35.リーフェ城、昼下がり
晩夏のリーフェ城。昼過ぎの日差しが差し込む書斎で、リシャナはフェールと向かい合っていた。膝にはリコリスと名付けた子猫を抱えているがご愛敬だ。
「……妊娠しました」
青ざめたフェールにそう言われ、リシャナは「うん」とうなずいた。
「知っている。おめでとう」
結婚してから一年近くが経過している。そうなってもおかしくはない。いつかは言われるだろうとわかっていた言葉で、だが、代わりの侍女を探すのが少々面倒だな、と思う。
対してフェールはくっと顔をゆがめた。
「王都に行くリシェ様に、同行できません……!」
打ちのめされたようにテーブルにつっぷすフェール。リシャナは首を傾げた。
「妊婦が無理な姿勢をするな。というか、御前試合を見に行くだけだ。別に面白いことはないと思うが」
リシャナはここで騎士を引き抜いてきたりするが、女性のフェールが見ても面白いものではないだろう。たまに、好きなものもいるが。
「大丈夫よ、フェール。リシェ様のことはお任せなさいな」
フェールに変わって侍女代わりとしてお茶を出していたエステルがふふふ、と笑う。リシャナはリコリスの顎の下をかりかりとかいた。みゃあ、と満足そうな鳴き声。
「楽しみにしていたのよ……!」
「お前、どうした?」
フェールは実家との仲が悪い。王都に行けば顔を合わせることもあるので、リシャナについて行く、という名目がなければ王都に近寄ろうとしない。なのに、楽しみにしていたとは何だろう。
「リシェ様のりりしいお姿を拝見したかった、ということですわ」
「私が出るわけではない。ここで堪能しておけ」
「リシェ様が冗談言った……」
「私だって冗談くらい言う」
なんだかんだ五年の付き合いになるフェールだが、彼女はリシャナをなんだと思っているのだろう。
しばらくうなだれて、フェールはきっと顔をあげてエステルに向かって言った。
「エステル、リシェ様を頼みます」
「頼まれましたわ」
エステルが力強くうなずくので、フェールは引き下がることにしたようだ。こればかりはどうしようもない。
「私も楽しみにしているから、無事に産んでくれ」
「産まれたら祝福を授けてくださいますか」
「それは旦那と相談しろ。やつも置いていく」
フェールの夫はリシャナの軍の近衛に相当する一人だが、今回は置いていくことにする。別の人員を引き抜こう。それはまあいいのだが。
「……代理の侍女がもう一人欲しいな」
エステルは女医であって、侍女ではない。そのまねごとをさせてしまっているが、本職ではないのだ。本人が喜んでやっているとしても、だ。
リシャナはそもそも自分のことは自分でやってしまうタイプなので、侍女はあまりおいていない。女性の使用人は何人か使っているが、身の近くに置くとなるとまた話は違ってくる。フェールが押しかけてきたときも、ちょうどヤンの妹ローシェが出産のために下がっていたころだった。
「……ローシェに問い合わせてくれ。都合がつくようなら連れて行く」
「都合の方を合わせてくると思いますが、承りましたわ」
エステルがうなずいてよくわからない言葉遣いで言った。いや、意味は分からないではないが。
「私をここに連れてきてくれたのは、ローシェが侍女をやめたからなのでしょうか」
フェールも同じことを考えていたらしく、尋ねた。五年一緒にいるが、そういえば初めて聞かれたかもしれない。
「それもないとは言えないが。自分で進みたい道を見つけているのに、捨て置くのは気が引けたんだな」
あの時のフェールは、父親の言いなりになりたくない一心だったのだと思う。この時代の貴族はそういうものだ、と言ってしまえばそれまでだが、おそらくフェールがリシャナに共感したように、リシャナもフェールに共感したのだと思う。
「……私も、兄上に言われた通りロドルフに嫁ぐものだと思っていたんだが」
「ええ……」
フェールもエステルも嫌そうな顔をした。その表情の変化が面白くて、思わずリシャナは笑う。
「次善策ではあるが、悪い案ではないだろう。直系の王女は、もう私しか残っていなかったのだし」
少々年は離れていたが、珍しい年の差ではないし、ロドルフが傍流であることが問題だったのだから、直系の姫君をあてがえばいい、と考えるのは当然だ。その先、リシャナがどんな目に合うかわからなくても、面目は立つ。
「リシェ様は、それにあらがったわけですね」
「いや、そんな高尚な理由ではないな」
自分の運命にあらがおうと思っていたとか、そんな理由ではない。少なくともあの時、リシャナは自分に訪れるだろう運命を受け入れていた。
「……そんな、誇れるような理由ではないんだ、本当に。ただ、あのままだとみんなが死んでしまうと思った。それが嫌だったから、門を閉ざして戦った。そして、たまたま私に、その才能があったに過ぎないんだ」
フェールとエステルが顔を見合わせた。リシャナがこんなことを言うのが初めてだからだろう。そう。リシャナにはそんな、どうしてもという意識があったわけではない。ただ、嫌だっただけだ。兄たちが死ぬのが。自分に優しくしてくれた人が死ぬのが。幸い。リシャナたち兄弟は母親よりは正確に現実が見えていたし、兄たちもこのままロドルフを通して殺されるよりは、抵抗した方が良いと賛同してくれた。だからこその、『ルナ・エリウ開城戦』である。
「なんだかうれしいですわね、リシェ様からそういう話を伺うの」
エステルが微笑んで言った。フェールも「そうね」とうなずく。
「リシェ様はあまりご自分の昔のことを話してくれませんし」
「そうだったか」
そう言われてみれば、そうかもしれない。この二人が知っているのは、アールスデルスに封じられてからのリシャナだ。特に面白くもないので話したことはなかったか。
「別に面白くはないしな。戦に次ぐ戦だ」
十七の時に王位継承戦争が終結し、そのまま北方に封じられた。北方諸国連合への抑えのためだ。戦争を生き残ったリュークとリシャナを比べれば、明らかにリシャナの方が戦上手だった。
「リシェ様のことなら、何でも興味深いですが」
フェールのその発言に既視感を覚え、リシャナはゆっくりとフェールに目を向けた。五年前、父の言いなりに結婚したくないのだ、と言ってリシャナのところに押しかけてきた少女が、今は結婚して、腹に子供がいると言う。
「……エリアンの物言いに既視感があったんだが、お前だな、フェール」
似ているな、と思った。生真面目なところは似ているかもしれない。エリアンの方が人を食ったような態度だが。
「なんだか釈然としないのですが」
半眼でフェールは言うが、エステルは「ふふっ」と噴出して笑っている。
「そうですわね。リシェ様が大好きなところが似ておりますわね」
もちろん私も大好きですわ、とエステル。リシャナも、「そうか」と応じた。
「私もお前たちのことが好きだな」
まあ、とエステルは声を上げたが、フェールはかっと頬を赤らめた。え、何、その反応。
「どうしたのかしら」
エステルが面白そうにフェールの顔を覗き込む。フェールは少し唇を尖らせて言った。
「……そんな表情で言われたら、惚れてしまいます。いえ、大好きですけれど」
「それでいいのか、妊婦」
慕ってくれるのは嬉しいのだが、夫はいいのだろうか。フェールは「いいんです」とにべもない。
「しばらくお会いできないのは、リシェ様の方ですから」
「あなたもぶれないわねぇ」
エステルがちょっと呆れていた。リシャナの方は、やはりエリアンと似ているな、などと考えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
いつか、リシャナの王位継承戦争も書きたい。




