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クリスタルホワイト・アイス  作者: 綾沢 深乃
7/12

「第七章 大人達はすぐに騙される」

 菱田の運転する車は、カーナビ通りに進み、内田透の自宅前に来た。その間、倉澤は車に積んであるノートパソコンで、彼についての簡単な情報を本部にいる同僚にメールで送ってもらった。

 三人家族。両親は至って普通。

 父親の職業は会社員、出版関係に務めている。母親は専業主婦。子供が透一人で兄弟はいない。中学校までは公立校に通って、高校からの私立校へ通っている。

 問題らしい問題は一切ない。

 父親が県外へ転勤した事もない。

 内田家の正面を通り過ぎてから、横に曲がった細道で停止した。この辺りは実に住宅街らしく、買い物帰りの主婦やランドセルを背負った子供が歩いている。

 サイドブレーキを引いて、一息ついた菱田が倉澤に調査具合を尋ねる。

「どうですか?」

「どこにでもある平均的な家庭。問題らしい問題はデータからでは見えないな」

 ノートパソコンを開いたまま菱田に渡す。彼はそれを受け取り、文面を熱心に読んでいた。倉澤は細道から車が通らないかサイドミラーで確認する。

 先程、内田家を通り過ぎたのは理由がある。家の駐車場が空だったのだ。

 この時間帯で運転をしているのは、おそらく専業主婦をしている内田家母。

 夕食の買い物にでも行っているのだろう。時間帯的に先に内田透が在宅している可能性は高い。(無論、二人で車に乗った可能性も捨てきれない)

 なので、いきなり入る事はせずにまず、内田家の基本情報を覚える事から始めた。そしてその作業は、僅か五分弱で終了する。

 隣の菱田がパタンっとノートパソコンを閉じた。

「じゃ行くか」

「はい」

 倉澤と菱田は車を降りた。しばらく停車していたが、車の交通量は多くない。ココに駐車しても迷惑にはならないだろう。

 二人は、内田家の門の前に立つ。

 赤い屋根の一軒家。小規模の庭と車一台入れるのが精一杯の駐車場。まだ、内田家母が乗ったと思われる車が帰って来る様子はない。それを確認してから(帰って来られると一々説明が面倒である。警察として自殺と断定した以上、捜査は最低限で行いたい)倉澤がインターホンに手を伸ばす。

 その時だった。土を踏む音と共に少年の声が二人の耳に入った。

「ウチに何か?」

 振り返ると、そこにいたのは立林から貰った画像と同じ顔の男子生徒、内田透だった。先程の佐野と同じブレザーを着ている。

 内田の顔を見て、間違いないと確信した倉澤は、内ポケットから警察手帳を取り出す。横にいた菱田も彼に倣って同様に取り出した。

「H県警の倉澤と申します。突然の訪問、失礼しました」

「同じくH県警の菱田と申します。内田透さんですよね? 今日、学校で聞かれた自殺された森野詩織さんについて、お話を窺っても宜しいでしょうか?」

 倉澤と菱田は素早く用件を述べる。こういう時、相手に余計な思考時間を与えると厄介だと知っているからだ。

「内田透と言います。ええ勿論。僕で良かったら何でもお話しますよ。どうぞ、上がってください」

 礼儀正しく頭を下げて自己紹介する内田。彼の背丈は倉澤より少し低く、声色は幼かった。ただ、それはまだ十代の成長期だからで、自分の歳になる頃には、程良く成熟している事だろう。

 目上の大人に敬意を払える点で、きちんと社会性を兼ね備えている。だからこそ、倉澤は緊張感を彼に持たせ続ける為に自身の口調を緩めなかった。

「いえ。そこまでお時間を取らせるような事は致しません。そこに我々の車を停めてあります。出来れば車内でお話をお願いしたいのですが……」

「構いませんよ」

「ありがとうございます。どうぞ、こちらに停めてありますので」

 内田透を自分達の車へと誘導する。このまま内田家に上がっても、良い事はない。いつ内田家母が帰ってくるかも分からないからだ。

 何より慣れた自宅に入って、彼の緊張感を解かせる訳にはいかない。

 学校の応接室のような環境があれば尚の事良いが、現状は車内で充分だ。

 内田透を後部座席に座らせて、隣に倉澤。運転席には菱田が乗った。

「軽くこの辺りを走りながらでも?」

「僕もその方が助かります。こんな場所に停めていたら、母さんに見つかっちゃうので」

 こちら側の意図を理解しているかのように微笑みながら、内田はそう言った。

 高校生にしては、妙に達観している雰囲気が気に入らない。

 普通なら佐野のように警戒心を持つか、それを紛らわすように興奮しているかのどちらかだ。なのに内田は、まるで普段から乗り慣れた車でも乗っているかのように、落ち着いてシートに背中を預けている。

