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太陽の麓  作者: James N
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 初めは、ただ描くことが楽しいだけであった。

 小学生の頃は、授業中も休み時間も自由帳にひたすら落書きをしていた。先生に職員室に呼び出されて叱られてからは、テストの点数を稼いで評価を上げた後、こっそり授業中に絵を描いた。男なのに絵を描いていると弄られたりしたが、幸いいじめに発展することなく平穏に卒業することが出来たと思う。

 中学生になってからは、絵を描くことが好きな人種はそれほど多くないのだということを理解して、あからさまに描くことをやめた。美術部はなかったけれど、自分でメンバーを集めて創部するつもりは全くなかった。誰もが部活をやらねばならないという無言の圧力に屈していく中で、クラスで二人しかいない帰宅部になった。帰宅部同士で仲良くなることはなかった。

 一年生の冬、美術の時間で描いた水彩画が市のコンクールを勝ち抜き、県のコンクールに出展されることになって、自分の絵が人より優れていることをはっきりと自覚した。終業式の時にクラスの先生からクラスメイトの前で賞状を渡されたときの、あの愉悦とも言うべき感覚は忘れられない。

 そして、二年生に進級する前に、父親がいなくなった。突然だった。クロにとっては何の前触れもないことだった。あとで知ったことだが、借金を抱えていたらしく、それを家族に負わせないために、借金取りにだけ行き先を告げて出て行ったという。それ以上のことは知らない。母親が話したがらなかったし、大きくなってからも知ろうと思わなかった。生きているのか死んでいるのかも分からない。母親は泣きながらクロに、苗字が変わることを伝えてきた。二人で担任の先生に相談すると、学校生活への影響を配慮して、高校入学時に変更することになった。

 住んでいたマンションを引き払い、狭いアパート暮らしが始まった。不満はなかった。母親はクロに自室を割り当ててくれたし、絵に関する出費に躊躇うことがなかったからだ。だが、父親に裏切られたという思いは、大きな傷跡となって居座った。

 それから、母親は昼も夜も働いていた。当時は分からなかったが、今なら派手な服で帰ってくる母親の仕事は水商売だったと認識できる。クロは母親の変化に敏感だった。母親の負担を減らそうと、家事は進んでこなした。どのように母を助けられるか先生に相談して、学費が免除になる推薦入学という手段を知った。必死に勉強した。大好きだった絵も、内申を稼ぐための武器になった。すべてが生活のためだった。目標があって、そこに向かって突き進むという、ある意味では最も充実していた時期であった。

 無事、平均以上の高校の特進クラスに推薦入学して、美術部に入った。鍵山澄華は一つ上の先輩だったが、独特な性格で全部員からムードメーカーとしての慕われていた。三年が引退すると彼女は部長になった。といっても、美術部での役職など名ばかりで、運動部のように統率力が求められるわけでもなかった。部員達はそれぞれが好きなように描いて、たまにあるコンクールに意気込む程度であった。

 そんな中、クロは一貫して、尋常ではない時間を絵を描くことに裂いていた。中学を卒業する前に、担任の先生にこっそり相談したのだ、画家になる方法を。そして美大に進むという目標を密かに胸に秘めていた。非常に親切だった三年時の先生は、クロのために美大に進むために必要な要項を調べて教えてくれた。分かったのは、美大の募集に入学が確約される推薦はないということ。あるのは、高い点数配分の実技試験と、ある程度の学力が求められる筆記試験。入ってしまえば奨学金で何とか通える、という事実は救いであった。

 クロが部活で描いたのは好きな絵でも何でもなく、美大に合格するために必要な技術を磨くことを目的にした絵であった。そして美大の先に見据えるのは、ビジネスとしての絵描きであった。それは、一枚何十万で取引する画家ではなく、客の要望に応えマルチに活動するイラストレーターに近い存在であった。部員の会話から時代はデジタルだと感じたし、それが一番金になると思った。

