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土曜日。しっかりと圭一に許可を貰い、加藤を含めた三人での外出が可能となった。一介の家庭教師が出しゃばり過ぎたかと思ったが、圭一は快く今回のお出かけに賛成してくれた。
クロが待ち合わせ場所の上野駅公園口改札前に約束の十五分前に到着すると、そこには既に二人が待っていた。近づいていくと朔夜が気づいて手を振った。加藤も遅れてクロに気づきお辞儀をした。
「おはようございます」
「先生遅い」
朔夜はいつものジャージではなく、淡い紫のセーターに白いロングスカートを履いていた。よく見ると顔には薄く化粧が施されている。長い髪は流れるように梳かされて日の光を照り返すほどの神々しさにクロは目を細めた。
「今日は一段と綺麗だね」
「茶化さないで。加藤さんが無理矢理やったんです」
クロが加藤を見ると、ニヤリと不気味に笑った。本人はお茶目に笑ったつもりなのかもしれないが、残念ながら威圧感が増しただけであった。しかしこの人、第一印象からは想像もつかなかった愛嬌がある。
上野恩賜公園の中程にある東京都美術館を目指す。ここには海外の美術館から頻繁に展覧会が出張してくる。今回はイタリアの美術館が来ているようだ。
午後でラッシュタイムは過ぎているはずだが、週末ということもあり駅から公園にかけてかなりの人が通行していた。加藤が朔夜の乗っている車椅子を慎重に押して、クロも歩調が早すぎないように気をつけながら歩いた。歩道にある案内に従って公園に入場すると、木々の間の開けた通りに爽やかな日の光りがさらりと広がっていた。この春から愛用の革ジャンの内側、長袖シャツに汗が滲んで気持ち悪い。クロは堪らず上着を脱いだ。
「晴れて良かったと思ったけど、ちょっと暑いね、服装間違えたな」
「天気予報見なかったんですか」
「うん、まさかこんな急に変わるとはね」
のろのろと歩いていると、何やらどこかで聞いたことがある面妖な曲が前方から聞こえてきた。通りの途中の広場に人が溜まっており、どうやらマジシャンがパフォーマンスをしているようだった。三人とも興味がなかったので素通りしたのだが、クロはふと昔の出来事を思い出した。
随分昔、まだ小学校低学年だった頃、父親と母親がいた頃。三人で出かけた時に、駅でストリートミュージシャンを見かけた。クロは、何と言ったかは覚えていないが、彼らのことを馬鹿にしたようなことを言ったと思う。多分、惨めだとか、恥ずかしいとか、そんなことだろう。その日から数日、父親は口を聞いてくれなかった。
絵描きを目指す頃になってようやく父の怒りの意味が分かった。世間で騒がれているほとんどの有名人に下積みの時代はある。中には天才的な能力を早い段階で発揮して一気にスターに駆け上がる人もいるが、そんなのは一握りだ。夢を追いかけている人を馬鹿にできるのは、夢を追いかけたことがない人だけで、それを小学生に理解しろというのは無理があるけれど、当時の父は許せなかったのだろう。だからクロに怒りをぶつけることなく、ただ沈黙したのかもしれない。
おなじみの大きな球体のアートが見える頃になると、クロは喉の渇きを感じ始めた。
「喉乾きませんか? 何か買ってこようと思うのですが」
「水筒を持ってきました」
加藤は足を止めると斜めがけの鞄を開いて手頃なサイズの保冷水筒を出してクロに手渡した。
「流石加藤さん、ありがとうございます。準備いいですね」
クロはカップに口をつけてからあることに気づき、あ、と小さく声を上げてしまった。二人の訝しんだ視線に眉を少し上げて伺うように答える。
「これ、朔夜ちゃんも使うよね。口付けちゃったな」
「先生、気にし過ぎ。小学生じゃないんだから」
朔夜の声は平坦で、呆れた様子で鼻を鳴らした。クロと加藤は顔を見合わせてこっそり笑った。
