2
四月も三週目になり、桜が散りきった月曜昼過ぎの空を眺めながら、クロは六谷家への道のりを歩いていた。通常は夕方からの授業なのだが、先週末に始業式を終えたばかりの朔夜の高校は水曜日まで午前中で終わるらしく、それに合わせて早めているというわけだった。今後学校生活が平常運転になれば夕方からの授業になる。クロの方はといえば大学の授業がないので一日暇である。対応は簡単だった。
三月後半までずるずると冷え込んでいたくせに、態度を変えたように桜の枝を優しい風が包み込んだ。あっという間に咲いて、新学年のガイダンスを受ける頃には散っていた。
家庭教師は今日で五回目。知らなかった街は早くも見慣れた。
六谷家は、都合のいいことにクロの住むマンションと大学の中間に位置していた。都内の住宅街にある一般的なマンション。クロも似たようなマンションに住んでいるが、2LDKの間取りは年端も行かない少女が一人になるには確かに広過ぎるな、と最初の授業の時に思った。
エントランスの自動扉横にある機械で呼び鈴を鳴らすと、家政婦の加藤がしわがれ始めている声で、どちらさまでしょう、と言った。いつも同じ時間に来ているのだから、どちらさま、と毎回言われるのは少々癪であった。クロの勝手な気分であるが。名前を言うと、かしこまりました、とお決まりの答えが返ってくる。
返答から十秒ほど待たされて、ドアが開く。このタイムラグにももう慣れた。エレベーターで六階に行き、6Dの部屋のインターホンを押す。落ち着いた服装をした、背の高い初老の女性がドアを開いて、そのままドアを押さえてクロを先に中に入れる。
広い玄関から既に家賃の高さが伺える。鍵をかけ直した加藤は靴を脱いでいるクロに言う。
「お嬢様は自室です」
「わかりました」
クロは廊下に上がって靴の踵を揃える。もしクロが揃えなければ加藤が揃えるだろう。初日に加藤に靴を揃えられたことが恥ずかしく、それ以来自分でやるようになった。
正人は礼儀正しく気のきく家政婦を選んだと言っていた。確かに礼儀正しいのだが、はっきり言って強面なので、丁寧な口調が返って威圧的に思えた。しかし正人や圭一からの信頼を得て朔夜の世話を任されている以上、クロの感情は問題ではない。仕事に支障がなければよいのだと、気にしないことにしていた。
朔夜の部屋は玄関からリビングに続く廊下の途中にある。ドアをノックすると、病室で聞いた時から変わっていない泡のような空虚な声で返事があった。
「こんにちは」
上下共にジャージ姿の朔夜は机の前でローラーつきの椅子に座っており、クロが挨拶すると机に手をついた反動で椅子を回転させて振り返った。車椅子はベッドの近くに寄せておいてある。机の上には書店のカバーが施された文庫本が置いてあった。栞の位置を見ると以前見たときよりもかなり読み進んでいるようだった。
「調子はどうかな」
「大丈夫です。これ、終わりました」
そう言って朔夜が手渡してきたのは、クロが三日前の金曜日に渡したばかりの英語の小問題集であった。小問題集と言っても百ページ以上ある。
クロは中身を検分しながら呆れて言った。
「あれ、またこんなにやったの。あんまり一気にやるより適度に休憩挟んだ方が集中できると思うんだけどな」
「暇です」
朔夜はきっぱりと言う。声はふわっとしているのに物言いはストレートなのだ。
「勉強以外何してるの?」
「読書は、少し」
「そっか、まああんまり根詰めないで、気楽にいこうよ」
意識して陽気に笑いながら肩掛け鞄のチャックを開けて、化学の参考書を出した。朔夜がちらりと横目でそれを見る。
「化学は好き?」
「普通です」
「好きな人あんまりいないよね。僕が高校生のときも不人気だったなあ」
「そうですか」
「喋り方が変な先生でさ、皆真似ばっかりしてたんだよね。でも僕は天の邪鬼だから、みんなが頑張らない教科って理由で頑張ってたな」
「そうですか」
「あ、ごめん。やろうか」
興味無さげな朔夜の反応を受けて、クロはもう一つあるローラーつきの回転椅子に座って参考書を開く。よくある勉強椅子で、クロが使うために圭一の部屋に余っていたものを持ってきたのだった。
新しい範囲の説明をして、練習問題を解かせる。その間は机から離れて、椅子の背もたれに身を預けながら、ぼんやりと朔夜を観察する。
