1
一行でつまらないと思ったら、一行目からつまらなかったです、と感想をいただけると本当に助かります。
人が人のことを忘れる時、最初に思い出せなくなるのは、声、だと聞いたことがある。
今となっては、微睡みの中で聞いた母親の声が本当の音を奏でていたかを確かめる術はない。
いや、あるにはある。何らかの映像、例えば小学生の頃の運動会のビデオなどには残っているだろう。ただそれを見る勇気は、まだない。
車内に響いた駅員のアナウンスによってクロは急速に覚醒し、座席からわずかに背を離した。電車で降りる駅を寝過ごしたことはなかった。体内時計が正確なのか、慣れ親しんだ駅へ行くときは必ず降りる直前で目が覚めた。もう五年も降りていなかったが、感は鈍っていなかったらしい。
電車がホームに滑り込む。
母親の夢を見たのは久々だった。きっと、これから行く場所のせいだろう。
そんなことを考えながら電車を降り、タクシー乗り場に行こうとして、足を止めた。目的地まで歩いて行けない距離ではないし、何となく、そう、完全な気まぐれであった。あるいはさっきの夢がそうさせたか。
スマートフォンで地図アプリを起動し、ルートを検索する。大通りまでの道のりを頭に入れてポケットにしまった。
大学生活三度目の長い春休みも終わりに近づいている三月だというのに、桜も縮こまる冷え込みが続いていた。朝の日差しが暖かく感じられるにはしばらくかかりそうだ。マフラーを巻いてきて正解だった。
片側二車線の大通りに出ると次々と車が駆け抜け、歩道を歩くクロを追い越して行った。曲がるべき道はかなり前から目視できているのに、道が大きいからか中々進んでいる気がしなかった。道行く人々はみな、春の尻尾を探すようにアスファルトに顔を落として、我先にと歩を進めていた。
クロの耳が後方で響く救急車のサイレンを捉えた。どこかの横道から大通りに出てきたのか、ビルの谷に反響する音が急激に大きくなった。救急車はクロの道のりをあざ笑うかのように、もの凄い速度で彼を追い抜いた。クロはドップラー効果を体感しながらその姿が見えなくなるまで目で追った。
たっぷり三十分ほど歩いて、ようやく目的地にたどり着いた。
ショッピングモールのものを思わせるほど巨大な駐車場が建物の前に広がっている。縦よりも横に大きい、窓の多い近代的な建築物の壁には、『K大学病院』と示されていた。
先ほどクロが見かけた救急車はもう車庫に入ったのだろう。一体どんな患者が乗っていたのかを想像しようとして、すぐに興味を失った。
運動不足でくたびれた脚をコンクリートに押し付けるようにして進んだ。いい思い出などない、空気が重かった。
無駄に広いロビーでは、冷え込む朝だというのにたくさんの人が名前を呼ばれるのを待っていた。インフルエンザの流行は過ぎたと思っていたが、この寒さでは体を壊してしまう人が多いのも納得である。
約束の時間を数分過ぎての到着であった。相手は几帳面でモラルのある社会人なので、既にかなり待たせてしまっている可能性すらある。タクシーを使えば良かったと後悔しながら椅子が並んでいる待合スペースに行こうとすると、近づいてくるスーツ姿の男性を認めることができた。
「クロ君」
「すいません、遅くなりました」
「大して遅れてないじゃないか」
そう言って、男、六谷圭一は口の端を歪めた。
「わざわざ来てくれてありがとう。早速だけど行こうか」
圭一は悠然と長い脚をエレベーターへ向けた。上へ向かうボタンを押すと、横に並んだクロに言った。
「朔夜にはもう話してあるよ」
「分かりました」
「流石にクロ君のことは覚えていなかったけどね。まだ小さかったからなあ」
懐かしそうに語尾を緩めた圭一の表情は柔らかく、切れ長の目がほとんど一直線になっていた。
扉が開き、エレベーターに乗り込む。圭一は四階のボタンを押した。
ロビーの喧噪から離れた二人きりの静寂。圭一の表情は終始弛緩していて、娘をクロに任せることに何の緊張もしていないようだった。一体いつその信頼を勝ち取ったのかクロにははなはだ疑問であったが、任される以上は仕事としてやり遂げるつもりであった。
彼の様子を見ていると、自分の母親が身体を壊した時はどんな気持ちでいただろうかという考えが頭をよぎった。一瞬ざらついた感覚が蘇り、あわてて蓋をする。乗り越えたつもりの母の死が未だに自分を慌てさせることに、クロはひそかに嘆息した。