最近朔夜の物言いにますます遠慮がなくなって、生意気にも思える発言が増えてきていた。フィギュアスケートの世界で実力者として認められていた彼女は、本来はもっと勝ち気で攻撃的な性格だったのかもしれない。自分の持つ自信を元にした堂々とした性格だったのだろう。その自信の根源が失われて今の性格へと歪んだ。クロはそう推察していた。
そういうわけで、朔夜の態度が変わったのは心を開いてきた明確な証拠に思えて、刺のあることを言われても悪い気はしないのだった。
空調が利いている全体的に茶色い内装のエントランス、大人用のチケットを三枚買う。加藤が財布を出したが、誘った人が払うべきだとクロが言うと渋々認めた。
案内に沿って進むと、入口で音声ガイドの貸し出しを有料で行っていた。
「使う?」
「先生が解説してよ」
「無理だよ」
朔夜は本気で無茶ぶりをしようとしているらしく、借りなかった。加藤は「折角ですので」と小銭を取り出していた。昭和のドラマで出てきそうながま口の小銭入れがあんまりにも似合っていたので、思わずクスリと笑ってしまった。
扉を抜けると、中は完全に別世界になっていた。高い天井から照明が強く室内を照らし、先ほどまでの黒い内装とのギャップを感じさせた。それなりに人はいたが、広い空間に音が拡散して、美術館独特の会話の少なさも加わりむしろ自分の足音や朔夜の車椅子が進む音の方が良く聞こえた。
壁に一定の間隔で掛けられた歴史的な名画達が、お前は我々の価値を理解しているのか、と逆にクロ達を値踏みしているようだった。
加藤はイヤホンをつけて音声ガイドを片手に朔夜の車椅子を押している。
入ってすぐの壁にこのフロアの絵画の時代の説明がプリントされていた。最初は宗教画で、キリストや聖母、天使が描かれた油絵が並んでいる。
クロは宗教画にはあまり興味がない。写実的な風景画、そこに行ってみたくなるようなリアル絵が好みである。といっても近くで見るとそこまでリアルには見えないのだが、それが面白いところでもある。そんな気持ちが歩を進めたのか、後ろを振り返ってみると二人は三枚分手前の絵を見ているところだった。
どうやら朔夜も宗教画にはピンとこなかったようで、一つの絵に対して集中して眺めている時間は少なかった。逆に加藤の方はじっくりと見ているので、朔夜は自分一人で先に行きたそうにしていた。クロは二人のところに戻って控えめな音量で声をかける。
「宗教画って良さが分かりにくいよね。僕はキリスト教徒じゃないし、こういう絵がどんな思いで作られたのか、理解できないんだ」
「そうですね、綺麗だとは、思いますけど」朔夜が頷く。
「説明を聞いていると、何か凄いものだという雰囲気は伝わってくるのですが」
加藤はしわがれかけた声で言うとゆっくり車椅子を押して歩き出した。クロは自分と絵画で二人を挟む位置をとった。
「僕は、その絵が素晴らしい理由を口で説明されても、分かった気になるだけのような気がします。一目見て感じるものがあれば、たとえそれが名画と呼ばれてなくても価値があるんです」
「確かに、息子が小さい頃に描いた絵の方が大切に思えます」
クロが展開した持論に反応したのは、朔夜ではなく加藤であった。いつになく饒舌なのはこういった芸術に関心があるからだろう。音声ガイドも進んで借りているし、彼女が一番楽しんでいるのかもしれない。
「息子さんいらっしゃったんですね」
「ええ、関西の大学に通っております」
加藤は目尻の皺を深くして微笑んだ。家政婦ではなく母親の顔をしている彼女からはいつもより柔らかい印象を受けた。
途中、長辺が三メートルはあるかという巨大な天使の絵があり、多くの人が立ち止まっていた。朔夜も一言、凄い、と口にした。
エレベーターで次のフロアへ。当然車椅子対応である。
クロにはこのフロアの絵のジャンルが遠目に見ても判断できた。
「これは印象派だね、さっきまでとは全然違うでしょ。風景とか全然リアルじゃない」
最も近い絵の前で一行は止まった。港町の絵だが、人の顔は描かれておらず、建物の形など、全体の雰囲気もぼんやりとしている。
「私はこちらの方が好みです。画家さんの想像力が伝わってきますから」
加藤がまじまじと絵を眺めている。朔夜も宗教画よりは興味を示しているように見えた。