 一年生のうちに美術部にあった石膏はあらゆる角度から写し終えた。他の部員がおもしろおかしく話しながら活動する中で、誰とも深入りせずに絵に打ち込んだ。他人の絵に興味などなかった。誰よりも早く美術室に行き、誰よりも遅く帰った。家に帰っても一人になるだけと分かっていたからだった。デジタル絵を練習するためのペンタブレットは簡単に買えないと判断してとにかくアナログで出来る技術を極めようとした。初めはクロを放課後の遊びに誘っていた部員達も、次第にクロを理解して一歩離れた。鍵山澄華がクロを気にかけていなければ、部活内での立場はもっと危ういものになっていたかもしれない。

 鍵山にとってのクロは数ある友人の一人、後輩の一人でしかなかっただろうが、クロにとっての鍵山は、自分に関わろうとしてくる唯一の美術部員として、特別な存在になっていった。そして、鍵山澄華の才能を肌で感じるようになったのは、クロが彼女に淡い興味を抱いた頃からだった。彼女の想像力は部内でも群を抜いていたし、何より言葉ではなく一目見て良いと思える絵を描く人間であった。彼女との間に感じていた壁は彼女が部活を引退してからも取り去られることはなかった。

 高校に入ってから勉強にかける時間よりも絵を描いている時間の方が圧倒的に長くなった。ネットで調べれば調べるほど、筆記試験よりも実技試験の成績が重視されるという情報ばかり目についたからだ。学年での成績は至って平均になった。その代わり、出展したあらゆる絵画コンクールで何かしらの名前のついた賞を手にした。一方で鍵山は最優秀賞などを連発していたので、喜びは半減であった。クロの与り知らぬところであったが、クロと同じ学年の部員達は彼に喚起されて上級生より多少真面目に絵を描いていたようだった。

 高校二年の夏休み明け、三年が引退して寂しくなった部活。いつものようにエアコンのついた放課後の美術室で絵を描いていると、校内放送で名前が呼び出された。クロは慌てることも何かを予感することもなく、広げていた道具をある程度片付けて職員室に向かった。

 入ると同時に、職員室にいたほとんどの先生がクロを見た。担任の初老の女教師に手招きされて注目の中を歩いているとき、クロはようやくただならぬ雰囲気を感じ取り始めた。

「落ち着いて聞いてね。さっき病院から電話があって、お母さんが仕事先で倒れたと言われました」

 わけもわからないうちに学年主任の車に乗せられて、担任も含めた三人で病院に向かった。クロ達が到着したすぐ後に、叔父が来た。親戚の集まりで多少の面識があったが、面と向かって話すのは初めてだった。医者に診療室まで案内され、末期寸前のの乳がんだと言われた。

「金ならいくらでも払える。最高の治療をしてくれ」

 必死の形相の叔父の顔は今も鮮明に思い出せる。

 まだ助かる見込みはあるが、辛い闘病生活が始まった。抗がん剤で体毛が抜け落ち、のっぺらぼうのような顔になった母親を見るたびに、何故もっと早く気づけなかったのかと自分を責めた。身体に異常を感じても病院に行く暇すらなかったのだ。自分の将来に夢中になりすぎて、すぐそばまで迫っていた危機を見逃した。

 治療費はすべて叔父が払ったので、クロの生活はほとんど変わらなかった。狭いアパートに帰れば、いつだって一人だった。違うのは、朝起きた時、母親の部屋からいびきが聞こえないことと、洗濯物や洗い物が減ったこと。そんな些細な違いが、大きな虚無感をもたらした。

 クロは母親を安心させるために、一刻も早く自立することを考えた。そのためには、将来の収入が不安定な画家の道は切り捨てざるを得なかった。名のある大学を卒業し、安定した企業に就職する。絵描きをやめることに抵抗がなかったわけではなかったが、退部届けを記入することに躊躇いはなかった。鍵山のいない部活に張り合いがなくなっていたし、とうの昔に、クロにとって絵を描くことは楽しいことではなくなっていた。

 退部したこと、新たな将来設計を告げると、母親は痩せこけた頬に涙を流した。

「あんたの絵を見るのがどれだけ楽しみだったか。ごめんね、私のせいで」

 その時になって、クロはようやく、自分が絵を描き始めたのは母親に褒められたからだと思い出した。母親に褒められたくて描いていた。それがいつの間にか、大勢に認められて金を得るために描くようになっていた。

