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太陽の麓  作者: James N
7/10

 七月。学生は総じてテスト期間に入る。クロは卒論の進行を一時中断して自分のテスト勉強をする時間を作った。朔夜は放っておいても一人でテスト対策をできそうなくらい優秀だが、家庭教師という立場上そちらの時間を削るわけにはいかない。そして、絵に関してもコミックマーケットの印刷締め切りの日が迫っているので手を抜きたくない。早め早めに卒論を進めておいて正解だったと本当に思う。多岐に至っては就職どころかもはや卒業する気すらないのか、卒業制作関連に手を付けている様子がない。なんて自由なのだろう。

 あれからクロは今までの大学生活で最も精神的に充実した生活を送っている。朔夜の学業をサポートし、描きたい絵を一緒に考える。空いた時間は卒論と雑務、毎週土曜日の午後三時からサークル棟に集合して意見を交換する定期ミーティングを行い、また次の週が始まる。クロは朔夜に教えるために自分でも少しペンタブレットを試した。知識として分かっていても実際にやってみるとアナログとデジタルの筆の感覚の違いが酷く奇妙で中々思った線が描けなかった。しかしある程度描いてみるとデジタルで描くことの良さがはっきりと実感できた。特に描き直しが楽という点が大きい。少し失敗しても戻るボタンを押すだけでいいし、絵を多層化する機能を使えば、下書きの上に本線を描いて、そのあとで下書きを非表示にすることも出来る。今回はラフだけではなく色も自分で塗らなければならないので便利さがより実感できた。

 一方朔夜は順調に画力を伸ばし、人間だけならそれなりに見られるレベルで描けるようになっていた。デジタルへの適応も早い。朔夜の絵が発展していく様を毎週みせられたサークルメンバーは対抗意識を燃やし、過去最高のクオリティをそれぞれが発揮しようとしている。朔夜の絵はクロ以外のメンバーのアドバイスを吸収した結果、リアルなデッサンからは離れデフォルメされた絵柄に近づいていった。しかし、培った基礎に支えられた絵は初めからアニメや漫画の絵を描いていた人のものよりも一目で説得力が感じられる。まだ背景や衣服などに手こずっているようだが、自発的に物体のデッサン練習をして修正をしようと努力しているので改善されるのも時間の問題だろう。

 ここまで才能の差というのを感じたことはない。というより、鍵山も非常に優れた人物だったが、彼女とは別のベクトルの才能であった。クロの上位互換という感じだ。何度も彼女の絵を見ているうちに、まるで機械のようだとクロは思った。ひたすら新しい絵を描き続け、足りない部分を指摘すれば真っ先に修正しようとする。どれだけ描けばできるようになるのか分からない自分の弱点を飽きることなく追求し続け、必ず改善させる。高校時代のクロの比ではなかった。

 最も恐ろしい事実は、そんな朔夜を間近に感じているのに、嫉妬の感情が一切湧いてこないことだった。それに気付いたとき、クロは愕然とした。あれだけ打ち込んで、燃え盛るプライドを持っていた自分が、自分よりも優れたものを前にして悔しさや反骨精神を持てなくなっている。絵を描くことに対する姿勢がまるで変わってしまっていた。角を折られたカブトムシと同じだ。クロはその恐怖を受け入れた。彼女とともに前に進むことで、生まれ変われるような予感がしていた。

 七月半ば、続々と返却される朔夜の定期テストの答案の結果が軒並み高得点で鼻高々、意気揚々とマンションを出ようとした時、事件は起きた。

 その日は生憎の雨だった。時刻は午後七時過ぎで雲はほとんど黒に近い灰色だ。泣きたくなるような土砂降りではないものの、傘がなければ下着まで濡れてしまいそうな調子を六谷家の扉を出てすぐに目視し、面倒くさいと思いながらエレベーターに乗った。

 ロビーから自動ドアを通って外に出ようとすると、扉の外、呼び出し番号を押す機械の前に人が立っていた。深く被られた帽子からつやのある長髪が流れている。吸水性の高そうな半袖のシャツにジャージのズボン、大きなエナメルバッグを肩から斜めにかけている少年は、クロが扉を通り過ぎると黒ぶち眼鏡の奥からちらりと一瞥したが、この機に中に入る素振りを見せず、そのまま機械の前で立ち尽くしていた。普段ならば特に気にすることもないのだが、一瞬目が合ったときに見えた、少年の宝石のような瞳に見覚えがあったような気がして記憶の海に潜った。