クロは二人に合わせて歩きながら、胸と腹の中間の部分が締め付けられているような気がして、何度も深呼吸をした。それが何なのか、薄々感づいてはいるが、深呼吸を繰り返してねじ伏せた。
次のフロアに上がると、中世ヨーロッパの調度品や彫刻が硝子ケースに入った状態で展示されていた。
「先生の家の椅子もこんなのなの?」
「僕の部屋にはないけど、叔父さんの家にはでっかいソファーがあるよ」
「ふーん。金持ちか」
正人から紹介されたことを以前説明してあった。そのときに叔父と圭一の関係も話してあるので、朔夜の中でクロはボンボンな息子というイメージがついているようだ。朔夜の家もそこそこ裕福なはずだが、そんな彼女から見ても豪華な生活は羨ましいのだろうか。
クロは必要以上の金にはそこまで興味がない。はじめは一般の家庭、父が消えて貧乏になり、叔父に引き取られてからは富裕層の仲間入り。そんな経験をしているから、必ずしも金が人を幸せにするとは限らないと理解していた。その一方で、金があれば大抵のことができるとも思っている。父の蒸発の原因は金だったし、母親も金があれば働き過ぎて身体を壊したりしなかった。
そして何より選択肢が増える。圭一が仕事を優先しているのは金のためで、その金は朔夜の将来を明るいものにするために稼がれているのだ。だからクロが必要だと思っている金は、本当の意味では際限がない。今は興味がないと考えていても、いざ目の前に金をちらつかせられればどんな判断を下すかわからない。そんな自分が気に食わないと思う反面、仕方ないとも考えていた。
ぼんやりと羨ましげに呟いた朔夜に向けてクロは言った。
「実は、僕も金持ちは嫌いなんだ」と笑いかけると、朔夜はキョトンとした。
すると今度は加藤が機敏な反応を見せて、平手打ちのような声を出した。
「お言葉ですが、贅沢な生活をしている人もそれ相応の苦労をしているのですから、そういうことを言うのは品がないです」
「加藤さん、冗談ですよ」
クロは想像以上の威圧感に戸惑いながらも、茶化して会話を終わらせた。
しかし、本心では、本当に金持ちが気に食わないと思っているところもあった。もちろん、一世代で会社を築き上げるような努力家、そう、正人のような人間ならば尊敬に値する。
クロが気に入らないのは、努力しないボンボンだ。一度だけ正人についていって金持ちの集まるパーティーに参加したことがあるが、そこで出会った人間は両極端であった。それは、意志のある人間と、ない人間、金に群がる人間と、持て余している人間。
金があるところに人が集まるのは当たり前なのでそういう人たちを時折醜いと思うことはあっても罵倒したりはしない。
許せないのは、生まれながらに優位な立ち位置にいるにも関わらず、それを活かそうともせずにいる人間。親が決めたレールに乗るのが嫌だという理由だけでグダグダと悩んでいるような人間が、クロは大嫌いだった。
だから、クロは自分の置かれている状況を客観的に見た時、将来に対する最善の選択を選ぶことに躊躇いはなかった。即ち、正人への義理を果たし、会社に貢献することだ。当然実力が伴わなければ厳しい評価が下るだろうが、叔父に加え、将来的には圭一の援護も見込める。下手なミスさえしなければ安定した生活はもう手に入ったも同然なのだ。この選択肢を破棄するようなことは、クロには出来ない。そのために画家になることを諦めるなど造作もないことであった。
クロは自分の考えを再確認すると、ここに来てからちりちりと鬱陶しく腹の底を弱火で炙っている感覚が、やはり間違いであると結論付けた。
途中エスカレーター付近にあるベンチで休憩を挟みつつ、二時間ほど見て回って観賞を終えた。
出口を抜けて茶色いエントランスに戻り、建物の入口へ向かう。
チケット売り場まで戻ったところで、係員のホルダーを首に提げたスーツ姿の若い女性が通りがかりに三人を見るや否や、メガネの裏の目を細めながら近づいてきた。クロは、確かにどこかで会ったことがあるのに、中々思い出せずに、向かってくる相手と同じく怪訝そうに見返した。