 クロは、母親の快復を願って渾身の絵を描くことにした。客のニーズに応えるような作品ではなく、すべてを自らに由来させた作品。

 わずか数日で美術部に舞い戻ったクロは、心配する部員達を無下に扱い、鬼気迫る勢いで作品に取り組んだ。そして、描きたい絵など何一つないことに気づいた。評価されるためのスキルばかり磨いてきたクロには、心を形にする能力が欠けていた。どんなに描いても鍵山の作品から受けるような感銘が湧いてくる一品は生まれなかった。満足のいく仕上がりにならず、絵の具をキャンバスにぶちまけた。

 世間が来る未来への活力にみなぎる年末、母親の状態が急変し、そのまま天国へ旅立った。クロに残ったのは、未完成のまま放り出された三十にも及ぶ作品だけであった。

 叔父の家に引き取られるとき父方の祖父母と一悶着あったが、金銭的に叔父の方が有利であったし、何より消えた父親の実家になど世話になりたくなかったので叔父を選んだ。同級生から腫れ物扱いされ、それでもクロは、美術部を辞めなかった。やる気などとうに失せていたが、そうすることで母親に何かを返せるような気がした。それから描いた作品はクロにとってすべてが駄作だ。次第に勉強に時間を割くようになって描く頻度が減った。受験をはっきりと意識する頃には全く描かなくなっていた。

 見てくれは悪くなかったので恋人が出来たこともあったが、無気力なのが災いしてすぐに飽きられた。別れても何のショックも感じていない自分に、ショックを感じた。

 クロは四校を受験し、その全てから合格通知を貰った。クロは迷わず叔父が卒業した有名公立大学へ進んだ。

 新しい風がクロを満たすことはなく、過去の亡霊に取りつかれたように総合美術研究会の扉を叩いた。



 長い夢から醒め、接着剤で悪戯されたかと思うほど重い瞼を開けた。視界に靄がかかって何も見えない。どうにか、窓から光が差し込んでいることだけは分かった。身体と布団の温度が一体化してベッドに溶けているようだったが、少し身じろぎすると肌が布に擦れて肉体が感じられた。

 肘をついて上半身を起こそうとしたが力が入らず、唸りながら横に転がってベッドの縁から足を降ろし、腕で布団を剥ぎ取って起き上がった。寝ぼけ眼を擦り、眉間を指で揉んで、ようやく自室ではないことに気がついた。

 肺に水が溜まっているかのような息苦しさは見知らぬ部屋に緊張しているからではなく、純粋に身体の調子が悪いからだ。

 服装は外着のまま、長袖のシャツにスキニーパンツ。密着性の高いズボンに脚を締め付けられたまま寝ていたせいか、両脚がカチコチに固まっているような感じがする。

 クロは細く浅い呼吸を繰り返しながら部屋を良く見回した。男性の部屋だと一目で分かる無骨な家具が並び、デスクトップパソコン、本棚の一角には本ではなく飛行機のフィギュアが置かれている。クロが横たわっていたベッドは入り口の対角線状の隅で、頭を窓がある壁に向けて寝ていたようだった。そこから日が差し込んでいるが、朝日か西日のどちらだろうと考え、現在時刻を把握していないことに思い当たった。

 首を軋ませながら時計を探す。木製の立派な机の上に愛用の肩掛け鞄を見つけ、その近くにあるデジタル時計に目を凝らす。AM7:04と表示されていた。気を失う前の出来事をおぼろげに思い出し、今の状況を完全に把握した。

 どこで倒れたのか覚えていないが、六谷家から外に出た記憶が一切ない。回転椅子を拝借する時に入室しているので、圭一の部屋であると察するのは容易であった。

 何という迷惑をかけてしまったのか。すぐにでも自宅マンションに帰るべきだと脚に力を込めたが、立ち上がった瞬間にくらりと目眩がして机に手をついた。ふらふらと部屋を出るとリビングに出た。間違いない、六谷家だ。

 ふと視線を巡らせると、木製のテーブルについてマグカップを口へ運んでいる圭一と目が合った。その後ろのキッチンでは加藤が料理を作っている。

「おはよう。動いて大丈夫かな?」

「はい、何とか。すいません、こんな体たらく」

「いやいや、気にしなくていいよ」

 クロが圭一の部屋で寝ていたということは、圭一はリビングで一晩過ごしたということだろう。申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 圭一の前に朝食が用意されていたが、あらかた食べ終わっていた。一体何時から出勤しているのだろうか、叔父の会社に就職する自分の将来に待ち受ける困難を予感して一抹の不安を抱えることになった。

