自分に想いをよせる松木に誘われたあかね。警戒する彼女に松木は意外な情報を・・・
「言ってくれるね松木。よくもぬけぬけと」
伊藤はひやかしの笑いを浮かべた。
松木があかねに好意を寄せていることは、営業部のほとんどの人間が知っている。だが、それにしても彼が人前でここまで堂々とあかねを誉めるのは滅多にないことだ。
「ありがとう松木さん。みんながそう言ってくれたら、朝、何着ていくか迷わなくて助かるんだけどね」
雰囲気を壊せないので、あかねも笑顔で応じた。すると伊藤が松木の肩を叩いて冷やかす。
「やれやれ、こう当てられちゃたまんないな」
あかねは胸の内でため息をつく。こんな大勢のいる前で、松木との仲が既成事実みたいな言い方はやめてほしい。
───等々力さんがいなくてよかった。再び強くそう思った。
二人に気を使ったのか知らぬが、伊藤は今度は隣の若手と喋りはじめた。
松木はあかねを見つめて、何か話しかけたそうな顔をしている。けれどあかねは横顔を向けて、心ここにあらずだ。
須藤が「彼」と携帯で話しているのに気づいたあかねは、その声に神経のすべてを張りつめているのだ。
「えーっ!来れないんですかあ?あたし、楽しみにしてたのに。等々力さんが来ないとさみしいですよう。お料理もおいしいし、みんな盛り上がってて、絶対来たほうがいいですよう。二次会の場所も連絡しますから、ぜひ来てくださいね。」
須藤の甘ったれた語尾伸ばしには、いつもイライラさせられる。
だが、何よりショッキングなのは、須藤が「彼」の携帯番号を知っていたということだ。
あかねだって知らないわけじゃない。しかし、それは、連絡先にお守りとして眠っているだけだ。本人から教えてもらったわけじゃないから・・・。
あかねの様子を隣でうかがっていた松木が、おずおずと声をかけた。
「あの、さ、貝原さん」
「え?なに?」
不意をつかれたあかねの反応に、松木もひるんだようだったが、くじけず言葉をつづける。
「ちょっと相談があるんだけど、今日、一次会引けたあと付き合ってもらえる?」
二人きりで飲む。――もしかしたら、あの『返事』を求められるのかもしれない。
鳶色の大きな瞳に向かって、あかねは小さくうなずいた。
一次会が引けたあと、あかねは松木に連れられて、お気に入りだというカフェのドアをくぐった。
夜に訪れたにもかわらず、朝の陽差しを思わせる明るく清潔な雰囲気の店。橙色をおびたけ蛍光灯と天然木でつくられたカウンターが温かいぬくもりを演出しているあたり、いかにも松木の好みそうな店だ。
松木は奥まったテーブル席にあかねを誘った。
あかねに向けられた松木の顔をライトが照らす。飲み会後にも関わらず、酒に強い彼はアルコールの影響をほとんど受けていないようだ。鳶色のさらさらした髪と同じ色をした虹彩の大きな瞳。育ちのよさそうな雰囲気は薄茶の毛を贅沢になびかせる犬を連想させる・・・テレビでよく見るあの犬はなんて名前だっけ?そうだゴールデンレトリバーだ。
松木はウィスキーの水割り、あかねは帰り道を考えてオレンジジュースを頼んだ。
「悪いね、つき合わせて」
「いいえ。素敵なお店ね。家庭的な雰囲気で落ち着くわ」
「だろ?食べ物もおいしいんだよ」
答えながら、松木はそわそわと視線を左右に泳がせた。
「実はさ・・・俺、このあいだエルマー社から採用通知もらったんだ」
「ええっ!エルマーってあの?凄い!」
エルマーは業界内で高いシェアをしめる、外資系の大手日用品会社だ。
「おめでとう。うちの会社からエルマーなんてすごい出世ね」
「ありがとう。休日返上で英語勉強してきた甲斐があったよ」
「そうだったの。目立たないところでずっと努力してたのね」
松本は満足げにうなずくと、ウィスキーに口をつけた。
「年収もかなりアップしそうなんだ。丸島の課長並だって話だ」
「いいなあ。勤務地はどこになるの?」
「横浜。今の会社から電車で一時間近くかかるな」
「そっか、じゃあ結構離れてるんだ」
『さみしくなるね』という一言を、あかねは飲み込んだ。松木に期待をさせては悪い。
「で、転職したら貝原さんとの関係も社内じゃなくなるんだけど、あれから気持ちかわらない?」
あかねはグラスをぎゅっと握り締めた。やっぱりこの話題だったのだ。さて、なんて答えよう?
