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太陽の麓  作者: James N
4/10

 五月第二週火曜日。長島は午後四時から六時頃まではいるという。西日が鮮やかな晴模様であったが、ソフトクリームのような入道雲がいくつも浮かんでいた。ほのかな雨の香りがした。傘を持ってくるのを忘れたのが悔やまれるが、今すぐに降ってきたところでサークル棟で雨宿りしている間に止むだろう。

 朔夜には昨日、日曜日のうちに調べておいたシムロ関連の情報を六谷家にあるパソコンを使って見せた。気に入った絵が見つかったらそれを目指して練習するとモチベーションが保てると聞いたことがあった。確かに何事にも順序はあるが、基礎の練習ばかりしていると飽きがくる。たまには実践的にハイレベルなことに挑戦してみて、自分に何が足りないのかを再確認することでやる気を喚起できる。というわけで、好きな絵を一つ選んで、キャラクターだけ真似してみるという課題を出した。もっとも、クロはこの練習方法を実践したことがないので効果的かどうかは試してみないと分からない。本格的なことはこれから長島に聞くつもりであった。

 サークル棟に到着したのは五時前。総合美術研究会の扉の向こうからは多岐の声だけが聞こえた。

「お、きたかー」

 扉を開けると、何故だか嬉しそうに挨拶した多岐に、クロは軽く手を振って返した。長島は相変わらず行儀の悪い体勢でパイプ椅子に収まっていた。

「あれ、二人?」

「新歓終わればこんなもんよ。皆お家で自分の作業さ」

 総合美術研究部などという仰々しい名前だが、活動内容といえば同人誌の発行がほとんどであり、アナログで描くクロや作曲活動をしている上杉の方が異端なのであった。

「じゃあ多岐は何で?」

 クロは何となく答えを予想しつつ質問した。多岐のことだ、まだ締め切りまで余裕があるから、とかそんなところだろうと予想したが全く異なる返答に首をひねることになった。

「いやー、何か心配で」

「何が?」

 多岐は意味ありげな流し目で長島を見遣った。

「なーんか、朝からこの子イライラしててさあ。理由聞いても話さないからついてきちゃった」

「そうなんだ。何か大変な時に申し訳ないな」

 暢気に言うクロに、長島は一度も視線を向けていない。膝を抱えた体勢はいつも通りだが、菓子を食べようとする様子もない。眉間に浅い皺を寄せ、口元を真横に結んで机に視線を落としていた。クロがみていると鼻から音を立てて息を吐いた。確かにこれは機嫌が悪そうだ、とクロは用心する。

 長島の座る目の前の長机の上には、彼女がいつも使っているリュックの他に、青色の手提げ袋が置いてあった。ペンタブレットを入れてきたのだろう。

「ごめん、忙しかった? わざわざ持ってきてくれてありがとう」

 クロはなるべく刺激しないように近くに立って気安く話しかけた。

「持ってきてない」

「……ん?」

「貸してあげるなんて言ってない」

「それってどういう」

 語尾すうっと消えてしまった。確証はないが、彼女の怒りが土曜日のメッセージのやり取りにあるような気がしたからだ。

「あんた何したん」

 多岐がうろんな人間を見る目つきでクロをじろりと睨んだ。クロはまるで見当もつかないという風にとぼけて言った。

「ごめん、僕には何で長島が怒ってるのかわからない。教えてくれないか」

 長島はクロの方に首を向けたが、視線の高さはクロの腰のあたりをぼんやりと彷徨った。

「どうして絵を描かないの」

「……それが理由? 何で僕が描かないと長島が怒るんだ?」

「いいから答えてよ」

 その質問はクロの琴線に触れた。畳の上に泥だらけの靴で上がられたような、嫌な感覚が口の中に広がった。鍵山に不意打ちされたときよりも強い不快感だ。不穏な間を埋めるため、平静を保ちつつ口を開いた。