病的なまでに色白の細い首を長い黒髪が流れ落ちて、時折揺れるその髪が、女らしさの皆無なジャージを擦ってカサカサと音を立てている。
きっと、スケートをする時に着ていた練習着なのだろう。足が動かない今、スケートを連想させるそれを使うことに抵抗はないのだろうか、一体どのような心境なのか、とクロは考えを巡らせたが、わかるわけもないとすぐに思考を打ち切った。
特に変わったこともなく、約三時間の授業は終わった。
「それじゃあ、次回までに数学を、この五十六ページの練習問題までやっておいて」
クロは数学の問題集の56の数字を赤ペンで丸く囲んだ。
「はい」
朔夜はクロを見ないまま返事をした。クロは部屋を出て、ふう、と息を吐いた。
家庭教師など必要がないのではないかと思えるほど、朔夜の理解力は優れており、大抵のことは自分で解決していた。最初の授業で学校の授業の進み具合を一通り質問して、以前に圭一から聞いていた朔夜の成績などと照らし合わせて復習の問題を中心に組んできたのだが、異常なペースで課題を終わらせるのだ。
元から飲み込みが早い性格なのか、有り余る時間を使って予習復習をこなし、授業中に疑問点を解消する。そんな、学校の先生が口を酸っぱくして勧めるが出来る人の少ない、あまりに模範的過ぎるスタイルを今日まで続けて、なお余裕があるように思えた。というより、これだけ勉強を進めているのに、自分の学力に対する執着が感じられないのだった。言われたことをただやっているような態度だが、なぜか言われた量より多く課題をこなす。クロには理解不能であった。
部屋を出ると、クロの退出を聞きつけて加藤が廊下奥のリビングからぬっと出てきた。
「お疲れさまです」
「特に変わったことはなかったです」
「分かりました。休憩していきますか?」
「いえ、今日はすぐに帰ります」
加藤は授業が終わる時間に合わせて夕食を用意してくれる。彼女の家事スキルは非常に高く、気まずいのにも関わらず都合さえ合えばご馳走になってしまうほどだった。しかし、今日は早い時間の授業だったので、夕飯が出来るまで待つというのも図々しくて気が引けた。何より待っている間の静寂が怖い。明日提出しなければならない課題がまだ終わってないというのも理由の一つだ。
クロが靴を履いて外に出ようとすると、後ろからサンダルに足を入れる音が聞こえた。気になって加藤に顔を向けると、彼女は控えめな声で言った。
「少し、お話が。外でいいですか?」
「あ、はい」
クロは疑問に思いつつも扉を開け、加藤とともに外へ出た。加藤は扉を閉めると、クロへ真っすぐな視線を向けた。何か自分が悪いことをしたのかと勘ぐってしまうほどの圧力にクロはたじろいだ。
「本当に、変わったことはありませんでしたか?」
「え、はい、むしろ良く出来過ぎているような気がします。会話も普通に受け答えしていますし、まあ、中々打ち解けられないんですけど」
クロは戸惑いつつ答えた。障害を持つ以前の朔夜を良く知らなければ、今の状態が異常かそうでないかの見分けをつけることは難しい。もしかすると元の彼女からはかけ離れた感情の出力レベルなのかもしれないが、だからといって今日までに様子が悪化したわけでもない。
加藤は眉根を寄せて、怖い顔だが、心配そうに話し始めた。
「朔夜様は、昨日リハビリに行くことを拒否したのです。最近は、時折何もせずにぼうっとしていたり、窓の外を見つめていることも多く、テレビを見たりもしませんし、お出かけを提案しても、断られてしまって」
「そうでしたか」
それはクロの知らない情報で、加藤がそれを自分に話してきたことに驚いた。確かに圭一には二人で協力して報告してほしいといわれていたが、一方的に授業での様子を加藤に話すだけで良いとクロは考えていたのだ。いや、純粋に加藤という人間が第一印象から苦手で、協力することに積極的でなかっただけなのだが、ようやくそのことをクロは自覚したのだった。
「同年代のお友達との交流がないのも心配で。去年は送り迎えをしてくれるお友達がいたのですが」
「クラスが別れてしまったとか」
「おそらくは」
「それは確かに、心配ですね」
クロは黙って顎に手を当てて考えた。