「加藤さんもこんな時間から勤務していたんですね」

「お給料を貰っているわけですから、しっかり働きませんと」

 そう言って手元に視線を戻す加藤。どうやら弁当を作っているようだ。しかし朔夜の高校は七時より前に用意せねばならないほど離れたところにあるのだろうか。そう思って覗いてみると、およそ一般的な高校生に持たせて良いレベルを軽く凌駕した豪華な弁当が出来上がっていくところであった。そしてその量は一人分ではない。どうやら圭一も加藤に胃袋を抑えられたらしい。

忙しい母は弁当を作る余裕などなく、クロはいつも購買で昼食を仕入れていたので馴染みがない。途端に腹が空いたような気がした。

「先に弁当を済ませてから朝食を作りますので、もう少々お待ちください」

「いえ、そんな悪いです。すぐに帰りますよ」

「何を言ってるんだい。まだ本調子じゃないんだ、ゆっくりしていっていいんだよ」

「そんな身体で出歩かれて怪我でもされましたら、私の首が飛びます」

 加藤は菜箸で野菜の炒め物をつつきながら呆れたように眉を顰めた。

「ならお言葉に甘えて」

「紅茶でいいですか」

「はい」

 毎度の授業で紅茶を要求していたのでクロが紅茶派であることは既に知られている。加藤は弁当を作りながらもお湯を沸かして手際よく紅茶を用意した。クロは圭一の向かいの席について紅茶をちびちびと啜った。

「そちらの引き出しに体温計がありますので、お測りください」

 加藤の指した棚から体温計を探し出して脇に入れる。三十秒も経たないうちに音が鳴ったので嫌な予感を感じつつ見ると、三十七度三分であった。道理で息苦しいわけだ。

「いかがでしたか?」

「微熱です。大したことありません」

「安心しました。倒れたときは三十九度近くあったので」

「それは大変だったね。頼むから移さないでほしいな」

 圭一は朗らかに笑いながら言った。

 自分の嘘を何の疑いもなく信じてもらえたことに、信用を裏切ったという罪悪感が胸中を満たした。しかし、朝食を食べ終わったら出て行きたいのに、熱が高いと知られてはここに留まれと言われてしまう確立が高い。

「どうかな、朔夜とはうまくやれているかい?」

「はい」

「その割には、昨日ひと悶着あったようだけど」

 クロはギクリと身を固めた。圭一はクロの緊張を笑い飛ばして言った。

「いやいや、いいんだ。加藤さんから話は聞いているよ。朔夜のためにいろいろ頑張ってくれているそうじゃないか」

「ええ、まあ」

 昨晩の利己的な思考を思い出してふつふつと罪悪感が沸いてきた。

「本当にありがたい。忙しくてあまり話せていないけれど、だいぶ明るくなって、昔に戻っているよ」

「そう思っていただけて良かったです。出しゃばったことをしているんじゃないかと心配になることもあるので」

「そんなことはない。この調子で頼むよ」

 圭一は信用しきった眼を切れ長な目元に忍ばせるように微笑んだ。

 クロが猫舌に苦労しながら紅茶を半分ほど飲み、加藤が弁当を完成させて朝食に取りかかる頃、圭一は一足先に会社に向かった。本当に忙しそうだ。

圭一の出立の音で目が覚めたのか、入れ替わるように朔夜の部屋の扉が開く音がした。車椅子がフローリングを這う振動が近づいて、リビングに朔夜が現れる。

「おはよう」

「あ、先生、大丈夫ですか」

「うん、朔夜ちゃん見たら元気でた」

「頭でも打ったんですか?」朔夜は引きつった笑みを浮かべた。

「でも、その様子なら大丈夫ですね」

「あまり戯れが過ぎますと、圭一様に報告しますよ」

 容赦のない毒舌が炸裂、おまけに冗談が通じない加藤の止めの一撃が刺さった。クロは咳払いをしていそいそと紅茶を口に含み、心を落ち着けた。本当のことを言うとまだ熱っぽくとても大丈夫とは言えない状態だが、いらぬ心配をかけたくはないので黙っている。