「もし本当にそれが怒ってる理由なら、僕の質問に答えるのが先だ。何が原因で怒られてるのかわからないのって、かなり、嫌だな」

 無用な衝突を避けるため、言葉は選んだ。膨れ上がった疑問は、やがて違うものに変質した。何重にも巻いたオブラートがあっという間に溶けてしまいそうなほど、クロは熱を帯び始めていた。誰にも触れられないように金庫の中にしまっておいたのに、それを開けるためのパスワードを堂々と聞かれているような馬鹿げた感覚であった。

 無言の長島と彼女の顔を真っすぐ凝視するクロ、そんな二人の様子に痺れを切らし、多岐は何かを言いかけた。

「ねえ……」

「多岐、やっぱり二人にして」

 だが、長島の鋭い静止を受け、多岐は渋々扉を開けて、心配そうに二人を一瞥してから扉を閉めた。

 多岐が出て行く間もクロは長島を凝視し続けていた。背後で扉が閉まる音を聞いて、クロは長島の机を挟んで向かい側のパイプ椅子に腰を下ろした。

 長島はようやくクロと目を合わせた。目元に力みがあるのか、瞼がかすかに震えていた。抱えていた脚を床に降ろし、そして彼女はゆっくりと語り始めた。

「私さ、ずっとクロを目標にしてた」

 その始まりは、まるで告白を受けているような錯覚を覚えるほど耳に優しい音だった。

「昔からダラダラ絵を描いてたけど、本気でやりたいと思ったのはクロの絵をみてから。新歓の自己紹介でクロの絵を見た時に、自分は今まで何をしてたんだろうって思った。同い年なのに全然次元が違う。私ももっと早く本気になってればこのくらい描けるようになってたのかなって思ったら、悔しくてたまらなかった。その時から、漫画家になるって他人に言いふらしてアピールするの、やめた」

 落ち着いた声。普段の気だるそうな彼女からは想像できない何も取り繕っていない声を、クロは黙って聞いていた。

「クロが画家になりたかったことは何となく気づいてた。あんな上手なのに何の目標も無かったわけがないわよね。だから二年の夏コミが終わってクロがここに来なくなった時、あの絵は引退作だったんだって思った。クロはストイックだから、趣味で続けるっていうのが許せなかったんでしょ? 勿体ないと思ったけど、そういう姿勢も尊敬できたから、私は、ここの活動には二度と誘わないつもりだった。いつか自分からやる気になるのを待つことにした」

「それは、そんな風に思ってくれてたとは思わなかったよ」クロは自嘲気味に笑って言った。

「確かに妥協は嫌だ、その通り、ずるずる続けるくらいなら辞めた方がマシだと思ってる。だって惨めだろう、本気でプロになれると思ってないのに続けるのって。そういうやつたくさんいるけど、俺は嫌だな。どちらにしろ就職したら絵なんて描く気力なくなるんだし。昔ほど描きたいとも思わなくなったから別にいいんだ」

 長島からの尊敬は予想外の驚きをもたらしたが、それだけだった。自分は尊敬されるような人間ではないと思っているクロには、気が引ける話だ。

 長島は何か言いたそうにしたが、クロはそれに先んじて口を出した。

「夢を追いかけ続けるのは凄いと思うよ。でも、現実問題として、絵を描いてるだけで生活できる可能性は低い」

「可能性なんて重要じゃないでしょ。やりたいかやりたくないかが重要なの」

「そんなに単純じゃないよ」

「単純よ」

「だったら、俺はやりたくないって言う。僕は君とは違う。他にもっといい選択肢があるんだ。会社で出世して、家族を持って、子供を育てる覚悟がある。確かな収入が得られる可能性があるほうを選択するのは当たり前だろ」

