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完全に体調が快復するのに週末を丸々費やしてしまった。家庭教師も休みを貰って調子を戻すことに集中した。数日部屋にこもるだけで酷く身体がなまった感じがする。歩くだけでも力の加減がおかしくなっている気がした。
しかし、部屋は綺麗に片付いている。加藤が様子を見に来て、そのついでに溜まっていた家事を一通りこなしていってくれたのだ。おかげで洗濯物は綺麗に畳まれ、冷蔵庫には日持ちのする料理が詰め込まれている。加藤が居なければ辛い思いをして買い物に出かける羽目になっていたことを考えると、しばらく頭が上がらない。
本日、週明けの月曜日、クロは大学から二駅離れた場所にある喫茶店に来ていた。店内の座席は半数近く埋まっている。微妙な混み具合だが、平日の昼間にしては多い方だろう。デザートが美味しいと評判で女性やカップルが多い。そんな中に一人で座り続けるというのは居心地が悪いものだが、クロが落ち着かないのは他に理由があった。
どうして無駄だと分かっているのに腕時計をチェックしてしまうのだろうか。一分おきに時間を確認、スマートフォンに連絡が来ていないか確認、大きなガラス窓の外を人が通り過ぎるたびに視線を走らせ、アイスコーヒーを口に含む。
待ち合わせの時間は既に十分過ぎている。普通ならこの程度の遅刻はよくあることなのでここまで神経質になることはない。問題は、誘った相手から返信がきていないことだ。これはもうこないと判断するのが当然の状況でここに居ること自体が無駄にも思えるのだが、クロはほとんどヤケになって待ち続けていた。
というのも、クロが誘ったのは長島なのだが、彼女はお菓子が好きなので少しおしゃれなお店に連れて行ってご機嫌をとりつつ仲直りしようと算段したわけだった。どうやらこの程度の貢ぎ物に釣られるほど彼女との溝は浅くなかったようだ。
待ち合わせ時間を少し過ぎた頃に店に居ることを連絡した。あまり何度も連絡すると付き纏っているようで気持ち悪いので、これでしばらく待ってこなければ帰ろうと決めたのだが、いざ待ってみると、何故こんなことをしているのか、何故無視されなければならないのか、などと不満が蓄積していくのであった。
ちなみに長島に他の予定がないことは九割分かっている。彼女は大学の講義がある日に他の予定を入れないと公言している。というより、一日に二つ以上外出の予定を作らないのだ。そして今日は午前中に同じ講義に参加していたはずなので、今頃はサークル棟か、帰路についているかであろう。自分の作品の作業があるだろうから恐らく後者だ。ということは既にこの辺りにはいない。あるいは予想が外れて他の予定があるか。
とりあえず、三十分を過ぎても来なければ帰ろうと決めて窓の外をぼんやりと眺める。
平日の午後の冴えない日差し。少し風が出てきたのか、狭い通りを歩く人達の服や髪が棚引いている。三人の若い女子グループがクロの視界の後ろから窓の外を歩いてきて、オシャレな格好をしているからきっとこの店に来たのだろうなと考えていると、案の定入口の扉が開いて外の音が紛れ込んできた。大学生くらいの女子達はクロの座る席のすぐ近くに案内され着席した。口々に鬱陶しい春風の愚痴を言いながらメニューを開き、飲み物を決めていく。楽しそうな彼女達を横目に見ていると、今更自分の人間関係の乏しさに一抹の寂しさを覚えるのだった。最も気の合う上杉ですら就活で忙しく碌に連絡も取っていない。そのうち就活に疲れたと言って飲みに誘われるようなことがありそうだ。
思えば母が死んでから色々なことがあったのに、大学に入ってからの記憶の濃度は酸味だけが残ったカルピスみたいに薄かった。新しい友達、サークル、講義。思い出そうとすればいくらでも出てくるのに、本気で取り組んだと胸を張って言えることは何一つないように思えた。他人との接し方も可もなく不可もなくといったところだ。