「あれー?」
やけに間延びした声を聞いて、花火のように記憶が弾けた。
「鍵山先輩、ですか?」
最後に会った時よりもかなり印象が違う。昔はロングだった黒髪がばっさりとベリーショートに変貌しているし、メガネはコンタクトレンズに変えたと思われる。
「あ、やっぱりクロだー。凄い偶然、ってわけでもないか。ここなら遭遇の確立は高いわね」
鍵山はニタニタと笑いながら話した。独特な話し方は変わっていないようだ。
朔夜と加藤はクロの少し後ろで二人の会話を黙って聞く体勢になった。
「ここに就職したんですか」
「いやいや、ただのボランティアさ。たまたま伝手があってね、コネ獲得のために」
ウシシ、という変な笑い方がより一層クロの記憶を刺激して、高校生活を思い出させた。
「そこなお二方は?」
クロは二人を紹介しやすいように身体の向きを変えて手で示す。
「家庭教師をやってるんですけど、こちらが生徒の六谷さんで、こちらが家政婦の加藤さんです」
二人は会釈をする。
「それでこの人は、高校の先輩の鍵山さんです」
「あ、まってまって、名刺持ってる」
鍵山はスーツの内ポケットから性格にそぐわない無骨な名刺入れを取り出してみせた。三枚取り出してそれぞれに渡す。
『画家 兼 KAGIYAMA 画材店 代表 鍵山澄華』
入れ物と違いカラフルな名刺にはそう記されていた。そういえば先輩の実家は画材店だったな、と思い出す。画家、という文字を見たとき、ついさっき押し殺したはずのあの締め付けられる感覚が、クロの身体の中心で音を立てて蘇った。
「どんな絵を描くんですか」
朔夜は名刺を手に持ったまま鍵山に興味の眼差しを向けていた。鍵山は低い位置からの視線に、いささかも背を丸めることなく口を開いた。
「水彩画だよん。景色を描くことが多いかな。あなたも絵を描くの?」
「最近、少し。先生に教えてもらってます」
朔夜は若干恥ずかしそうにクロへ上目遣いで瞳を向けた。鍵山は嬉しさと驚きが混在した声を漏らして、歯を見せて無邪気に言った。
「わーお、家庭教師ってそっちのだったんだー。良かったわ、辞めちゃうには惜しい才能持ってんだから」
「教えてるだけで、自分では描いてないですよ。就職したらそんな余裕もなくなるでしょうし。それに、とっくに諦めてますから」
クロは慌てて訂正した。まるでそうなって貰わねば困るという風に最後の一言が強調されていた。
「本当にー?」
ぱっくりと胸が解剖されたように痛んだ。真っすぐとクロを見る鍵山の表情から、ニタニタとした茶化すような雰囲気は消え去っていた。ふざけた口調だけが置いて行かれたように耳の奥に張り付いた。肋骨が内側に収縮していくような軋みがした。
「ありませんよ」
クロは苦笑いして溜め息混じりに答えた。そこには少しの苛立ちが混ざっていて、それを敏感に察知したのか、鍵山は「残念だなー」と緊張感のない声で大げさに悲しんだ。
「それじゃあ、もう行くわ。今度飲みにでも行きましょ。六谷さんも、絵のことで何か質問あったら気軽にそのアドレスに連絡していいからねー」
風のように通路へと去っていく鍵山をクロ達は最後まで見ることなく外へ出た。肌に纏わり付く生温い空気が、日向に出ることを躊躇わせる。二十度は確実に超えているだろう。
「気に入った絵はあった?」
「凄い絵だと思うんですけど、自分が描きたいという感じでは」
「そっか、でもいい気分転換にはなったんじゃない」
「はい」
三人はゆっくりと来た道を戻った。行きよりも伸びた木々の影に避難しながら、ふと、風にそよぐ葉っぱの音や人々の喧噪が素敵なものに思えてきて、クロは鍵山との邂逅で軋んでいた気分を一新するために鼻から大きく息を吸った。時々こういうことがある。
美とは何か、という哲学は古くから考察されてきているが、クロもまた、一つの考えを持っている。この世のすべては初めから美しい、というものだ。
