30.前に殴ったやつ
正直に言うと、このおとなしい末の妹に、何かを期待したことはなかった。それでこの仁義なき内戦が終わるのであれば、ロドルフに妻としてくれてやってもいいとすら、思っていた。
第二十六代リル・フィオレ国王 ヘルブラント・フルーネフェルト
おそらくリシャナ自身も気づいているだろうが、あの二人は子猫を殺した犯人ではない。エリアンはしばらく自分が捕まえてきた男女の主張を聞いていたが、話を聞く限りそう思った。
『お前の大切なものを奪ってやる』
このメッセージはリシャナに向けられたものだろうか。そう考えるのが自然だ。子猫も、リシャナが可愛がっていた。子猫を奪う際に傷つけられたロビンも、リシャナが世話をしている。あの男女は依頼されてその依頼通りに動いている。このメッセージの犯人は、自分の目的のために動いているように見えた。
仮定してみる。メッセージの相手はリシャナ。リシャナが大切にしているもの。侍女のフェール、女医のエステルとその息子ロビン。兄弟に猫たち。そして、うぬぼれてもいいのなら、エリアン。
リシャナの大切なものを狙ってくる相手とは誰だろうか。まず考えられるのは、暫定敵国であるラーズ王国だが、それにしてはやり方が個人にこだわりすぎている。だとしたら、リシャナ個人に恨みのあるもの……王太后が考えられたが、彼女ならまっすぐリシャナを狙ってくるので、省くことができる。では。
リシャナは軍人たちに慕われているが、貴族の中には敵も多い。王の妹であると言う立場から、かなり無理を通している部分がある。だが、そんな彼らはリシャナが王都にいる時を狙うはず。だとしたら、今、この宮殿よりも警備の薄い、リーフェ城に他人が入っている状況下でしか動けない人物が犯人だ。
数日前、エリアンはリシャナにはたかれている。正確には殴られたのだが、リシャナが求婚相手を殴ったのは二度目だと言う。では、一度目に殴った相手はどうなったのだろう。
王族の姫君であるリシャナのことだ。完全な政略で相手に侮られて怒った可能性もあるが、本当に相手がリシャナを気に入って、身分が釣り合うので見合いの場が持たれた可能性だってある。エリアンだって、自ら立候補した。
「俺に何か用か」
エリアンは自分にあてがわれている部屋に来ていた。一応鍵は閉めたはずだったが、開いていた。中にいる男に声をかける。エリアンより年上。三十手前に見える男だった。衛兵の制服を着ている。この城では目立たないだろうが、この部屋では目立つ。
「お前、リシェの麾下ではないな」
少なくともエリアンは見覚えがない。どうも人の顔を覚えるのが苦手らしいリシャナだが、自分の麾下の人間はわかりそうな気がする。というか、リシャナの麾下にはいなさそうな優男だ。おそらく優男に分類されるだろうヤンすら、もっとがっしりした体格をしている。
「お、お前、姫君を名前で……!」
「……」
姫君。この国で姫君と言えば、リシャナが思い浮かぶ。いろいろと肩書の多い女性だ。この男も、リシャナの『姫君』という肩書に釣られて求婚したのだろうか。おそらく、この男はリシャナに求婚して殴られたと言う男だ。五年以上前のことだと思うが。
「お前、恥ずかしくないのか。リシェのことを愛しているのなら、なぜ彼女の大切なものを奪う」
「誰がお前が姫君の大切なものだと決めたんだ! 思い上がるな!」
ダメだ会話が成立しない。王太后と対峙しているときのリシャナはこんな気持ちなのだろうか。
「エリアン!」
そこに、話題の中心のリシャナが来た。なぜか窓から来た。確かにベランダはあるが、上から飛び降りてきたらしい。
見たことがないくらい必死な表情だった。ルナ・エリウ開城戦の時だって、もっと落ち着いていた。この表情をさせているのが自分だと思うと、なんだか愛おしい気持ちがあふれた。
「何故、何故お前なんだぁあ!」
男がエリアンに向かって短剣を振りかぶった。何とか避けるが、エリアンは白兵戦が得意なわけではない。情けなくあるが、リシャナに任せた方が確かだ。
「っ!」
鞘に入れたままの剣で短剣をはじいたリシャナが男に向かって思いっきりけりを入れた。男は備え付けの机に突っ込んで動かなくなった。
「大丈夫か!?」
リシャナが目の前にしゃがみこんだことで、エリアンは自分がしりもちをついていたことに気が付いた。情けない。
「……大丈夫だ。助かった、ありがとう」
「……よかった」
リシャナが顔を伏せてエリアンの肩に自分の額を当てた。エリアンがリシャナの頭に触れようとした時、今度はちゃんとドアが開いた。
「我が君!?」
ヤンだ。ぱっとリシャナが顔をあげる。おもむろに机に突っ込んだ男を示す。
「犯人」
「はんに……ええ?」
困惑してヤンは犯人と言われた男を見た。リシャナが立ち上がって指示を出す。
「城の閉鎖を解け。それから、侵入経路を調べろ。手引きした者は厳重注意だ。今のところは」
今のところは、というのが恐ろしい。リシャナは本人が思っているよりも穏やかな性格であるが、規律には厳しい。比較的寛容な主人だが、怒らせると一番怖い。
「こいつ、ヘイスじゃないか?」
「は?」
エリアンを襲った男を眺めていたヘルブラントがふいに言った。リシャナが反応して勢いよく振り向くが、急に彼女はふらついた。
「リシェ!」
立ち上がっていたエリアンは慌ててリシャナを支えるが、身体に力が入っていない。めまいがしたのか頭を押さえていた。
「どうした。大丈夫か?」
「だい……」
言い切る前に手が落ちた。かろうじて力が入っていた体もだらりとなり、エリアンは思い切ってリシャナを抱き上げた。女性にしては長身で鍛えていると言っても、持ち上げられないほどではない。
「リシェ!」
「我が君!」
ヘルブラントは駆け寄ってきたが、ヤンはヘイスと呼ばれた男を拘束している。職務を忘れていない。
「どうしたんだ?」
「めまいがしたようでしたが」
ふらついていた。どうもヘルブラントは先行してきたらしく、後から部屋に人がやってきて、エリアンに抱えられているリシャナを見て悲鳴を上げた。
「え、どうしたんですか!」
「静かにしてやれ。おい、こいつ閉じ込めるから、どこか部屋を一つ開けてくれ。それと、エリアンはリシェを寝かせて来い。確か、エステルとかいう医者がいたな」
城主がこの状態なので、ヘルブラントがてきぱき指示を出す。戸惑うリーフェ城の使用人たちだが、ヤンがヘルブラントに従うように言うと、一応の落ち着きを見せた。彼も慕われているようだ。
「まあ、リシェ様!」
「何したんですか!」
驚きの声を上げるエステルに、フェールに責められるエリアン。とりあえずリシャナはベッドに降ろす。
「何もしていない。突然倒れたんだ」
「しばらく調子が悪そうでしたもの。あら、発熱しているわね」
エステルがリシャナの額に手を当てて言った。服をくつろげようとして。
「ルーベンス公、退出していただけます? 後で容体はお知らせしますわ」
「あ、ああ。頼む」
エリアンはおとなしくリシャナの寝室を出た。エステルが息子を傷つけられた挙句に、恩人のリシャナまで倒れたことに苛立っているだろうことは理解した。
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