まさか、いじめられているなどということはないだろうか、と一瞬頭をよぎったが、学校に行くことが辛そうなようには見えないし、もしそんなことがあれば流石に圭一が察知する。新学期が始まる前と後で様子が変わったということもないので、新たに始まったいじめの可能性も薄いか。絶対ということはないので気には留めておこう。
西日の空に落ちた沈黙の間を縫って、カラスが大声で鳴いた。加藤が声の方向を見上げる。つられてクロも上を見遣ると、数羽のカラスが六階の高さよりも更に上を飛び回りながら合唱していた。
やがてカラスが彼方へ飛び去ると、クロの中にある考えが浮かんでいた。それは数日前から漠然と、無意識に存在していたことであった。クロはカラスが去っていった空を見つめたまま言った。
「部活だ」
加藤は少し首を傾げて続きを待った。
「多分、夢中になれるものが必要なんです。スケートが抜けた穴を埋める、目標になる何かが。それを探す手助けをしてあげられればいいのかもしれません」
朔夜が情熱もないのに勉強に打ち込んでいるのは、もしかすると何もやることがないからとりあえず気を紛らわすためにやっているのではないか、そうクロは考えた。
興奮しながらクロは言葉を続けた。
「スケートをやるために部活には入っていなかったはずです。二年生で新しい部活に入るのが恥ずかしい、というのはあるでしょうし、何かやらせてみましょうか」
しばらくお互いの顔を見合った末、ふ、と加藤が微笑んだことに、クロは驚きと困惑で目を広げた。
「失礼しました。あまりにも先生が板についていたものですから」
「あー、偉そうなこと言ってましたか」
「ご立派です」
クロは何だか嬉しくなって、照れ笑いで頬が緩んだままになってしまった。
「ちょっと、自分に出来ることを考えてみます」
そう言ってクロはエレベーターに足を向けた。
「はい、お気をつけて」
クロの中で加藤の印象が大分変わっていた。背が高く若干の威圧感がある顔立ち、そして年齢による貫禄が相まって気さくに話すタイプには見えなかったが、真面目でちゃんと朔夜のことを思っているようだった。クロよりもよっぽど朔夜のことをよく見ているし、何かしてあげられないかとクロに協力する姿勢を見せた。気が合わなさそうというだけで仕事を半端なものにしていたことをクロは反省した。
彼女なら、朔夜の私生活を支える役目を充分に果たしてくれるだろう。今まで最低限の会話しかしてこなかったのは、失敗であった。お互いの情報をしっかりと交換して、連携をとらねば。
クロは、自分が加藤に言ったことについて考えながら駅までの道のりを歩いた。
「夢中になれるもの……目標……何だ」
ぶつぶつと独り言を呟き、視線は斜め下の虚空へ、歩いているという感覚は忘れて、思考だけがめまぐるしく巡っていた。クロが考え事をする時の癖である。独り言は人類共通の癖だと勝手に思っているが、他人が考え事をする時にどんな癖があるかなど一々聞いたりはしないので確かめようがない。
「何ができる。勉強、いや、スケートに代れそうなもので俺が提示できるのは……」
絵を描くこと。真っ先に思いついた。クロが青春の大部分を費やし、そしてその道に進むのを諦めたものだ。同じ芸術に属することだし、何か良い反応が見込めるかもしれない。
駅の改札を過ぎて、自宅アパートの方面のホームに立つ。
「教えるだけなら、いいか」
他にも候補を考えたが、最初に思いついた案が思考を遮り、それに屈した。
「でも、強制するみたいじゃないか? 強いられて面白いのか?」
ほとんど息を吐き出しているだけの無声音が、駅員のアナウンスで掻き消される。しかし思考の音はそれよりも大きくクロの中にこだましていた。
「もうやらないと決めたはず」
電車がホームに滑り込んできた。
「やるのか」
電車が止まった。
「今何時だ」
ドアが開いた。
「どうする」
電車が動きだし、ホームから去っていった。クロは降車した人達の流れに乗って階段を上り、反対側のホームへと移動した。
決断した心だけが先走って、電車を待つのが辛かった。しかし、その間にも今日のこれからの予定、次の授業で何をするか、それらが頭の中で次々と構成されていくのは、ある種の快感であった。
クロが降り立った駅は、彼の通う大学の最寄り駅であった。そのまま大学へと足早に向かう。