美しい風景、美しい音楽、一般的に美しいと呼ばれ他者と共有されるものが美なのではない。この世界に存在する物質、概念、思考、ありとあらゆるものは最初から美しいのであって、それを人間が知覚できていないだけだという考え方である。つまり今、風の音や日の光りを美しく感じるのも、時には人の死でさえキリストの宗教画のように美しい絵画として残されるのも、誰かがそれを美しいと決めたのではなく、美しい存在を人間が認識できた、という受動的な考えなのだ。結局は、卵が先か鶏が先かの違いでしかないのだが、クロにはどうにも、主観的に認識を押しつけるのは世界に対する冒涜に思えるのだ。これが美しいと自分が思っているから描くのではなく、美しいものだと気付いてしまったからには伝えたい、というような、微妙な違いである。
見れば、朔夜は視線を上に固定したまま、加藤に押された車椅子の中で動かない。きっと葉っぱの隙間から見える空を見ているのだろう、とクロは思った。木漏れ日が作り出す影のパターンの中を進む彼女の姿は、さっき見てきたどんな名画よりも絵になっていた。クロの考えによれば、彼女が美しいのも、産まれた瞬間から決まっていることなのだ。
「先生って」
朔夜が斜め後ろを歩くクロを振り返って呼んだとき、クロは無防備に朔夜を眺めていたので、いきなり目が合ったことにかなり動揺した。
「なに」
「もしかして、凄い人だったんですか」
「え? ああ、鍵山さんが言ってたことか。別に大したことないよ。高校生の時にちょっとした賞を貰っただけ。あの人の方がもっと凄いよ」
「どうして辞めちゃったんですか」
クロは朔夜に責められているような気がして、視線から逃れるように木々の彼方の空を仰いだ。じくじくと痛みだす身体の中から、ぽつりと言葉が零れ落ちていった。
「なんでかな、忘れた」
並んで歩く二人が何も言葉を返さないのをいいことに、クロはひたすら上を見て歩いた。本当のようで嘘、嘘のようで本当、そんな曖昧な答えだった。クロはこれ以上考えたくなかったので、しっかりと心に蓋をして無心になった。
「あ、ちょっとあれ見ていいですか?」
朔夜が指差したのは、道の途中にある掲示板であった。他の美術展の宣伝ポスターが何枚も張ってある。三人は人の流れから逸れて掲示板の前に移動した。
朔夜の視線はとあるポスターにしばらく留まり、ポスター群を一瞥したあと、もう一度同じポスターを凝視し始めた。
それは、一般にはあまり知られていないが、オタク界、特に絵師達の間ではかなり名の通っている、『シムロ』というイラストレーターの個展であった。クロもあの濃いサークルメンバーの影響で知っていた。東京都美術館の近くという広告料の高そうな場所に張り出していることからも人気の程が伺える。
画風は、キャラクターの目が大きいなどデフォルメが強いいわゆる萌え絵ではなく、アニメのキャラクターではあるもののリアルな質感に寄せ、背景まで緻密に描き込まれた美麗なものである。
「有名なイラストレーターです。アニメのキャラクターデザインとか、CDのジャケットデザインとか、幅広く活動している人ですよ。確か画集も出していたような」
「綺麗ですねえ。どうやって描いているのでしょう」
加藤が本気で感心したという風に声を震わせて言った。まだ五十代のはずだが、驚き方一つにおばあさんのような深みが出ていた。
「これはパソコンで描いてるんですよ」
「機械で絵が描けるのですか」
「最近ネットにアップされている絵は大体デジタルで描かれたものですね」
二人の会話を聞いているのかいないのか、朔夜はなおもそのポスターを観察していた。
「七月からだね。興味あるの?」
わざわざ聞かなくても相当な興味を持っていることはよくわかる。朔夜はポスターから目を離さずに言った。
「ねえ」
「何?」
「私にも描ける?」
「それは君次第だよ」
クロは悪戯をするように笑って、そっと彼女の横顔を盗み見た。思考を隠す鋭い目元、ピクリとも動かない表情筋、しかし瞳だけが西日を受けて生まれ変わったように輝き、今にもその足で立ち上がりそうであった。どうやらここにきた本来の目的は達成されたようだった。
