29.急転
結論から言うと、母はさらに文句をつけてきた。ヤスメインたちのことではなく、狼たちのことだ。これについては、リシャナも母の気持ちが分からないではなかった。普通に考えて、自分の生活圏内に狼がいるのは怖すぎる。
狼については調教中なのでリシャナは子猫と遊んでいた。大きくなってきたので、紐を揺らすとじゃれついてくる。可愛い。そろそろ夜中の運動会も開かれるころだろうか。
「リシェ様、疲れてますか?」
ヤスメインをブラッシングしていたロビンに言われ、リシャナは自分の顔に触れた。
「そんなに疲れた顔をしているか?」
お前の母にも言われた、と言うとロビンはヤスメインを抱き上げて首を傾げた。
「顔というか、目、でしょうか?」
「不機嫌そうなのはいつものことだ」
子供のころ、母にその目で見るな、と言われた。自分でも、澄み切ったアイスグリーンの瞳が、やたらと目力を強くさせている自覚はある。子供に怖がられたこともあるので、すっかり目をすがめるのが癖になってしまっていた。それが人によっては眠そうに見えたり憂鬱そうに見えたり、不機嫌そうに見えたりするわけだ。
「そうではなくて……そうです! いつもきれいな瞳がよどんで見えます!」
「そうか。それはわかりやすいな」
自分ではわからないので、どういう状態なのだろうか、と思うが、ロビンは結構よく見ている。紐が止まっていたので、子猫が遊んでくれとばかりに足に縋りついてきた。子猫を抱き上げてなでてやると、満足そうに喉を鳴らす。
「もう休むことにする。ロビン、ヤスメインたちを頼む。窮屈な思いをさせるが……」
「いえ。リシェ様のためですから!」
きりっというロビンの頭を撫で、リシャナは寝ることにした。夕食前だが、さすがに休まなければフェールたちが心配する。
だが、いくらも休まないうちにリシャナはたたき起こされた。すでに眠ることが鬼門のような気がする。起きた瞬間にため息がでた。
「申し訳ありません」
フェールが本当に申し訳なさそうな表情で言った。リシャナは横たわったまま首を左右に振る。
「お前のせいではないだろう。今度はどうした」
「それが……」
フェールから事情を聞いて、リシャナは顔をしかめたし、フェールも不愉快そうだ。
「とりあえず、エステルが怒っています」
「それはそうだろうな」
ロビンが、何者かに襲われて怪我をしたらしい。数日前から、あろうことかこのキルストラ公リシャナの居城に不届きものが侵入しているのは確かなのだが、ついにロビンに手を出してきたか。リシャナを刺すにもよい方法だ。仮想敵がリシャナなら、リシャナでもそうする。
厚めの上着を羽織り、ひとまずロビンの元へ向かう。そこへ走ってきたのはニコールだった。
「リシェ! よかったわ。来て!」
ニコールに腕を引っ張られる。リシャナは一瞬、ニコールとフェールを見比べた。
「フェール、後で行く」
「わかりました。お気をつけて」
フェールが生真面目に言ったが、ここはリシャナの城だ。危険なことなど、と思ったが、今は様々な人が出入りしているのだった。リシャナの見覚えのない人間が多数出入りしている。
ニコールに連れてこられたのは廊下の突き当りだった。正確にはT字路である。その壁に、赤い文字が書かれている。そして、子猫が一匹はりつけにされていた。ヤスメインの産んだ子だ。触れると、もう冷たい。一歩下がって壁の文字を見る。よろめいたように見えたのだろう。ヘルブラントがリシャナの肩を支えた。
「リシェ……」
気づかわし気にヘルブラントが声をかけてくる。肩が震えていた。目の前が揺れて、何かがリシャナの中で切れた。
「門を……」
「ん?」
「すべての門を閉じろ。誰もいれるな。誰も外に出すな」
低い声が出た。気が弱いものなら腰が抜けるだろう思うほど低い声が出た。ヘルブラントやニコールがそろそろとリシャナから離れる。誰も動かない。身じろぎの音すら聞こえない。
「聞こえなかったのか! 早くしろ!」
「は、はい!」
めったにないリシャナの怒鳴り声に、衛兵たちが動く。自分でも瞳孔が開いていることが分かった。というか、目が見開かれている。強い光をたたえる澄み切った瞳が壁を見据えた。
『お前の大切なものを奪ってやる』
ただ、それだけ。
だが、すでにリシャナの城で死人が出ているのだ。この小さな猫にだって、怪我をしたロビンにだって非はない。いろいろなことが重なって、リシャナがキレた。
「各場所、職種の責任者を集めろ。話を聞く。手荒なことはするな」
「はいっ」
怒鳴られる前に、衛兵が命令を伝えに走った。
リシャナはおおむね仕えやすい城主だと思う。無茶を言ったことなどほとんどないし、言ったとしても実現可能な範囲内だ。だから、元からの城の使用人たちも戸惑い気味だ。
「……ちょっといいか、我が妹よ。お前が動けば、犯人が逃げるんじゃないか」