時刻は夕方五時前、残っているのは五限の授業だけで、生徒のほとんどは既に帰っている。疎らに駅へ歩いていく生徒らしき私服の若者の流れに逆行して大学構内へ。サークル棟に入り、『総合美術研究会』と書かれたボロボロの張り紙が張ってある扉をスライドさせた。
二つの長机を中央に並べただけの狭い部屋に男が二人と女が三人、一斉にクロを見た。クロは驚いて一気に息を吸い込んでしまった。
短い茶髪の男は森次洋介、一つ下の後輩だ。以前あったときと髪型が変わっている。もう一人の背の高い男子生徒は記憶にない、新入生かもしれない。
女子生徒は、同級生が二人。赤い縁の丸めがねを愛用するぽっちゃり体型の多岐晴蘭と、いつも青色をファッションに組み込んでいる小柄な長島小夜、行儀悪く椅子の上で膝に抱えたスカートが青い。奥に座っているそばかすの目立つ地味な女の子は確か二年の三戸、だったか。
「パイセン、お久しぶりっす」
「レアキャラじゃーん」
森次と多岐が騒々しく言いながら、扉に背を向けていた体勢から座り直した。
新入生らしき男子生徒と三戸は座ったままよそよそしくお辞儀をした。
「どしたん? 顔真っ赤だよ」
長島が膝を抱えた状態で菓子を手に取りながら言う。
「あ、いやあ、こんなに人いたかなって。ああ、新入生がくるの待ってるのか」
クロは何とか気を取り直して、半笑いで答えた。
四月の間はサークルの勧誘活動が続く。構内の至る所にある掲示板に勧誘の張り紙が所狭しと張られ、少しでも興味を持って部室を覗こうものなら絶対手放さないという気迫で縛り付ける。
クロの頭の中は朔夜のことで一杯で、ここに来るまでの間はずっと一人の世界にいたので、いきなり自分に注目されたことで意表を突かれた形になっていた。
多岐は机に右肘をついて、真ん丸な顔を掌で支えながらダルそうに言った。
「なにいってんの? むしろ幽霊部員多過ぎて存亡の危機なんですけど」
「去年五人も入ったのに?」
「色々あったのよ、主にこいつ」
クロのもっともな疑問に多岐は顎で長島を示した。長島は不満そうに肩まである髪を指で弄った。
「あれは巻き込まれただけで……」
「はあ? 私のために争わないでー、って、ノリノリだったじゃねーか! このサークルクラッシャーが!」
「う、うるさいわね、人生初モテ期だったのよ!」
「おーおー、デブのアタシに向かって喧嘩売ってんの? ちょっと着飾ってモテたからって調子に乗りやがって羨ましい」
「あんたもオシャレすればいいじゃん」
「豚にジャム乗っけたって何の解決にもならねーよ! ウチは代々デブで遺伝子にデブが組み込まれてんだ。デブ専捕まえたら逃がさねえぞコラ」
「何の話よ……」
新入生らしき男子生徒は長身を縮こまらせて気まずそうに二人のやり取りを見ていたが、他のメンバーは慣れているのか、それぞれ漫画や小説を読んだり携帯を弄ったりして気にもとめていなかった。クロは壁に並んだ二つの巨大な本棚に近寄った。
「まあその話はいいよ、皆困ってるし。ちょっと本棚に用があるんだ」
「おー、存分に見て回れー」
多岐はすぐに熱を抑えると仰々しく答えた。本棚を物色する前に、棚の近くに座っている新入生と目が合った。
「彼は、新入生?」
「そそ、てっちゃんだよ」
「篠山哲司です。クロ先輩のお噂はかねがね……」
及び腰で立ち上がった篠山はクロより頭一つも高い。彼は鳩のように首だけを動かして礼をした。
「噂って?」眉を顰めて他のメンバーに視線を送る。
「二年の夏コミの時の話」
長島の言葉にクロは思い出し、ああ、と声を上げた。
「あれは偶然だよ」素っ気なく答えるクロに、またしても多岐が大仰に反応した。
「偶然なわけないっしょ、オタクが何でもかんでも買うと思ったら大間違いよ」
「あの絵、私が欲しいくらいだったな」
「コミケ終わったら密かに譲ってもらおうと思ってたんすけどねー」
「あんたそんなこと考えてたの」
聞き捨てならないとばかりに長島が森次へジトッとした視線を送った。
森次は漫画に目を落としながらパイプ椅子の背もたれに体重を預けてギコギコ音を鳴らした。相変わらず態度がでかい。悪い奴ではないのだが、色々と誤解されやすい性格というのは損をしていると思う。
コミケとはコミックマーケットの略で、毎年夏と冬に二度開催される日本最大の同人誌即売会である。総合美術研究会も毎回参加しているのだが、クロは二年前の夏を最後に作品を出品していない。今話題になっているのは、その最後の夏にクロが描いた油絵作品を偶然別のサークルの絵描きが気に入って買っていったという話だ。