「初めて気持ちを伝えたときから三年たつけど、俺の気持ちは全然変わってない。わかってると思うけど、貝原さんのこと本気なんだ。付き合ってほしい」
あかねの中の答えはきまっている。
「ありがとう。松本さんの気持ち、本当にうれしい。でもやっぱり私、自分が好きな人に振り向いてもらえるよう頑張りたいの」
松木はグラスを見つめたまま、しばらく無言だった。血色の良い頬の上の瞳が翳る。
「前に告白したときもその人のこと言ってたね。ずっと同じ人?」
「そう」
「それって、もしかして等々力のことなの?」
あかねはごくりと唾をのみこんだ。一瞬唇が震えたのを悟られなかったろうか?
「まさか、違うよ。社外のひと。大学の同窓生」
「そっか、ごめん。ちょっとそんな噂をきいたもんだからさ。でもよかった、もし等々力だったら、俺いたたまれないよ」
松木はあかねの答えを笑顔で受け入れたが、本音は半信半疑かもしれない。あかねはもう「彼」をごまかすためのウソを突っ込まれたくなかった。親しい同僚の少ない等々力が松木を信頼してる以上、自分の片思いは松木に隠しておきたかった。。傷心の松木には悪いが、話題を変えさせてもらう。
「エルマーに移ったら、勤務地どこになるの?」
「桜丘」
「じゃあ、あの駅に隣接したビル?」
「そう」
「前に友達と行ったんだけど、あそこに入っているお茶漬け屋さんがおいしいの。知ってる?」
二人はそんなたわいもない会話を十分程度続けたあと、店を後にした。
松木は、道路を渡ってすぐの地下鉄の駅を使うという。あかねは、乗り換えなしで帰れるJRの駅まで、少し歩くことにした。
駅まで送るという松木の申し出を断ると、彼は名残惜しそうに彼女を見つめた。
「会社やめてから、友達として一緒に食事したりとか、そういうのもダメかな?」
「松本さんに中途半端に期待させてしまったら、かえって悪いでしょう。そういう気持ちが完全になくなって、純粋に友達になれると思ったとき誘ってほしい」
「じゃあ純粋な友達としてならいいんだね?」
「うん、これからも友達として仲良くしてほしい」
「よかった」
松木が握手を求めてきたので、あかねはその手を握った。いかにも松木らしい、なめらかであたたかい手だ。
「この会社に貝原さんがいてくれたことで、俺、毎日がとても楽しかった。外資に行けるよう頑張れたのも、貝原さんがいたからだ。貝原さんの恋愛がうまくいくよう祈ってるよ」
「ありがとう」
二、三歩進んだところで振り返って手を振る。そして、あとは、もう決して振り返らない。それが友達の別れ方だ。
松木が退職したら、彼の顧客はどう割り振られるだろう?春にあかねが企画兼任になったときも、今の営業メンバーは彼女の分の顧客を割り振られた。松木までいなくなるなら、営業マンたちはアップアップになるだろう。中途採用で誰か新しく入ってくるかもしれない。
松木さんがいなくなったら、等々力さんさみしいだろうな・・・
転職を誇らしげに打ち明けてくれた松木には悪いが、あかねはどうしても等々力の立場で考えてしまう。