ヘルブラントがツッコミを入れてきた。いくら門を閉鎖しても、逃げ道などいくらでもある。それはわかっている。
「わかっています。私が動けば、犯人が動く。つまり、痕跡が残ります。エリアン」
「なんだ?」
ヘルブラントですら引いているのに、こいつは態度が変わらないな、と思いつつ指示を出す。
「母上がこの城にくる以前に働き始めた使用人で、且つ、もともとの使用人ではない者の中から城内を歩き回れる……そうだな、衛兵、もしくは下働きとして採用された者を見てきてくれ。顔の印象の残らない、普通のやつだと思う」
「……つまり、スパイを探している、ということでいいんだな?」
「そう考えてくれてかまわない。近い」
背後から顔を近づけてきたので、押し返す。ヘルブラントは「仲がいいな」と笑っている。ニコールはちょっと引いていた。
子猫を下ろしてやり、丁寧に埋めてやることにした。壁の文字は解決するまでそのままにすることにした。リシャナは今日中に解決するつもりでいる。
「何です! わたくしたちを閉じ込めてどうするつもり!」
王太后がリシャナに詰め寄ったが、娘の澄んだ瞳に睥睨されてひるんだ。カタリーナとリシャナがにらみ合った場合、たいてい引くのはリシャナの方だが、今回リシャナが怒っているため、そうはいかなかった。
「別に母上をどうかしようなどと思っていません。ただ、しばらくおとなしくしていただきたいですが」
「お前……! 何様のつもり!?」
「キルストラ公爵でこの城の城主のつもりですが」
きっぱりと言う。カタリーナが口を開く前に、さすがのリュークも割って入った。
「はい! ちょっと待った! 母上、部屋に戻りましょう! すぐに解決しますから!」
なんとなく、リュークのリシャナに対する全幅の信頼が見て取れる。リシャナが頭角を現した王都開城戦で、リシャナの一番近くで見ていたのがリュークだからかもしれない。
「お前には過ぎたふるまいだ! 恥を知りなさい!」
「母上!」
リュークが半ばカタリーナを引きづるようにして連れて行く。カタリーナはやはり暴れている。
おそらく、最初の事件、衛兵の一人が殺されたのは、王太后の送り込んだ暗殺者の仕業だと思われた。正確には暗殺者ではないのだと思うのだが、手の者なのは確かだ。元の衛兵となり替わって潜入しているはずである。これは、顔を見ればリシャナが見つけられる可能性が高い。さすがに、自分の配下くらいは認識している。……たぶん。
おそらく侍女に扮している者もいる。彼女が、王太后とつなぎを取っているのだろうと思われた。このあたりはエリアンが見つけられると思っている。人任せではあるが、リシャナにできないので人に任せるしかない。
おそらくこの城には今、二種類の『侵入者』がいる。一つは王太后の命を受けた侵入者。こちらはこれまで放っておいたが、もう目星はついている。狩りが終わってから片付けようと思っていたので。
もう一つが、ロビンを傷つけて子猫を殺した人物だ。おそらくこの二つに因果関係はないが、一つ一つなら我慢できることも、続けて起こったことでリシャナの琴線に触れた。絶対に許さん。
エリアンは先に衛兵と侍女を捕まえてきた。潜り込んでいた二人だ。どうやら、殺された衛兵は二人の潜入を目撃したために殺されたようだ。もともとは人が増えるので、紛れ込んでもわからないだろうと、殺すつもりはなかったような口ぶりだった。本当かは知らないが。
「また母上が文句を言いに来るぞ」
「別に放り出しはしません。これまでやったことを吐かせて母上の元へ戻します」
ヘルブラントの疑問にリシャナはきっぱりとそう言った。侍女が青ざめる。
「お、お待ちください! すべて申し上げますから、王太后様の元へは……!」
「……」
「私はキルストラ公閣下にお仕えしたく存じます!」
「……お前の人たらしも、ここまでくると少し怖いな……」
そういうことではない気がするが、ヘルブラントの意見も一理あるのかもしれない。どちらかと言うと、王太后が怖いのだと思うが。
だが、しゃべってくれるのならそれでよい。こういうのはエリアンに任せようと思って振り返ると、いなかった。
「……エリアンは?」
「そういえばいないな」
「さっき出て行ったぞ」
リュークがしれっと言うので、リシャナはヘルブラントと顔を見合わせた。
「何故?」
「いや……聞いた方がよかった?」
「……」
「どっち!?」
リュークが不安そうにリシャナを見ているが、彼女はそれどころではなかった。彼女自身も、子猫については衛兵もどきと侍女ではないと思っていた。
「兄上、ここ、頼みます」
「おう……?」
ヘルブラントからまともに返事をもらう前に、リシャナは駆け出した。幸いにも、ここはリシャナの城。彼女の庭だった。
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