 クロにとってそれは絶対的な意見だった。大学に入ったときからクロがずっと心に決めていた選択肢だ。今更翻せば大学での努力をすべて否定することになる。

 長島は鉄面皮だが、目だけは燃え滾るような輝きを放っていた。数秒の沈黙の後、彼女はいらだちを隠そうともせずに言った。

「なるほど、よくわかったわ。ひとこと言わせてもらうけど、やらない理由探すくらいなら、やる理由探せば?」

 言葉に貫かれたのは初めてだった。核心に迫る長島を遠ざけるためにクロは、はっ、と氷点下の呼気で勢い良く笑い飛ばした。首から下は全身に汗をかいていた。

「知った風なこと言うな」

 語尾に力が入った。体温が十度くらい下がった気がした。それまでの倍の圧で放出された声が室内に響いた。今まで見せたことのない形相でクロは長島を睨みつけた。長島は怯んで、肩を強張らせた。その姿が一瞬、クロの頭に停止の信号を送った。だが、一度ついた火が消えることはなく、服まで燃えそうなほど頭に血を登らせていた。

「俺が絵描きにならないと長島が困るのか?」

「別に、困らないけど」

「だったら余計な口出ししないでくれないか。もう決めたことなんだ」

 会話を続けてはならない、そんな危機感がようやく身体を支配して、逃げるように席を立った。黒板を引っ掻くような不快な音が耳の真後ろで響いているような気がした。瞬きの裏にチカチカと、昔の日々が思い出されて現実を侵した。ペンタブレットのことなど意に介す余裕はない。長島に背を向けて扉の前まで地を踏みならす勢いだ。

「自分で矛盾してるって気づいてないの?」

 突如、足は根を張ったように床から離れず、一歩も動けなくなった。長島の言葉の意味を、クロは彼女がその先を続ける前に理解した。あまりにも早すぎて自分で気づいたことに気づかなかった。やがて思考に追いつくように、背筋に氷を押し当てられたような恐ろしい言葉が、背後から襲いかかってきた。

「絵を教えることは妥協じゃないのかって言ってるのよ」

 動けない。逃げ出したい、だが、もし逃げ出せば何かが終わるような気がした。最後まで聞けと、そのうえで否定してみろと、クロの中の一人が命令した。

 パイプ椅子が地面を擦る音が背後から聞こえた。今度こそ彼女は立ち上がり、はっきりと、ナイフを突き刺すようにクロの背に言った。

「自分は描かないで、人には教えるのね。他人に描かせて気持ち紛らわすクロよりも、ダラダラでも続けてる人のほうが百倍マシだわ」

 違う、と叫びたかったが、喉はからからに乾いて、蚊の羽音ほどの声も出せなかった。

「いい加減辞めるか続けるかはっきりしてよ。私なんかよりずっと才能があるのに。私が欲しくてしょうがないものを持ってるくせに、なんで諦めちゃうの、ムカつくのよ」

 掠れて消えていった声は、堪えきれない激情を薄皮一枚で留めているような、爆弾のように危険な音だった。少しでも動けば何もかも巻き込んで消し飛ばしてしまいそうな気配に、クロは微動だにできなかった。そうでなくとも、クロに意味のある言葉を発する力は残されていなかった。

 やがて長島は冷静に怒ったまま、強く念を押した。

「本当に、本当にもうやる気がないのね?」

 クロは返答せず、振り返らず、俯いていた。

「わかった。もう何も言わない。勝手にすればいい」

 長島がパイプ椅子に勢いよく座り込んだ。きしんだ音は、椅子ではなくクロの心から聞こえたような気がした。ようやく動けるようになったクロは、負け犬のように無様に退出した。

 扉を乱暴に閉めてサークル棟の出口へ身体を向けた瞬間、落としていた視界に女の下半身が映り込んだ。弾かれたように顔を上げると、多岐が狭い通路の壁に寄りかかってクロを見下ろしていた。実際の身長はクロとほとんど変わらないはずなのに、クロにはそう見えた。彼女の真剣な視線がそうさせた。それだけで、彼女が外で聞き耳を立てていたと悟った。

