第9部 はじまりの章 終章
1937年(昭和12年)7月30日 北海道・札幌市
*)キリのお披露目?
「麻美先輩、お身体はもう大丈夫ですか? 日本に帰らずにウラジオストクで待たれたら良かったのに」
石川くんがキリを見てそう声をかけた。私はどう反応するか、いじわるして眺める事にした。キリは困ったように私を見つめるが、一呼吸おいても返事がないので仕方なしに自己紹介を始めた。鋭い感受性だ、私の悪魔の囁きを聴くのか。
「石川さん私は阿部キリです。麻美お姉さまの妹になります」
さあ、石川くんが大変な事になるぞ? あれ、あれれ……?
「そうでしたか麻美先輩の妹さんですね、そっくりで驚きました」
何だこれは、天然か、天然だ~このままスルーしよう。
もう当日になりオカ研の旅行の準備も慌ただしく終わりを迎えた。キリも予定通りに出かけるし、昨日は丸一日も共に過ごしたが何ともないようだ。
阿部教授と先輩が部屋に入って来るなり、教授は石川くんに向かい、
「新入部員ができた。阿部キリだ、私の娘になる。よろしく頼む」
「教授の娘さんですか、阿部キリさんと麻美先輩と姉妹なんですか? 霧ちゃんと同じ名前なんですね」
「それは石川くんが腰を抜かしたらいけないので省略する。同一人物だ」
石川くんは無言のままだ。まだ考えている。
阿部教授は続けてキリについて嘘の紹介を始めた。強引に転入させている。
「キリは満州にいる兄の娘だが、私が引き取る事にした。今日からは農学部の二回生になる。先ほど転入手続きを済ませたから皆、宜しく頼む」
瓢箪から駒が実際に出て来たとは、キリの両親も驚きだろう。
「キリ、入学おめでとう。晴れて大学生だね。家庭教師を引受けるね」
「教授、家庭教師のバイトします。バイト代の支給をお願いします」
「いや、それは、そのう・・・・に含めてくれないか、どうだろう?」
「仕方ないな~そうしますか」
「桜お姉さま、ありがとう」
阿部教授は明日の出発の確認作業を始めた。大まかな荷物はコネで大学を通してウラジオストクに送っている。三浦教授には自分たちで荷物を受け取るのに時間が掛かるから先に受取って欲しい、と依頼している。だから八月一日には受け取れるように送付した。普通に送ればひと月という時間が掛る海上輸送だ。それが数日で着くとはあり得ないわ~。
1937年(昭和12年)8月1日 北海道・札幌市
*)出発の日
朝の列車で函館に向かう。それからはフェリーで新潟までの船旅だ。
お決りの待合せに遅れる者あり。冷や汗タラタラだった女の子は化粧や着替えでとても時間がかかるから、お許しくださいお代官さま。走れば汗で崩れようにね。
「ごめんなさい。この子を綺麗にしたくて遅れました」
「おや? 桜の方が綺麗になっているんじゃないかい?」
「まぁ……先輩。もっと口説いて下さい」
これはキリが前日に依頼していた文言だ。先輩も自分好みの女性からの頼み事には弱いのだ。キリはしっかりと人間ウオッチをしているのだから、このような芸当が? 普通に出来てしまう恐ろしい女なのだな。もじもじしていた私は嵌められたなどとは当然に知らない。私は先輩に褒められて浮かれて空に旅立つ処だったわよ、キリ。
「新潟からウラジオストクまでさらに船な!」
明日・明後日は穏やかな晴れだから新潟までは快適に進むはずだ。阿部教授以外は全員が船旅は初めてだから、もう嬉しいやら退屈やら。何かしらの小道具をもう少し手荷物に入れれば良かったか。
「教授! ウラジオストクまでは船しかありません」と、誰も突っ込みはしない。
夜のトランプだけではやるせない。女は良いが男共は荷物の整理やら移動分別で忙しく働いている。これは阿部教授の働きによる路銀の確保手段である。所謂、バイトである。新潟までの船旅がこれである。これから先はどうなるのか!