多岐と長島の賞賛を受け流しつつ、本棚を眺める。ほとんどが同人誌や漫画であったが、端の方に絵描きの指南書がほんの少し集まった区画があった。クロはデッサン教本と絵描き向けの骨格解説本を取り出した。これらはすべてクロが絵描きを辞める決心をした時に寄付したものなので、再び持ち出しても誰も咎めはしないだろう。
「どうして去年のコミケには参加しなかったんですか」
三戸が遠慮がちに口を開いた。ほとんど会話をしたことがない子だったので、質問してくるのは予想外であった。クロは本棚を物色する振りをして適当な答えを探した。
「忙しかったからかな」
真面目に答える気がないのがバレバレの返答に三戸はしゅんとしてしまった。代わりに森次が態度よりもでかそうな声で言った。
「じゃあ今年は出てくれるんすか」
「え?」クロは半身を振り返らせた。
「パイセン就職決まったって言ってたじゃないっすか、暇っすよね」
「あ、いや」
三戸を筆頭にした期待の眼差しが刺さる。しまったな、と言い逃れる術を考え、咄嗟に思いついたことを言う。
「家庭教師、やってて、忙しいんだ」
「ええー、そりゃないっすよ」
「っかー、コネ入社は余裕だな、ちくしょう」
多岐が頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれにのしかかり、スライムみたいに溶けていきそうなくらいぐにゃりと脱力した。クロは多岐の言い草に若干苛立ったが、黙って本棚を物色する。そんな多岐へ長島が呆れ声で言った。
「あんたもこんなところにいていいわけ? 上杉はこっちの活動我慢してんのに。活動ってか駄弁ってるだけだけど」
上杉もこのサークルに籍を置いている。オリジナル曲やアレンジ曲のCDをサークルを通して販売していたのだが、現在は絶賛就職活動中でほとんどのイベントに参加することはないと思われる。クロも三月頭のライブから顔を合わせていない。
多岐は急に格好を付けて低い声で返した。
「夏コミ終わったら本気出す」
「それ手遅れよ……」
「小夜っちだって、人のこと言えないじゃーん」
「私は絵描きで食べてくって決めたのよ」
「ほとんどニートじゃん。ニートに言われたくないんですけど」
「うっさいわね」
騒々しさを取り戻しつつあるのを感じて、クロは切り上げることにした。
「この二冊、借りるよ」
「はいはーい」
「それじゃ」クロは本を肩掛け鞄にしまいながら早々に足を扉へ向けた。
「え、パイセン帰っちゃうんすか」
「うん、また顔出すよ」
「お疲れー」
「お疲れさまです」
クロは外に出て、後ろ手で扉を閉めた。ここに来るまでに使った体力のせいか、それとも彼らのテンションのせいか、どっと疲れを感じながらサークル棟をあとにする。結局持ち出したのは最初に手に取った二冊だけで、現段階で他に使えそうなものはなかった。
帰りの電車内で持ち出した本を流し読みし、計画を立てる。あっという間に自室に到着して、クロはリビングのソファーへ上着を脱ぎ捨てた。
手洗いとうがいをして、コップ一杯の水を煽り、一息つくとうつ伏せにベッドへ横たわる。空腹よりも眠気のほうが勝っていた。
「残りは明日買うとして、あー、ダメだ」
クロはそのまま眠りに落ちた。
次の日、課題をやるのを忘れて友達に泣きついたのは言うまでもない。
■
「じゃーん」
「何ですか、それ」
「絵画入門セット」
「それはわかりますけど」
水曜日。クロは授業が終わってからスケッチブックなどの絵描きセットを取り出したのだが、朔夜から帰ってきた反応は、当然味気ないものだった。クロはお構いなしに続けた。
「宿題を出します。このページのパート一をしっかり読み込んで、練習課題の絵をこれに模写して」
「授業に何の関係があるんですか」
朔夜が綺麗な眉間に皺を寄せて言った。怒った顔が全然恐くないことは言わないでおくことにした。恐くなくても整った顔立ちの女子に睨まれるだけで精神的なダメージは計り知れないのだが、ぐっと堪える。
「これも授業だよ、特別授業。ちゃんとやっておいてね、それじゃ」
反撃を許さない速攻を仕掛け、嵐のように部屋の外へ撤退した。一息ついて階段を下りると加藤がいつものように待機していた。