 すぐに思いつかずに足は動き、そのまま外へ出る扉を押して出た。傘をさし、花壇の並びの間を通って敷地から出ようとしたところで、彼が何者であるかはっきりと思い出し、クロは大股で引き返した。クロが扉を引くと、出て行ったはずの人間が戻ってきたことを不思議がったのか、少年は先ほどよりもしっかりとクロを見た。

「ねえ、君」

 声を掛けると、少年は見知らぬ人間に対する警戒心からメガネに隠れるように顎を引いた。クロはなるべく怪しまれないように無害な声音を意識して話した。

「セカイ君、だったっけ。一度病院で会ってると思うんだけど。三月くらいだったかな。エレベーターの前でさ、圭一さんがいて」

 名前を言い当てたことで警戒が疑問にかわり、やがてクロのことを思い出したのか、ああと声をあげた。

「もしかして部屋の番号がわからないのかな」

「いえ、そういうわけでは。あの、ここで何をしてるんですか」

 ハスキーな声の質問は、やはりどもっていた。

「え? ただの家庭教師だけど。朔夜ちゃんの」

「そうですか」

 それきりセカイが口ごもってしまったので、扉に挟まれた狭い空間には気まずい静寂が広がった。クロはいたたまれなくなり、中に入らないのかもう一度聞いたが、セカイは中々要領を得なかった。

「まあいいや、朔夜ちゃんに電話するよ」

「待って下さい」クロがポケットに手を入れると、セカイは酷く慌ててクロに向かって一歩踏み出した。いきなり大きな声で制止されたのでクロはびっくりして目を丸くして間の抜けた顔をしてしまった。セカイは苦虫をかみつぶしたような表情をしたまま視線を漂わせ、溜めていた息を吐き出してバッグから白い封筒を取り出した。少し豪華なコーティングが施された封筒をクロに差し出して彼は言った。

「朔夜に渡して下さい」

「なにが入ってるの?」

「チケットです。スケートショーの」

「君が出るの?」

「まあ、はい」セカイは歯切れ悪く応えた。クロは封筒を手に取る。封がしてなかったので中身を取り出して見ると、『プリンス&プリンセス 氷上の夢』というショーのタイトルが金色に格好良くデザインされていた。出演者の所にある『遠藤世界』という名前を見て、彼がクロも知っているほどの有名人だと気付き息を呑んだ。同時に眼鏡や帽子は変装だということを理解する。

 他にも何人か見たことがあるような名前が四人載っている。どうやら関係者席らしく、公演日は今週の金土日、どの日でも入場できる特別チケットだった。今日は水曜日なので、随分とギリギリの招待である。封筒の中身を再度確認すると四枚入っていた。

 コミックマーケットは八月第二週の週末、印刷の締め切りは八月頭なので今は朔夜だけでなくサークル全体で追い込みをかけているところだ。幸い、朔夜のノルマはクロが直接指導しているおかげもありほとんど終わっているのでショーに行くくらい問題はない。しかし、クロはどうにも腹のあたりがざらついて、チケットを封筒に収めてセカイに返した。

「こういうのは自分で渡すべきだと思う」

「いや、でも」

 セカイが何事か言い返そうとした時、クロの背後で扉が開き、住人と思われる五十代くらいのおばさんが入ってきた。女性は特に二人を気にする素振りを見せず、鍵を使って自動ドアの中に入っていった。

 途切れた会話をどうしようかと迷い、そういえば、病室でセカイの話をしたときの圭一と朔夜の態度はおかしかったことに思い至る。事情がありそうなのでクロは話を聞くことにした。

「晩ご飯もう食べた?」

「え、まだですけど」

「立ち話もあれだし、いこうか」

 セカイは突然の誘いに面食らっていたが、クロがさっさと扉に手をかけると引き摺られるようについてきた。住んでいる場所を聞くと六駅離れたところだったので、帰りやすいように駅の近くで済ませることにした。眼鏡をかけているとほとんど気付かれることがないというので、その言葉を信じてファミレスに入る。