長島との口論は恥ずかしいものであったが、あんな風に率直にものを言われたのは久しぶりだったので、受け答えをごまかしてしまったのは申し訳ないと思っている。今日はその失態を取り返すために、ここ数日床に臥せて考え続けた自分の本音を言おうと思っていたのだが、どうやらそれもしばらくお預けらしい。
いよいよ三十分に差し掛かり、クロは諦めて店を出た。生暖かい風に肌を撫でられ、これは確かに鬱陶しいなと思いながら駅へ向かおうとしたとき、後ろから名前を呼ばれた。
「あれ」
「何その反応は」
「いや、来るなら連絡してよ」
「何それ、仲直りするつもりあるの?」
「ほうれんそうは大事でしょ」
「ほうれんそう?」
濃紺のワンピースを着た待ち人はこれ見よがしに溜め息をついた。虫の居所が悪いから無視してやろうとしたけれど、意外にも根気強く待たれたので来てしまった、連絡を返したら負けだと意地を張った、そんなところだろうとクロは察した。
ついさっき会計を済ませた店にもう一度入るというのは忍耐力が試される。店員の視線を受け流しつつ、さっきとは別の席に案内された。流石の長島もこんな場所で体育座りはしなかった。メニューを開いて十秒もしないうちに長島が眉を顰める。
「ちょっとこのお店大丈夫なの?」
「何が」
「メニュー読めないんだけど。シュー・ア・ラ・クレームって何よ。どうみてもシュークリームなんだからシュークリームって書きなさいよ。てか八百円、たっか! 拡大写真じゃリアルな量わかんないじゃん、詐欺だ」
「意外だな、こういう店慣れてるのかと思ってたけど」
「私が好きなのはこんな通ぶったスウィーツじゃなくて、ジャンクなおやつなの」
馬鹿にしたように強調して言われたスウィーツという言葉に、近くの席に座っていた女性グループの一人がチラっとこちらを見た。しかし長島からは見えないのでクロだけがプレッシャーに晒されることとなった。
「じゃあ何も頼むなよー」
「頼まないとは言ってない。奢るっていうから来たのよ」
「良識の範囲でよろしく」
もっとよそよそしい会話になってしまうかと気を揉んだが、案外さっぱりした性格をしているようだった。根暗で考え事が多いクロが言うのもおかしいが、長島は少し陰気な雰囲気があるのでネチネチとした性格のイメージがあった。そんな長島の別の一面を今になって知るとは、ますます希薄な人付き合いをしてきたのだと自覚されて悲しくなる。
クロは一先ず安堵してメニューを見渡し、アイスコーヒーとチーズケーキに決めた。長島は舌を噛みそうな名前のスイーツを頼んだ。互いの飲み物が運ばれてきたところで、長島が本題に入る。
「で、話って」
クロはアイスコーヒーをストローで一口飲んでから言った。
「この間の話の続きだよ。長島に言われてから色々考えたんだ。それで、ま、認める。絵は好きだ。だけど、俺はやっぱり絵描きの道は目指さない」
「そんなこと言うために呼び出したわけ?」長島は冷めた不満を顔に出した。
「あの時はお互い冷静じゃなかったろ。意地張って否定しようとしてたし、まあ、できなかったんだけど。安定をとるっていうのが言い訳だっていうのも自覚したよ」
「言い訳って?」
「夢を諦めるための言い訳」
「ふーん。でも、今まで貫いてきた意見なんだから、一応本心でもあったんじゃないの? 二つ本心があってもおかしくないでしょ、人間ってそういうものだと思う」
「うん。でも、家族がどうとかそういうのは、自分の夢を叶えることには関係ないと思うんだ」
長島はクロがこれから持つ家庭の話だと思っているであろう。しかしクロは母親のことを言っているのだった。
そして朔夜を思い浮かべながら言った。
