鬼と呼ばれたものたち 〜 豆まきの魔滅知識 〜
外来の疫病・新型コロナウイルス。
例年のインフルエンザが1/1000になるほどの対策でも封じられず、先が見通せません。そんな中、節分を2月2日に迎えました。
昨年、アマビエ(様)が流行病を斥けるものとして話題になりましたが、今回、どれほど多くの人が豆まきで病魔の退散を願ったでしょう。
「疫鬼」と呼ばれる、病疫を流行らせる悪神(文字通り厄病神)の伝承があります。そして、今日の節分の由来のひとつ「追儺」は、どの厄災よりも、目に見えない疫鬼疫神(疫病)を追い払うための儀式でした。
疫鬼の伝承の起源は中国。となると…… 節分は、コロナ駆逐の成功を願うのに最もふさわしい行事かもしれません。
ここで不思議に思うかも知れません。
見えない災厄とは正反対。よく知られている鬼は、角を生やした赤ら顔で大きな肉体で、いかにも暴力的な怪物です。人食いの大男を、どうして豆をぶつけて追い払えるのでしょう。
小泉八雲は、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した日本研究家・民俗学者で、本名をラフカディオ=ハーンというイギリス人です。「耳なし芳一」をはじめとした小説「怪談」の作者としても知られています。
豆をまく節分についても書き残していて「主に悪魔払いの儀式として有名」としつつ、
「ある不可思議な道理で悪魔は白豆を好かない…(略)……悪魔が白豆を嫌う由来をも、私は発見することができない。が、この嫌悪の点については、白状すれば私も悪魔と同感だ」
── と、不思議がっています。
日本の鬼は、中国の鬼と異なる性格をもちます。
暴力的な紛争の歴史も影さしました。
◇『鬼』という字
『鬼』は死体、あるいは人が面をかぶったすがたの象形文字とされます。『田』が大きな頭で『人』はからだ、そこに角がつきます。
古代文字に「ム」はついていませんでした。
「ム」は「云」の省略形と考えられますが、その「云」をさらに「鬼」に加えたのが「魂」です。別の説は、骸骨が横になったすがたに、怪物の角と私利私欲の「ム」がついて「鬼」という字が出来たとします。
中国では鬼は『キ』と読み、人間の霊魂あるいは亡霊を意味しました。鬼は霊であり、見えない恐怖、形のない疫病をふりまくものは「疫鬼」になったのです。
一方、現在日本では、鬼を普通「おに」と読みます。
しかし「かみ」と読むこともあり「もの」と読んだ時代もありました。前者の例は「九鬼文書」(くかみもんじょ)、後者は「もののけ」の「もの」です。
「おに」の語源は、一般に見えないものを指す隠が訛ったものと説明されますが、これには異論もあります。
「隠」という読み言葉が霊的存在を表現した例は、実際どれほどあるのか。大和言葉に「おぬ・おに」がもともとあったのではないか。
「陰」の気が集まった存在が見えないもの「おぬ」である……と。「おに」の語源を「陰」とする説もあります。
日本の鬼は人を脅かす邪霊、見えない恐怖から、やがて、海外からもたらされた仏教の般若や夜叉の絵図、陰陽道の思想の影響によって、今日知られている姿になりました。
「人食いで、頭に牛の角を生やした、虎皮のパンツの赤ら顔の大男」── です。
◇すがたある鬼
実は、古代日本には、鬼とよばれた異形の人との遭遇が記録されています。すがたある鬼は、総じて、定住農耕民からみた「よそもの」でした。
渡来人(外国人)とその血をひく異相のもの、製鉄や鍛冶、土木、狩猟などの特殊職の集団、そのほかの山野を漂泊するものたち。
ときに地方の有力勢力、反政府集団も鬼とされました。
古代日本の北関東から東北にくらした蝦夷は、大和朝廷から見て東方にすむ一大勢力でした。のちに武家の棟梁、日本の事実上の最高権力者の称号となった『征夷大将軍』は、もともと平安時代、蝦夷を征討する臨時の遠征軍の指揮官の役名でした。
この古代蝦夷=エミシは、エゾと呼ばれた後の時代の蝦夷・アイヌと異なった民族だった、という説があります。エミシは赤ら顔で赤毛の大男だったという伝説があり、東北で『鬼』と呼ばれていました。
なぜそれほど違ったのか?