 朔夜がリモコンでテレビを点け、二人でぼうっと朝の報道番組を眺める。加藤の料理音が大きくなる。それを待っていたように朔夜が小声で言った。

「先生、昨日はすいませんでした」

「ん?」急にしおらしく謝られて困惑したクロは、疑問の眼差しを朔夜に向ける。

「せっかく教えてもらってるのに、暇つぶしとか言われたら怒って当たり前ですよね」

「ああ、いや、あれはね」クロは恥ずかしさで涎が分泌されるのを感じつつ言った。

「実は、ちょっとここに来る前に嫌なことがあって、八つ当たりしちゃったんだ。だから俺が悪いよ」

「でも、余計な一言だったことには変わりないです」

「いいんだって。元々暇つぶしになればいいと思って無理にやらせたんだ。部活入ってないでしょ? 新学期で新しいこと始めるのにもいいタイミングだと思ったし。それに」

 クロは言うべきかどうか逡巡したが、きちんと話すことにした。彼女に対して今まで以上に真剣になりたいと思った結果だった。手の内を晒す何とも言えないくすぐったさから、クロはテレビに視線を固定して言った。

「スケート以外にも面白いことがあるって知って欲しかった」

 横から朔夜の視線をひしひしと感じたが、クロは気にしていない風にテレビを見続けた。当然内容など頭に入ってこなかったが。

「現実逃避に使ったっていい。今は無理でも、時間が解決してくれることだってある」

 だが、問題の先送りが先日の長島との言い争いを招いたのも事実だ。クロが高校時代に目を背けた問題は今も解決していない。自分の言葉に自分が納得していなかった。

 朔夜のスケートに関わる心の整理も、時間が解決するとは限らない。クロは、朔夜の問題が自分が今直面している問題と本質的に同じのような気がしていた。

 即ち、人生に対する態度。

 だから、クロの言葉は気休めに過ぎない。クロ自身、本当に時間が解決してくれるなどと期待しているわけではない。ただ、誰かにそう言ってもらえることが大切なのだと、クロは思う。

 朔夜から返事はなかった。頬に感じていた朔夜の視線は消え、いつの間にか料理の音も小さくなっていた。それと反比例するように、テレビから流れるスポーツ情報コーナーの騒々しいアナウンスが部屋に広がった。

 加藤の作ったバランスの良い朝食は、病に冒され減退した食欲と味覚には勿体ない出来映えであった。

「先生、いつのまにか僕じゃなくて俺って言ってますね」

「え、ああ、家庭教師が俺って言ってるとよく思わない親御さんがいたから」

「いいですよ、そっちの方が、ワイルドで」

 ふふ、といたずらっ子のように笑う彼女は、随分と年相応になったように思えて、何だか胸のあたりがムカムカした。歳下に対して照れている自分に気づいた時は昇ってくる何とも堪え難い衝動を押止めるのが大変だった。

 その後、六谷家が常備していた市販の風邪薬を頂戴し、荷物をまとめて三人で外へ出た。

 加藤と、何故か朔夜も頑にクロを圭一の部屋で寝かせようとしたが、二人に風邪を移したくない、の一点張りで納得してもらった。正直なところ休んでいきたかったが、一度頼ってしまうとずるずると居着いてしまいそうな居心地の良さを感じたので、そうなる前に無理を押して撤退することにした。特に加藤に世話を焼かれるのは精神衛生上非常に拙い。あれは、堕落する。

 駅に着くと朔夜の友達である二人の女子高生に車椅子をバトンタッチし、加藤は自宅へ戻った。夕方もう一度出勤する前に家での家事を済ませなければならないのだろう。クロも朔夜たち三人とは目的地が逆方向なので、改札の中で別れた。軽く自己紹介をしたが、朔夜とは気兼ねなく話せる仲のようで安心できた。

