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太陽の麓  作者: James N
9/10

 土曜日の定期ミーティングでは、いよいよ期限まで二週間を切ったということで、進行度に差はあるもののみんな完成に近づいているのが見てとれた。長島と三戸は筆が早いようで、既に完成した作品に代わりおまけのイラストを描いている。

 ちなみにクロ達大学生組のテスト期間は今日が最終日だった。みんな鬱陶しいテストから解放されてサークル内の雰囲気がラストスパートに向けて盛り上がっている。

 朔夜の作品は三枚のイラストである。ほかのメンバーに比べれば作業量は少ないが、その分時間をかけて一枚を仕上げることで完成度をあげるようにアドバイスした。特に、まだ経験の浅い背景も描かせるために、ネットで拾った写真を模写させるなど、期限までに詰められるところをすべて出し切るように教えている。

 クロはと言えば、運営関連でやらねばならないことはほとんどルーチンワークと化してそれほど手間がかからなくなっていた。作業の効率化で出来た隙間の時間は卒論にあてた。夏休みが終わる九月末には八割方書き終えて最後の章を仕上げるだけにする予定である。

 ショーの入場受付が始まるのは日が大分傾く午後六時、ショー自体の開始は七時だ。大学からは一時間ほどかかる距離にある。事前に調べたところかなり伝統的なスケートショーのようで、混雑など不測の事態に備えて、クロと朔夜は三時から行われていたミーティングを四時半頃に抜けて会場に向かった。

 今日の朔夜はばっちりとメイクが決まっている。紅色の膝丈スカートにフリルの付いた白いシャツ、髪の毛は後頭部で結われている。土曜日は加藤にとっても楽しみの日になっている様子で毎週朔夜をコーディネートしていたが、今日はやけに気合が入っている。勘が鋭いところがあるので、もしかするといつもと異なる朔夜の態度に何かを察したのかもしれない。

 実は、今日スケートショーを見に行くことは加藤には伝えていない。圭一にも黙っている。追い込みミーティングで帰りが遅くなるという風に説明したのだが、これは朔夜の希望であった。チケットは四枚あったのであと二人を誘おうとしたところ、朔夜に制止されたのだ。知っている人に囲まれた状態が嫌だと言う。恐らく、自分のトラウマと向き合って冷静でいられなくなっているところを多くの人に見られたくないのだろう。嘘をつく必要があったとは思えないが、朔夜が拒んだので仕方がない。

 電車を乗り継いでいくと、明らかにスケートショーの観客と思われる人が増えてきた。家族連れやカップルも居たが、やはりというか女性グループが多い。目的の駅が目と鼻の先になる頃には車内の半分の人が観客なのではないかと思えるほどたくさん人が居た。

「ねえ、あの子、六谷選手じゃない?」

 クロの鋭敏な知覚がそんな囁きを拾った。女の声がした方向へそれとなく視線を巡らせるが、発信源は特定できなかった。クロに聞き取れたのだ、名前を呼ばれ慣れている朔夜に聞こえていなかったとは思えない。朔夜の顔を伺って見たものの表情からは読み取れない。だが、よくよく注意して観察していると、わずかに呼吸を苦しそうにしていて落ち着きなく、時折身じろぎしていた。嫌な言葉を受けると呼吸が浅くなる。

 クロは朔夜の耳元に顔を近づけて小さな声で言った。

「注目されちゃってるみたいだけど、大丈夫?」

「平気です」朔夜はクロの顔へ肩越しに少し首を捻って笑みを浮かべた。

「こういうのも覚悟してたから」

 微笑を向けられて、クロは今更申し訳ない気持ちが湧いてきた。朔夜が衆目に晒されることはクロにとってまったく予想外だった。朔夜のスケート界での活躍は圭一が自慢していたし、セカイも朔夜が目立つ選手だったと言っていたのに、有名であることがどんなことなのか理解していなかったのだ。その上、彼女の事故はセンセーショナルでスケートファンの記憶にはまだ新しい。