「わ~大きい客船が在るよ、あれに乗るんですね。すてきだわ~」
「いや、向こうに停泊中の貨物船なんだ、鈴木商店”と書いてあるあの船だ」
全部員は……あぜ~ん。
この船で新潟からウラジオストクまで乗船するのか。教授は確かに「フェリーで新潟までの船旅だ」と、言われたのだが嘘だったとは。
フエリー(半貨物船)も船旅の船もそうだが、勘違いさせる言い方が許せない。軽いバイトが有るからとも言われたが全然軽くない、これは完全に重労働だよ。
ウラジオストクまでは、船”としか発音されなかったか。恐るべし阿部キョン。
1937年(昭和12年)8月3日 ロシア・ウラジオストク
長い船旅だった。男は皆潰れてしまったが女二人は元気そのものだ。しかしだ、船の中で仕分けする荷物とはいったいなんだろうか、可笑しくはないだろうか。
「もう麻美お姉さまは元気になってるよね」
「そうね丸三日は食事を摂ってなかったというし、麻美がダイエットが出来ていたらお馬さんがとても喜びそうだわね」
「私も馬で走ってみたい、また乗せてくれるかな、ね~お姉さま」
「キリは大きくなったし、やっぱし馬は嫌がると思うよ。重いからね」
「わーお姉さまヒドイ!」
とりとめの無い会話でいつも笑っている霧も、すっかり馴染んだ感じはするのだがまだ何処と無く不安はあるようだ。今日はウラジオストクに着くからホテルのベットで思いっきり休めるから嬉しい。……ですよね? 阿部教授!
大陸が見えるが霞む山と同じで感慨は湧かない。な~んだ、と捨て台詞。
先輩が私たちにこちらへ来るように叫んだ。行ってみるとウラジオストクの綺麗な街並みが目に飛び込んできた。私たちは反対の景色を見ていたのだわ。と言う事はだ女の視線は狭いのだろうね、口は大きく騒がしく広がるのにね~。
「わ~綺麗、赤い屋根と木々の緑が素晴らしいな~」
「大きいビルもたくさん在るわ、それに大きい道路も凄いな~」
「大型の貨物船、客船が多数停泊している」by石川
「大きい港だこと」by桜子
「いや、殆どは軍船なんだよ、石川くん」by阿部
ここは冬でも凍らない港だからソ連で重要な貿易港で、貨物船と軍用船のハブになっているのだ。
貨物船と軍用船では停泊する港が少しずれている。でも数が凄い、初めてで感動。
「さ~みんな下船の準備だ。おーっとその前にバイトの給料を渡すぞ」
「杉田くん、はいこれね。石川くんはこれ。残りは私の分だわさ~」
と言う阿部教授、教授が働いていた現場を見たかな~……。
「皆聞いてくれ、ソ連の情勢が悪くなって来ている。ここの街は日本の企業も多数、日本人は六千人以上から居たんだが、今は数えるほどになった」
「それは昔からでしょう」
「まぁな。今は全てがロシア人か移民だ。一人歩きは危険で許可出来ない、いいな」
「は~い」
教授が語気を大きくして繰り返し話す。皆は頷くが聴いているかどうかは教授の授業と同じだ。縮図は変わらない、皆は荷物を抱えて下船する。
通関を出た所に車が止まっている、しかも車の横には日本人らしき人が手を? 私は機嫌良く安部教授に訊ねた。
「教授! お迎えの車はどれですか」
「寝言は寝て言ってくれ」
「ならば早くホテルで休みた~い」
泊るのはもちろんホテルではない鈴木商店の寮だ。殆どの社員を帰国させたから、部屋が多数空いている。それで自由に使ってよろしい、と?
「あの白い二階建てのビルがそうだ。疲れる前に早く、ガンバ!ガンバ!」
「教授? それでも人間ですか、悪魔ですか」
「どちらでもない。俺は天使だ、夕食は中華で満腹まで許す」
「教授、もう食べる気力はありませんよ」
幾分か、それ以上だろうか、気分が悪そうな杉田先輩が情けなく見える。
「そうだろう陸に揚れば人が揺れる。船酔いだ、たくさん食べるなよ」
安部教授には悪いと思いながらも、全員は腹いっぱいまで食べた。
「ちょっと! 教授は食べ過ぎではありませんか?」
「おやぁ? そうか~まだ食べるぞ!」
一番多く食べたのはキリだ。まだ血肉が不足しているからだろう、末恐ろしいわ。
*)シベリア鉄道
日本から送った荷物は無事に三浦教授が受け取っている。良かった。
私たちはシベリア鉄道に乗る。途中下車の自由が許されている。改札を出て2日以内に駅を出た改札に戻れば、追加料金無しでまた乗車出来るのだとか。国鉄も同じだったかな?