ランプは途中で止まることなく四階で光り、静かな音を立てて扉が開いた。
「セカイ君、来てくれたのか」
圭一の素っ頓狂な声に、クロが考え事で落としていた視線を上げると、エレベーターの前にパーカーとダウンベストを組み合わせて着ている高校生くらいの少年が一人、こちらを見て驚いたように上体を反らしていた。サラリとした髪をフードで隠した、男目線でも美少年であった。
圭一は嬉しそうに少年へ踏み寄った。クロは扉が閉まらないように『開』のボタンを長押しした。
「もう帰ってしまうのかな。良かったら少し話さないか」
「いえ、俺、僕は」
セカイと呼ばれた少年は特徴的なハスキーボイスをこもらせて気まずそうに視線を彷徨わせたあと、エレベーター内に残っているクロを見た。クロも彼を見ていたので視線が合った。黒い瞳はきらきらとしていて、一瞬で引き込まれそうなオーラがある。
「すいません、用事があるので」
「そうか。退院してからも会ってくれないか、朔夜も喜ぶだろう」
少年はパーカーの前ポケットに手を突っ込んだまま頭を軽く下げると、エレベーターではなく通路の奥にある階段の方へ向かって歩き出した。クロはボタンから指を離し、廊下に出る。
「相変わらずシャイだなあ。彼のことも紹介したかったけど、仕方ない」
「彼氏さんですか」
「はっはっは、もしそうなら大事だよ」
喉の奥から思い切り笑う圭一。大事と言った割には楽しそうな表情であった。クロはその違和感には触れずに黙って圭一に続いた。
廊下は受付の騒がしさが嘘のようで、病室から入院患者や看護師の声がわずかに漏れているだけであった。
圭一は迷いのない足取りで真っすぐ通路の奥へと歩を進めた。そして突き当たりを右に曲がると、角部屋の少し手前で立ち止まり、クロに視線を送った。六谷朔夜と書かれた札をクロも確認できた。
クロが頷いたのを見て、圭一がのっぺりとした白色のドアをノックする。室内から高く細い声で返答があった。圭一が取手に手をかけてスライドさせる。
独り部屋であった。大きな窓にかかるカーテンを通った日の光が白い壁に乱反射して、部屋を淡いオレンジに染めていた。
圭一が先に入室し、クロは、まるで赤ん坊を起こさないようにと、注意深く音を殺してドアを閉めた。今まで何度も体験した状況なのに、場所が病室というだけで言い様のない緊張があった。
そして、圭一の背の影から彼女を見た時、彼は母親を幻視した。
ニット帽、眉毛のない顔、起こされた上半身、真っ白なシーツが脚を隠し、力なくこちらを見る母は、いつも彼へ微笑むのだ。
「あの」
戸惑った彼女の声でクロの景色は急速に現実へと引き戻された。気づけば圭一は窓際へ、ベッドを回り込んだところに腰掛けようとしていて、クロはドアの近くに突っ立っていた。ベッドに身を落ち着けている少女は長い黒髪を肩へ流していて、きちんと眉毛もあった。クロは動悸を感じながらも歩み寄り、よく見れば父親の面影があるその美しい少女に平静を装って笑いかけた。
「ああ、ごめんなさい。僕は」
「クロさん、ですよね」
遮った声は、細い声だからか、鋭い角度であった。
「こらこら、ちゃんと名前で呼ばないと失礼じゃないか」
「いいですよ、クロで。皆そう呼びますから」
「そうかい。でもクロ君はお前の為に大切な時間を使ってくれるんだ。せめて先生は付けなさい」
「よろしくお願いします。先生」圭一の諌めにも、朔夜は興味がないという風な具合で適当に頭を下げた。彼女の声は気泡を含んでいるような現実感のない音がする。確かにそこにいるはずなのに、次の瞬間には弾けてしまいそうな危うい音。
そうだ、と言って圭一が座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「飲み物を買ってくるよ。何が良い、コーヒーかな」
「そんな、僕はいいですよ」
「何、僕がいると話しづらいこともあるかと思ってね。買ってくる間に仲良くなっていてくれると、僕としても安心なんだが」
「なら、緑茶でお願いします」
おかしくなるほど直球な言いぐさにクロは折れた。もっとさりげなく退出して欲しい、これでは意識してしまうではないか、と思った。
「ポカリ」
「はいはい」
朔夜のぶっきらぼうな一言にも嫌な顔をせず、頼まれましたという風に歩き出す圭一だったが、ドアの近くまでくると何かを思い出したように声を上げて振り返った。