 セカイはきちんと変装していたし、仮にバレても慣れているだろう。だが朔夜は車椅子であるというだけで目立つ。変装したとしても最初の段階で人目を引いてしまう以上気付く人は必ずいる。

 今、朔夜の覚悟をようやく理解して、本当に彼女が前に進もうとしていることを実感した。申し訳ないというのは失礼だと思い直した。どんな結果になろうと彼女が過去に立ち向かう姿を見届ける。それが彼女を連れてきたクロの義務だ。

 目的の駅につくと一斉に乗客が降りた。人の流れに乗って会場まで朔夜を押していく。時刻は六時直前。混雑する駅の中を車椅子で進むのは予想以上に時間を食うようだ、早めに出発してよかったとクロは安堵した。

 会場についたのは六時十五分。敷地内で屋台や物販を行っていた。屋台の向かい側には案内所のテントがある。案内所の後方は仕切りがあってよく見えない、もしかすると選手達が行き来する場所なのかもしれない。時間が時間なだけに非常にお腹が減っていたので、焼きそばを二人分買って食べた。

「なんで屋台の焼きそばってこんなにしょっぱいんですかね」

「なんでだろうなあ。でもそれも含めて楽しむのが祭りだよね。これは祭りじゃないけど。いや、ある意味祭りなのかな?」

「一人で何言ってるんですか」

 朔夜は天使の囁きのような笑い声を喉の奥で鳴らした。けれど、緊張しているのかいつもの元気はない。クロはあえて何も言わない。過剰に彼女を気にかければ余計に緊張させるだけだ。ただ見守る。完全に分かってあげることはできないだろう、それでも彼女の苦しみを少しでも分かち合えればと思う。

 空腹を満たし、いよいよ会場に入った。入口でパンフレットを受け取り係員にチケットを見せると、車椅子、そして関係者の招待ということもあり、別の係員が誘導してくれることになった。

 事前に用意しておいた上着を鞄から取り出して着込む。七月の暖かな外気と氷で冷やされた室内の温度はかなり差がある。半袖で余裕を見せている人もいればダウンジャケットを着て寒そうにしている人もいた。室内気温は十五度ほどだろうか。クロも朔夜にアドバイスを貰っていなければもれなく凍えていたことだろう。

 東西に長い長方形のリンク。西側の中央にプロセニウムアーチの劇場のようなカーテンの入退場口があり、その上にそれと同じくらい巨大なモニターがある。そこ以外はリンクの周りを所狭しと座席が並んでいて、後ろに行くほど階段状に高くなっている。氷上席というのだろうか、リンクの上にもスタンド席に隣接して席がセッティングされている。

 係員が人混みに声をかけて朔夜を通すように促してくれた。移動する間、朔夜はずっと両手で車椅子の肘掛けを握りしめていた。後ろに立つクロから表情は見えないが険しい顔をしていることだろう。

途中でトイレに寄らせてもらい、クロ達は氷上席の南側の中央、丁度選手が演技を始める目の前の位置に案内された。元々置いてあった椅子を退かして車椅子を座席の位置に停め、クロはとなりの席に座った。腕時計を見ると、ショーの開始まであと十五分あった。

「めちゃくちゃ近いなあ、凄い席。反対側の人の顔も見えちゃうよ」

「……そうですね」

 朔夜はソワソワと落ち着かない様子で、クロの声にはお情け程度の反応しか示さなかった。会場を見回したかと思えば、リンクの一点をじっと見つめた。そして目をぎゅっと閉じて深く呼吸をした。一挙一動の緊張がクロにも伝わってきた。

 色白の肌が、氷に反射した光を受けていっそう病的に見えた。あるいは本当に体調に影響が出るほど緊張しているのかもしれない。だが、朔夜はここに来ることを選んだ。そしてまだ根を上げてはいない。だからクロは彼女の意志を尊重した。