東北地方の一部地域は、日本列島の中で白人的遺伝子を持つ人が比較的多いとされます。それは、古代蝦夷の伝承の多い地域と重なるということです(Wiki「蝦夷/民俗資料に見えるエミシ」ほか)。
一方、日本で最も有名な鬼退治は、桃太郎の物語です。
温羅(うら/おんら)伝説は、その原型とされる伝承で、岡山県南部の吉備地方(古代の吉備国)が舞台です。温羅は百済(朝鮮半島)の皇子で、身の丈が4メートル以上⁉︎あったという赤毛の巨人で、吉備国を支配して暴虐を働いたことから、大和朝廷に住民が助けを求めました。吉備国に、朝廷軍が派遣されることになります。
(現地住民の願いで、非道な支配を正すために派兵……今世紀、ロ○アのクリ○ア半島併合のような話です)
鬼たちの拠点・鬼ケ城を攻めた吉備津彦命が『桃太郎』、討伐された温羅が『鬼』のモデルとされます。
もっとも、温羅は暴虐な悪鬼ではなく、吉備国に製鉄技術をもたらした地方豪族だったとも言われます。古代の大和朝廷は、全国統一の過程で地方勢力に紛争を仕掛けていて。その一つが、悪しきものを征伐した正義の物語にされたのだ── と。
◇温羅伝説とよそものたち
温羅の伝説には渡来人(外国人)、製鉄、統一政権と在地勢力の紛争など……鬼と呼ばれた人『よそもの』の要素がいくつもつまっています。
日本で最初に鬼の姿が記録されたのは佐渡島で、『日本書紀』(720年刊)です。
── 544年12月の項、『越国言さく,佐渡嶋の北の御名部の崎岸に,粛慎人有りて,一船舶に乗りて淹留る.春夏 補魚して食に充つ.彼の嶋の人,人に非ずと言す.亦 鬼魅なりと言して,敢て近づかず』
── 佐渡島の北の海岸に、粛慎人が渡来して漁労で生計を立てたが、佐渡島の和人たちはかれらを気味悪がって近づかず「鬼魅」と呼んだ。
その頃の佐渡島は、大和朝廷の統治の最北端でしたが、さらに遠い土地から異相の漁民?が海を渡って来たのです。
鬼は外国人(渡来人)でした。
古代日本が粛慎と呼んだのは──
「 北海道のオホーツク海沿岸や樺太などに当時の遺跡が見られるオホーツク文化人(3世紀〜13世紀)という説が有力(Wiki)」です。
オホーツク文化人について詳しく触れませんが、大陸のアムール河にはじまる流氷域で漁労と海獣狩猟をした移住者たちです。のちの時代のアイヌより長身でたくましい容貌(頭部が顔高短頭であご骨が非常に発達)で、アイヌの切れ長の目とちがいクリクリした目だったようです(人骨の調査による)。
佐渡にあらわれた粛慎人たちは、その後間も無く和人との紛争や川水の鉛毒で滅びますが、佐渡島は鬼と縁があるのか、のちの時代、本州で「鬼は佐渡の金北山にいる」と考えられたことがあったそうです。
佐渡にも「鬼の約束状」という、金北山の鬼に関する伝説があります。
このときの鬼は渡来人ではなく、山伏や修験者と想像されます。かれらは本州で「鬼」と呼ばれることがあり、佐渡は修行の地として名が知れていました。
日本で二番目に古い鬼の記録は『出雲風土記』(733年完成、聖武天皇に奏上)です。
── 目一鬼来たりて田作る人の男を食う。
と、そのまま受け取ると、一つ目の怪物の襲撃にあって山田の農民に人死にが出たという内容です。
もっとも、一つ目の鬼とは特殊な職業人のこと。燃える炎や溶けた鉄の光熱を見つづけて(あるいは火花を目に受けて)、片目になった製鉄の人をあらわし。風土記の事件は、山の製鉄の人たちに平地の農民が大勢さらわれて帰って来なかった(強制労働で死者が出た)事件、という解釈もあります。
古代の出雲国は金属加工のさかんな土地でした。
アニメ映画「もののけ姫」は独立独歩の製鉄の集団と、荒れる山を描きました。