「セカイ君、来てたろう。さっきそこで会ったよ」
「え」
朔夜の反応はクロには完全に予想外であった。しかし、圭一は悟ったように短く鼻息を鳴らして肩をすくめ、困った顔で、そうか、と残して出て行った。
ドアが閉まった後の静寂は、クロにとって非常に居心地の悪いものになった。自分の把握できない話題で勝手に盛り下がられてはどうしようもない。
クロが圭一の座っていた椅子に腰を下ろしても、朔夜が口を開くことはなかった。仕方がないので適当に話題を探し、思いつくままに口にした。
「朔夜ちゃんは覚えてないかもしれないけど、小さい頃に何回か一緒に遊んだんだ」
「お父さんから聞きました」
「十年くらい前かなあ。僕が小学六年生で、君が入学したばっかりで。家族ぐるみでバーベキューとか行ったよね。一緒にいただけで、全然喋らなかったけど、あっはっは」
クロに合わせて無理矢理、というように薄く笑う朔夜。クロにはそれが不自然に感じた。生きている振りをしているように見えるのだ。言葉数は少ないが、圭一に似た切れ長の目と、リラックスというよりは脱力した雰囲気のせいか、卑屈な印象を受けた。
鋭い目線をクロに向けて彼女は訊いた。
「どうして引き受けたんですか」
「丁度新しい生徒を探してたんだ」クロは平然と応える。半分本当で半分嘘だ。
「そうですか」
「信用できないかな」
優しい声音のクロとは反対に朔夜の表情は苛立ちを強め、視線で刺すような勢いである。目つきは鋭いが圭一より幼いからか、動物園で産まれた野生を知らない子ライオンが檻の中から威嚇しているようで、どこか哀れだった。
「全部勝手に決められたことですから」
大きな声ではないが、純粋な感情が垣間見え、本音であると分かった。それと同時に、本音にもかかわらず含まれているエネルギーが少ないように思えた。言葉に宿るはずの意志があまりにも弱い。
事情を知るクロは彼女の境遇に非常に同情しているのだが、下手な同情は返って悪印象を与えると考えて、毅然とした対応を改めて心がけた。
それにしても、一体どこが落ち着いているのだろうか。
数日前に聞いた圭一の言葉に疑問を挟みながら黙って見つめ返していると、朔夜は自分の手元に視線を落とした。長い髪が肩から流れて、カーテンのように顔に被さっていった。
「もう、どうでもいいんです」
呟きはクロなど眼中にないといった具合に部屋へ拡散した。シーツを握りしめて動かない朔夜を見て、クロは過去の自分を見た気がした。父が消え、母親に先立たれた、あの日々のクロだ。だからクロには彼女の苦しみが痛いほど分かった。しかしそれは同じではない。彼女の苦しみは彼女のものだ。同情は傲慢だ。
今の彼女に自分がしてやれることは、クロ自身が何者であるかということを示して、彼女の信頼を勝ち取っていくことだ。取り残されたクロに手を差し伸べてくれた人がいたように。
本来そこまでするほどの仕事は頼まれていない。だが、この病室に入って彼女を見た瞬間から、クロにとって彼女は何か普通ではない存在になった気がした。なり得たのだ。思春期に近しい人が死ぬ経験というのは、人の死に敏感にさせる。そしてクロは、ベッドに力なく身を預けているこの少女から死の臭いを察知していた。理由は分からない、勘だ。下手な理由よりもよほど納得のいく動機だ。
クロは空気中に溶け出した消毒液の刺激臭を一杯に吸い込んだ。
「圭一さんは引き受けた仕事の責任を果たそうとしているだけだよ。確かに僕も、こんな状況で仕事を優先させるなんてどうかしてると思ったし、納得してるわけじゃない。でも、僕が嫌々ここにいるんじゃなくて、君の役に立ちたいと思ってるってこと、分かって欲しいかな」
顔は見えないままだが、朔夜の身体の強張りは徐々に和らいでいった。纏う空気が少し落ち着いたのを感じ安堵する。このくらいの歳には言葉が通じないことも多々ある。自分がそうだったと思うし、彼女もその可能性はあった。だがその心配は杞憂だったらしい。居心地の悪いの沈黙のあと、顔を伏せたまま彼女は切り出した。
「お父さんから、何か聞いてますか」
「何のこと?」
「私が自殺しようとしたことです」
「聞いてるよ」
ひと事のように自ら核心に触れる朔夜の言葉にも、うろたえることなくクロは応えた。髪の毛のカーテンの奥にある、彼女の目を見据えて。