「禁煙席で」

 時間帯のせいか部活帰りの高校生が多く、半分ほどしか席は埋まっていなかったがひと際うるさい坊主頭の集団が異彩を放っていた。幸い彼らからは離れた席に案内された。四人席に案内され、ソファーに向かい合って座った。

「奢るよ」

「いいんですか?」

「当たり前でしょ」クロは苦笑する。

 彼も本気で聞き返してはいまい、払うつもりだけど歳上のあなたが言うなら奢られます、という儀式のようなものだ。それに、彼は十分稼いでいるだろうから、クロの顔を立ててくれただけだ。彼はカロリーを気にしているようでいろいろ迷っていたが最終的にはカレーを頼んだ。スポーツは食事からと聞いたことがある、恐らく油物などは控えているのだろう。お互いにドリンクバーで飲み物を確保すると、ようやく落ち着いて面と向かった。

「まさか君があの遠藤世界君だったとは、病院じゃ気付かなかったよ。あ、ごめん、こういうの嫌いだったかな」

「平気です」優しく甘い顔立ちは居心地悪そうにしているが不快を感じている様子はない。氷上の貴公子と呼ばれるだけあってクロの反応は軽く受け流せている。

 クロはフィギュアスケートにあまり興味がない上にテレビもほとんど見ないのでよく知らないけれど、遠藤世界という名前をインターネット上で見かけることはままあった。十七歳の現役高校生で去年の全日本フィギュアスケート選手権優勝、世界選手権銅メダルの若き新星。

 朔夜も業界では有名だったと圭一が自慢げに話していた。病室に足を運ぶくらいだ、それなりに親交があったのだろう。確かにセカイが朔夜の彼氏だったら大変なことだなと、今になって圭一の言ったことを理解した。クロはちょっとした悪戯心、好奇心でかまをかけることにした。

「で、朔夜ちゃんとは付き合ってるの?」

「は? いや、違います、けど」

 けど? 何かありそうだな、とクロは予感する。

「僕は昔の朔夜ちゃんのこと何も知らないんだ。話したがらないからね。聞く必要もないと思ってる。でも君がチケットを直接渡さない理由は気になるなあ。もっともな理由があるならここで受け取ってもいいけど」

 セカイはテーブルに視線を落として黙っている。話したくないならいいよ、と言ってクロはコーラをストローで啜った。本当はめちゃくちゃな好奇心に脳内を支配されていたが、あえて反対のことを言うことでなんとか自制した。

ただ座っているだけなのに、セカイは不思議な魅力を漂わせている。一芸に秀でた者の佇まいとでもいうのだろうか、自分よりもよっぽど広い世界を見ている目の前の少年はファミレスでは浮世離れしているようにすら感じた。

 やがてセカイは重い沈黙を破った。

「あいつの事故、俺のせいなんです。だから合わせる顔がないんです」

 予想以上に重苦しい話にクロは慌てて胃を縮めた。

「ちょ、ちょっと待って。それ話していいやつ?」

「話せって言ったのはあなたですよ」

 強制はしていないのだが、せっかく語る気になったセカイの出ばなをこれ以上くじくのは良くないと思い口を噤んだ。セカイは細長い鼻で小さな音をたてた。

「朔夜とは小さい頃からホームリンクが一緒でした。お互いに同世代の中では目立つ方だったので結構喋ったりしてたんですけど、高校生になったらだんだん遊びに誘われたりするようになって、ああ、俺のこと好きなのかなって思ったんです」

 言葉だけ捉えれば酷くナルシストな人間に聞こえるが、実際彼は常人の領域を超えているわけで、話す姿勢にも気取った雰囲気は一切ない。純粋に感じたことを話しているのだろう。

「でも俺、高校の先輩と付き合ってて、それを黙ってたんです。一応マスコミに気をつけようってことで」

「大変だなあ」クロが言うとセカイは頷いて続けた。

「元々誰にも言わないつもりでした。それにあのときあいつ絶好調だったし、大事な大会が控えてたんで、余計なこと言って調子崩したくないなって。言おう言おうと思ってるうちにどんどん大会の日が近づいてきて、余計に言い辛くなって、でも今思えば、あいつに言いよられるのが気持ちよかったんだ。そうじゃなきゃ一緒に遊んだりしない」

