22.我が君
その人を見た瞬間、身分の高い少女だとわかった。北壁もそこまで落ちぶれたかと落胆したが、その少女はたぐいまれな君主の器を持っていた。あの時から、私の主は彼女、現リル・フィオレ王国女王リシャナ・フルーネフェルトただ一人である。
ヘリツェン伯ヤン・クラウス
環境の悪い地下牢に入れられて五日経った。妹は無事だろうか。このアールスデルスに生まれ育ち、北壁と呼ばれるアールスデルス北方城塞の守備軍に入隊したヤンは、上官を殴り飛ばして地下牢に入れられていた。貴族ではないとはいえ、ヤンはこのあたりの豪族の生まれである。軍人としての身分を考えても、劣悪な地下牢に入れられるのは、上官の嫌がらせとしか思えなかった。
不意に、地下牢への入り口のあたりが騒がしくなる。完全に不貞腐れていたヤンは板を張っただけの寝台に横たわったまま顔も上げない。軽い足音が近づいてきて、ヤンの牢の前で止まった。
「お前が部隊長のヤン・クラウス?」
こんな城塞に似つかわしくない、若い女性の声だった。思わず体を起こす。逆光になっていてわかりづらいが、長い黒髪のすらりとした女性であることはわかった。
「……だとしたら、何だ。ここはあんたみたいな育ちのいい小娘が来るようなところじゃないぜ」
「クラウス、貴様!」
牢番の方が憤って声を荒げるが、女性の方は平然としたものだった。
「構わない。育ちがいいかはわからないが、私が小娘であることは事実だ」
そのセリフや言い回しから、生真面目な性格であることがうかがえた。こんな子が、自分に何の用だと言うのだろう。
「私は昨日付でこの要塞の総督兼総司令として派遣されてきた。総督代行のヘリツェン伯に話を聞いても要領を得なくてね。この北壁のことなら、ヤン・クラウスに聞くのが良いと教わったので、会いに来た」
このあたりに領地を持つヘリツェン伯爵は、ヤンの上司であり、城塞の総督代理だった。アールスデルス北方城塞自体は、王家の持ち物なのだ。国境を守る総督に見合う地位の人間が、新しく総督になると聞いていたが、それがこの小娘?
「そうか。勝手にしてくれ」
そう言ってヤンは寝台に倒れこむ。どうでもよかった。どうでもいいが、この娘に言われたからと勝手に牢を出て、ヘリツェン伯の怒りを買うのはごめんだった。妹がどんな目にあうかわからない。
「では、勝手にしよう。お前、鍵を開けろ」
「は!? しかし、この男は……」
「ヘリツェン伯を殴った、というのは聞いた。ああ、正確には元ヘリツェン伯だな。私の権限でその地位は凍結したからな」
現金なもので、バッとヤンは起き上がって寝台から飛び降りると、牢の格子にへばりついた。新しい総督だと言う娘が、さすがに一歩下がる。
「なあ、あんた! ヘリツェン伯の屋敷は押収したか? そこに、二十歳前の娘がいなかったか!? 俺の妹なんだ!」
妹が暴行を受けそうになって上官を殴ったが、ヤンはあえなく地下牢送りになり、結局嫌がる妹は上官に連れて行かれてしまった。そのクソ上官がヘリツェン伯なのである。
「屋敷の押収はまだだが、私と同じ年頃の娘なら保護した。ローシェと名乗っていたが」
「……妹です」
近くで見ると、新総督は十代後半から二十歳ほどに見えた。大人びているが、まだ少女と言っていい年ごろだろう。そして、ローシェはヤンの妹だ。ヤンはその場に崩れ落ちるように膝をつき、最敬礼の姿勢を取った。
「感謝します、総督閣下」
「いや、成り行きだ。それと、感謝するなら牢から出てこい」
ぶれないな、この娘。そして、本当に牢から出された。ヤンが地下牢に居座っていたのは、ローシェに何かあっては困るからだ。その犯人が新総督につかまっているのだから、もう問題はない。