朔夜の自殺未遂が彼女の中でどう処理されているか、クロには分からない。一時の衝動として完全に乗り越えたのか、今も死にたいと願っているのか。医者は大丈夫だと言っているらしいが、彼女が死の誘惑を断ち切ったと確信するまで、気は抜けない。医者を疑ってしまうほど、今の朔夜から危うい空気を感じていた。
朔夜はなおも厳しい口調で言葉を放った。
「家庭教師は建前で、本当は、監視するためなんでしょう」
「そうかもね。はっきりそう頼まれたわけじゃないけど、そうなんじゃないかと考えたよ、最初は」
クロが最後に付け加えた言葉に反応したのか、朔夜は無表情のままクロと視線を合わせた。
「僕は、監視するつもりはない。ま、結果的にそうなっちゃうんだけど。目の前で誰かが死ぬのは辛いからね」
クロは戯けてみせた。ちゃんと戯けられているか定かではない心境だった。
朔夜はクロを見つめたまま無表情を貫き、最後にぽつりと言った。
「そうですか」
「そうなんです」
人との関わりは変化をもたらす。自分にも、相手にも、関わってしまえばそれまでと同じではいられない。そんな当たり前のことも、クロは考えていなかった。
■
数日前。
話があるから明日の朝に会社へ来て欲しいと、叔父からクロに連絡があったのは、夜も更けてきた遅い時間、クロと友達の上杉が居酒屋の狭い個室で飲んでいる時だった。都内の小さい箱で行われたライブに同じサークルに所属している上杉が出場し、終わったあとにその感想を話すという名目で他愛ない話をしていたのだ。
電話を終えて席に戻ると、上杉がタバコを一本、箱から突き出してクロに向けた。
「一本吸うか?」
「いらないよ」
上杉からタバコを勧められ、それを断るというのは二人の間では一つの様式のようになっていた。何度勧められようと受け取る気は全くないのだが、それが逆に面白いらしい。上杉はクロに差し出していたタバコをそのまま咥えて火をつけた。
「ごめん、明日朝予定入ったから三十分くらいしたら帰る」
「おお、もう結構遅いな」
左手首につけた毒々しい紫色の腕時計を見て上杉が惚けたように言う。そこそこ酔いが回っているようだ。クロは話を戻す。
「それじゃあ、しばらく活動休止?」
「しばらく、の振れ幅がなあ、広過ぎですわ」
上杉の音楽活動は本格的な就職活動にシフトするため、実質今日が最後のライブであった。ライブと言っても上杉の作る曲に歌はない。彼の書き起こした譜面をバンドメンバーが演奏するだけのスタイルで、インディーズでいくつかCDを出している。
「まだ信じらんねえ。俺、働くのか?」
上杉は長椅子の背もたれの頂上にビールジョッキを持った腕を乗せ、ぐったりと凭れた。
「落ち着いて仕事してるところ想像できないな」
「だろ? どうせすぐに辞めちゃう気がするんだよなあ。だったら最初からやらなくてよくね?」
「出来る限り納得できる会社を選ぶしかない」
「けっ、わかっててもお前に言われるとむかつくな」
声の先を尖らせて言うと、ビールを一気に流し込んで喉を鳴らした。嫌味な感じがしないのは彼のユーモアのおかげである。彼が刺のあることを言ったのは、クロが既に内定を獲得しているからだった。それも叔父の会社にコネ入社だというのだから、風当たりが強くなるのも頷ける。
上杉はジョッキをテーブルに置き、取っ手を掴んだままの体勢で残り少ない軟骨唐揚げの皿の中心をじっと見た。十秒くらい固まった彼は目線を皿から動かさずに言った。
「なあ、大学って、何だったんだろうな」
「どうした」急に力の抜けた声音になった上杉にクロは失笑した。
「望んで進学してきたんだろう」
「ああ、けど、俺は今大学とはまったく関係ないことがやりたい。親に金出してもらってんのに。それも今日で一区切りだがな」
「大学ってやりたいことを見つける場所でもあるんだから、そんなに気にしなくていいんじゃないか」
「そうかな、そうかもな」
上杉はタバコの灰を落として、深刻な表情をクロに向けた。
「お前はすげえよ。入学してからずっとブレてねえ」
その真っすぐな視線はクロの心中にさざ波のような戸惑いを広げていった。褒められているのに、その言葉が自分に相応しくない気がしてならなかった。クロは苦笑して答えた。
「最初から道筋が決まってただけだよ」
「だとしても、それを貫いてんのはすげえ。俺なんて四つもサークル掛け持ちして迷走しまくりだったのによ」
貫いている、か。クロは胸の内で呟く。そんな強い意志を自分の内側に感じたことはない。そこそこ名の売れている企業、しかも身内が社長という好条件を超える選択肢が他に思いつかなかっただけだ。育ててもらった義理もある。