「どんなに辛い境遇でもやる気を失わない人だっているんだから、結局は甘えてたんだ。それに気づいたと言うか、気づかされたと言うか、この間のあれでね」
あの少女は強い。一度は自殺も考えるような絶望的な状態から自力で這い上がり、クロが手伝ったとはいえ新しく打ち込めるものまで見つけた。何年も腐って、しかも自分が腐っていることから目を背けていたクロとは違う。
「ほんと、ストイックよね。でもそれが分かってて絵描きをやめるって、自分の甘えを許しちゃうわけ?」
長島から目をそらして店の内装を見ているのか見ていないのか、視線を漂わせる。彼女のもっともなツッコミに対してクロは明確な答えを見出すことが出来なかった。
「さあね。でも、はっきり分かるのは、今すぐ絵描きの人生を再スタートするには、気持ちの整理がついてないってことかな。何でこんなに踏ん切りがつかないのか、自分でも不思議なんだ」
背もたれに気だるくよりかかったまま長島に視線を戻す。
「例えば、けんか別れした友達や恋人の良いところを今も覚えていたりするだろ。でももう一度付き合おうとは思えない。何故か分からないけれど、一度亀裂が入れば元には戻らない。それを乗り越えて強く結ばれる場合もあれば、そのまま二度とあわないことだってある。どちらにしても全く同じ関係には戻らない。それと一緒だよ。多分これが挫折なんだろうな。で、俺は今立ち直ってる途中なんだ」
長島は黙っていたが、不満そうにカップに口を付けた。クロはすべて見透かされているような気がして、この期に及んで取り繕っている自分が情けなくなった。
「いや、これも言い訳だな。ほんと言い訳だらけだ。かっこ悪い」
はあ、と長島が溜め息を吐く。
「ごめん、話が逸れた。それで、長島は続けるか辞めるかはっきりしろって言ったけど、俺は別の考えにたどり着いたんだ。ダラダラ教えるのはやめる。本気で今教えてる子に向き合うって」
長島の表情が何が言いたいのかと聞いている。
「今更だけど、最後に自分が絵描きをやっていたっていう証拠が欲しくなったんだ。引退作を描き直すことも考えたけど、それよりも今目の前にある才能を輝かせることに本気になりたいって思った。そうしたら、ちょっとは自分も変われるような気がするからさ。それで、えっと」
クロは言葉を区切って深く呼吸した。
「もし長島が何も言ってくれなかったら、俺はあのまま自分を納得させて、家庭教師もなんとなくで卒業してたかもしれない。あー、何が言いたいかというと……」
羞恥で頬を引きつらせながら、それでもクロは頭を下げた。
「怒ってくれて、ありがとう。今日はそれを言いたかった」
長島は頬に血を上らせて口元をほどくように歪ませた。そして十分過ぎる間を置いて言った。
「よく、そんなクサいセリフ言えるね」
「本心だからな」そう言って照れ隠しにアイスコーヒーを口へ運ぶ。
「……あっそ」
長島は投げつけるように強い口調で言うと、大きく溜め息を吐きながらテーブルに突っ伏した。アイスコーヒー片手にその頭頂部に向けて言った。
「それで、頼みがあるんだ」
「何よ」モゴモゴと腕の隙間から返答する長島。
クロが話そうとすると、若いウェイトレスが皿を手に近づいてきた。
「チーズケーキのお客様」
長島がぬるりと起き上がる。クロが片手を上げて示すとウェイトレスはコトリと皿を置いた。そして長島のスイーツも置いた。クロはこのウェイトレスが長島の頼んだスイーツの名前を噛まずに言えるか聞いてみたかったのだが、彼女は先にチーズケーキの注文者を特定することで長ったらしい商品名の音読を回避する高等テクニックを備えていたようだ。
ウェイトレスが去るのを待って長島が口を開く。
「頼みって?」
「教え子の描きたい絵が俺の教えられる範囲を超えてるんだ。だからちょっとアドバイス貰えないかなと」
「シムロだっけ。あの人は次元が違い過ぎて私にも教えられないと思うんだけど」