定住農耕民にとって、製鉄の者たちは異質で、日常を掻き乱して山林や水資源を荒廃させる存在でしたが、同時に、彼らがつくる鉄の農具や武器は「宝」であり、豊かさと力をもたらす利器でした。
今日知られている鬼は、人を食う暴力的な悪しきものです。しかし同時に、人に福をもたらす来訪神の性格もそなえています。
鬼と人の関係は、古代日本の製鉄の人と定住農耕民の関係に相似したものがあります。
◇大江山と鬼
朝廷と反朝廷勢力の対立に注目すると、吉備国の「温羅」のほかに飛騨の鬼神「両面宿儺」、大江山の「酒呑童子」が目に止まります。
もっとも有名な酒呑童子は日本最強の妖怪といわれ、比較的新しい時代(南北朝後期から室町初期の頃)の絵巻に登場しました。物語の存在で、平安時代を舞台にしていますが実際の事件の記録はありません。
ただし、京都府北部にある舞台の大江山(連山)には、酒呑童子のモチーフになったと思われる古い二つの伝説が残されています。
『古事記』に記された土蜘蛛退治と、聖徳太子の弟の麻呂子親王(当麻皇子)の栄胡、足軽、土熊の三人の鬼退治です。
なぜ、それほどまでに大江山が?
じつは、大江山は金属資源が豊富でした。丹後地方そのものが製鉄が盛んで、富をたくわえた在地勢力は都の勢力に目をつけられやすかったようです。
…… 余談ですが。
昭和の日本は、太平洋戦争が近い頃、軍需物資のレアメタルの国産化のため、大江山にニッケル鉱山を開きました。そして開戦後、人手不足になると露天掘りの現場に連合軍捕虜を投入しています(書籍『憎悪と和解の大江山 ― あるイギリス兵捕虜の手記』2009年)。
ニッケル Nickeは近代兵器の矛と盾── 小銃弾の被甲、火砲の砲身、優良な装甲鈑の製造に必須でした。
戦争のため、武器製造のため。『鬼畜米英』と呼んだ欧米人の捕虜を国内の鉱山に入れて、飢えと病気と暴力の下、人海戦術の強制労働で犠牲者を出す……
戦時下の大江山の出来事は、過去の鬼の伝説に重なります。鬼が敗れて富を奪われ、人に仕えたとはこういうことだったのか? 人をかえて、時を越えて再演されたのか?と。
ねじれた因縁のようなものを感じます。
人食いの悪しき鬼。
「よそもの」を鬼と呼び、土地や宝、命を奪って正義と武勇を誇った者にこそ、鬼は宿り。はるか後の世の「よそもの」との戦ですがたをのぞかせたようです。
▷ 最後に …
悪として討たれるのが鬼。
節分の掛け声も「鬼は〜 外」と家から追い出します。
ところが「鬼は~内、福は~内」と鬼を家に招き入れる掛け声の土地もあります。どうしてなのか?
鬼は邪悪なものばかりではない、と、鬼を力ある神としたり、鬼を先祖の霊として祭る場合があったからです。その名に鬼の字をもつ家や土地は「鬼は内」を掛け声に使うことが多くなりました。
鬼を ‘春の神’ とする稲荷鬼王神社(東京都新宿区歌舞伎町)は、豆まきに「福は内、鬼は内」と唱えます。
さらに、東北の青森県津軽平野では、農民たちに鉄の農具をもたらしたのは「鬼」と伝えられて、弘前市鬼沢にある鬼神社には、鬼が使ったとされる鍬が祭られています。
鬼は干ばつで人々が苦しんだとき、一夜で用水路を作って救ったとも云います。
どこからかやって来た、製鉄と灌漑のすぐれた技術をもつ鬼とはまさしく………… 北の土地の人々は恩義を忘れず、よそものを迎えて栄えたということでしょう。
鬼沢地区は、節分に豆を撒きません。
今も、こひつじ保育園(弘前市楢木用田)では「鬼はやさしい」と園児たちに教えて豆まきはしないそうです。
鬼神社の鳥居の扁額に描かれた「鬼」の漢字には、頭に「ノ」の部分がありません。鬼と呼んでも、鬼に怪物であることを示す角をつけないのです。