13.チェス
利き手が使えなくても、案外何とかなるものである。別に腕ごと落としたわけでもあるまいし、とある意味おおらかに構えるリシャナに対し、周囲は過保護だった。
「エステルを呼びましたから、お願いですから、無茶はなさらないでください」
真剣な表情のフェールに訴えられた。彼女がいるので利き手が使えずとも何とかなっている部分がある。肝に銘じておこう。
ヘルブラントは手首の粉砕骨折もだが、顔にできた小さな傷に慌てた。
「リシェ! お前の麗しい顔が!」
「……」
申し訳ないが、ヘルブラントとエリアンは同じところに属する人間だな、と思った。
「……あそこまでひどくはないと思うんだが」
盤面を見つめながらエリアンは主張した。リシャナの意見に反駁した形である。まあ、ヘルブラントのリシャナの可愛がり方はちょっと異常だとは思う。
「お前もなかなかいい線いっている。戦場で何度も傷ついてきた。今更だ」
そう言いながら駒を動かす。今のところ、リシャナに分が悪い。
「それはそうだが、それと自分を守ることは別だろう。陛下も実際は、あなたの顔に傷がついたことより、あなたが危険に飛び込んで言ったことにショックを受けているんじゃないか」
リシャナは思わず、真剣に盤面を見つめるエリアンを見た。視線が合わない。リシャナはグラスの水を飲み、椅子の背もたれにもたれた。
「お前と一緒にいると、自分とは違うものの見方を提示される」
「そうか。同じ人間は二人いらないからな。いいんじゃないか」
盤面に集中しているからか、返事がおざなりな気がしたが、リシャナは気にせず、「そうか」と答えた。
「……そうかもしれないな」
母はリシャナを『リシャルト』と、彼女の双子の兄の名で呼ぶ。リシャルトはまだ幼いころに病死したのだが、母カタリーナはそれをリシャナのせいだ、と詰った。おおむね娘につらく当たる女性だったが、特にリシャナにはきつく接した。姉のアルベルティナに言わせれば、母は娘を同じ『女』として敵視しているのだ、ということだった。あなたは特に美しいから、目の敵にされるのよ、と肩をすくめていた。それだけが理由ではないことは、リシャナにももうわかっている。
なんにせよ、母はリシャナの存在自体を認めなかった。夫の手前、手放したりはしなかったが、放置されて育ち、よく年の離れた姉に連れられて祖母の宮を訪れていた。
母はリシャナとリシャルトを同一視していたわけではないだろう。だが、存在を認められなかったリシャナを、リシャルトと呼んだ。母の中では、リシャルトが二人いたわけだ。エリアンの言葉で、不意にそう思った。
気づいたら、形勢はかなり悪くなっていた。勝ち筋を見つけられなかったので、『投了』を宣言した。
「途中から気もそぞろだったな」
チェス盤を片付けながら、エリアンが言った。いつも通りの口調だったが、リシャナのことを気にしているのが分かる。母のことを思い出して気が沈んでいたのは確かだが、エリアンを見ているとなんだか少し落ち着いた。
「考え事をしていただけだ」
そっけなく答えると、エリアンが手を伸ばしてリシャナの頬に触れた。振り払いはしないが、軽くにらんだ。
「何の真似だ」
「……いや、泣きそうに見えただけだ」
そう言ってエリアンは手を放したが、正直よく見ているな、と思った。泣きそうになったわけではないが。
「明日には、婚約の手続きも整う。晴れて婚約者というわけだな」
含み笑いでエリアンが言った。リシャナも手続きにはもちろんかかわっているが。
「いいのか? 不可能ではないとはいえ、後に引きにくくなるぞ」
いや、でも、リシャナのわがままで解消した、とかはありか? そんなことを考えていると、エリアンは声をあげて笑った。
「今更だな。引くつもりはないので心配ご無用だ」
「お前はいつでも自信ありげだな……」
ちょっとあきれて言った。
リシャナは半分お客さん扱いであるが、エリアンは宮廷の役人だ。つまりは、仕事がある。エリアンが立ち去った後、フェールが片づけをしながら言った。
「ちょっと鼻につきますけれど、悪い方ではありませんね、ルーベンス公は」
「……まあ、そうだな」
「私たちの大切な閣下を、と思いましたけど、まあ、ルーベンス公なら私は許して差し上げます。きっと、閣下を大事にしてくださいますし」
「そうか」
思わず苦笑を浮かべた。確かに、フェールにとってはエリアンは突然出てきた怪しい男に過ぎなかっただろう。面と向かって、「ヤンさんのほうがましです」と言ってきたくらいだ。そちらはリシャナが遠慮したい。
だが、ここにきて印象が変わってきているようだ。基本辛口の彼女には珍しい。辛口というか、リシャナに関することだけ厳しいというか。
「身分的に釣り合いもとれていますし、閣下としては陛下をかわす手段だったのかもしれませんが、よい縁談だと思います」
「毒にも薬にもならないが」
通常、リシャナほどの身分であれば、婚姻に利害がついてきて当然だ。リシャナが実際にエリアンと結婚するとして、実利として得られるのはリシャナを国内にとどめておけることくらいだ。
フェールも「そうですね」と同意した。だが、すぐに「でも」と続ける。
「ルーベンス公とともにいるようになって、閣下が柔らかい表情をするようになりました。これは大きな利益です」
まじめな表情で言われてさしものリシャナもポーカーフェイスが動いた。思わず噴き出して手で顔を覆った。
「そうか」
「そうですよ。今だって笑っていらっしゃいます」
「……そうだな」
確かに今笑っていた。フェールも微笑み、水差しを持って戻ってくる。
「まあ、私はどんな閣下でも好きですが。力強い目に見つめられたいです」
「……お前、旦那はどうした」
「それとこれとは別です」
まじめな顔をしてフェールはこんなことを言うので面白い。
「そういえば、閣下を襲った役人、操られていたんだそうですね」
「もう噂になっているのか」
「女の伝達網は伝書鳥より早いものです」
「なるほど」
フェールの場合は積極的に集めているのもあるだろうが、確かに世の中の女性の情報網は恐ろしいものがある。その中にリシャナが含まれていないのは、もはや当然のことだ。
「今リューク兄上が調べている。こういうことは私の専門外だからな」
というと、お前の専門はなんだ、ということになるが。なんだろう。軍事だろうか。軍事関係のことはおおよそ頭に入っているが。
「エステルが来たら、一瞬で答えを出してくれそうですね。明後日には到着するようです」
「なるほど。早いな」
よほど急いでくれたらしい。ロビンと引き離してしまうのが心苦しいが、早く来てほしいな、とはリシャナも思った。
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