 多岐もクロも何も言わずに数秒視線を交わした。時間が止まったように二人とも動かなかったが、やがてクロの方が視線を切って彼女の前を通り過ぎた。その姿を多岐は目で追うだけだった。

 サークル棟から出ると、夕立に降られた生徒達がはしゃぎながら、クロと入れ替わりで扉を抜けていった。クロは傘を持ってきていなかったが、一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動に任せて、豪雨の中を構わず進んだ。

「気づいてたさ」

 戦場から帰ってきた兵士が悲惨な光景を忘れられないあまり病んでしまうように、クロも、もがいて絵を描き続けた日々のことを過去のことにしたかった。そして本当に過去になった。錆びれた青春の夢になり果てた。今のクロに昔の情熱はない。筆を持っていなくても平気になってしまった。

 一度妥協した人間は、この世界に数多に存在する灰色の人間に成り下がる。そうして、一日の重さを消していくのだ。気づいた頃には、青春時代はあんなに満ちあふれていた身体の中身が空っぽになっている。

灰色の人間達は、その空っぽの中身に将来の生活設計を詰め込んで、それにつり下げられて生きているようなものだ。いつか詰め込んだものが身体に溶けてくれると信じて。あるいは、あたかもそれが本当に望んだものであったかのように振る舞って。妥協しない人間などどこにいる、灰色になるのは悪いことじゃない、そうやって納得しないと、とても正常でいられない。

「長島の言うとおりだ」

 そうだ。怖いのだ。

クロの実力をいくら長島が肯定してくれたところで自分が自分を信じられない。自分より才能のある人間なんて五万といる。そんな世界に足を踏み入れることが、苦痛なのだ。叔父の用意したレールを外れるのが、恐ろしくてたまらない。なんて魅力的なレールだろうか。安定から外れることの方が、不安定に挑むよりもずっと恐ろしい。

 だから、とどのつまり、クロの中に存在していた叔父の会社に就職するためのすべての理由が、絵描きの道を諦めるための言い訳だったのだ。お金が必要だからとか、安定が必要だからとか、親がいないからとか、描くことに飽きたとか、すべて都合のいい言い訳だ。

あらゆる理由は背後から来る。クロは、諦める理由として自分の不幸な体験を存分に利用したわけだった。

 自嘲で口の端が自動的に上がる。

 長島に話したことはクロが認識している疑いようのない本心であった。そのはずだった。そうでなければならなかった。今になって、自分の言葉に何一つ信憑性を感じないのは、一体。

 当然のように、鍵山澄華の顔が浮かんできた。今まで脳裏に焼き付いていた髪の長い彼女ではなく、先日会ったばかりの、短髪で、眼鏡をしていて、ニタニタ笑っていて、簡単に人の心に触れてくる、やけに現実感を持ってしまったあの女だ。

「またあんたかよ」

 絵を描くことが楽しいなんて、知っていた、言われるまでもない。思い通りの作品が出来ない苦しみも、人にけなされる悔しさも、褒められる喜びだって、分かっている。

 その不安定から逃げたのだ。

 逃げたくせに振り返っている、半端もの。

「そんな目で俺を見るなよ」

 歩いても歩いても、駅に到着しないようだった。加速し過ぎた思考が、わずか五分にも満たない駅までの道を永遠に引き延ばしていた。



 翌日、クロが目覚めたのは昼過ぎであった。昨日は、家に帰ってもあれこれ考えてしまって寝付くことができず、深夜に散歩に出かけたほどであった。

 夜更かしで酷く重い身体をベッドから引き剥がし、空いていない腹に無理矢理シリアルを流し込んだ。それだけで吐き気がした。

妙に思考力も停滞しているのをいいことに、何も考えないようにぼんやりしているうちに夕方になった。気分だけは慌ててのろのろと着替え、どんよりとした雲に覆われた空の下、六谷家へ向かった。天気予報の割に少し肌寒い感じがした。