「なら上杉も同じとこにする? 口利きしてみようか。コネ入社するやつからのコネでコネコネ入社」
「お前にそんな権限あるのかよ」
「ない」
「ったくふざけやがって」
馬鹿みたいに笑い出す上杉を見て、クロは何となく安心すると同時に、彼の色が消えていくような気がして一抹の寂しさを覚えた。
翌日、クロは早朝に出立して叔父の会社に向かった。相変わらず肌をつんざく寒さであった。
電車の座席に腰掛けている派手な色のカーディガンを羽織った高校生くらいの女子は、真っ白なマスクで他者を寄せ付けない。本来風邪を予防するために市場に並ぶマスクは、これまた文字通りマスクの役割を果たして表情を隠している。
揺れる電車内を見渡してみれば、マスクを付けている人は他にも何人かいた。
アメリカではマスクを付けていると変質者だと思われるとか、クロはどこかで聞いたことを思い出した。風邪の予防、もしくは人に移さないようにという配慮が許されない国では、体調を崩しやすいクロはすぐに倒れてしまうだろうな、と思う。
一体、何の話だろうか。
窓の外、東の太陽に目を細めながら、電話越しに聞いた叔父の、大したことではないというように装った声に、何か大したことが起こったという予感を抱いていた。実の親ではないとはいえ、一年以上一緒に生活をしていればそのくらいのことはわかる。
一時間以上の道のりは、普段ならば読書やネットサーフィンで気にならないが、今日はやけに長く感じていた。まさか、内定が取り消しになってしまったかという考えが頭をよぎり、そんなはずはないと否定の根拠を考えているうちに目的地に着いてしまった。
予定した時間の五分前。受付で名前を言うとすぐに案内の人がやってきてエレベーターに乗った。
ドラマや映画で見るようなガラス張りの部屋には高級そうな家具が揃えられていて、柔らかそうなソファーには叔父の正人ともう一人、座っているのに長身と分かる体躯の男性がいた。見たところ中年、ダンディな雰囲気を漂わせる、切れ長の目が有能そうな男だ。クロはどこかで会ったことがあるような気がして記憶の海を検索した。
入ってきたクロをみてダンディな男がソファーから立ち上がり、正人も遅れてのろのろと立ち上がった。その拍子に、出会ったころよりも随分後退した頭皮が光った。
「元気だったかね」
「はい」
「彼はうちで働いている六谷圭一君」
「こんばんは」と挨拶をしておく。
やはり、切れ長のつり上がった目元に見覚えがあった。
「こんばんは、クロ君、僕のこと覚えているかな」
「あ、はい。小さい頃よく家族ぐるみで出かけてましたよね」
「そう、十年以上前なのに凄いな」
嬉しそうな声で微笑む圭一に対し、両親と面識のある人、というだけでクロの心はざわついていた。しばらく感じていなかったことだった。
両親が離婚し、ついていった母は過労死して、十七の冬に叔父に面倒を見てもらうようになってから今年で五年目。昔の記憶は霞んでいるものの、容易に思い出されてしまう。良い思い出が、悪い記憶を呼び起こす。
そうだ、この人には葬式でも会っている。
思い切り深呼吸をして気持ち悪い感覚を洗い流し、圭一の向かいに座る。正人が用意されたポットから湯のみに茶を注いだ。
「圭一君、もう一杯飲むかね」
「いえ、結構です。飲み過ぎると眠れなくなるので」
「若いねぇ。私なんか、いくら飲んでも十二時には寝てしまうよ」
「健康的でよろしいではないですか」
巨体の正人が長方形の低いテーブルの短い辺、二人の間の位置に座りソファーが大きく沈む。俗に言うお誕生日席だ。そして軽い咳払いをして話し始めた。
「クロ、朔夜ちゃんのことは知っているか」
「はい、圭一さんの娘さんの、確か事故に……」
そこから先を言うのが躊躇われ、クロは圭一の顔色を伺った。圭一はそんなクロを安心させるように笑いかけた。
「もうかなり回復しています」
「本当ですか、良かったです」
口ではそういったものの、朔夜のことを大して知らないので雀の涙ほどの喜びを感じた程度だった。朔夜の顔を思い出そうとしたが、どうにか髪型を思い浮かべるだけで精一杯だった。だとしても、見知った人間の吉報はテレビのニュースで芸能人の回復が報じられるよりは喜ばしく思えた。