 クロは優しく声をかけた。

「朔夜ちゃん」呼びかけに、ゆっくりと顔を向けてくる朔夜。

「きっと楽しいさ」

「はい」

 朔夜は力なく笑った。クロに出来ることはもうない。あとは隣で見守るだけだ。もし朔夜が耐えられないと言った時はすぐにここを立ち去れるように、周囲の係員や出口の位置を再確認した。まばらだった座席もどんどん人で埋められて、開演五分前には満席とはいかないまでも繁盛と言える観客が一同に会していた。

 いよいよ開演時刻。今か今かと待ち構えていた観客達が、照明が落とされると同時に暗闇の中から一斉に歓声を上げた。

 闇の中に歓声よりも大きな爆音で曲がかかった。スポットライトが西側の入退場口にあたり、選手が次々と飛び出してきた。オープニングは集団での演技のようだ。赤を基調とした照明がリンクを駆け抜け、選手達が散らばってステップを踏んだり、隊列を組んで同じ起動を滑ったりと目まぐるしい。実際に演技が始まると氷上席がいかに選手に近いかが肌で感じられた。選手一人一人の表情がはっきりと見える。クロはスケートにはまったく詳しくないので下手なことは言えないが、純粋に見ていて驚きと関心をしてしまった。曲が始まって一分も経つ頃にはすっかり雰囲気に呑まれて見入ってしまっていた。やがて楽しさが追いつくように胸の中に走り込んできて、歯を見せた笑顔のまま眺めていた。

 この中に朔夜の顔見知りの選手はいるのだろうか。ふと、そんな考えが楽しさの邪魔をしてクロを我に返してしまった。横に顔を向ける。朔夜はぎゅっと口を引き結んで耐えるように選手達を見ていた。クロは周りを見渡した。観客達はとても楽しそうで、目の前の光景に魅了されていて、一人として朔夜と同じ表情をしている人はいなかった。

『足動かなくなってから、何にも楽しくなかった。ううん、何か楽しいことがあると、思い出しちゃうの。昔はもっと楽しかったって。友達と話して、声を上げて笑っても、もうスケートしながら笑うことはないんだって、すぐに冷めちゃうの』

 空虚な瞳でそう言った朔夜。彼女は、誰とも共有できない、誰にも理解できない、孤独な戦いをしていた。クロも戦う手助けをしただけで、今は彼女の姿を横で見ているしかない。

 視線をリンクへ戻し、再びクロは魅惑の世界へ身を投じた。

 集団演技のあとはペアのダンスであった。打って変わってスピードに乗った動き、常に二人に視線が注がれる没入間、まったくの別物であった。

「新岡さんだ」

 数組終わると、入れ替わるように男性選手が一人だけ出てきた。赤と黒のコントラストが栄える衣装だ。いよいよソロの演技のようだ。クロも見たことがある選手だった。貫禄のあるオーラを放ちながらリンクの中央にするりと停止し、ポーズをとる。次の瞬間、曲が始まった。情熱的な音楽に合わせて野獣のように踊り狂う姿に、観客達は歓声を上げ続けた。

 演技が終わると、また入れ替わるように、今度は女性の選手がリンクへ上がった。

 その後は男女交互に何度か演技が行われ、間に二十分の休憩を挟みつつ、再び二人組の演技が行われた。そしてついに、その時がやってきた。

 二人組が退場していく背中を観客達が見送り、入れ替わって入ってきた選手にひと際大きな歓声が沸いた。嬌声のようなものも混じっている。入ってきたのは遠藤世界だった。右半身が黒く、左半身が白い衣装に身を包んでいる。長い黒髪はオールバックに固められ、普段の彼からは想像もつかない勇ましさを演出していた。向かいの席の観客達がセカイの名前が入ったプラカードや布を掲げ始めた。

 セカイは袖をたなびかせながら悠然とセンターポジションに滑り込み、何気なくクロ達の方を見て一瞬目を見開いたように見えた。しかしすぐに表情を引き締めてポーズをとった。