「一人よりは二人の方が多角的に問題点を指摘できるでしょ」
「うーん、まあいいけど、そんなに期待しないでね」
「ありがとう」クロは心から礼を言った。
しばらくスイーツを味わい、互いに味見し合ったりして雑談したあと、長島が聞いた。
「そういえば教えてる子ってどんな子なの?」
「ちょっと説明しにくいんだけど」
クロは少し迷ったが、朔夜のことを話した。下半身不随の元スケート選手というのは衝撃的だと思うのだが、長島の反応は薄かった。実際に会っていないのだからそんなものだろうか。別段、自分も朔夜のそう言った部分に衝撃を受けたわけではなく、母親のことを引き摺っていたことが原因で特殊な第一印象になっているだけだったな、とクロは思った。
「あんまり真面目にやってくれるもんだから、教える方にも熱が入っちゃってさ。だから人に描かせて自分の気持ちをごまかしてたのもあるけど、単純に教えるのが楽しかったんだよ」
「へぇー。じゃあ上手いの?」
「かなり。教えてからひと月くらいしか経ってないけど、もうスケッチブック一冊、デッサンで埋まってるよ。元々落書きとかしてたのかもな。最初から筋は良かった」
「写真とか持ってる?」
「生徒の?」
「絵の」
「ああ、持ってないなあ」
「そっか。でもクロが上手いって言うってことは、相当ね」長島はフォークで最後の一口を刺しながら言った。
「上手いと言うか、確実に上手くなる。努力の天才だよ。努力を努力とも思ってない」
「羨ましくて死にたくなるわあ」
胸に空気を引っ掛けたような苦笑いをしてしまった。その才能は世界中の誰もが欲しがる力だ。間近で彼女の潜在能力を感じ続けているクロとしては嫉妬の気持ちもあるが、それは純粋な尊敬に変わりつつあった。
「ああー、負けらんないわー」
脱力してふーっと息を吐く姿は、小さな体躯に高まり過ぎたやる気の圧力を減圧する圧力鍋のようで、ちょっと面白かった。やる気というのはあり過ぎても空回りするもので、バランスが重要だと思う。モチベーション管理の出来る安定した人間はどんな業界でも重宝される。プロの業界で継続して求められるレベルの結果を出し続けることがどれだけ難しいか、次々と現れては消えていく人の流れを見ていればよくわかる。そして朔夜は、その流れに淘汰されない種類の人間としてクロの目に映っている。
ストローの先を凝視しながらそんな思いに耽っていると、ほっそりした手が視野を遮ってゆらゆら左右に揺れた。
「おーい」
「あ、ごめん、聞いてなかった」
「あのね」
長島は挑戦的に歯を見せた。
「ちょっと良いこと思いついたんだけど」
■
土曜日の昼過ぎ。クロは朔夜を連れて大学まで来ていた。叩いた門は例のごとく総合美術研究会。扉を開けると、今回のコミケに参加する上杉以外のメンバー全員が揃って入口に視線を集中させた。
「きたよー」
「こ、こんにちは……」
車椅子の上でぺこりとお辞儀した朔夜は慣れない場所にかなり緊張して縮こまっていた。高校生にとって大学など文化祭で訪れるくらいだ。数年しか歳が違わないのに、とても大人の集団に放り込まれたような感覚がしていることだろう。ここに居る人達は受験という大きな壁を乗り越えて入学しているという事実がそう錯覚させるのかもしれない。
対して、サークルメンバーの反応は相変わらず騒々しいものであった。
「何この可愛い生き物ー!」多岐が朔夜を見るなりハイテンションな叫びと共にドタバタとパイプ椅子から立ち上がり寄ってくる。ずいっと朔夜に顔を近づけ、赤い眼鏡の奥のまんまるな目で見つめだした。それなりの巨体なので圧迫感が半端じゃない。とんでもなく失礼なやつである。
「うっは、むっちゃ美少女じゃないっすか!」
