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太陽の麓  作者: James N
8/10

 金曜日。いつも通り夕方から始まった授業は既に終わりの時を迎え、昨日今日と返却された学期末テストの結果に何の憂いもなく、二人は満足げに答案用紙を片付けた。

「学年順位とか発表されないの?」

「明日の午前中に張り出されるらしいです」

「相当いいところいってるでしょ」

 ほとんど九十点以上だった朔夜の答案用紙の束を思い出して感嘆しながら言う。

「みんな驚いてました。勉強で目立ったことなかったので」

「おお、なんだか嬉しいよ」

 口では明るく答えながら、クロは汗ばんだ手で鞄のチャックを開け、封筒を取り出そうと……

「明日、ミーティングのあと行きたいところがあるんですけど、時間ありますか?」

「へ?」

 ……して、手を止める。不意を突かれたクロは鞄に右手を突っ込んだまま間抜けな顔で回転椅子に座る朔夜の顔を見た。まさかセカイが朔夜にあらかじめ連絡を寄越していたのかと勘ぐったが、彼女にそんな素振りは見られなかった。クロが混乱して見つめ続けていると、朔夜は少し怒ったように語気を強めた。

「今月から、シムロ展、始まってます」

「あ、ああ、そっちね」

「そっち?」美しくかしげられた首筋が揺れる髪の毛の隙間に垣間見えた。いつの頃からか朔夜はジャージを着るのをやめて、加藤に見繕ってもらったであろう服を身につけるようになっていた。クロはしどろもどろになりそうな自分を一呼吸で自制し、これから起こすことに意を決して封筒を取り出した。

「実は、俺も誘おうと思ってたんだ」

 クロが緊張で力の入らない手で封筒を渡すと、差し出された白い封筒を透き通った華奢な手が受け取りチケットを取り出した。そこに書かれているタイトルを一目見て、朔夜の表情が凍り付いていき、抑揚のない声で言った。

「先生、なんでスケートなんですか」

「セカイ君からの招待状だよ」

 彼の名を聞いた瞬間、朔夜は息を呑んで肩を強張らせた。彼女はもう一度チケットに目を走らせ、出演者一覧に彼の名を見つけると、手元から目を離さずに言った。

「聞いたんですか、事故のこと」

「まあ、大体の経緯は」

 俯いたまま呟かれた言葉に遠まわしな返事をした。セカイに会ったと伝えれば事故や恋心に関することを知られたのではないかと彼女が危惧することは想像できた。クロは知らないふりをして連れて行きたくなかった。

「彼、苦しんでたよ。合わせる顔がないってさ。でも勇気を出してすぐそこまで来てたんだよ」

 朔夜の反応は薄かった。チケットを持つ手を膝に乗せ、身体はクロを向いているが視線は虚空を見つめている。色々な記憶がフラッシュバックしているのかもしれない。

「俺は最初、彼の邪魔をしようとしたんだけど、これって俺が決めることじゃないと思ったんだ。だから持ってきた」

「こんなの、渡されたって……」朔夜はうつろな表情でクロを見上げた。

 クロはそれ以上何も言わなかった、言えなかった。何度も何度もかけるべきベストな言葉を予習しておいたのに、それらが何一つ彼女に届かないことが、彼女の顔を見て瞬時に分かってしまった。クロの頭の中は完全に真っ白になった。何かを言わなければならないという逸る気持ちで、半開きの口の中で舌が力なく項垂れていた。

 二人は少しの間視線を合わせて動かなかった。やがて朔夜は視線を徐々に下げていって、クロの膝のあたりを見ながら言った。

「いえ、私は、行かないです。行きたくないです」

 予想できた答えだ。クロはもう一つの回転椅子に腰掛け、朔夜を右斜め前に、向き合わないような角度に身体を向けた。舌と唇は渇いて感覚がない。

「一つ、伝えたいことがあるんだ」

 セカイと別れてから、必死に朔夜を怒らせずに納得させる方法を考えていた。そして、今、そんなことは不可能だという結論に辿り着いた。なぜなら、クロは長島に踏み込んだ話をされたときに少なからず焦りや怒りといった負の感情の爆弾を腹に抱えているような気分だったからだ。押し殺していたものを解放しなければ変化は訪れない。変わったような気がするだけで何も変えられないのだ。

 それでも、彼女を刺激しないような振る舞いや言葉遣い、話す順序なども準備していた。そして、それらもすべて頭の中からすっぽりと消え失せた。用意されたものに意味はない、魂でぶつからなければいけないと直観で判断していた。