「無理矢理課題を出しました。やってくれるといいんですけど」
「吉と出るか凶と出るか、ですね」
「はたまた何も変わらないのか」
クロは目を細めて片頬を上げた。加藤もクスリと笑うと言った。
「何もしないよりはいいと思いますよ」
「それもそうですね。今日は帰ります。流石に機嫌の悪そうな朔夜ちゃんと食事はしたくないので」
クロは最後のほうを小声で言うと、六谷家を出てすっかり暗くなった住宅街の中を帰路についた。
金曜日。クロは大学で下らない講義を片付けると、一目散に六谷家へ向かった。ただでさえ卒業単位をほぼ満たしているクロにとって四年の講義は消化試合的なものなのに、朔夜が課題をやってくれたかどうかが気がかりで、教授の話など頭に入ってこなかった。
基本的に平日の家庭教師は夕方からである。まだクロの大学の時間割が不鮮明だったために曜日は固定していなかったが、週三回は義務づけられている。大学帰りの方が都合がいいこともあったので今のところは変則にして二週間ごとに予定を立てている。
夕焼けを背にして六谷家へ足早に歩いた。呼び鈴を鳴らし、加藤を待つ時間が少し焦れったく感じた。階段を昇りながら、一歩一歩気分を落ち着けた。
クロは非常に期待していたが、それを表に出すまいと強く自分に命令してから、扉をノックした。
「朔夜ちゃん、入るよ」
「どうぞ」
クロが入ると朔夜は机を支えにして椅子を回転させ、クロの方を向いた。まだ着替えておらず、制服姿のままであった。普段のジャージ姿とは打って変わって女子高生を目の前にしているというリアリティが伝わってくる。と同時に、そんな少女が足を不自由にしている姿が余計に浮き彫りになるようで、嫌な緊張がクロの中を走り抜けた。
「こんばんは、先生」
「こんばんは。ちょっと早かったかな。準備できてるかい」
そう言いつつクロは朔夜の机の上に広げられたスケッチブックに目ざとく気付いた。クロは緊張が吹き飛んで昂揚しながら口を開いた。
「あ、描いてくれたの?」
鞄をベッドの横の床に置いてからスケッチブックを手に取る。課題にしたパート一には四つしか絵がないはずだが、スケッチブックにはそれよりも多く、ずらりと絵が並んでいた。
「おお、たくさん。楽しかった?」
「全然」
朔夜は大層つまらなそうに答えた。それはそうだろう。クロが中学生の時、体育会系の同級生が美術の授業で強制的に描かされているのを思い出す。あれは本当に辛そうだった。それでもこれだけ描いてくれたのだから、あの時の彼よりはマシな心境だろうか。
「まあ、何でも最初はつまんないよな、基礎練ばっかりで。スケートもそうだったでしょ」
「二度とその話はしないで下さい」
朔夜の鋭い眼光に突き刺され、クロは喉の筋肉を締めた。出した言葉を呑み込めればいいのにと思ったがもう遅い。彼女にとってスケートがどれだけのトラウマになっているか想像するに難くなかったのに、何という失態だ。クロは素直に頭を下げた。
「ごめん、悪かった、もう二度としない」
謝りつつも、クロは自分の考えを確かめるために一つ質問しようと朔夜の顔色を窺った。これは家庭教師の授業で、しかもクロが勝手に決めた課題である。無理にやる必要はないはずなのだが……。クロはなるべく刺激しないような声音を意識して言った。
「でも、つまんないなら何で描いたの?」
「先生がやれっていったんでしょ?」
一つも疑問も含まれない澄んだ瞳がクロを見て言った。
「ここまでやれとは言ってないけど」
「ただの暇つぶしです。勉強は流石に飽きてきたので」
平坦な口調であった。しかし、彼女の模写にはクロが予想していたよりも力が注がれているように見える。
暇だからという理由だけで出した課題の数倍近くをこなすことは出来ないだろう、とクロは思ったがすぐに考えを改める。朔夜ならやりかねないのかもしれない。暇だから問題集を終わらせたというくらいだ。
圭一の話では、朔夜は女子フィギュアスケート界の新星だと、一部では騒がれていたらしい。学校が終わったらすぐ練習、土日も遊ばず決められたメニューをこなす、本当に好きだったのだろう。そこで培われた集中力が発揮されている、のかもしれない。
少なくとも勉強に注がれ過ぎていた時間を分散させることには成功した。
「何でこんなことやらせるんですか?」