森次が鼻息荒く多岐の後に続いて椅子を鳴らした。俗物的な反応だが彼の興奮も頷ける。今日の朔夜は加藤の粋な計らいによって服装から化粧まで完全装備なのだ。長い黒髪は美しく後頭部で束ねられポニーテールとなり、夏の足音を感じさせる爽やかな色合いのワンピースで足首まで覆っている。来る時に車椅子のタイヤに絡めないように気を遣った。
「森次キモい」
「ひでえっす」
森次のニヤニヤとした気色の悪い顔を一発叩いてやりたいが、長島が言葉攻めしてくれたので許してやる。こいつもとんでもなく失礼なやつである。
多岐をどけて部屋の奥に進み、窓を背にしたお誕生日席に案内してやる。狭い部屋なので車椅子で移動するのは少々大変だ。右奥から三戸、長島、多岐、左奥から篠山、森次の順で座っている。朔夜から見て左に三戸、右に篠山がいる位置だ。クロは朔夜の隣にパイプ椅子を持ってきて座った。朔夜の様子を伺うとすっかり気圧されて全身の筋肉を強張らせていた。クロは慣れているので気にしなくなっていたが、冷静に考えるとこのオタクども、特に二名はかなり絡みづらい性格をしている。根が悪いわけではないので心配はしていないけれども、慣れるまで時間がかかりそうだ。
カチコチになっている朔夜が、テーブルに置いてある数枚のスケッチに気付いてビクリと身体を震わせた。
「あれ……なんで!」朔夜は混乱した泣きそうな目でクロへ振り向いた。
それらはすべて朔夜が描いたものであった。家に持って帰って添削すると嘘をついて事前に借りたものを長島に又貸ししたのである。そして今日、クロ達が来る前に全員でこれらの絵について話していたのだ。
「先生」混乱から怒りが湧き上がってきているのが見てとれる。裏切られたと思っていることだろう。しかしクロは悪びれずにしれっと言った。
「人に見られることに慣れた方が良い。俺以外のね」
「でも、勝手に!」
「前にネットにアップするか聞いたら絶対嫌だって断ったじゃないか。大丈夫、ここにいるのは絵心がある人達だから適当なことは言わない。みんな君のために集まってくれたんだ、ちょっと話すくらいいいだろう?」
「そうそう、女子高生に会えると聞いてバイト休んだんっすよ! いてっ」森次は長島にテーブルの下で足を蹴られたようだ。なおも不満げに唇を尖らせている朔夜を置いて話を進めてしまうことにする。
「それで、感想は? 手加減なしで」クロが聞くと、多岐がスケッチを一枚手に取って、ううんと呻いた。意外にも第一声は篠山であった。
「僕は上手いと思いますよ。少なくとも高校生の頃の僕よりは」
しかし多岐が渋い顔でやんわりと言った。
「いやー、確かにそこそこ描けてるけどねえん」
「ま、ぶっちゃけこの絵じゃ買わねっすよねー、話が面白けりゃいいっすけど、イラストって言うならもっとがつんと描けねーと、しかもキャラだけで背景が描けないってんならね。エロい路線でもねーし」エロという単語に朔夜がピクリと反応した。森次のこういった率直なものいいが出来るところは嫌いではない。
「三戸さんは? はっきり言ってあげて」クロが念を押すと、三戸はおずおずと話し始めた。
「えっと、好きなタイプの絵柄です。けど……やっぱりちょっと経験不足というか、粗が目立つような感じがします。特に表情というか、顔の角度によって出来映えに差がありますよね。私もちゃんとできてるわけじゃないので人のこと言えないですけど」
朔夜をちらりと見ると、黙示録の炎に照らされたような真っ赤な顔で絶望の眼差しをスケッチに釘付けにしている。無理矢理連れてこられて目の前で自分の絵が吊るし上げられるように批評されれば誰だって泣きたくなる。これはちょっといじめ過ぎたかとクロが長島に目で合図すると、彼女は僅かに顎を引いて承諾した。
「言い忘れてたんだけど、彼女、本格的に始めたの一ヶ月前らしいわよ」
その言葉を受けて、淀んでいた部屋の空気が弾けるように一変した。
「え、マジ?」
「マジっすか?」
「一ヶ月……」