朔夜を眼前にして、それを言葉にするのは信じられないほど勇気の必要なことだとクロは体感していた。静かな図書室で大声を上げろと命じられたような緊張感の中で口を開いた。

「まず最初に、謝らせて欲しい。ごめん。俺が倒れた次の日の朝に話したこと、時間がいつか解決してくれることもあるって、俺は言ったと思う。けど、あれは嘘だ。取り消す」朔夜が息を呑んでゆっくりとクロを見上げる。目が見開かれ、すぐに悲しそうに細められた。

「何でそんなこと言うんですか。先生が現実逃避でいいって言ったから、今まで……」

「確かにそうやって慰める人もいる、だから俺は、それが最適な言葉だと思って言ったんだ。君にとって心地いい言葉だと思ったから。すごくデリケートな問題だし、踏み込まないようにしてた。でも、俺は全然そんな風に考えてなかった。だって、こういうことは時間じゃなくて自分の意志で解決しなきゃいけないことなんだよ」

 クロはなるべく理性的に話すように心がけたが、言葉が熱を持っていくのを止められなかった。

「だからセカイに会えって言うんですか?」

「そうだよ」クロの肯定に、朔夜は口を小さく開けたり閉めたりして、最終的に長い沈黙で返した。何かを言おうとしている様子を感じて、クロは朔夜の決心が終わるのをひたすら待った。出来れば色よい返事であることを期待していたが、もしそうでなかったとしても仕方のないことだと思った。無理矢理連れて行くことに意味などないし、あとを押してもダメなら、それは本当に時期尚早だということに他ならないのだから。

 しかし沈黙を破る朔夜の第一声は全く予期していなかった言葉であった。

「私、先生に会うまで、死のうと思ってた」

「なんだって?」クロは瞠目した。

「死ぬつもりだったの。家庭教師とか、学校とか、全部どうでもよかった。あのとき、退院して、新学期が始まる前に死のうって決めてた」

 何ということだ、朔夜を担当した精神科医はとんだヤブ医者じゃないか、と衝撃を受けながら心中で毒づいた。あるいはそれだけ彼女の意志が固く、周囲に悟らせないようにしてまで死のうとしていたとも考えられた。

 朔夜は宙を見つめながら続けた。

「足動かなくなってから、何にも楽しくなかった。ううん、何か楽しいことがあると、思い出しちゃうの。昔はもっと楽しかったって。友達と話して、声を上げて笑っても、もうスケートしながら笑うことはないんだって、すぐに冷めちゃうの」

 彼女の言葉を聞いて、クロは今さっき考えたことが間違いであったと悟った。彼女は事故にあってからリハビリを頑張ったのだ。けれど、もう昔の自分には戻れないと確信して、諦めた。彼女は、クロが思っているよりもずっと弱い少女だったのだ。

「じゃあ、何でやめたんだい」クロは干涸びた喉をならして聞いた。

「わかんない。先生の顔みたら、なんか、死に辛くなった。他の人とは違う気がした。学校とか、同情してくる人ばっかりでめんどかったけど、スケッチブック貰ってから、何かごちゃごちゃ考えなくて済んだし、先生は必死に教えてくるし、何かこのままでいいやって」

 朔夜の纏う空気が澱み、膝の上で拳を握りしめた。

「なのに、今更向き合えとか、馬鹿みたい。先生のおかげでせっかく忘れられそうだったのに、先生が、ぶちこわしちゃうんだ!」

 激昂して、朔夜は握りしめた四枚のチケットをクロに叩き付けようとした。部屋中に反響した叫びの中、チケットは異常な滞空時間で宙をひらひらと舞った。椅子の肘掛けに片腕で捕まりながら、チケットを投げ捨てたままの前のめりの体勢になっている朔夜の姿から、クロは目をそらせなかった。今まで彼女がクロに見せたどんなものよりも強烈で振れ幅の大きな感情の波形に、奇妙な安心感を覚えたのだ。

「なら、死ぬのかい」朔夜は驚いて息を呑み、黙った。

 クロはなぜ自分がそんな危険な質問をしてしまったのか分からなかった。だが、そう、完全な直観、朔夜の話し振りを聞いていて、彼女が死ぬことはもうないと確信した。

 クロは落ちたチケットをすべて拾って言った。

「君は、このスケートショーに行くべきだ。ちゃんと向き合わないと先に進めない。いくらごまかしたって、忘れられるわけないんだ。逃げても同じスピードで追いかけてくる。そんなこと、本当は分かってるんじゃないのか?」