 曲が始まり、静止していたセカイがネジを巻かれた人形のように踊りだすと、朔夜は驚愕の声を上げた。

「この振付……!」

 クロは疑問に思ったが、それよりもセカイの演技に集中した。せざるをえなかった。まったく目が離せない。どの選手にも特異な魅力があり、華があった。荒々しい益荒男、美しい貴公子、人々を惑わす魔女、可憐な妖精。このアイスショーはさながら色とりどりの花畑だ。確かに他の選手の魅力も素晴らしいものであったし、誰一人として興ざめするような演技はしなかった。質で言えばそれほど差はない。しかしセカイから漂うオーラは、もっと根本的に異なる印象をクロに与えた。

 まるで、神に愛されるためだけに産まれてきた存在を見ているかのような。

 背筋を走り抜ける恐れにも似た快感。知っている、この感覚は、圧倒的才能から生みだされた絵を見たときに感じたものだ。

 歴史的名画、ネットで見つけた名も知らない絵描きのイラスト、それだけではなく、否応なく身体を揺さぶる音楽、一行で身体を震わせる小説、サッカー選手の曲芸のようなシュート、夕焼けの中ではしゃぐ子供を見守る母親と父親。

 溢れている、この世界に美は溢れている。

 そして目の前の少年、彼もまた美を体現する者であった。

 鳥肌が止まらない。ジャンプのたびに湧き上がる観客の熱狂的な叫び、それすら煩わしい。見たい、静かな客席で、誰にも邪魔されることなく、彼の世界に埋没したい。

 わずか数分の光景が現在過去未来をすべて融合させたような感覚をもたらす。たった今のジャンプに魅了されている間にも、演技の初めで見せたステップの美しさに胸躍ったままで、それでいてこれから起こる演技の終わりの瞬間を夢想し心打たれる。

 時空間すら凌駕するかに思えるほど圧倒的存在感を放つセカイのフィニッシュポーズは、大歓声によって迎えられた。クロは一度として、彼がジャンプを失敗する光景を予感できなかった。既に最初から最後まで完成されたストーリーを見ているようだった。

 汗だくで息を切らせながら歓声に手を振って応えていたセカイが、クロ達の方を見て笑いかける。しかしそれも一瞬のことで、彼は投げ込まれてきた幾つかの花束を拾うと、万歳して笑顔を振りまきながらカーテンの中へ消えて行った。

「凄かった」クロは溜め息混じりで言った。

「彼、本当に凄いんだなあ」

 何のリアクションもないことを変に思って視線を朔夜へ向けた。薄く口が開かれ、呼吸をやめたように微動だにせず、表情筋すべてが死滅したかのような顔からはどんな感情も読み取れない。ぞくりと、クロの背筋に痺れが走った。

 ショーは午後九時に幕を下ろした。選手達とのふれあいの時間が設けられ、ふれあいスペースには主に女性達が押しかけて長蛇の列が出来ていた。セカイのいるスペースには観客が溢れ帰り、写真とサインをねだる黄色い声が終始聞こえてきていた。

 クロ達はそんなセカイの姿をしばらく遠くから眺めていた。

「帰ろ、先生」

「いいの?」

「うん」

 朔夜は心ここにあらずといった様子で帰路を促した。仕方がないので、ゆっくりと出口へ向かって客席を進む。大分観客が捌けたので来る時よりもすんなり通れた。クロは車椅子を押しながらも、何となくセカイの方を眺めていた。

 すると、唐突にセカイがさっきまでクロ達がいた場所へ視線を向けて、わずかに焦ったように周囲を見回した。そして丁度セカイの正面奥、少し高い座席位置へ移動していたクロと、ファンの集団越しに目が合った。

