20.気づき
殴られたらしい、というのを理解したのは、よろめいて床に膝をついた時だった。平手ではなく、拳でやられた。かつての求婚者もこうして殴ったのだろうか。体勢が悪かったのもあるだろうが、思ったよりは痛くなかった。そもそも彼女は、戦の天才であるが一騎当千の勇者ではない。
リシャナを見上げると、彼女自身の方が驚いているように見えた。大きく開かれた切れ長の目が泳いでいる。そうさせたのが自分だと思うと、妙な満足感があった。
「リシェ様!」
人が駆け込んできた。まあ、あれだけの物音がすれば当然である。この城に加害者であるリシャナを叱れる人はいないが、そうしなくてもリシャナが一番ショックを受けていた。執務机に手をついてうなだれている。
「次は舌を入れていいか」
「出て行け!」
文鎮を投げられた。
リシャナの怒りを買ったエリアンだが、実のところ彼女が見た目ほど怒っていないことはすぐにわかった。エステルが殴られた頬を見にやってきたのである。
「気にしていましたわ、リシェ様」
エステルがにこにこしながら診察をする。
「骨に異常はありませんね。少し腫れているだけです。まあ、リシェ様はあまり腕力があるほうではありませんし」
ただの女医のエステルにまで言われている。そういえば、このエステルは、リシャナに顔の造作が似ていた。雰囲気は全く違うが。
「どうなさいます? 頬の腫れ、治癒魔法をかけますか」
「いや、いい」
それほど痛くはないし、エリアンは初めから断るつもりだった。エステルは少し驚いた表情になったが、すぐに微笑んだ。
「そうですわね。リシェ様本人に治していただきましょう」
「エステルはわりあい、俺に好意的だな」
それが不思議だった。初めは探るような感じはあったが、フェールに比べてあたりが柔らかい気がするのだ。気のせいかもしれないが。
「そうですわね。ルーベンス公がリシェ様を好いていらっしゃるのは明らかですし、もしこれ以上上手くいかなくても、リシェ様にとって良い経験になるのではないかと」
「……お前は彼女の母親か?」
「そんな恐れ多いですわ。私を助けてくださった方ですもの。幸せになっていただきたいだけですわ」
やはり母親なような気がするが、一応、エリアンはエステルのお眼鏡にかなっているらしい。
「何事も経験ですもの。たとえルーベンス公と結ばれずとも、何か得るものがありますでしょう?」
「……」
好意的なのか辛辣なのかわからないエステルの言葉に、エリアンは苦笑いを浮かべた。フェールとは違う意味で、この女性が苦手だ。
「ルーベンス公、その頬、どうかされたのですか?」
城内の役人たちが不審げに問うてくるのに、エリアンは「お前たちの女王陛下にやられた」と素直に答えた。リシャナを崇拝しているような部分があるにしては、すんなりと、「うちの閣下ならやりかねない」と納得したらしい。ある役人が言うことには、エリアンが城内の女性に手を出そうとして叩かれたのだと思ったらしい。それで、みんなどこか怒っている風情だったのか、と思った。つまり、うちの閣下がいながら、ということである。というか、そんなことをすれば、彼らの前にリシャナに斬られる。殴られるくらいでは済まない。
「エリアン」
リシャナが声をかけてくるまでに、そう時間はかからなかった。エリアンが聞かれるたびに話しまくったので、すぐに彼女の耳にも、エリアンがリシャナの叩かれた、と言いふらしていることが伝わったのだろう。思わず口元に笑みが浮かぶ。
そこに座れ、と言われて低い出窓に腰かける。おそらく、矢狭間の代わりのようなものだろう。リシャナは自分が殴った頬に手を添え、治癒術を使った。彼女は魔女ではないが、魔術師である。
「何を言いふらしている、お前は。リューク兄上まで話を知っていた」
「聞かれたから事実を答えたまでだ」
リュークにもその妻ニコールにも話をした覚えがないが、誰かが彼らに伝えたらしい。リシャナは不機嫌そうに言う。いや、いつも不機嫌そうには見えるが。リシャナがため息をついた。
「殴ったのは悪かったと思っている。すまない」
「ああ、わかっている。あなたの方がショックを受けていたからな」
「……」
ほとんど痛くはなかったが、腫れが引いたのが分かった。するりとリシャナの長い指が頬を撫でていくので、それを捕まえて指先にキスを落とした。手を掴んだまま立ち上がり、距離を詰めると、リシャナは一歩後ろに引いた。警戒するような動きにエリアンは笑った。
「何もしない。抱きしめたいだけだ。それも駄目か?」
「……」
うかがうように顔を覗き込むと、リシャナは迷うように視線をそらした。ややあってから視線を上げ、両手を広げたので、遠慮なく抱き寄せた。エリアンの腕の中で、リシャナがびくっと震える。その震えを抑え込むように腕に力を込めた。
「……嫌ではないんだ」
ためらいがちにエリアンの服の背中を掴みながら、リシャナは言った。
「しいて言えば、怖い」
「抱きしめられたことはないのか?」
その黒髪を撫でたが、拒否されなかった。かつては腰近くまであった髪だが、本人がバッサリ切ってしまったため、今はかろうじて肩より下あたりを保っている。
「それは、あるが。そうではなくて」
確かに、王太后はわからないが、ヘルブラントやほかの姉に抱きしめられた記憶はあるのだろう。もしかしたら、父親にも。
「お前が、私にまっすぐに向けてくる好意が、怖い」
一応、好意は通じているのだな、と思った。おそらくリシャナは、その好意の受け止め方が分からないのだ。内容はともかく、兄のヘルブラントなども妹を可愛がっているが、それは家族間のことで、しかもリシャナが北壁を守っているから、という理由がある。そうした見返りのない愛情に戸惑っているのだろう。
と、自分で考えたところで、エリアンはん? と思った。まるで、自分がリシャナを愛しているかのようだ。好ましくは思っていたが、実はそれは、恋情に基づくものだったのだと、今更ながら納得した。
誰にもとられたくない、失わせたくないと思ったリシャナの意志の強い目。あれを自分に向けさせたい。そう思った時点で、エリアンはリシャナを愛していた。
「……エリアン、苦しい……」
リシャナから本当に苦し気な声が上がり、エリアンは慌てて腕を緩めた。リシャナがエリアンの胸を押して離れる。
「すまない」
「いや……結構、よかったと思う」
そんなことを真顔で言うので、「そうか」としか言いようがない。冗談なのか本気なのかわからなかった。心臓が早鐘を打っているのは確かだが。少なくとも、嫌がられてはいない……はずだ。それでよしとする。
それにしても、綺麗な女である。身分が高すぎて結果的に結婚できていないリシャナだが、おそらく、めとりたいと思う男はいたのではないだろうか。ヘルブラントが様々な意味でリシャナを手放したくないこと、本人が北壁にこもっていることで、表には出なかったが。そういえば、かつて求婚者を殴ったと言っていたか。エリアンも殴られたが、それくらいで消滅する恋心なら、大したことはない。エリアンは殴られてもリシャナが好きだ。愛している。
そうか、エリアンはリシャナを愛しているのか。
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