全員の視線が朔夜に注がれ、そしてスケッチに吸い寄せられるように動く様は、サバンナの草食動物の群れがライオンを見つけた時のような一体感があった。朔夜は流れの急変に取り残されてぽかんとした顔をしている。多岐が持っていたスケッチを別のスケッチと取り替えながら言う。
「一ヶ月でこれってどんな練習させたん?」
「模写だけど?」クロは驚いてスケッチをまじまじと見ている彼らの挙動を恍惚とした気分で眺めながら言った。
「言ったでしょ、天才連れてくるって」
「こりゃ確かに天才っすわ」森次はさっきとは別種のニヤニヤ笑いを浮かべている。その顔をクロは知っている。素晴らしい作品に出会ったときに身体の中心がくすぐったくなって抑えられなくなったときの表情だ。身体が勝手に震えてしまうのだ。
「す、凄いですね、僕なんて二年もやってて未だにデッサン狂ったりするのに、空間の捉え方が凄いんですかね。ちょっとショックです……」
と言って篠山は堪らないという風に音もなく深呼吸している。三戸も同様の反応だ。
「じゃあさっきの話、異論ないわね」長島があっさりした声で纏める。
「おー、てか、元々反対者はいなかったし」多岐に同調するように他の面々が頷いた。クロは長島の視線を受けて朔夜に向き直る。
「朔夜ちゃん、ここからは相談なんだけど、嫌なら断っても良いから」とクロは前置きして提案した。
「ここにいるみんなで八月にあるコミックマーケットっていうイベントに共同で作品を出すんだけど、そこにイラスト載せてみない?」
「え……っと」朔夜は戸惑いの視線をクロに送って、呆然としたように自分の膝を見つめたまま動かなくなった。
「自分の絵を載せるのは恥ずかしい?」
「……はい」
「だったら俺ら全員恥ずかしい奴らっすね」
「え、それは……」森次の戯けた言葉に朔夜は申し訳なさそうに一層俯いた。クロは続ける。
「ウチのサークル、OGOBが覗きにきたりするからそこそこ売れるんだ。これって凄くラッキーなチャンスだと思わない? 普通は駆け出しの絵描きなんて誰の目にも止まらずに評価すらして貰えないんだ。何百冊も刷って十冊しか捌けないなんてよくある話。始めて一ヶ月で多くの人に見てもらえるチャンスが来るなんてそうそうないんだよ。前回のやつあったっけ」クロが聞くと、森次が立ち上がって部屋の隅の段ボールをごそごそとひっくり返す。冊子を一冊取り出してクロに手渡した。
「これっす」
「ありがとう。ほら」クロは朔夜にそれを開いてみせた。ぱらぱらと捲りながら言う。
「みんながみんな、シムロみたいに上手なわけじゃない。自分の作品をたくさんの人に見て欲しいから、こうやって形にするんだ」
クロは語りかけながら冊子を朔夜に持たせる。朔夜が一ページ捲るたびに彼女の心が動いているのを感じた。
「絵を描く本当の喜びを知って欲しいんだ。俺も手伝う。俺で足りないならみんなにも助けてもらおう。やってみないか」
朔夜は心に確認するように瞬きを繰り返し、ゆっくりと顔を上げてから泡のように透明に輝く声で言った。
「やります」
おお、と室内に安堵や喜びの声が上がった。クロが微笑みかけると、まだおどおどしていた朔夜もほっと息を吐いて笑った。そうだ、と多岐が一声あげてにこやかに説明し始める。
「いつも世話んなってる印刷会社の締め切りが大体八月頭くらいなんだけど、途中でラフをみせ合って相談しながら作るのよ。一人で作るよりやる気出るしいいぞー」
サークル名に研究会と銘打たれているのは飾りではない。このサークルにどれだけの歴史があるかは定かではないが、今までにプロの絵描きや有名同人作家を排出しているのは、遊びではなく本気で取り組む人達が年に一人は入るからだ。今のメンバーで言えば、長島と森次は真面目に将来を芸術方面に設定していると聞いている。部活動のような集団での活動が肌に合わない人は自然とやめていき、個人で活動したりしているようだ。
