東京渋谷ゾンビ溢れ、忠犬は静かに主を待つ
東京渋谷、ハチ公前広場。
凛として立ち、ご主人様の帰りを待つ忠犬ハチ公の像は同じ犬として僕の憧れの存在だった。
僕もこのハチ公像のように何があってもご主人様を待ち続ける事が出来る犬になりたいものだ。
そう何があっても。
例え渋谷がゾンビで溢れても。
◇◆◇
その日、僕はいつものようにご主人様に連れられ渋谷駅に散歩にやってきていた。
ご主人様が買い物を済ます間、渋谷駅前のハチ公像の脇でお留守番をするのもいつもの事だ。
それは、僕がハチ公像と同じポーズでご主人様の帰りを待っている時に起こった。
最初は、一人のサラリーマンが広場で倒れた事から始まった。
周りの人たちが駆け寄り介抱するものの、倒れたサラリーマンはピクリとも動かない。程なくしてうぅぅぅ、という低い唸り声のようなものが広場に響き始めた。
僕ではない。
僕は変わらずハチ公像と同じように凛として立ち、ただじっとその様子を見つめていた。
唸り声を発していたのは、倒れたサラリーマンだった。
彼は起き上がると、自身を介抱してくれていた女性の首元に噛みついた。
広場に悲鳴が響き渡った。
サラリーマンに噛みつかれた女性もまた低い唸り声をあげると、首元に噛みついたサラリーマンを女性から引き剥がそうとしてくれていた屈強な男性の腕に噛みついた。
低い唸り声を上げ始めた屈強な男性がブンと大きく腕を振ると、周りで様子をうかがっていた数人に引っかき傷が出来た。
すると、その数人もまた低い唸り声をあげて、周りの人間を襲い始めた。
誰かがゾンビだと言った。
全てはあっという間の出来事だった。
渋谷駅前、ハチ公前広場はくすんだ肌色の低い唸り声をあげて徘徊する人間だらけになっていた。
向かいのビルで爆発が起こった。
ゾンビがビルに空いた穴からまるで液体のように溢れ出てくる。
また、別のビルで爆発が起こり穴が空くと、そこからもゾンビが溢れ出てきた。
気が付くと渋谷はゾンビで溢れていた。
建物は崩れ、道路は割れ、黒い煙があちこちから立ち上り、低い唸り声をあげるゾンビで埋め尽くされている。
親切な誰かが逃げろとリードを外してくれた。
しかし、リードが外れても僕はその様子をハチ公像と一緒に見つめていた。
凛として立ち、静かにご主人様の帰りを待つ。
ゾンビ達が雪崩を打って、渋谷駅の中に入っていく。
僕は静かにご主人様の帰りを待つ。
この世のものとは思えないような異形の生物が目の前を横切っていく。
それでも、僕はご主人様の帰りを待ち続ける。
ハチ公はどんな時も、ご主人様を待ち続けたのだ。
だから、僕もハチ公のようにご主人様を待ち続ける。
そうして何日が経っただろうか。
ひたすら待ち続けて、ついにその時がやってきた。
僕の前に一体のゾンビが立っていた。
僕は思わず尻尾を大きく振る。
「あぶない!」
その時、バァンという銃声が鳴り響き、ゾンビの額に大きく穴を開けた。
ゾンビは僕に手を伸ばそうとした体勢のままで崩れ落ちていった。
◇◆◇
突如、都内で起こったウィルスを用いた細菌テロ。
日本有数の製薬会社から盗み出されたウィルスは都心の人々を次々にゾンビへと変えていった。
中でも渋谷はその被害が大きく、当時渋谷にいたほとんどの人間がゾンビになってしまったのだという。
俺が務めている警察署からテロの連絡を受け、渋谷から離れた後すぐに渋谷で感染の拡大が起こった。愛犬を渋谷のハチ公像前に置いてきた事に気づいた時には渋谷は封鎖され戻る事が出来なかった。
「くそっ」
俺が装甲車の中で悪態をついていると、隣に座る男が声をかけてきた。
「よう、どうした? 機嫌悪そうじゃねぇか」
男はニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべながら手に持ったショットガンを撫でている。名前を斎藤という。
「あ、わかったぜ。渋谷を掃除しきったら終わっちまうのが寂しいんだろ? いやぁ、嬉しいぜ上野。お前もゾンビを撃ち殺すのが楽しかったわけだ。わかるぜぇ、日本の警察じゃ人間相手に銃をぶっ放せる機会なんてめったにねぇからなぁ」
心底楽しそうに声音を弾ませながら斎藤が破顔させる。あまりに気味の悪い顔に俺は斎藤から視線を外した。ちなみに上野というのは俺の名前である。
ゾンビが出現して数日、テロの実行犯は逮捕され事件は解決を見た。
しかし、問題も残った。
それは、ゾンビになった人間はもう元に戻る事は出来ないという事実だ。
都内に溢れたゾンビの処理は害獣駆除という名目が立てられ東京都の警察に任せられる事になった。そうして抗ゾンビウィルスワクチンが投与された警官によるゾンビ処理特別班が組まれ都内を回りゾンビを撃ち殺して回っている。
すなわち、それが俺達である。