ヤン自身も手ひどく暴行を受けていたため、そのまま治療を受けて着替えさせられた。明るいところで見ると驚くほど美少女だった新総督が、「お前を殴ったのは誰だ」と聞いてきたので、正直に言うと、次の日には彼らは軍法裁判にかけられていた。仕事が早い。そして、まっとうに権力を使う人だ。そして、ヤンはまだ新総督の名前を聞いていない。牢から出された日は、治療を受けてそのまま眠ってしまったためだ。新総督は怒らなかった。
「お前の妹については心配するな。私の居城に召し上げた。ついでに、ヘリツェン伯領も召し上げたため、お前の出身地も今は私の領地だ。何も問題はない」
「仕事が早くないですか。というより、そんなことをして大丈夫なのでしょうか? 一応、ヘリツェン伯ですよ、あのクソ元上官」
「クソだろうが下種だろうが関係ないな。この国に、私より身分の高いものなど、兄上くらいだ」
新総督はしれっとしたものだ。このあたりで、さすがのヤンもこの美少女総督の正体に感づき始めていた。
「……私は、第三騎兵部隊長を任されております、ヤン・クラウスと申します。新総督閣下、以後、よろしくお願いいたします」
名乗ってみると、彼女は「ああ」と今更名乗っていないことに気が付いたようだ。ちょっとずれている。
「新しく総督に就任した、キルストラ公リシャナだ。まあ、総督でも公爵でも、好きに呼んでくれ」
「では、我が君」
「……」
いつも不機嫌そうに細められている目が、やはり不機嫌そうにヤンを見上げた。女性にしては背が高い彼女だが、男にしてはやはり小柄だ。ヤンと顔一つ分ほど身長差がある。
王の妹という、この国で最も高貴な女性であるリシャナの伝説は、辺境にいるヤンたちの耳にもいくらか入ってきていた。齢十三で王都を守り切ったとか、混乱に乗じて攻めてきた北方の隣国ラーズ王国を追い払ったとか。その戦線にはヤンも参加していて、覚えがある。北方守備軍は混乱していたが、リシャナが連れてきた軍は統率が取れていた。その能力を買って、王は妹を北方に封じたのだろう。
だが、これほど美しい少女だ。不機嫌そうには見えるが、性格が悪いわけではない。身分が高いものらしい高慢さはあるが、それは彼女の能力に裏打ちされた高慢さだ。北壁のことをざっと説明しながら、ヤンは思った。こうして、部下からの言葉を聞き入れる寛容さもある。
ゆえに、嫁ぐという選択肢はなかったのだろうかと思ってしまう。同時に、話しているだけで分かる知性に、王が手放したくなかったのだろう、という察しもついてしまった。先の王位継承戦争で、国王ヘルブラントは、その身内のほとんどを無くしている。兄弟で生き残ったのは、リシャナと弟がもう一人だけだ。
「お兄ちゃん!」
リシャナに同行し、彼女の居城となったリーフェ城に赴くと、リシャナが言った通りローシェがいた。
「ローシェ!」
駆け寄ってきた妹を抱きしめる。
「無事でよかった……!」
「お兄ちゃんもね。まあ、お兄ちゃんは自業自得のような気もするけど」
「うっ」
口の達者な妹だった。確かに今回の件はヤンが悪い。ヤンの買った恨みにローシェが巻き込まれたのだ。
「公爵様に感謝しなさいよ」
「そうだな……ありがとうございました」
「私からも、ありがとうございました」
兄妹で頭を下げると、兄妹の再会を見守っていたリシャナはいや、と首を左右に振る。
「どちらも結果的にそうなっただけだ。礼には及ばない」
「公爵様ってばそう言って謙遜なさるのよ」
「謙遜ではなく、事実だ」
事実だとしても、彼女のおかげでクラウス兄妹は助かったのだ。不器用で、いとおしい人。リシャナは、何でもないような顔をして、ヤンの大切なものを守ってくれた。
だからヤンは、彼女を生涯の主と定め、『我が君』と呼ぶ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ヤンさんの話でした。