圭一の娘、朔夜は、半年前に事故に遭って大けがを負った。クロには詳しい情報は入ってこなかったが、その事実だけは叔父から聞いていた。圭一の妻は朔夜を産んだ時に亡くなったという。一人で育ててきた苦労は計り知れない。
「娘は今年で十七になるのですが、そろそろ受験に向けて準備していくべきだと考えまして」
なるほど、とクロはすぐに理解した。
「家庭教師なら、喜んでお引き受けします。丁度先月に終えたところだったので」
「心強いです。成績優秀だと聞いていますよ」
「とんでもないです。あまり期待されると困ります」
「クロは昔から勉強ができたからな。恵美がいつも自慢していたよ。高校は推薦入学、大学も余裕の合格だったなあ」
正人は五年前から変わらない調子でクロをおだてた。叔父の話に出てくる母、恵美は、クロの自慢話ばかりをする親バカであった。その度に家では厳しかった母を思い出し、郷愁で胸が痛むのだ。
「話が早いのは助かるのですが、実は問題がありまして」
と、今まで柔らかかった圭一の表情に翳りが差す。彼は眉を悲しそうに顰めて言った。
「順番に話します。まず、実は朔夜は、頚椎を損傷したせいで両足が動かないのです。対麻痺というそうですが、朔夜はフィギュアスケートの選手だったものですから、事故後に酷く取り乱したのです。一時は自殺未遂までして大変でした」
返す言葉がない様子のクロに、圭一は眉を上げて両手を広げた。
「今は、落ち着いています。メンタルケアも受けさせましたが、大丈夫だろうと。リハビリを頑張ったおかげで今では立ち上がることができるようになりました。歩けないので車椅子生活ですが……。一週間前から春休みで検査入院中ですが、学校にも通えていました。でなければ家庭教師など頼めませんよ」
「そうですね、良かった」
「そして、二つ目の問題が」
圭一は先よりも声を落として言った。
「来月から大きなプロジェクトの指揮を任されておりまして、帰りが遅くなることが増えるだろうと」
今度はクロが眉を顰めた。話の流れがクロの予想していた方向よりも随分逸れたからだ。クロは音を立てないように呼吸した。
圭一が続ける。
「そこで一つだけお願いしたいことが。朔夜の様子を定期的に報告して下さいませんか」
報告、まるで監視しろとでも言われているような気がして気分が悪くなった。呼気が荒くならないように注意しながら苦言を呈す。
「それは、もちろん構いませんが、僕はいつでも一緒にいられるわけではないですよ。大学の授業だって、まだ時間割を決めていませんが週に何日かあるはずです。卒論も終わらせないと。身体の不自由な年頃の女の子が家で一人になるというのは、どうなのでしょうか」
正人がソファーに凭れながらゆったりと答えた。
「それは大丈夫だ。事故後すぐに介護士兼家政婦を一人、私の伝手で雇ってある。彼女の勤務日数を増やせないか検討中だ」
「もともと私は仕事で家を空けることが多かったので。疎遠な親戚に任せるより正当な報酬を支払って家政婦を雇った方が良いという判断です。実際よく働いてくれています。その人にも報告して貰うよう頼んであるので、協力していただければと。そうですね、毎週日曜日はリハビリなので、それ以外の六日の中で好きな日に授業をしてもらう形になりますか。歳の近いクロ君にしか言えないこともあるかもしれません。そういった話を私に報告するかは任せます」
特にこれといった問題があるようには思えない。引き受ける理由も、引き受けない理由もない。けれど、何かが喉の奥に引っかかって、素直に頷くことが出来ない。
「その、プロジェクトというのはいつ頃までですか?」
「見通しでは、一年はかかるかと思われます。もしかするとそれ以上かもしれません。大丈夫です、気楽に考えていただければ。他の生徒の親御さんも自分の子供の様子を聞いてきたりするものではないですか? 普通の家庭教師と何ら変わりませんよ」
もっともな意見であるが、やはりどこか胸騒ぎがする。
一度は精神を病んだ思春期の少女と接するというのは不安が多い。落ち着いているのならただ教えるだけで済むのだろうが、もし万が一トラブルになったときにどのように対応すれば良いのか分からない。いくら家庭教師の経験があるからと言って、カウンセラーではないのだ。
「事故さえなければ安心してスケートに専念させたのですが」
圭一は残念そうに顔をしかめた。
「今はとにかく勉強をさせて、将来に選択肢を持たせたいのです」