 クロは咄嗟に閃いて、右手を車椅子の取っ手から離して高く挙げた。セカイが気付いて不思議そうな表情をしたのを確認して、人差し指で出口を指し何度も示す。見えているかは定かではないが、音を立てずに口も動かして意図を伝えようとした。あまりゆっくり移動し過ぎても朔夜に気付かれてしまうので、三秒ほどのジェスチャーにとどめてすぐに手を下ろした。そのままリンクから出て、時間稼ぎのためにトイレに行ってから外へ出た。案内をしてくれた係員が出口付近にいたのでお礼を言っておいた。

「あっつ……」

 室内との温度差を辟易しながら二人して上着を脱ぐ。上半身しか動かせず脱ぎにくそうにしている朔夜に手を貸してやりながら、クロは思った。

 果たしてセカイは理解したのだろうか。仮に理解できたとしてもあの数のファンから抜け出せるとは思えなかった。それでも、これで終わるような気がしなくて、まだ何かが起こるような予感がして、クロは口を開いた。

「ごめん、朔夜ちゃん、俺お腹空いちゃった」

「太りますよ」朔夜は畳みながら呆れた声で返した。

「大丈夫、昔からいくら食べても太らないんだ」

「太る、三十過ぎたら絶対太る」

「あはは」

少しでも感情の色が伺えてクロはほっとした。外に出たことで余裕ができたのかもしれない。

 朔夜を騙す罪悪感と、去り際に見た宝石のようなセカイの瞳が放った予感が混ざり合って、口の中でしょっぱい涎が大量に分泌された。味のする期待を飲み下しながら、クロはさりげなく案内所の向かい側の屋台まで車椅子を押した。案内所の奥にあるであろう選手の通り道から、ここが見えるはずだ。

 正面の屋台で売っていたのはいかにも糖分過多の赤い物体、りんご飴であった。クロは甘過ぎるものが苦手で正直食べきれる気はしなかったのだが、それを買って、そのまま屋台の近くで立ち食いした。

「食べる?」

「いりません。というか、デリカシー無い」

 朔夜があんまりにもぼうっとしているのでとりあえず声をかけたが、無表情での返答が返ってきただけだった。

「え、だって前に間接キス気にするのは小学生だとかなんとか言ってなかったっけ」

「言ったかな……?」

「言ったよ。美術館行った時」

「……言ったかも」

「ほらね」

「む」

 朔夜はぴくりと眉を動かして、丁度目の高さにある無防備なクロの手から器用にりんご飴を奪うと、ばくばくとワイルドに食べてしまった。小さな口でショリショリとリンゴを噛み砕いて、ごくりと細い喉を鳴らすと、眉を顰めて一言。

「甘……」

「そりゃ甘いよ、飴だもん」

 自分で飴を処理しなくて済んだのは良いのだが、これでここに留まる理由がなくなってしまった。クロは渋々、朔夜の車椅子を押して敷地の外へ歩き出した。

 連れてきて良かったと言い切ることが出来ない気持ちだった。ショーは素晴らしいものだった。だからこそ、朔夜は自分の在りし日を強く思い出して嘆き悲しんでしまったのではないだろうか。朔夜がトラウマを克服できると信じたい。けれど、上演中に盗み見た朔夜の表情が頭から離れない。選手達は、見る人を楽しませるために一生懸命練習したのに、朔夜が浮かべていたのは、永遠に逃れることが出来ないと分かっている痛みをじっと耐え忍んでいるような、悲壮な面持ちだった。

 もう二度とあんな顔はさせたくないと、クロはぎゅっと唇を噛んだ。

 人の流れに乗って敷地の外へでようとしたとき、周囲の人が次々と振り返るので、後方でどよめきが起こっていることに気がついた。車椅子を停めて上半身だけ振り返る。朔夜も左の肘掛けに両手を乗せるようにして身体を捻った。

 遠く離れた案内所の方で何かあったらしい。やがて、人混みの中からジャージ姿の少年があたりを見回しながら小走りしてきた。セカイだ。化粧も落とさず、暑いだろうに上下長袖である。