 セカイの表情は自嘲気味に歪められ、声は懺悔をするように静けさを孕んでいた。クロは彼の語りの独特な引力に引き込まれ、ファミレスにいることを忘れて聞き入っていた。

「そしたらある日、見せたいものがあるってホームリンクに呼び出されたんです。お互いにオフの日のはずでした。俺はなんとなく、その日告白されるような気がしてました。約束の時間に行くと、朔夜はもう着替えてて一人で滑ってました。あいつ、俺に気付いて、音楽なしで踊りだした。見たこともない演目だった。凄く綺麗で、あの後告白されてたら、俺なんて答えたんだろう」

 そう言ってセカイは苦笑した。

「結局、あいつはジャンプで失敗して気絶。一緒に救急車に乗ってる時はそんなに心配してませんでした。大したことないだろうって思ってた。なのに半身不随なんて……」セカイは右手で前髪をかきあげ、頭を抑えたままテーブルに肘をついた。

「事故のすぐ後に見舞いに行こうとしたら面会謝絶だって言われて、あとになって自殺しようとしたって聞きました。怖くなって逃げたんです。もう一年近く経つのに一回も会ってない。自分のことで一杯いっぱいだった。三月に病院に行ったのだって、あいつの親父が連絡してきたからだ。最低ですよね」

「なるほどねえ」クロは頷きながら、奥歯に感じているむず痒さの理由を探した。彼に会ってからずっと感じている。彼の話は真実だろう。しかしクロにはどうもしっくり来なかった。クロはそんな胸の内をおくびにも出さずに自然な口調で言った。

「仕方ないさ。君の肩にかかっているプレッシャーは僕には想像もつかない。目の前のことに集中するのは当たり前だよ」

「みんな、俺のせいじゃないって励ますんですよ。そんなの俺だって分かってる。でも、もし彼女がいるってみんなに言ってたら、あいつは俺を呼び出したりしなかったかもしれないじゃないですか」

 セカイは若干の卑屈さを声に潜めた。クロは何となく、朔夜ならそれでも告白しようとしたのではないだろうかと思った。しかしセカイにとっては、自分の行動で事故を回避できた可能性が少しでもあるというだけで責任を感じることなのだろう。

「それで、どうして今になって会いにきたの? 病院の時は結局会わなかったみたいだけど」

 セカイは少し考えるように目を斜め上へ逸らして言った。

「自分が有名になっていくほど、あいつの夢を壊したつけが回ってくるような気がするんです。どんな顔して会えばいいんですか? 君は半身不随だけど俺はばっちり活躍しておまけに彼女とよろしくやってますって、最悪だ。でもこのままじゃ良くないって思って、せめてあいつの分まで頑張ってるところを見せてやろうと決めたんですけど」

「足が竦んじゃったか」

 こんな場所で嘘をつく必要もないので本当のことだろう。彼は一見すると心優しい少年だ。そして彼の話は多くの人が同情する美しい懺悔だ。だがその一方で、クロの考えに厳しい側面が見え隠れし始めた。

 彼に出来るアドバイスは一つだけだ。そこまで自己嫌悪しているならさっさと謝りにいけばいい。それ以外に方法はない。なのにそうしないのは何故か。

 実際問題として朔夜の事故の責任は彼にはない。だからそれを追求する人もいない。クロに語った心境を何人に告白したのかは知らないが、その中にも彼の自己満足を追求する人はいなかったのだろう。それこそ、余計なことを言ってコンディションを崩されたらたまったものではないからだ。彼は勝手に思い込んで、謝りたいけど合わせる顔がないなどという堂々巡りの解答の中で自分の首を絞め続けているだけだ。謝りたければ謝ればいい。

 そう単純な問題でないことも理解している。クロに当てはめて考えるなら、絵を描きたいなら描けばいい、というようなものだ。だからクロは彼の背中を後押しするようなことは何も言わないことにした。クロは朔夜のことを第一に考えると決めている。今の彼女にスケートの話題は御法度だ。出来れば彼を遠ざけておきたいとすら考えている。

 クロは気持ち声を潜めて言った。

「セカイ君、朔夜ちゃんが自殺未遂をしたことは知ってる?」

「ええ、風の噂で。今は大丈夫だって聞きましたけど、本当ですか?」

 クロはテーブルに両肘をついて胸の高さで手を組んだ。

「僕の目から見ても、今の朔夜ちゃんは大分落ち着いてる。事故の前の彼女を知らないけど、元気に見えるよ。でも、以前スケートの話をしようとしたら、二度とその話はするなって言われた」