ゾンビとはいえ元々は人間。そんな相手を撃ち殺して回る班に志願する人間にまともな人間などいない。この斎藤も筋金入りのガンマニアで銃を撃ちたくて警察官になったというクチだ。
曰く、ずっと人を撃ちたくて撃ちたくて堪らなかったのだという。そんな斎藤にとってこのゾンビを撃ち放題の状況はまさに水を得た魚といった所だろう。
今日はその総仕上げとして、一番被害の大きかった渋谷で最後の作戦が実行される。
それだけに渋谷に向かう装甲車の中は表面上は平穏を装いながらも興奮が煮えたぎるような異様な雰囲気に包まれていた。
「お前と一緒にするな」
俺が吐き捨てるように言うと「またまた」と斎藤が惚けたように大げさにリアクションを取った。
「いい加減、素直になれよ上野さんよ。人を撃つのが好きだから、この班に志願してきたんだろう? それとも何か違う理由があるってのかい?」
普段ならば相手にしない所だが、今日は口が滑った。
「犬だ」
「犬?」
斎藤が怪訝な表情を向けるのに頷くと俺は続けて言う。
「犬をハチ公像前に置いてきたんだ」
あの時、警察署からの呼び出しを受けた時にちゃんと迎えに行ってやってやれば、悔やんでも悔やみきれない。
「じゃあ、何かい? あんたがこの班に志願したのは犬を迎えに行くためってわけかい?」
俺がそうだと頷くと斎藤は高笑いをした後、
「もう生きてねぇだろ。現実的に考えて」
冷めきった声でそう言った。
その通りだと俺も思った。
そんな事を話していると、車内に緊張が走る。
「どうやら渋谷に入ったみてぇだな」
斎藤が呟く。
車両が止まり、装甲車の背後の扉が開く。
そこにはうぅぅぅと低い唸り声をあげて徘徊するゾンビの群れが溢れていた。
隊長の作戦開始の合図と共に俺達はゾンビの駆除を開始した。
「おい、上野」
名前を呼ばれて斎藤を見る。
「ここは俺が引き受ける。あんたはさっさと犬の所に行ってやれ」
「いいのか?」
「うるせぇ、さっさと行け」
そう言うと、斎藤は手に持ったショットガンでゾンビの頭部を吹っ飛ばしていた。
「すまん、恩に着る」
俺は斎藤に会釈すると、ハチ公像広場前まで走った。
もう居ないかもしれないという思いと、居てくれという思いを入り混ぜながらひたすらに息を切らして走る。
そして、ハチ公像が目に入りその脇にハチ公像と同じポーズで待つ姿を見つけた時、俺は胸が千切れるのではないかというくらい心臓が跳ね上がった。
待っていてくれたのだ。
向こうも俺の事に気が付いたのか、ハチ公のポーズの尻尾をバタバタと振っている。
「いや、待て」
その時、一体のゾンビがその前に居るのに気が付いた。
ゾンビは屈むとその頭へと手を伸ばす。
「あぶない!」
俺は咄嗟に銃を構えると、引き金を引きその頭を撃ちぬいた。
ゾンビは手を伸ばした体勢のまま崩れ落ちていく。
「ハチ!」
俺が名前を呼ぶと愛犬がワンワンと鳴き声をあげながら駆け寄ってくる。すでにリードは外れていた。
それでも、ここで待ち続けてくれていたらしい。
ハチ公にあやかってハチと名前をつけたが、本当にハチ公のように待っていてくれたとは。俺がおーよしよしと体を撫でるとハチは喜びを爆発させるように抱き着いてきた。
「それにしても危なかったな、ハチ」
ゾンビは追い詰められると人間以外にも興味を持ち始める。
もう少し遅れていたら駄目だったかも知れない。
俺がほっと安堵の吐息をついていると斎藤から無線が入る。
『上野、そっちの様子はどうだ?』
「犬は無事だったよ」
『そうかい、そいつぁよかったな』
にやりとした笑みが浮かぶような斎藤の声。それから一転してシリアスなトーンに変わる。
『なら、早くこっちに援護に来てくれ。ヤバい奴が現れた』
「わかった」
俺は返事をすると、ハチを装甲車に預け斎藤の元へ。
そこには、この世のものとは思えないような異形な生物がゾンビ処理特別班との戦いを繰り広げていた。
俺もそれに参加する。
渋谷のゾンビの駆除は夕方まで及び、最後の異形のゾンビを倒して渋谷からゾンビはいなくなった。
細菌テロから始まったゾンビ被害はここに収束したのである。
◇◆◇
今日も僕はいつものようにご主人様に連れられ渋谷駅に散歩にやってきていた。
ご主人様が買い物を済ます間、渋谷駅前のハチ公像の脇でお留守番をするのもいつもの事だ。
ゾンビテロによって荒れ果てていた渋谷駅前も大分復興が進んで元通りになっていた。
僕がハチ公像と同じポーズでご主人様の帰りを待っていると、ばたりと一人のサラリーマンが倒れた。
一時、広場は騒然とするものの、すぐにただの熱中症だとわかり日陰で介抱される。
「ハチ」
僕は名前を呼ばれて尻尾をパタパタさせる。
ご主人様が買い物から戻ってきた。
「それじゃあ、帰るか」
僕はワンと一声鳴くと、ご主人様と一緒に家へと帰ったのだった。