クロは悶々とする思考の中で、先ほどから身体の底をむず痒くさせている感覚の原因をおぼろげながら認識し始めた。
圭一の言い分は、勝手なのだ。親の傲慢だ。そんな彼の傲慢が子を一人にするという、その状況が気に食わない。クロと母親を残して蒸発した父親の姿に圭一が重なるのだ。だから、どんな理由を並べようと、頭では問題ないと判断できても生理的に受け付けない。
熱を持った心と冷静になろうとする表情の分離に苦心しながら、それでも隠しきれない苛立ちが口をついて出た。
「でも、こんなこと言うのは失礼かと思いますが、娘さんのことを本当に大切に思っているなら、仕事を辞めてでも一緒にいてあげるべきだと思います。家政婦と言っても他人ですよ」
「それは……」
言葉に詰まった圭一を見て、クロはより一層腹が立つのを感じた。自分が出過ぎたことを言っているのは分かっている。そんなことは現実的ではない。仕事を辞めれば家計が苦しくなり、結局は娘の選択肢を狭めることに繋がる。圭一は、大人になれないクロの意見に困惑して黙っただけだ。分かっているから、消化しきれない熱となってクロを息苦しくした。
形容し難い意識の熱が場を満たした。しばらく会話が途切れ、クロは脚の上で組んだ手を見つめ続けた。
そんな中、正人がオットセイのようにゆっくりと口を開いた。
「恵美は、私からの援助を一切受け取らなかった。助けを求めることもしなかった。何故だと思う」
唐突な話題転換についていけず、クロは疑問を瞳に乗せて叔父を見た。
「あの男が出て行ってから、恵美は覚悟を決めた。お前を一人で育てる覚悟だ。お前を甘やかすために、自分を甘やかさなかった。いくら金を工面しようと、大丈夫の一点張りだ。私はそれを信じた。無理にでも渡してやれば良かったと何度も後悔したが、結果論だ。最後には身体を壊してしまったが、その覚悟は今でも誇りに思える。いや、そう思ってやらねば、浮かばれんのだ」
今まで踏み込んだ話を避けてきたクロにとって初めて聞く叔父の心境であった。
「今回のプロジェクトで成果を残せれば、圭一君の社内での立場は大きく変わる。娘の今と将来を天秤にかけた時、将来の安定をとったということだ。どちらの道を選んだとしても覚悟の大きさは変わらない。ならば、それを尊重して最大限のサポートをするのが、私の役目だと認識している」
もちろん私は止めたのだがね、と彼は付け加えた。
子供に好きなことをさせる、大学を卒業するまで面倒を見るのにかかる費用がどれだけ大変なものか、クロはよく理解している。だから必死に勉強して迷惑をかけないように推薦を勝ち取ったのだ。
しかしクロはまだ納得していなかった。娘の側に立った意見を譲るつもりは全くない。頭では理解していても、心に刻印された価値観を翻すのは容易ではない。本当に娘の意見を聞いたのか怪しいものだと疑ってすらいる。しかし人の家庭事情に口を出したくはない。
険しい顔で黙り込むクロに、叔父は優しい声音で言った。
「お前の気持ちは分かる。納得しろとは言わない。すぐに決められないなら、日を改めよう。あまり時間はないが」
クロは先ほどの叔父の言葉を反芻していた。過去の体験と今聞かされた話が混ざり合って堂々巡りする思考の中で、ここで重要なのは、圭一に憤ることではなく、彼の娘のために何が出来るかを考えることである、と気づいた。
クロが引き受けなければ別の家庭教師が雇われるか、あるいは雇わずに介護士との二人暮らしをさせるのか。どちらにしてもクロには関係のない案件になる。
それでいいのか、見過ごしていいのか。
肉親のいない家庭。他人との生活。動かない足。長い間交流がなかったとはいえ、同情する気持ちは強い。感情移入しているからこそこれだけ腹が立っているのだから。
クロはお人好しである自分に嘆息し、話を終え立ち上がろうとする二人を引き止め、意を決して言った。
「圭一さんの方針に口を出す権利は、僕にはありません。納得してはいませんが、僕を選んで下さった以上は精一杯協力させていただきます。話を聞いてしまった以上、断ってしまっては僕としても心残りになりそうなので」
クロは圭一を見据えた。
「なので、引き受けさせていただきます」
圭一は深く息を吸ったあと、膝に手をついて頭を下げた。
「ありがとう」
そしてすぐに頭を上げた。安堵と不安がない交ぜになった声であった。
「詳しいことはまた後日相談しよう。今週の日曜日は空いているかい」
「はい」