 インターホンを押して、いつものようにエントランス前で待つ。部屋のドアを開けた加藤は、クロを見て心配そうに眉根を寄せた。

「顔が真っ赤です。熱は測りましたか?」

「大丈夫です、このくらい。若いですから」

 クロは元気に返答できていたつもりであったが、若干呼吸が乱れており、どう見ても大丈夫ではなかった。しかし、クロがのしのしと廊下を歩いていくので、加藤は不安げに後ろ姿を見守るだけであった。

「先生、ほんとに大丈夫?」

 授業中に朔夜から何度も確認されているうちに、クロも自分の体調が予想以上に悪化していることに気づき始めた。一時の感情に任せて雨に打たれ、その結果見事に風邪を引くとは、何とも幼い失敗をしたものだが、家庭教師だけはサボってはならないという義務がクロをここまで歩かせたらしい。

「ごめん、少し早いけど、今日はこれで終わらせてもらうよ」

「早く帰って休んで下さい」

 普段は淡白な朔夜の終始心配そうな顔に、気を遣わせて申し訳ないやら情けないやら、しかしクロにはそれを気にする余裕はもう残っていなかった。

「絵の授業は、また今度で」

「いいですよ、ただの暇つぶしですから」

 その返答が耳に入ってから脳に到達するまで微妙なタイムラグがあった。

重い足を一歩、二歩、と踏み出してドアノブに手をかけようとした瞬間、クロの中の何かが音を立てて崩壊していくのが分かった。ぼんやりとした視界に朔夜を捉え、クロは荒い息を整えることなく言った。

「なら、もうやめようか」

「え?」朔夜はクロの挙動の変化についていけずにキョトンとした。クロはさっきよりも強い口調で言った。

「楽しくないことを続けてもしょうがない。やめよう」

「いきなりどうしたんですか? 変です」

「つまんないんだろ? ちょっと絵が描けたって一円にもならない。さっさとやめて勉強に時間を使った方が有意義だ」

「私、そんなつもりじゃ……」

 朔夜は何が起きているのか全く理解できていないで、焦りと弁解の表情を浮かべていた。その戸惑った顔を確かに認識しているのに、こんな顔をさせたいわけじゃないとわかっているのに、ブレーキが壊れしまっていた。

「最初っからやる気がないって言ってたもんな。俺、何やってんだろう。一人で空回りして、馬鹿みたいだ。こんな、将来何の役にも立たないことに、何を期待してたんだ」

 クロはやつれたホームレスのように俯いて、足を引きずるように朔夜へ背を向けた。

「もうあの課題はやらなくていい。無理にやらせて悪かった」

「ま、待って」

 腰に衝撃を受けてつんのめるように膝から転けた。上半身を捻って振り返ると、朔夜が椅子から前のめりに転げ落ちていた。クロを引き止めようと机を押す反動でローラーつきの椅子を押し出し、その勢いだけで上半身を投げ出したのだろう。朔夜は、人に変わる魔法をかけられたばかりの人魚のように、両腕の力だけで身体を起こしてクロを見た。

「先生、待って。私、絵、好きです」

「今更。俺がもう教えたくないんだ。もう、疲れた」

「待って、話を聞いて下さい」

「自分で出来るだろ。インターネット使えるんだから、描き方なんていくらでも調べられる。俺じゃなくたっていいだろう。やりたいなら勝手にやってくれ」

 細い腕で身体を支えるのが辛いのか、朔夜は苦しそうに話した。起き上がる気力が出ずに、クロはそのまま尻を床に着けて座り込んだ。あぐらをかいて、脱力しきった瞳で見返す。

「先生のおかげで、新しい友達が出来たんです。教室で絵を描いてたら声をかけられて、美術部に誘われたんです」

「良かったじゃないか。部活の先生に教えてもらえばいい」

「入部は断りました」きっぱりと答える朔夜。

「なんで?」

「お願いします」

 クロの問いに答える気はないようだった。その代わり、今まで見たことのない強い意志の宿った眼差しで、クロの心を射続けた。クロは弱った狼のように息を切らせながら少女の彫刻のような顔立ちを見つめ返した。

