19.兄来訪
おおむね、リーフェ城に出入りする人間は、侍女のフェールたちを含めて、リシャナを公爵、もしくは閣下と呼んでいたと思う。しかし。
「リシェ様。北壁から書類が届いています」
「リシェ様、お召し物はこちらで」
「リシェ様」
「……みな、あなたをリシェと呼ぶようになったな」
エリアンが何気なく言うと、リシャナは書類から顔を上げた。外国語の書類なので、苦戦中なのである。顔がしかめられている。
「公爵が二人いるのでややこしいと言われた。リューク兄上が来たら、お前も名で呼ばれるかもしれんな」
多分、普通にルーベンス公と呼ばれるのではないだろうか。たぶん、リシャナが『リシェ』で呼ばれているのは、彼女の指示だろうが、これを機にみんながリシャナを親しみを込めて呼びたいと思ったのだろう。
「おや、だいぶ片付いていますね」
「エリアンが来てから仕事がはかどる」
「さすがは宮廷官僚ですね」
顔を出したのはこの城の役人だ。リシャナを頂点に、この城は一つの家族のような形になっている。そこに入り込んだ異物がエリアンで、今のところ、家長であるリシャナのとりなしで何とかなっている状況である。
その役人……ディーデというらしい……はエリアンを見て微笑む。エリアンも軽く会釈を返した。
「まあ、我が君を奪っていくのですから、それくらいはできないと」
リーフェ城の皆さんは、エリアンに対する評価が辛い。
「別に私は奪われない。エリアンが婿に来るんだ。立場と身分的にな」
リシャナはこともなげにそんなことを言った。そう言えるのは本当に結婚する気はないからだろう。だが、エリアンだって覚悟はある。
「そうだな。あなたから、王族という身分を奪うわけにはいかない。喜んで婿に入ろう」
ディーデは面白そうにエリアンを見たが、言った当の本人であるリシャナは意外そうな目でエリアンを見た。エリアンは不遜に微笑む。
「俺のあなたに対する思いを侮るな」
全然偉そうに言うことではないが、リシャナは思わぬ攻撃を食らったような顔をしたので、一応成功したらしい。ディーデも驚いたような顔でしみじみという。
「リシェ様。違う意味で大丈夫なんでしょうか」
「違う意味とは?」
思いが重たい、という意味だと思うが、残念ながらリシャナには通じなかったらしい。彼女はこうした些細な心情の読み取りが苦手なようだ。戦場ではそんなこともないので、たぶん、恋だとか愛だとか、そう言った感情に無頓着なのだと思う。
ディーデも深く突っ込むことなく、むしろエリアンに「お願いします」と軽く頭を下げてきた。エリアンはやぶさかではないが。
「ルーベンス公はどちらがお好みですか」
などと尋ねてきたのはエステルだ。フェールは不服そうだが、エステルは面白そうに服を二着掲げている。
「どちらも大して変わらん」
情緒のないことを言うのはリシャナだ。彼女がこんな調子なので、エリアンに尋ねるのだろう。見苦しくない程度には身なりを整えるリシャナだが、好みというのはあまりないらしい。これは性格だろうか。
「俺はこちらの方が好みだが」
「どちらでもいい」
リシャナがそういうので、エリアンが選んだほうになったらしい。
エリアンは、エステルが少し心配する理由が分かる気がした。今のところ、リシャナが執着を見せているのは猫だけだ。それはそれで可愛いのだが、これで大丈夫だろうか、と思わないではない。
仕事は淡々とこなす。それなりの趣味のようなものもある。覇気のない彼女は、日々をただ生きているだけに見えた。
先に到着したのはリューク一家の方だった。
「久しぶり……というほどでもないけど。お世話になるよ、リシェ」
「ようこそ、兄上、ニコール。小さな姫君たちも」
さすがに家族に相対するときは、リシャナの表情も心なしかほころぶ。エリアン相手ではまだ見せない表情だ。
にゃん、と足元を毛玉がすり抜けた。ヤスメインだ。リュークの娘のヒルダが「猫ちゃん!」と歓声を上げる。リシャナがヤスメインを抱え上げた。
「ニコール、姫たちに猫を触らせても大丈夫か?」
「ええ。モニクはまだ小さいからダメだけれど、ヒルダは動物が好きよ」
「ならよかった。子猫が生まれたばかりで」
「え、それは私も見たいわ」