「じゃあ、一度朔夜に会って欲しい。今は検査入院中だが、早い方がいいだろう」
語尾と口の端を上げて言う圭一に、クロは首を縦に振った。
■
病院から帰ってすぐに、ソファーの背もたれに背中をぶつける勢いで押しつけだらりと脱力する。
1DKの根城。勉強に集中するためという名目で、断るクロを無視して叔父が無理矢理契約した。クロにとっては広過ぎだったが、三年も暮らすと流石に愛着もわいて住み心地がいい。
日用品以外はほとんど置いていない殺風景な部屋だ。シンプルが好きなのだ。床は綺麗だが机やテーブルの上はプリントやノートでごちゃごちゃしている。ここ最近、取り繕う必要のある客人を招いていないからであった。春休みの間は卒業論文の資料集めばかりしていたので飲みにいったりする以外はほとんど遊ばなかった。以前は大学生らしく遊び倒そうと思ったこともあったが、せわしなく遊びに出かけるよりもまったりと日々を過ごすほうが性にあっていると気づいてからは、友達から借りたゲームをしたり漫画を読んでストレスを発散し、誘われたら出かけるような生活を送っている。家に物が増えるのが嫌なので、自分からゲームなどの娯楽はあまり買ったことがない。
クロはだらしない格好をしながらも、今後のことについて頭を巡らせた。
日常は変えられた。何かを変えることにはストレスが伴う。いつもより早く起きたり、食事を制限したり、新しく何かを始めたり。そんなストレスとはしばらく無縁に生活してきたのに、圭一の頼みを受け入れてしまった。やると決めたのでそれ自体に不満はない。ただ、なぜ放っておけなかったのかという疑問は残った。
既に決まった就職、前々から構成を練っていた卒論は順調に完成へ近づいているし、卒業することに障害はない。私生活では叔父の援助で金銭的に困ることもなく、不満は何一つない。ストレスが増えるだけの変化を受け入れる必要などなかった。しかしクロは引き受けた。それは何故か。
ソファーの上でぐったりしながらそんなことを悶々と考えることに飽きて、やっぱり朔夜に同情したのだろうと結論づけた。
目をつぶると少女の姿が浮かんでくる。普通なら勝気に見える切れ長の目元はあいまいに細められ、生気の感じられない泡のような声はすぐにでもはじけてしまいそうだった。
どうすればあの少女とうまく接することができるのか。
クロはぱちりと目を開けてむくりとソファーから起き上がった。ベッドの上に無造作に置かれていたノートパソコンを手に勉強机へ座り、下半身不随、というキーワードで検索をかけた。
ウィキペディアの脊髄損傷の項目を開いて一番上の概要を読んだだけで憂鬱な気分になった。一度脊髄を損傷すると現代医学で修復ないし再生されることはないと書かれている。
リハビリ生活を綴ったブログを数ページ流し読みしたが想像以上に壮絶で、特に下半身が完全に動かない人は尿意や便意が知覚できないので、トイレに行く時間を決めて行動したり特殊な配合の下剤で数日に一度便を出すというような生活をしているようだ。中には一人で用を足すことができずに介護士の補助を必要とする人もいるらしい。自分がそのような生活をしているところを想像しようとしたが、あまりにも理解の追いつかない状況であった。
不幸中の幸いか、朔夜は両足が動かないだけなのでトイレに関しての心配はいらないと圭一は言っていた。だとしても日常生活で不便があることに変わりはない。
クロが読んでいて一番気になったのは、障害を持ってしまった患者にとって最も乗り越え難い問題は、自分が一生その障害と付き合っていかなければならないことを受け入れることであるということだった。今までと全く異なる生活を強いられることによるストレスは半端なものではなく、障害を受け入れられなければリハビリの気力すら沸かないという。
数日前に圭一から聞いた話では、朔夜はリハビリを頑張ったとのことなのでそのあたりに関しては乗り越えることができたのだろう。しかし今日クロが対面した少女の雰囲気は、やはり何か落ち着かないものをクロの中に搔き立てた。
三十分ほど記事を読み漁るとクロは精神的な疲弊をはっきりと感じて、吐息と共に椅子から立ち上がって伸びをした。
その日は、風呂に入るときやご飯を食べているときも暗い気分で、今悩んでも無駄だと上杉に借りたテレビゲームの続きを進めようとしたがやはり楽しめず、結局寝るまで朔夜のことを考えていたのだった。