 セカイは車の前に飛び出してしまった猫のようにクロを見て硬直した。クロはなるべくオブラートに包んで思惑を見せず話すように演じた。

「チケットを渡したいなら自分で渡してほしい。僕は止めない。でも、個人的には、僕は君と朔夜を会わせたくない。正直何が起きるか分からないからね。発作みたいな症状が出るかもしれない。あの子は新しい生活にやっと慣れてきたところなんだ。新しい目標を見つけて頑張ってるし、僕はそんなあの子を応援してる。あんまり昔のことを気にして欲しくないんだよ」

 これは素直な感想だ。クロ達はコミケに向けて一丸となることで日々を充実させている。そこに水を差すような真似はしたくない。もちろん、彼の行動を止める権利はクロにはない。しかし彼女のことを思って釘だけは指しておく。

「そう、ですか」セカイは呼吸困難に陥るかのように絞まった喉から声を絞り出した。

 完全にお通夜のような空気になったところで、注文した料理が運ばれてきた。

「ま、食べようか」クロがわざとらしく明るい口調で言うと、セカイは力なく笑った。

 食事をしながらした話は先ほどとは打って変わって楽しいものだった。スケート業界の事情や選手同士の恋愛の噂など、一般メディアに流出すれば大変なことになりそうな話を次々と話されるので、クロはセカイの緩い口が心配になった。暗い話題の反動で場をお互いに盛り上げようとしたのかもしれない。

「昔の朔夜ちゃんってどんな感じだったの?」クロが何気なく聞くと、セカイは少し目を細めてためらう表情をしたが答えてくれた。

「負けず嫌いで、誰よりも練習してました。いつも一番であろうとしてて、スケート馬鹿だった。みんなに慕われてたと思います」

「ああ、やっぱり。負けず嫌いだよなあ」非常に納得がいったという風にクロは頬を上げた。

「コーチの教えだからっていっつも出した課題より多くやるんだよ。おかげで予定表作っても全部無駄になる。今じゃ最初から余分にやってくる分考慮して予定組んでるよ」

「変わってないんだ」

「そう簡単に変わらないよ。あの子の場合簡単で済ませられることじゃないけど、変わらなかったのは強かったからだな。凄いよ、本当に。何度も驚かされた」

 クロは朔夜と出会ってからの日々を思い出しながらしみじみと言った。初めは彼女が絵を描くことに期待なんてほとんどしていなかった。ただ自分の気を紛らわしていただけだった。それが今では、逆にクロが巻き込まれているのではないかというほど彼女は絵を描くことに熱中している。クロにとってこの数ヶ月は忘れ難い思い出となって刻まれた。

 彼女はもう絵を暇つぶしで描いているわけではない。その事実がクロを満たしてくれている。

 ふと、この日々が終わったときのことを考え、少なくない寂しさがクロを襲った。緩んでいた頬が強張っていくのをごまかそうとして、クロは皿を空にすることに集中した。

 クロ達は同じ方面の電車に乗った。セカイはクロよりも先に下車するのでそこで別れる。ファミレスを出てからはほとんど中身のある会話はしなかった。車内はくたびれたサラリーマンやOLで溢れていて話し声は聞こえない。クロ達は並んでつり革につかまり、真っ黒な窓に写る姿をぼんやりと眺めていた。隣に立っているのが世界に羽ばたくスケート選手だというのに、乗客の誰も気付かないのは中々面白い感覚であった。

 クロは、セカイのことをテレビの向こうの存在としてではなく一人の血の通った人間として認識できるようになっていた。この地球上で生きている人間は同じ時空間に生きている。ハリウッドスターも、オリコン一位の歌姫も、メキシコの麻薬王も、皆等しく時間を消費して生きている。彼らは今この瞬間にも撮影をしていたり、ライブをしていたり、もしかしたら大きなバスタブに身を預けているかもしれない。言葉にすれば当たり前のことだ。その巨大なスケールのほんの一端を、クロは初めて捉えた気がした。

 クロが窓に写っているセカイの顔をじっと見ていると、それに気付いたセカイは一瞬だけ目を合わせてすぐに視線を泳がせた。

 彼は、多分、チケットを渡さないだろう。渡したとしても朔夜は行かない、そんな気がした。それでいい。

 眩しいホームが窓から車内の人間を消し去った。あと二駅でセカイが降りる駅だ。

 本当にそれでいいのか?