が、教授はベロゴルスクまでの切符を購入していた。2日では戻れないと判断しているからだ。汽車の中ではバイトは無い、だからトランプ三昧にどっぷりと浸かる。
ウラジオストクの駅舎がとても綺麗だった。阿部教授から杉田先輩と私がお弁当を一人につき二個を買って来るよう指示を受けた。私とキリと石川くんの3人で近くのお店に買いにいき、重い重いと小言を言う石川くん。
「どうして一人に2個のお弁当かしら」桜子
「たくさん食べれるから嬉しい」キリ
「食べる事が幸せなり」杉田先輩
「3人とも考えてくれたまえ。汽車が時間通りに発車する事は無いんだ、とにかく待つ必要がある」
「時刻表があるでしょうに」
「いつ発車するか判らないんじゃ身動きができん。だから弁当じゃ」
「教授、嘘はいけません。昨日は定刻通りに走ったそうです」桜子
「それは、確かに定刻だけど、1日遅れだったよ」
石川くんと霧はいっぱい笑ったのだが、天然にしか笑えない冗談だよホント。
ハバロフスクまでは景色を見ていても飽きる事は無かった。谷あり山あり湖あり丘あり森林あり畑あり。
「寝言は起きたら話さないでくれたまえ。さくらちゃんさ、丘。森。畑しか無いよ」
夜になった。明日にはベロゴルスクに着くからゆっくり休んでくれ。
ニヤニヤ、ニタニタと笑うような一人の老人とすれ違った。脚が悪いようだが、私とキリの前を通る時だけ悪くなるのかね……ジジイ。
「ハバロフスク所長! どこを見て歩いているんですか。早くして下さい」
「なに、久しぶりの別嬪さんじゃからの」
「なに? あの気持ち悪い爺さん……セグローク!」
キリは暑い日でも? 鳥肌が立つのかと一瞬思ったそうだ。腕はチキン・チキンになっていた。
ベロゴルスクに到着した、早いのである。ここで三浦教授と合流する予定だ。綺麗な街並みを見ながらキリが阿部教授に質問している。
「お父さん、道路が広いし並木も綺麗だけども、どうして道路の中心に大きい街路樹を植えているの? これでは車は通り難いよね」
「キリ、いい事に気が付いたね、七十点を点けよう」
「百点を欲しい者は質問に回答せよ」
「火災が起きた時に延焼しないように」杉田先輩
「冬の徐雪をうず高く置ける場所にしてる」桜子
「僕は大きく異なるよ、外国の侵軍を阻めるようにしている」石川
「でも凄く広い道あるよ、中央に植えてあるのは全部じゃないけども」霧
「冬の冷たい風を避けるため」石川
「伐採して暖炉の薪にする」杉田先輩
「智治くんは、どうしても燃やしたいんだな」
「各自に十点を授ける。全部で百点になったろう」
「おいおい随分と乱暴な採点だな、阿部くん」
「何処に隠れていたのだね、三浦くんは~」
三浦教授がこっそりと賑やかな会話を聞いていたのだ。三浦教授と合流である。本当は霧を観察していて、麻美に似ているので驚いていて動けなかったらしい。
「さ、みんな車に乗ってくれ。なに、直ぐに着くさ」
みんなは荷物を抱えて先に止めてある幌附きトラックに移動していたらだよ、急にキリが走り出した、ら、ららら、助手席に座り込んだのだ。皆は唖然とした。
キリあんたは優しい。私と先輩の間を取り持つのね。ありがとう。私は先輩にしがみついて離れなかった。私とキリの意味は違うのだが、私は結果オーライね!
ここから六時間かけて移動するのだが、道が悪いので悲鳴のオンパレードだった。直ぐに着く? またしても騙されたとブーイングはトラックの騒音にかき消されてしまうのだ。
キリが助手席に座りたかったのは、兎に角麻美姉さんの事を早く聞きたかったからで桜姉さんの想いとは裏腹である。着くのは夕方だ。
着いたらユキ姉さまと対面だから、キリは自身の逸る心を宥める事が出来なかった。
「お姉さま、待ってて下さい」
麻美はクロと再会していて、今は思いっきり乗馬を楽しんでいる頃である。