「いや、悪かったよ。嫌ならやらなくていいよ」
クロはそう言ってスケッチブックを適当なところに置き、鞄を開いた。
「とりあえず授業にしよう」
朔夜に問題を解かせている間、朔夜の絵をデッサン教本と照らし合わせてみる。人間はしっかり観察しているつもりでも、想像でディテールを補ってしまうものだ。朔夜の絵も、手本を正確に読み取ったつもりになって、いざ描いてみるとどんどん誤差が大きくなっていってしまう、というような状態と悪戦苦闘した様子が滲み出ていた。これは誰しも陥る問題なのでクロには予想がついていた。
むしろ、朔夜の凄いところは一つの部分に固執しないところであった。英語の長文読解のように、分からない部分が出てきても立ち止まらず全体を通してみることで、こつを掴もうとしている。しかも、めげない。
クロは朔夜の後ろ姿を、何となくスケッチブックの最後から二番目のページに描いた。ほとんど手癖のようなものだった。スケッチブックを手に持っている状態で近くに鉛筆がある、それだけで描き始めるには十分であった。しまったと思った時にはもう遅い。クロは朔夜にバレないようにと祈りつつスケッチブックを閉じた。切り取って捨てるという選択肢を無意識のうちに消していたのは、見られたらどうなるかという興味が少なからずあったからだった。
授業を終えて、一つ質問をしてみた。
「なんでいつも言われた量より多くやってくるの?」
「別に」朔夜は素っ気ない返答をしたが、その後に訪れた沈黙に耐えきれなくなったのか、仕方ないという様子で息を吸った。
「人に言われた限界ではなく、自分がもう出来ないと思うところまでやれ、というのがコーチの教えです」
朔夜は涼しい顔だったが、声は自慢げであった。
「いいね、それ。いい言葉だ」
クロが褒めても朔夜は返事をしなかったが、嬉しそうに身体を揺らしていた。
あの様子では、試みは失敗に終わっただろうとクロは悲観した。しかし、その予想は覆されることになる。
次の授業も、その次の授業でも、朔夜はデッサン教本の課題を自分で進めていた。
クロはスケッチブックに次々と溜まっていく朔夜の暇つぶしをしげしげと眺めながら若干嫌味な笑みを浮かべて言った。
「つまんないとか言ってなかったっけ」
「つまんないですよ。ただ」
続く言葉が朔夜の舌の上で転がされた。彼女は細く息を吐くと何でもない風に言った。
「いえ、気にしないで下さい」
「気になるなあ。本当は楽しいんじゃない?」
煽るように言うと、朔夜は青筋が立ちそうなほど不快そうな顔でクロを睨んだ。
「違います。ただ」それから、深いところから息を吐いて、声を落とした。
「描いてると無心になれるというか。嫌なこと考えなくてすむから」
呟きが部屋に染み込んでいった。クロが黙っていると、朔夜は少し恥ずかしそうに、そしてそれを隠すために苛立ちを蘇らせた。
「先生、忘れて下さい」
クロは鼻から息を吸って肩をすくめた。
「ま、いいんじゃない。他にもっと面白いことが見つかるまでの繋ぎ程度に思ってやってればさ」
「忘れてって言ってるのに!」
「はいはい忘れます」
へらへらと笑っていると朔夜は急に勝ち誇ったように口の端を上げた。
「それはそれとして、なんですか、これ」
朔夜は胸の前でスケッチブックの最後から二番目のページを開いてみせた。問題を解いている真後ろで鉛筆の音が聞こえ続ければ気にならないわけもなく、当たり前のようにバレていた。
「あ、それは、なんとなく、ね」
一瞬にして可愛らしい表情が冷めて、ひやりとした蔑みの目に変わった。
「先生、キモい」
頂きました、女子高生三大罵倒セリフ、ウザい、死ね、と同格に位置する、キモい。耐性のなかったクロは自分がそれを言われてしまったことに、感動と紙一重のショックを受けたが、懲りずにまた朔夜のデッサンをした。一度描いてしまえば止まらない、緩んだ蛇口から滴る水滴のように、抑えていた欲求がしみ出していた。……断じて罵倒されるためではない。
それから朔夜は勉強以外の時間を絵を描くことに費やすようになっていった。
「圭一様も喜んでおられました」
と加藤から聞いたときは、自分の企みが成功したことに小躍りしそうになった。スケートが出来なくなって行き場を失った若いエネルギーが炸裂したのか。