 クロが手を挙げると、セカイはすぐに気がついて近寄ってきた。傍まで来ると、膝に手をついて肩で息をした。

「よかった、間に、あった」

 みな帰宅ムードだったとはいえ、周囲にはまだまだたくさんの人がいる。彼らは何事かと小声で話をしたり遠巻きに眺めたりしていて、とても落ち着いて話が出来る状況ではない。この状況に緊張しているのか、それともただ単に暑いのか、頬をほんのり赤く染めた少年は、何を言おうか言い倦ねているようで朔夜を見たまま固まっている。朔夜もセカイを見たまま口を開かない。

「場所移そう」車椅子を方向転換しながら提案した。

「は、はい。こっちです」

 セカイに連れられて案内所の裏の仕切りで隠れた場所まで移動した。帰る人の流れに逆らっての移動は酷く人目について、ファン達の間で朔夜が元選手だと気付いた人が噂をしないだろうかと不安になったが、考えても仕方がない。

 案内所の裏には他にも何人か選手がいた。リンクの上で見るより生々しい有名人のオーラを放っている。何人かこちらに気がついて不思議そうに視線を送ってきた。しかしクロ達の真剣な表情から察したのかすぐに談笑に戻った。

 セカイは振り返って再び朔夜と見つめ合った。クロの方へ少し視線を向けてから、軽く頭を下げる。

「今日は来てくれてありがとう、クロさんも、ありがとうございます」

 そしてまた黙り込んでしまった。ずっと言いたかったことがあるはずだ。しかし無表情を貫く朔夜に尻込みしてしまっているように見えた。だが彼はトップスケーターだ。世界で戦う男がいつまでも情けない姿を晒す訳がない。

「俺はちょっと離れてるよ」

 クロはそう言って二人に背を向けて仕切りから外に出た。喉が渇いたので係員に室内の売店はまだやっているだろうかと聞くと、余っていた選手に支給するための飲み物をくれた。お茶のペットボトルを選んで、雑踏を眺めながら喉を鳴らす。人混みは徐々に数を減らしてまばらになってきていた。セカイのふれあいタイムが終わったからだろう。

終わったのか、終わらせたのか。とても捌ききれる人数ではなかったと思ったが。

 クロの頭の中はほとんど空っぽになっていた。何かを考えようとしても目の前が真っ白になって遮られる。色々なことがあり過ぎた。スケートショーはたった二時間、移動時間を含めても四時間以内の体験でしかなかったのに、入ってくる情報量が多過ぎて脳みそが疲労困憊になっている。

 しばらくぼうっと人の流れを眺めて立ち尽くしていた。クロはタバコでも吸いたい気分になった。吸ったことはないのだが、あんな有毒物質一本で気が楽になるなら吸ってしまう気持ちも分かる。

 酷く長く感じたが、実際に待っていた時間は十分ほどだった。セカイが仕切りの間から顔を出してクロを呼んだ。朔夜に合流する前にセカイにだけ聞いた。

「言いたいことは言えた?」

「はい。クロさん、本当に、感謝してます」

「俺もだよ。呼んでくれてありがとう。最高だった」

 クロは微笑んで、朔夜の方へ歩き出した。朔夜は一人の女子選手と笑いながら話していた。クロには見せたことのない種類の笑顔だった。

 これが本当の朔夜なのだろうか。いや、これも、彼女の一部なのだ。全部本物。誰かの前で被る仮面だって、その人の及ぶ範囲から作られたのだから、その人の一部だ。裏とか、表とか、そういうのはどうでもいい。知らなかった一面が見れただけで喜ばしいことだ。