「気に入ったなら、今やってるデッサン教本が終わるまでには色々考えておくよ」
それから駅までは会話することなく、クロは改札の内側で二人と別れた。
帰りの電車の中で、クロは明日からの計画を立てた。
イラストレーターの知り合いは残念ながらいないが、人に乞われてアニメのキャラクターを油絵で描いたことならあった。基本的な人物の書き方は同じのはずだ。しばらくは基礎練習を継続させつつ、クロ自身が先にデジタルでの描き方を学ぶ必要がある。
問題は絵を描くためのソフトの使い方である。全く知らない訳ではないが、人に教えるとなるとかじった程度の知識では心もとない。その手のことに詳しいのは総合美術研究会のメンバーなので、また助けを借りることになりそうだ。
自宅へ向かう間、鍵山澄華の姿がちらちらと瞬きの間をうろついた。
『本当にー?』
「……うるさい」
脳内にこだまする耳障りな声を無声音ですり潰す。
『辞めちゃうには惜しい才能持ってんだから』
「お前が言うな」
今度ははっきりと声を出した。すでに住宅街に入っていて周囲に人影はない。それが余計にクロを妄想の世界に連れて行った。
いつの間にやら到着した根城のベッドに仰向けになっていた。
クロは何度目とも知らない溜め息を吐く。まだ夕方だというのに、酷く眠かった。このまま寝てしまおうか、と誘惑に流されかけたが、やらねばならぬことを思い出してスマートフォンを手に取った。
チャットアプリを起動し、『多岐ちゃんだゾ』という名前をタップしようとして、彼女は曲がりなりにも就活中であることを思い出した。本人は夏コミが終わったらと言っていたが、どう考えてもそれでは遅いので何か行動を起こしていると思われる。邪魔はしたくない。画面を少しスクロールして『さよ@コミケ出たい』をタップすると、こんな会話をしただろうかというやりとりが書かれていたのでログを遡ってみた。最後のやりとりは三ヶ月も前になっていた。同じサークルに所属しているが、普段から連絡を取り合う仲ではないのだった。念のため補足しておくと相手は長島小夜である。
気を取り直して文面を考えて打ち込んでいく。
『ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?』
送信。
返信を待つ間にシャワーを浴びる。髪の毛をバスタオルで乱暴に擦りながらスマートフォンの画面をつけたところ、七分前に返信が来ていた。
『なに?』
相変わらずクロはすぐに返信を打ち込む。
『結構前にペンタブ買い替えたって言ってたけど、古いやつまだ持ってる? もし持ってたら貸して欲しい』
送信。今度は一分も経たないうちに既読のマークがついた。間もなくバイブレーションが起こる。クロは常にマナーモードにしているのだ。
『ある
何が描きたいの?
てかやるならコミケのゲスト絵描いてよ
まだ全然間に合うし』
期待していた答えが返ってきたことに安堵した。パソコンで絵を書くために必須になるペンタブレットは気軽に購入できるものではないし、やすやすと人から借りられるものでもない。もし用意できなければしばらくはアナログで教えるつもりであったが、ダメ元で聞いて良かった。
後ろの二行は無視する方向で返信内容を考える。
『人に教えなくちゃいけないんだ。シムロみたいな絵が描きたいみたい』
既読のマークはすぐについたが、返信まで少し間があいた。長文でも入力しているのか。
『クロが描くんじゃないんだ』
しかし、帰ってきた返答は短いものであった。相手の顔が見えない分、これがどれほどの意味を持っているか、この時のクロには分からなかった。ただ、腐りかけの食べ物を口に含んだ時のような嫌な感覚がした。
やむを得ず事情を少し説明した。再び、しばらく返答は来なかった。クロは律儀に待つことをやめて、ここ最近の日課になっている家庭教師の授業の計画をたてる作業をした。
寝る前になってそういえばとスマートフォンの画面を灯すと、五十分前に返答がきていた。
『火曜日サークル棟に来て』
クロはお礼の返信をしたが、翌朝にも既読はついていなかった。