 やけにうるさく感じるドアの開閉の音を聞いているとき、その迷いはやってきた。クロは降って湧いた問いかけの訳を探して急速に思考の渦に落ち窪んでいった。電車と一体になり、つり革に捕まる掌から揺れる車内でバランスをとっている足の裏までが、つり革と床を繋ぐ一つの器官のようになった。目線は真っ暗な窓、しかし見ているのは頭の中で次々と浮かんでは消えるイメージだ。

 朔夜のためを思えば受け取る理由などないのに、もやもやとした違和感が消えない。

 朔夜がチケットを受け取らないことを望んだのはなぜだ。朔夜が取り乱す可能性があるから? それはそうだ。当然だ。

 いや待て、おかしい。

 チケットを渡したくらいで朔夜は取り乱すのか? 自殺未遂をしたのはもう随分前のことだ。四月頃にクロが失言をしたとき朔夜は確かに怒ったが、医者から大丈夫だと言われている以上、朔夜自身もある程度現実を受け止めている。もう二度と直面したくないから避けていただけだ。それにここ最近の彼女は病室で会った頃よりも元気を取り戻している。いきなりスケート場に連れて行く訳ではないから心構えも出来るだろう。では朔夜がショックを受けるかもしれないという理由でクロがセカイの行動に干渉するのは理由としては弱い。

 他にも理由はある。クロ達は今忙しい。学期末テストにコミケの仕上げ作業、やることは山積みだ。

 そう考えて、はたと気付く。

 朔夜の進行ペースが早くて余裕があるのは自分でも分かっていたはずだ。なぜ今更もっともな理由としてこじつけているのだろう。

 クロは思考の海に浮かぶ船の針路を決めて真っすぐに進み始めた。

 余計なことをされて調子を崩してしまったら困るということか。なぜ困る。トラウマを思い出して弱っている朔夜を見たくない? それもある。ではそんな朔夜の姿を見たくない理由は? 誰だって近しい人が苦しむところを見たいとは思わない。つまりエゴということか。

 エゴだとしても、朔夜のためを思うなら、避けられる苦しみは避けた方がいい。現実逃避でもいいから絵を描いていけばいい。それの何が悪いのだ。

 違う、そうだ、それこそがエゴだ。朔夜のためなどと抜かしておきながら、結局は朔夜が他のことに気を取られるのが気に食わないだけだ。朔夜の決定的なところに土足で入り込んで嫌われたくないだけだ。

 電車が次のホームに着いた。あと一駅。思考が滞っているせいで呼吸まで不規則になって胸のあたりが苦しい。数学の問題で解を出したのにその答えに納得していないときと似たような感覚だった。 

『現実逃避に使ったっていい。今は無理でも、時間が解決してくれることだってある』

唐突に自分の言葉が思い出され、クロは強い衝撃を感じて音を立てて息を吸いながら猫背気味だった首を勢い良く起こした。あのときのやり取りが、現在のクロの脳内に違和感をもたらし続けているという確信があった。クロは記憶の海に碇を下ろし、既にあるはずの答えをサルベージしようと躍起になった。

 自分の人生をかけて挑戦していたことを忘れることなど出来ないし、なかったことにはならない。あの日々で培った価値観や能力は今もクロの中に息づいている。それは朔夜だって同じはずだ。その証拠に、クロは彼女の中にコーチの教えが生きているのを目撃している。

 二ヶ月前、クロは現実逃避による問題の先送りのしわ寄せに襲われた。もっと前、雑誌の表紙を飾る美しい絵やふとした拍子に目にしてしまうデジタル絵など、クロは絵を描かないと決めてからも日常の中で絵を感じていた。そうして溜まった鬱憤を朔夜に教えることで発散し、それを長島に見抜かれて自覚した。どんなに目をそらしても、血肉の一部となった人生を切り捨てることなどできない。