また、朔夜の学校生活の方も変化が起きたようだった。今までは加藤が学校まで車椅子を押していっていたのだが、最近は去年と同じように最寄り駅で友達と待ち合わせて一緒に登校しているというのだ。これは大きな進歩に思えた。人によるが、最初に友達を作れないとその後の一年が寂しいものになってしまう確立が上昇する。朔夜の特殊な境遇は普通の人よりも少し不利なのではと考えていたが、考え過ぎのようでクロは安心した。
さらに二週間が経ち四月が終わる頃には明らかに初期の絵とは別の次元に到達していた。
一流の音楽家は平均で一日五時間以上練習すると聞いたことがある。没頭した朔夜の集中力はそれに匹敵するのではないかとクロに思わせた。それは、明らかな才能であった。
クロは朔夜が少し恐ろしくなった。そして悔しくなった。目の前の朔夜という現実が、才能が、クロに見せつけてくるのだ。お前は凡人であると。今も昔も、凡人であったのだと。
だが家庭教師を辞めたくなったわけではない。彼女の著しい成長は見ていて楽しかったしやりがいもある。いがぐりのような繊細な性格も話していて退屈しない。
四月最後の授業の日、クロは一つの提案をした。
「展覧会に行こう」
朔夜は回転椅子にふんぞり返っているクロを見て首を傾げた。
「絵の、ですか」
「正直、展覧会には最初に行きたかったんだ。でも朔夜ちゃんあんまり外出したくないみたいだったし、もうどうにでもなれって感じで課題出したんだよね」
「別に、外に出たくないわけじゃないです」
「え、そうだったの?」
クロはツンと主張された言葉に本気で驚いて椅子の背から身を乗り出しかけた。
「加藤さんが誘ってもついていかないって言ってたから、てっきり」
朔夜はばつが悪そうに目を伏せて遠慮がちに言った。
「私が行くと、迷惑かかるから。買い物とか手伝うどころかお荷物になっちゃうし」
ああそうか、と、出来の良さから彼女を何か高尚な存在であると認識していたことに気づいた。
彼女は十六歳で、対麻痺で、自殺未遂までして、にもかかわらずクロが喉から手が出るほど欲しい才能を持っていて、だけれど、もともとは普通の女の子であった。
叔父に引き取られたばかりの時、色々なことに遠慮がちだったクロと同じだ。
クロは身体に芯を通して朔夜と目線をあわせた。
「人に迷惑をかけることは恥じゃない。誰にも迷惑をかけない人間なんていないんだ」
朔夜はクロと視線を交わした。出会った頃は無気力で無関心な印象を受けたが、ひと月で随分と感情が垣間見えるようになっていた。主に負の感情なのはいただけないが。
そんな朔夜の今の瞳から伺える感情は……。何故だろうか、クロは嫌な予感を感じた。
朔夜は数度瞬きをすると、みるみる口の端が上がり、咳き込むように笑い始めた。クロは何が何だか分からず口を開けた間抜けな状態で固まった。
「い、いきなり格好付けないで下さい、全然、似合ってない」
朔夜はひとしきり笑ったあと、傷つくことを平然と言ってのけた。
「はあ、ウケる」
「今は先生なんだからいいじゃんか……」
なおも声を抑えて身体を震わせている朔夜。クロは恥ずかしさを溜め息で流せないかと、大きく息を吐きながら頭を抱えた。掌で自分の表情を隠したクロは、瞳にこびり付いた笑顔を思い返しながら、湧いてきた喜びを密かに味わった。病室で感じた死の香りは嘘のように消えていた。
一分ほどしてようやく落ち着いた朔夜が、笑みを残しながらも話を戻した。
「それで、なんで展覧会なんですか」
よくぞ聞いた、とばかりにクロは答える。
「描きたい絵ってある?」
「……特にないです」朔夜は少し考えてから自信なさげに答えた。
「いくら暇つぶしでも、何の目標もなしに描いてたら面白くない。だから展覧会で、何となく描きたい絵のイメージを掴んで欲しいんだ」
「なるほど」
「それに、少しは外に出ないと身体にも悪い」
「引きこもるのも好きですけど」
朔夜は前髪を払いのけて小悪魔的に笑った。クロは昔の朔夜をほとんど知らないが、その笑顔が本当の彼女を浮かび上がらせてくれそうで希望が持てた。
「よし、今週の土曜日に行こう。宿題も忘れずに」
「はい」
「いやあ、女子高生と出かけられるなんてテンションが上がっちゃうよ」
ははは、と笑うクロに朔夜が冷たい視線を送った。
「先生、そういうこと言わないと思ってたのに、幻滅です」
「え」