 最初から嫌われてもいいと思ってここにきたのだ、今更何を恐れる必要がある。何を言うのが正解かとか、そんなことを考えるのはもうやめだ。言いたいことはすべて言って、あとは流れに身を任せる、そう決めた。

「俺はずっと絵描きになりたかった。でも色々あって挫折して、絵のことは考えないようにしてたんだ。そうしたらさ、いつの間にか本当にやる気がなくなってたんだ。君に出会ってしばらくするまでやる気がなくなってたことにも気づいてなかった。今じゃ、君に僕の夢を継いでもらえれば満足できそう、なんて考えてる」

 押し殺したように渇いた笑いを喉で鳴らして、すぐに崩れていた顔を引き締める。

「時間が解決してくれるって便利な言葉だと思う。でも、逃げちゃいけない場面でそれに縋るのはダメだ。だってそれって、向き合う勇気がないやつが使う言い訳だろ。俺みたいに大事なところで逃げたやつは、自分を騙し続けることに疲れて色んなものを失う。大事なもの、身体とか感情の一部みたいなものがなくなるんだ。それで自分は大丈夫になったと錯覚する」

 朔夜も同じはずだ。嫌なことを忘れるために他の大切な思い出も一緒に忘れなければならない。フラッシュバックするのはたいてい嫌な思い出ばかりなのだから必然的にそうなる。そうして削ぎ落としていくうちに、結局忘れられなかった嫌な思い出だけが残るのだ。

 クロは朔夜から床へと目をそらした。そうしなければとても自分を維持できないほどの熱が込み上げてきていた。声が震えているのを分かっていながら、どうしようもない生理現象をどうにかコントロールしようとして、言葉が途切れていった。

「今だから、分かる。俺は全然、大丈夫じゃなかった。腑抜けもいいとこだった。それに気付けたのは……」つっかえながら一言一言を音にした。クロの頬を暖かい何かが流れ落ちて、顎の先に溜まった。そうして、無様な泣き顔を自分より五つも歳下の少女に晒しながら、痙攣する喉から声を絞り出した。

「君のおかげなんだ。君に出会わなきゃ、絵を教えようなんて思わなかったし、絵を描くのが楽しいなんてことも思い出せなかった。全部、君のおかげなんだ」

 歪んだ視界の中で、驚きで見開かれた切れ長の目尻から、一筋の光がこぼれるのが見えた。少女も泣いていた。口元に手を当て俯き、クロと同じように喉をひくつかせて、引きつった声をあげた。

 クロは止まらない涙を両手で拭って、鼻を思い切りすすって一呼吸で体を落ち着けた。胸から顎にかけて、昂って震えている筋肉を弛緩させ、ゆっくり、はっきりと言った。

「スケートを好きだった自分を殺しちゃダメだ。楽しかったことも、辛かったことも、全部向き合ってけじめを付けるんだ。前に進むために」

 ひ、という息を鋭く吸い込んだ音が朔夜の喉から漏れた。わなわなと身体を震わせ、俯いた頭部は髪の毛のカーテンで覆われた。すすり泣く音が、しばしの間部屋に満ちた。

 ティッシュ箱の残量が見るからに減ったところでクロ達は改めてお互いの顔を見合わせた。朔夜は泣きつかれた様子でぼそりと言った。

「前から思ってたんですけど、先生って、意外と熱血ですよね」

「泣いてたくせに」

「ただのもらい泣きです」

「まったく、いい加減……いや、なんでもない」

 いい加減素直になれ、と言おうと思ってやめた。きっと、今の彼女は自然な振る舞いをしているのだろう。これが六谷朔夜なのだと思うと、とやかく言う気はなくなってしまった。不思議そうにクロに視線を向けている彼女へ、皺だらけのチケットを差し出した。朔夜は黙って受け取って封筒にしまった。

 廊下から足音が聞こえて、部屋の扉がノックされた。ドア越しに加藤が声をかけてくる。

「お夕飯の準備が整いました」

「すぐ行きます」足音がリビングに離れていくのを聞いてから朔夜に向き直る。

「まだちょっと目が赤いなあ。泣いてたってバレるかな?」

「先生もですよ」

「ま、いっか。泣いたらお腹空いた」

 二人の笑い声が混ざって心地よい音を奏でた。

 少女の笑顔一つで、クロは救われたような気がした。


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