、もう少し頑張ってくれ」
こんなにエリアンは娘を愛しているのに、たぶん、アリアネは父の顔を覚えていない。
案内されたのはヘルブラントの寝室だった。エリアンは仕事が溜まってきているらしく、さばきに行った。
「よう、来たな、リシェ」
呼び出して悪かった、と不敵に笑うヘルブラントは元気そうだ。見た目だけかもしれないが、虚勢を張れるくらいの元気はあるのだと思うと、少し安心した。
「いえ。兄上の姿を見て、私も安心できましたから」
リシャナがそう言うと、ヘルブラントは「そうか」と目を細めた。ヘルブラントは天幕の上げられたベッドに腰掛けているが、彼は一人ではなかった。
「噂には聞いていましたが、本当に美しい方なのですね」
にこにこと無害そうな笑みを浮かべてのたまう少年は、まだ二十歳にもならないだろう。淡い金髪が、北方の出身であることを示している。アイリの異母弟と甥が来ているそうだから、年齢からみて甥の方だろうか。
「リシェ、アイリの甥でヴェイニだ。アイリの一番上の兄上の息子にあたるそうだ」
つまり、レギン王国の王太子の息子か。ヘルブラントの説明を聞きながらリシャナは家系図を思い出す。……あとでエリアンに確認しておこう。
「ヴェイニ、俺の妹のキルストラ公リシャナだ。お前の言う通り、聞きしに勝る美人だろう」
「本当に。よろしくお願いします、リシャナ様」
名で呼ばれたことにわずかに顔をしかめた。身分が高くなると、役職や爵位で呼ばれることが多くなるので、いきなり名を呼ばれることはめったにない。
「よろしく、ヴェイニ殿。兄上、話がしたいのですが」
遠回しにヴェイニに遠慮しろ、と言ったのだが、にっこり笑った彼は居座ることにしたようだ。リシャナとにらみ合いになる。ヴェイニがたじろいだ。その気はないが、リシャナの眼光は鋭いのである。
「ヴェイニ、久々に会った妹だ。席を外してくれ」
「僕もヘルブラント陛下を兄のように思っているのですが」
ヘルブラントの要求に、ヴェイニは調子のよいことを言って残ろうと粘る。それもそうだ。ヘルブラントとリシャナが密談をするとわかっているのに、あっさり引き下がるわけがない。
それをわかっているのだろう。ヘルブラントは軽く笑って言った。
「弟と妹は違うからな。妹は特別可愛い。そしてヴェイニを弟のように思っていても、お前は今は客人だ。遠慮してくれ」
「失礼しました」
表面上は笑顔を張り付けてヴェイニが引き下がる。ここで引き下がらなければ、実力で排除しろ、とヘルブラントがサインを出していたので、リシャナは内心ほっとする。
「実力行使に出ずに済んで安心しました」
ヴェイニが部屋を出たことを確認してから、リシャナは口を開いた。ヘルブラントは彼女に座るように勧めながら言った。
「おそらく、俺のサインに気づいているぞ。頭がいいな、あいつ」
「わかりました。エリアンに丸投げしましょう」
「エリアンはダーヴィド対策の真っ最中だな」
「それは義姉上の異母弟だという人ですか?」
「ああ。エリアンから聞いたのか?」
「名前くらいは」
すぐにこちらに来たので、エリアンとの情報のすり合わせも終わっていない。一度王都の屋敷にさがればいいのだが、その間に宮殿を掌握されたら目も当てられない。椅子に座ったリシャナは、ベッドに腰掛けたヘルブラントと顔を突き合わせて密談に入った。
「リシェ、こちらからの依頼だが、早急に宮廷を掌握してくれ」
「……一応、その覚悟はしてきたのですが、よろしいのですか?」
「かまわん。お前以外の人間に掌握される方が問題だ」
リシャナ以外、というのは、ヴェイニたちをさしているのだろう。彼らに宮廷を掌握されるくらいなら妹に掌握された方がましだし、ヘルブラントは何ならそのままリシャナにすべてを譲るくらいの気持ちでいるかもしれない。
「……わかりました。初めてですし、どちらかと言うと苦手な分野ですが、やってみましょう」
エリアンがある程度状況を把握しているはずだ。協力体制が敷ければさほど難しくはないだろう。最悪、エリアンの協力が得られなくてもリシャナ一人でもなんとかなると思う。
請け負ったリシャナに、ヘルブラントは「頼んだ」と微笑むと、リシャナを手招きした。椅子から立ち上がってヘルブラントの側に寄ったリシャナは、彼の隣に座らされ、抱きしめられた。
「すまない。リル・フィオレを頼む」
「承知しました」
ヘルブラントに恭順を示すと、リシャナは兄の寝室を出た。なんだか壮大なことを頼まれてしまったが、事実上できるのはリシャナだけだから仕方がない。まず、エリアンとの情報のすり合わせだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
娘に会えないエリアン。いや、会ってはいるのですが。