 突如、火花のように、朔夜の姿が記憶フォルダ内でスパークした。

 確信めいたものが湧き上がってくるのを感じて、その方向に無我夢中で意識を掘り下げた。

 始まりは、確かに、絵をもう一度描きたいという無意識で彼女を利用していたかもしれない。それは認めよう。なんといっても、自分は妥協だらけの灰色なのだから。

けれど、今、彼女は自分の意志で描こうとしている。そうさせたのは、他でもない自分だ。

 一度妥協した人間は、妥協することに慣れる。そうしなければ自分が保てなくなる。しかし、そんなクロにとって、彼女は一筋の光明になり得る。

 朔夜に対して妥協してしまえば、その時こそ灰色の海で溺死する。崖の淵で踏みとどまれるかどうか、ここが分かれ道だと確信した。

 それが、すべての色を失いかけたクロの、他でもない自分を救うために、行き着いた答えだった。

 灰色には灰色のやり方がある。朔夜がやるというのなら、期待して、利用して、縋り倒してやる。彼女の才能という大船に相乗りさせてもらう。

卑屈な薄い笑みを浮かべた。やがて笑みの隙間からクツクツと何かを煮込むような音が漏れた。気味の悪い笑い声に朔夜は不安そうに顎を引いて上目遣いをした。

 クロはのろのろと腰を持ち上げてしゃがみ、ほとんど這いつくばった体勢できょとんとしている朔夜に手を貸してやる。弱った身体で人一人を抱えるのは相当にしんどい作業であったが、何とかベッドに腰掛けさせてやった。荒くなった呼吸がいっこうに元に戻らない。息も絶え絶えでクロは朔夜から離れた。眉尻の下がった不安そうな切れ長の目が、ぼやけた視界の中ゆっくりと引いていった。

「先生、大丈夫?」

「ああ……うん」

 相槌一つにもたっぷりと呼気を使わねば発音できなかった。チカチカと瞬きに会わせて白熱する視界の中心に、霞んだ朔夜を捉えながら言った。

「俺は、妥協が大っ嫌いだ。口だけで終わるやつも、嫌いだ」

 俺は、俺が嫌いだ。頑張れない俺が嫌いだ。頑張れないのを、何かのせいにするような俺が嫌いだ。諦めずに頑張っている誰かを、往生際の悪いやつと見下してしまう俺が、大っ嫌いだ。

けれど、今は、それを棚に上げて、脇へ押しのけて、あえて言う。

「君が本気なら、俺も本気で教える」

「本気です」朔夜は凛々しく真っすぐな瞳で即答した。

 クロがニヤリと笑うと、つられて朔夜も頬を緩めた。急に身体が軽くなった気がした。

「じゃあ、帰るよ」

「ありがとうございました。気をつけてください」

 クロは部屋を後にした。おぼつかない足取りで玄関に向かう。

 他人に描かせて欲求を紛らわしている? 上等である。朔夜はやりたいと言った、それだけで十分だ。

 一歩一歩踏みしめながら考える。

 もし彼女が本当に凄い絵描きになれたら、まだどこかに燻っている夢の残滓は消えてくれるだろうか。半端なプライドはなくなって、趣味でダラダラと絵を描くのだろうか。分からないが、それもいいだろう。そんな半端な自分を許容できるようになれたら、真の意味で前向きになれる気がする。灰色の中に一筋の光りあれ。朔夜さえ輝いていれば、クロは灰色に埋没せずに済む。

 視界がおぼろげになるにつれて、思考力も大幅に落ちていった。

 リビングから出てきた加藤に見送られ、靴を履こうと足を伸ばしたところで、クロの意識は完全にホワイトアウトした。


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