主に夏と冬に開催されるコミックマーケットは、規模の大きなサークル以外は毎回抽選で当選しなければ出店できないというシステムなので、全員別々の名義で申し込み当選の確率を上げるというグレーゾーンの行いをしている。誰もコミケの参加券が当選しなかった場合、卒業生のサークルに紛れ込ませてもらうことなっている。
このサークルのメリットは、それぞれの知り合いや特定のメンバーのファンが訪ねてきた場合、ほかのメンバーの作品も手に取って貰えるというところだ。駆け出しでも気に入ってもらえる可能性があるのは嬉しいことである。
それだけでなく、クロが入学した年の四年生の一人が、今では有名なサークルとして周知されている。サークル棟の端に追いやられているオタク集団にしか見えないが、案外パイプとしての機能は捨てたものではないのだ。
「ここまで来るのって大変?」と長島がクロと朔夜のどちらに聞いたら良いかという感じで二人を交互に見ながら言った。
「どうだった?」
「混んでる時間じゃなければ大丈夫です」
「おっけー、じゃあいつも通りここでやりましょう」
長島の声にそれぞれが返事をすると、今日のメインの話し合いは終了した。それからは朔夜が加入することによる日程の変化を調整したり、朔夜のスケッチや描きたいジャンルに対するアドバイスなど雑談が続いた。意外なことに、騒ぎたがりの多岐や森次ではなく、三戸と篠山が饒舌に話していた。実は勝ち気な朔夜も年長者に囲まれると大人しく、妹のように可愛がられている姿は普段の彼女を知っているクロの目にはおもしろおかしく映った。
クロは他の三人と別件について話し合っていた。というのも、朔夜がこのサークルにゲストとして参加することが何の条件もなしに受け入れられたわけではなかったからだ。
長島が喫茶店で提案したのは、朔夜に経験の場を与えるかわりに、普段は長島や多岐が行っているスケジュール管理や印刷会社とのやりとりなどの雑用をすべてクロが引き受けるということであった。
長島は本当に気の回る人間で、クロのためにしなければならないことをリストにしてくれた。しかし、流石にいきなりクロにすべてを任せきるのは色々と危険が伴うので、定期的に他のメンバーに確認してもらうことになった。
帰宅ラッシュの前に朔夜を送りたいと伝えて二人で先に御暇させてもらった。部屋を出る前に長島が「忘れ物よ」と言って見せたのは、あの日受け取らなかった青い手提げだった。
「貰っていいんですか?」
「ええ。もう使わないから。使い方はクロに聞いて」
そう言ってクロを一瞥した長島の瞳は、あの日の告白を聞いた後では少しだけ寂しそうに見えた。本当はクロに受け取って欲しいのだろう。
二人で礼を言ってサークル棟を後にした。
「さて、これから忙しくなるな」
車一台やっと通れるかという道を車椅子を押して歩きながら、少し身体をかがめていうと、朔夜の上半身ががばっとクロを振り返った。燃え上がる瞳にハの字に歪んだ眉が添えられている。
「ぐえ」突然上がった奇声の発生源へ数人いた歩行者の視線が刺さる。蛙が潰れる瞬間みたいな音を喉から奏でたのは、朔夜の肘鉄が腹部を直撃したからであった。痛みよりも驚きというか、全く予期していなかった暴力だ。クロは一瞬歩みを止め、呻きながら再開した。朔夜はツンと前を向いてしまった。
「痛いじゃないか」
返事はない。
「ああ、勝手に話し進めてたこと怒ってるんだ」どうやらお姫様は相当ご立腹な様子で、顔を覗き込もうとしてもするりとかわされて表情が伺えない。
「……俺を引き止めたのは君だ」クロは朔夜の後頭部から垂れている一房のポニーテールを眺めながら言った。朔夜は何拍か間をあけて返事をした。その声は正面に向けられていてクロには聞き取れなかった。聞き取れなかったということは聞かせる気がないということだろう。朔夜は特に言い直すこともなく、二人は黙って帰路についた。