 朝の通勤通学ラッシュは病人にはえらく堪える仕打ちであったが、全方位から身体を圧し潰されるという状況が立っているのをサポートしてくれて逆に快適なのではないかと思えた。周りにいるのがムサいおっさんばかりなのは残念だが若い女だとそれはそれで気を遣うので、遠慮なく寄りかかれて良かったなどと、はた迷惑にも海に浮かぶように全体重を周囲に預けた。

 今日は大学の講義がないのでそのまま家へ直行であった。就職の決まった大学四年生というものは本当に暇である。理系の学生に見下されても仕方がないほど何もすることがない。何もすることがないというよりは、学校側からあれこれ口を出されないので自分でやることを見つけるしかない。就職後に備えてエクセルの勉強をしたり、何かしらの検定を受けたり、バイトをしたりと人それぞれに過ごす最後のモラトリアムだ。

 この期間に、心の整理をつけろということだろうか。社会の一員になることへの、歯車として生きていくことへの。

 やりたい仕事につける人間など一握りだ。やりたいこととその人の持つ才能には何の関連性もない。コミュニケーションが大得意で接客技術がピカイチの販売員でも、心の底ではクレーマーなどにうんざりしていて可能なら今すぐにでも仕事を辞めたいと悩んでいるかもしれない。

 そこにどう折り合いを付けるか。社会にフィットしていくか。クロは大学に入る前に決断していた。決める方法は単純だ。今一番やりたいことと手の届く安定を天秤にかければいい。やりたいことがどんなに無謀なことでも、それを貫く覚悟があるならやればいい。ビビったら、やらなければいい。クロは大学入学前に後者を選択し、長い間それで良いと考えていた。

 いたのだが。

 これから学校へ行く学生達とすれ違って電車からホームへ降り立つ。

 はぁあ、と長く熱い溜め息をしてみても悩みが晴れることはない。

 長島に図星を突かれてヤケになり、朔夜に当たり散らし、挙げ句の果てに身体を壊して、一体何をやっているのだろう。何を、してきたのだろう。

 画家を目指すことに費やしたあの時間は無駄だったのか。昔の自分が今の自分を見たらどんな罵声を浴びせるだろう。諦めても仕方ないと慰めてくれるだろうか。どちらにしても、惨めだ。

 無駄ではなかったという証明が欲しい。今更画家を目指すなど口が裂けても言えない。それはあまりにもぶれ過ぎている。そんなことをすれば叔父はどうなる、面目丸つぶれではないか。恩を仇で返すような結果だけは避けなければならない。第一、今のモチベーションで絵描きを再開したところで顧客を勝ち取るどころか満足に絵を完成させることすら出来まい。

 そこまで考え、クロは先の夢を思い出す。

 そうだ、完成だ。

 夢の中で見た苦い記憶。クロが最も心残りにしていること。それは母へ向けた作品の完成。いや、もはや母のための作品ではなく、クロ自身の人生を証明する作品でなければならない。

 描けるのだろうか、この鈍り腐った腕で。あの何十ものおびただしい出来損ない達の上に、真の自分を表す作品を作り上げることが出来るか。

 分からない。

 モラトリアムの終着はもうそこまで迫っている。一度社会に出れば、今までの自分ではいられない。どんどん灰色になり、やがて自分が灰色になってしまったことも忘れてしまう。これが最後のチャンスになるだろう。

 そのとき、やはり脳裏に浮かんだのは朔夜であった。意識を失う前に考えていたことが急速に蘇ってきた。

 超人的な才能、努力の天才。

 あの少女は確かに、絵が好きだと言った。教えて欲しいと言った。

 もし朔夜が本気で絵描きの道を目指すようになれば、クロの教えは永遠に彼女の中で生き続けることになる。素晴らしい才能を開花させることができたなら、それこそが自分の人生の証明になるのではないか。クロの夢は朔夜に受け継がれ、彼女の絵を見るたびに誇らしい気持ちになれるのではないだろうか。

 だったら、やる価値はある。

「やってやる」

 妙な高揚感の中ぶつぶつと呟きながら歩く。身体が重く、ナメクジになったような気分でダラダラと自宅マンションまで辿り着いた。落ち着いたからか、更に身体が辛くなった気がする。

 鈍った思考でこれ以上考えても仕方がないと判断し、すべての問題を明日へ先送りにして、深い眠りへと落ちていった。

 夢は見なかった。


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