 クロ自身、あの言葉が気休めであると理解していた。時間が解決してくれなかったからこそクロは長島に気付かされたのだ。

 長島の怒れる表情を思い出した瞬間、クロの思考が爆発的な加速を見せた。記憶の海の仄暗い底にある淡い光りへ、纏わり付く水圧を思考のスクリューが弾き返して落ちていく。

 そう、クロにとって解決の糸口は長島であった。では……

 朔夜にとってのセカイはクロにとっての長島になり得るのではないだろうか。

 答えだ、クロはお腹から顎にかけてアリが這い上がってくるかのような気持ち悪い快感を覚えた。なおも思考は先へ続く。

 セカイはチケットを渡さない。クロが釘を刺してしまったし、そうでなくとも彼は最後の一歩を踏み出せずにいた。セカイがチケットを渡さなければ、せっかく訪れたチャンスを棒に振ることになってしまう。

 自分の過去と向き合うチャンスを、である。

 真に朔夜のためを思うなら、例え憎まれようと、コミケがご破算になろうと、関係が壊れてしまおうと、向き合う機会を奪い取るべきではない。いつまでも過去のしがらみを克服できないまま生きることの無意味さをクロは知っている。そうして毒されて生きてきた時間の長さだけ灰色に近づいていくのだ。

 彼女だけは、灰色にしない。この手で輝かせると決めたのだ。

「それじゃあ、今日はごちそうさまでした」

「……あ、うん?」

 いつの間にか電車は駅のホームで停まっていた。空気圧の抜けるけたたましい音がして、電子音とともにガコンと扉がスライドしていった。

 腹には相変わらずアリの大軍が蠢いていて、つり革はクロの手汗でびしょびしょになっていた。急に現実の状況を理解して、まるで幽体離脱から復帰したかのような感覚に目眩がした。

「では」

 セカイはぺこりと頭を下げて降りる人の流れに乗って外へ出て行ってしまった。クロは引き止めるために膝を動かそうとしたが、固まっていた身体と激しい運動をしたあとのようにほぐれた思考のギャップがスパークして、呼吸を止めたままセカイの後ろ姿を見送った。なぜ引き止めなければならないのかすら忘れて、思考も景色もホワイトアウトしそうだった。

「待っ」

 刹那の後、呼吸を再開したクロは、あれだけ一体化していたつり革と床の接続面を引き剥がして、閉まりかけているドアに突撃した。身体一つ通れるかという隙間に右脚を投げ出して差し込み、両手で扉を強引にこじ開けようとしたところで、駅員の操作により扉が再度開いた。勢い余ってホームにもんどりうつ。

 周囲の視線があまりにも痛過ぎて泣きたくなったが、それらを無視して左右を見渡し、もっとも近い階段へ駆けた。

 でかいエナメルをかけた少年の背は今まさに階段を登って階上へ消えていこうというところだった。頭髪の薄い壮年の会社員らしき男性を申し訳ない気持ちで押し分けて身体をねじ込み速く登ろうとするが、人の流れが邪魔して中々進まずに足だけを踏み鳴らす格好になった。階上に出るや否や再び駆け出し、セカイの五メートルほど後ろまで追いついたところで名前を呼んだ。

「どうしたんですか?」セカイは酷く驚いて白目の見える範囲を広げた。クロは少し乱れた息を一呼吸で落ち着かせてから言った。

「気が変わった。チケット、渡すよ」

「ええ?」

 彼にとっては天地をひっくり返された気分だろう。チケットを渡す決心をしてマンションまで足を運び、決心が鈍ったところでクロに制止され、どこか安堵を含んだ諦めの気持ちの中で改札を抜けようとしたら再び心構えが必要な事態になりそうなのだから。

「でも、朔夜は会いたくないんじゃ……」

「そんなの渡してみないと分からないし、そもそも僕らが決めることじゃないと思ったんだ。誰だって自分の知らないところで勝手に決めつけられるのは嫌だろう?」

「そう、ですね。じゃあ」セカイは掌を返したクロの物言いに釈然としないながらも、鞄からチケットの入った封筒を取り出して差し出した。クロは受け取って自分の肩掛け鞄にしまいながら言った。

「必ず連れてくから、君は全力で踊ってくれ」

「はい」セカイは凛々しい瞳で頷いた。

 クロが手を差し出して握手を求めると、セカイは少し照れながら握り返してきた。


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