リュークは妻と妹の和やかな会話を見てにこにこしている。目が合ったので、エリアンは一礼した。
「やあ、エリアン。兄上に無茶振りされたみたいだねぇ」
事前にここに派遣されたことだろうか。
「いえ。こちらに来ても、ほとんどリシェが手配を済ませておりましたから」
おかげで最近、リーフェ城に人の出入りが多く、リシャナの機嫌がよろしくないが。たぶん、彼女は無自覚な人見知りだと思う。
「正直、兄上が君にリシェを押し付けようとしてるんじゃないかって邪推したんだけど」
「俺は彼女を愛しているので、全く問題ありませんね」
きりっとして言うと、リュークが笑って「ならいいけど」とさっくり話を終わらせる。戦っていないリシャナは、穏やかどころか無に近いが、それでもエリアンの思いが変わることはなかった。リシャナはリシャナだ。あの日、見ほれた彼女が死んだわけではない。
勢いで愛していると言ったが、本当にそんな気がしてくる。少なくとも、リシャナからも嫌われてはいないはずだ。
女性陣は子猫を見て喜んだ。まあ、可愛いな。リシャナの表情がほぐれるくらいだ。ロビンは自分より小さな女の子の来訪を喜んでいるが、ヒルダはお姫様だ。失礼のないように。ちなみにリシャナは小さな子供も好きなようで、兄の下の娘、一歳のモニクを抱っこしている。これはこれで可愛い。
「猫ちゃん!」
ヒルダの声に反応するように、子猫たちがみゃあ、となく。ヤスメインは静かだ。ロビンにブラッシングされて気持ちよさそうにしている。
「よかったら、一匹育ててくれ。さすがに五匹は多い」
「えっ。リシェ様、猫、好きですよね……?」
世話をしているロビンがショックを受けたような顔をするが、子供に対してもリシャナは容赦なかった。
「好きだが、それとこれとは別だ。ニコール達なら可愛がってくれるだろう」
「リシェ、猫好きなのね」
「ニコール、今はそこじゃないぞ」
リシャナがツッコミを入れた。エリアンは不服そうなロビンに言った。
「確かにお前もうまく世話をできるだろうが、一匹一匹、愛情をこめて育てられた方が、猫たちも幸せだろう」
「……そうですね」
賢くて物分かりのいい子だ。子猫たちはまだ名前も決まっていないので、それもヒルダに決めさせればいいかもしれない。少なくとも、リシャナはロビンに名前を付けてもいい、と言っていた。
ヒルダが満足するまで子猫と遊ばせ、なんとなくリシャナの機嫌もよくなった気がする。普段、リーフェ城は彼女の信奉者ばかりだが、今は国王をもてなすために人をかき集めている。普段うまく統率している彼女だからこそ、たまるストレスもあるのだろう。戦時中ならともかく、普段のリシャナは比較的穏やかなのだ。語気もそれほど強くない。
「あなたなら、もっときつく言うと思っていた」
正直にそういうと、上がってきた書類にサインしたリシャナは言った。
「お前は私を王都解放戦線で見たのだったか。やれと言われてできなくはないが、あまり好きではない」
「俺には最初からあたりがきつくなかったか?」
「急に求婚などしてくるからだ」
冷静に言い返され、そうか、と思う。確かに、ただ王に付き従っていた時は、きつい物言いなどされたことはないかもしれない。
「目が怖い、と言われたな。目を開いて怒鳴ると、怖いと泣かれたことがある」
子供かと思ったら、部下の文官だった。ちなみに新兵にも泣かれたことがあるらしい。その新兵は訓練を受けなおした方がいいと思う。
「そうか? 俺はきれいだと思うが」
その澄み切ったグリーンの瞳がエリアンを見つめた。いつも不機嫌そうに半分閉じられているのは、怖がられたせいなのだと、今知った。執務机に手をつき、逆の手でリシャナの顎を持ち上げる。
半分閉じられた目。その状態でも澄み切った瞳が美しい。この瞼が開かれたなら。
「エリアン?」
眉をひそめたリシャナがエリアンを呼んだ。彼女の吐息が唇にかかり、エリアンは衝動的に唇を重ねた。驚いたのか身動きもしないリシャナをいいことに、その唇を堪能した。行けるかと思って舌を入れようとした時。
がつん、といい音がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアンどんまい。