 朔夜はクロに気がつくと、二言三言断って会話を終わらせ、細い腕で車椅子を器用に動かして方向転換した。三人で最後の挨拶を交わす。

「じゃあ、セカイ君、またどこかで。応援してるよ」

「はい、お気をつけて」

「今日は、来て良かった」朔夜は切れ長の目を細めて微笑を浮かべた。

 セカイはアイシャドーの奥の瞳を少し潤ませ、口元をひくつかせた。そして大きく息を吸って言い切った。

「絶対、世界一になる」

「うん、頑張れ」

 二人のやり取りに不覚にもうるっときてしまった。

 クロ達はまばらになった人混みをゆっくりと進む。時刻は九時半。星も見えない明るい街、けれど街灯の明かりはどこか寂しい祭りの終わり。周りを歩く観客の群れには徐々に仕事帰りのサラリーマンや居酒屋から出てきた大学生が混ざって、世界はいつもの様相を取り戻していった。

 あまり遅くなっては圭一が心配するだろう。一応メールで連絡をした。

 帰り道は当たり障りのない会話が続いた。誰のジャンプが凄かったとか、誰のテーマが好みだったとか。電車に乗ってからしばらくするとその会話も途切れた。

 セカイと何を話したのか気にならないといえば嘘になる。けれど彼女の中で消化できていないかもしれないところにこちらから刺激を与えることは得策ではないと思った。彼女の戦いは彼女自身で終わらせられるとクロは信じた。

 六谷家の最寄り駅に降り立つと、アイスショーが随分昔のことのように思えた。日常とあの場所は完全に別の世界であった。電車から降りた人達の疲れた足音がホームを揺らし、改札を出て、薄暗い夜の街へ拡散して行った。あとに残ったのは、ザリザリとコンクリートの上の砂利を擦るタイヤの音と、一人の家庭教師の足音だけだった。

 住宅街の沈黙に臆したように二人は黙っていた。

 やがてクロの耳が小さな水音を捉えた。最初の一回は意識の隙間に消えていった。何度も聞こえるうちにそれが鼻水をすする音だと気づいた。

 発信源は、目の前の少女だった。

 俯き、肩を震わせて、両手で顔を拭って、拭って、拭っていた。

 初めは美しいすすり泣きだった嗚咽が、ダムが決壊したように瞬く間に大きくなって、獣の唸り声のような激しいものになった。付近の住人が訝しんで様子を見に出てきてしまうのではないかと思われた。

 クロが車椅子の正面に回って膝立ちになり目線を合わせると、朔夜は泣きじゃくりながら、制御不能の呼吸器官と声帯から息も絶え絶えに言葉を紡いだ。

「わたし、スケートが、だいすき、だいすきだよお」

 クロは衝動的に少女の頭を抱き寄せて胸に埋めた。少女はクロの背中に手を回してシャツを握りしめ、思い切り声を出して泣いた。

「そうか、そうか」

 クロは少女の背中をさすった。少女の魂の震えが、頭が押し付けられた肩口のあたりからじんわりと広がっていって、いつの間にか一緒になって涙を流していた。

 わけがわからなかった。

 ただ泣いた。止まらなかった。

 スーツ姿の男性が歩いてくるのが車椅子の向こうに見えて、その頃には朔夜の様子もかなり落ち着いてきていたので、クロは朔夜の頭を胸から離した。シャツの胸元が涙と鼻水でびしょびしょになっていて、離れた瞬間にそこだけ外気で冷えた。

「なんで先生も泣いてるの」

 朔夜はクロの顔を見るなり鼻水混じりの声で言った。

「君のために泣いたんだよ。どうだ、キモいでしょ」

 クロが涙の痕が残った顔で唇を引きつらせながら戯けると、朔夜はしゃくりあげながら、ありがとうございます、と呟いて涙を人差し指で拭った。

 近づいてきていた男性はクロの顔を一瞥して察し、道の反対側を背景に溶けるように通り過ぎていった。もっとも、取り繕える範疇を超えた号泣だったので今更恥ずかしがる意味もないように思えた。

