グラタンの周期表
学校が大きなグラタンに変身してしまった。教室はチーズでいっぱいになり、校庭は強火で熱せられている。四年二組の子どもたちは、近所のハムハム公園に避難した。
マナレイアはバネー王国から転校してきたばかりだったので、先生の指示がわからなかった。同じクラスのアザラシが廊下で給食の揚げパンを食べているのを見て、とりあえず真似をした。
「この揚げパンは黒糖? それともココア?」
アザラシに聞いてみたが、通じなかった。アザラシは自分の揚げパンを食べ終わり、マナレイアの分まで取ろうと前足を伸ばしてきた。
「だめ。これは私の!」
「けちけちすんじゃねえよ。お前は床のチーズでも舐めとけ」
マナレイアは何と言われたのかわからず、大急ぎで揚げパンを食べた。そして荷物をまとめて帰ろうとすると、階段のところまで火が迫ってきていた。
「どうしよう。帰れない」
音楽室に逃げ込むと、一組の子たちがまだ残っていた。トロンボーンを床に叩きつけて壊したのがウサギなのかマユキなのか、昨日からずっともめているのだ。
「オレはトロンボーンに触ってもいないよ。音楽の時間は人の顔をつねることに専念してるんだ」
ウサギが勝ち誇ったように言うと、マユキも負けじと反論した。
「ウサギは嘘つきです。おまけにとんでもないバカです。フレミングの左手の法則を右足でやろうとして小指がつった大バカ者です」
マナレイアは二人の間に割って入った。
「火が燃え広がってるの。それにアザラシ君がまだ廊下にいるの。どこに逃げればいい?」
ウサギとマユキは顔を見合わせ、声を上げて笑い出した。火をつければ燃えるに決まっている、学校には酸素がたくさんある、それにアザラシは不燃物だ、とけたたましく笑い続けた。
マナレイアは二人を引きずり、マカロニと玉ねぎでいっぱいになった廊下を見せた。その途端、ものすごい勢いで火の手が回り、足元を焦がして吹き過ぎていった。
「危ないな。二組って安全指導受けてないのか?」
ウサギが軽蔑したように言う。マユキはしゃがみ込み、焦げた玉ねぎを拾い上げ、発光ダイオードです、と言った。
「これは火じゃありません。発光ダイオードで焼いてあります。だから僕たちは安全です」
何と言ったのかわからなかったが、一組は給食がまだだったので、給食室に食缶を取りに行くことにした。
「私も手伝うわ」
「ありがとう。こいつの分はいらないから、マナレイアが食べるといいよ」
ウサギがマユキを指さした。とても意地悪なことを言ったように聞こえたが、マユキは真面目な顔でうなずいた。
「僕は食事をしないんです。県庁所在地と元素記号でお腹がいっぱいですからね。食べて眠るなんてナンセンスだと思います。特にグラタンなんて小学生には必要ないんですよ。マナレイアはグラタンの周期表を知っていますか」
マナレイアは自分の名前しか聞き取れなかった。そして、給食室の前にアザラシが立ちはだかっているのに気づいた。
ウサギが舌打ちをした。
「あいつ、全部食いやがった」
アザラシは尾びれで悠々と立ち、口の周りのシチューを舐めていた。後ろには空になった食缶がいくつも転がり、発光ダイオードで焼かれて溶けかかっている。
「死んでいる」
アザラシはマナレイアを見つめて言った。黒くて丸い、宇宙のような目をしている。それがうっすら笑ったような形になり、腹這いでじりじりと近づいてくる。
「マナレイアを食う気か」
「違うみたいですよ。食べるならウサギのほうがおいしいでしょうし」
マユキがアザラシの後ろにさっと回り、背中のツボを押した。その途端、アザラシの体が縮んで人間の男の子に戻った。縮んだと言ってもマユキやウサギ、マナレイアよりもだいぶ背が高い。そしてとてもハンサムだ。
「火! マカロニ! 心臓! ざっくざく!」
人間の姿のアザラシが叫んだ。バネー王国の言葉とは違ったが、マナレイアにも理解できた。
そして思い出した。マナレイアは階段を下りようとした時、炎に巻き込まれて死んでしまったのだ。
「みんな逃げて! 私は死んでマカロニになったの!」
アザラシとウサギとマユキは逃げ出した。マナレイアは追いかけた。捕まえれば全員仲間になる。グラタンの具をもっと増やさなければ、この学校は廃校になってしまう。
「逃げて! 私はマカロニよ!」
南極で鍛えたアザラシの泳ぎも、手品が得意なウサギの指さばきも、マユキの知識と暗記力も、ここではまったく役に立たない。マナレイアの手が三人の首をとらえそうになったその時、突き当たりの窓が開いて女の子が顔を出した。
「先輩たち、早くこっちへ! 避難所の縞猫中学に向かってロケットが飛びます」
女の子は宇宙服を着て浮いている。シニヨンに結った髪でヘルメットが浮き上がり、口を覆えていなかった。
マナレイアは女の子を知っていた。転校してきた日、朝礼で花束を渡してくれた三年生だ。
「マユキ先輩はこの風船につかまって。アザラシ先輩はハゲタカの足に。ウサギ先輩は自力で飛び移ってください」
マナレイアはがっかりした。自分はよそ者で、しかもマカロニになってしまったので、助けてもらえないのだ。
ところが、女の子はマナレイアにも手を差し出した。
「マナレイア先輩はこのアルミホイルに乗って。そうすればバネー王国に帰れます」
女の子の手の中には、確かにアルミホイルの容器があった。チーズとひき肉と玉ねぎが敷き詰められている。
マナレイアはゆっくり首を振った。
「早く行って。頑張って避難してね」
女の子の目が大きく見開かれる。その瞳の中央で、赤いジャージを着た男が走っている。マナレイアは振り返った。炎の舌が廊下を滑り、赤々と伸び上がって全てを飲み込もうとしていた。
マナレイアはもう一度女の子に向き直り、微笑んだ。
「花束ありがとう。嬉しかった」
女の子はうなずき、飛び去っていった。ウサギとマユキ、アザラシの姿も小さくなっていく。マナレイアは炎に包まれながら、次に生まれ変わる時はスマートなリングイーネパスタになりたいと思った。