「先生」

「ん?」

 呼ばれて、男性に向けていた視線を朔夜に戻す。朔夜は改まって、呼吸を整えてから確かな張りのある声で言った。

「私、絵も大好き」

 心臓がどくりと大きく、甲高く嘶いた。

「私の夢は、セカイが叶えてくれる。だから、先生の夢は私が叶えます」

 凛として、少女は宣言した。

 クロの中に両親が溶けているように、長島の中にはクロが溶けていて、セカイの中には朔夜が溶けていて、朔夜の中にはクロが溶けて、それが人間の在り方で、素晴らしさだった。誰かの中に誰かを生かして、誰かの中の誰かが誰か自身を構成する。今、朔夜の中に自分の夢がはっきりと息づくのをクロは感じた。彼女こそがクロの存在の証明になる。

 そんな予感を、クロは切って捨てた。

「馬鹿言ってんじゃない。仕事しながらでも絵は描ける」朔夜の間の抜けた顔へ、ニヤリと笑って言ってやった。

「あんなの見せられて燻ってられないって」

「じゃあ、競争ですね」

「ああ、でもまずはコミケだ。一緒に頑張ろう」

「はい!」

 朔夜は満面の笑みで応えた。

 未来の果てまで届きそうな澄んだ音だった。



 朔夜を家に送り届けたあと、クロは1DKの部屋のソファーにぐったりと全体重を預けて目を瞑っていた。眠くなる気配はない。それどころか、たった一つのイメージを元に大樹が葉を広げるようにアイデアが次々と湧き上がってくるせいで、まるで怪しい薬を摂取したジャンキーのように頭の中は異次元にトリップしていた。

 朔夜、儚くも強く美しい少女。

 彼女を根幹にした強烈な想像が駆け巡る。

 瞼の裏にヴィジョンが溢れる。リンクして、形を変え、パンを捏ねるように一瞬たりとも留まらない。ストロボスコープのようにコマ送りで世界が見える。


 例えば、

 黒い森を背にした切り立つ崖の縁。

 崖のしたには森が続いていて、その隙間に川が流れている

 遥か彼方に浮かぶ暗雲、その先では切り裂くように降り注ぐ日光。

 崖の上からそれを見つめる一人のちっぽけな少女、真っ白なワンピース、病室の象徴。

 顔は見えない、正面に回り込もうとしても何故か背中だけが視界にある。

 特定の顔を持たないのだ。

この少女は概念だ、若者のリビドーの顕現だ。

 

 例えば、

 岩だらけの砂漠、ラクダに乗った旅人。

 あてはない、ただ生きるためだけに進む。

 丘の上に立つと、蜃気楼の向こうに小さな緑色が見えた。

 砂避けのフードとマスクの奥で、旅人は安堵に顔をほころばせる。

 だが、それも一瞬だ。

 同じ場所には留まれない。だから行かなければ。

 

 止まらないイメージの奔流。纏まりがない暴力的な流れをどうすれば最高の形で出力出来るのか。

 描きたい。

 ドクン、ドクン、と、真っ暗なのか真っ白なのか、現実なのか夢なのか分からない網膜の先まで、身体の深いところから血潮が溢れ流れてきた。

 クロは目を見開き、操り人形のように力を使わず立ち上がって、導かれるまま部屋に備え付けの収納スペースの戸を開く。

 幾つもある棚の一番下に、それは変わらぬ姿で鎮座していた。

 手に取って中身を検分する。絵の具は黒と茶色の消費が著しい。黒は予備があったが茶色は買い足さねば。オイルの量も足りない。そして何より画板とキャンバスがない。

 今すぐに描きたい、しかし道具がない。

 広げた画材はそのままに、ソファーの前の硝子テーブルへ足早に戻り、置いてある財布を手に取った。クロの予想通り、そこにしまってあった一枚の小さな厚紙を取り出す。

『画家 兼 KAGIYAMA 画材店 代表 鍵山澄華』

 カラフルな名刺をじっと見つめ、おもむろに裏返す。

 裏面には電話番号とメールアドレス。

 五秒後、クロの手はベッドに投げ置かれているノートパソコンに伸びていた。


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