 その態度は決して虚勢ではない。その程度ならすぐに倉澤はすぐに見破れる。

 車は住宅街から駅へと目指して法定速度通りのスピードで走り出す。

 一つ目の信号で停車した際、倉澤が口火を切った。

「では早速ですが、森野詩織さんについて聞かせてもらいます」

「なんなりと」

 余裕の表情を決して崩さない内田。

「私達が知っている段階では、貴方と彼女はとても仲良しだったとか?」

「放課後によく勉強を教えてもらっていました。と言っても、最近ですけど」

「亡くなった森野詩織さんは、よく沢山の方に勉強を教えていました。でも貴方は、教えてもらう程成績は悪くない。最近教えてもらい始めたというのなら、その理由はなんでしょうか?」

 下手な小細工をせず、正面から切り込む。少しでも相手が動揺する表情を見せたら、儲けものだと思いながら。ところが、内田はそんな倉澤の狙いを知っているの上で弄んでいるように、顎に手を当てて呑気に唸っていた。

 まるで、今その理由を作っていますとでも言いたそうだ。何より緊張感を持たせて思考する余裕を奪おうとしているのに、一切彼には通じていない。

「まあ、成績が良いのは事実ですが、やはり年度が上がる毎に内容は難しくなっていきますよね? なので、自分より頭の良い人に教えてもらおうかと思いました。それが理由ですね」

「……本当に?」

 間を作って念を押す倉澤。

「ええ。本当です」

 しかしこれもまた、内田には一切通じなかった。

 倉澤は静かにため息を吐いて、口を閉じる。それを合図に車内は言葉が走らなくなり、沈黙が漂う。彼は、黙りながら頭の中で自分が高校生の時を考えていた。もう、化石化している記憶だが、どうにか掘り起こす。

 こういうタイプは当時周りにいたが、どう対処していたかまでは記憶がない。実に面倒だ。何にも出来ない癖に何でも出来ると思っている。

 まさに典型的なガキ。

 警察として、大人として、本気で対応すれば本心を暴き出すのは容易である。ただ、それをしてしまうと結果的に負けとなるのは、こちら側なのだ。

 こうして今、沈黙が続いた状態でも、目の前にいる内田は何も聞いてこない。聞きたい事の一つはあっても良さそうなものを。まるでないと言ったように、呑気に外の景色を楽しんでいる。

 これ以上、内田に対して、変な質問をしても無意味だと悟った倉澤は、後々使う予定だった切り札を使う事にした。

「ココからの話は、他言無用でお願いします」

「分かりました。一体、何でしょう?」

 しばらく続いた沈黙の後だと言うのに、驚く気配すら見せない内田。

「実は、亡くなった森野詩織さんの遺書についてなんです」

「遺書?」

 依然として、内田に動揺はない。運転中の菱田はどう思っているのか。聞こえているはずだが、運転を始めてからずっと、決められた事しか出来ないブリキ人形を徹底している。

 遺書という言葉を出しても内田の城は崩れる事はなかった。

「その内容の意味がまだ我々には分からないのです。そこで、彼女と仲の良かった内田さんなら分かるのではと思いまして、ぜひ聞いていただきたい」

「ちょっと待ってください。それって本当に話していいんですか?」

「貴方が誰かに漏らさなければ大丈夫です。内容を知っているのは、現在一部の者だけですから」

「当然、僕が誰かに話す事はあり得ませんよ。でもこういうのってモラルの問題だと思うんです。えっと菱田さん? 倉澤さんの行為を止めないんですか」

 運転中の菱田に話を振る。まだ一度も会話らしい会話をしておらず、最初に会った時に名前を言っただけなのに、もう内田はそれ使いこなしていた。

 菱田は前を向いたまま返事をした。

「倉澤さんが話すと言うのでしたら止めません」

「へぇ~。信頼されてるんですね」

 冷静な口調で答える菱田に内田は感心したようにそう言った。その言葉に返事をする事なく菱田は、運転手に戻ってしまう。

「あらら。怒らせちゃったかな? 少し調子に乗り過ぎてしまったかも」

「いえ、気にしないでください。どうでしょう? 内容について聞いていただいて、何か気付いた事があったら教えてもらえませんか? どんな些細な事でも構いません」

「うーん」

 内田は腕を組んで悩んでいた。この話を聞かせて反応を見る事がココまで来た目的なので、倉澤としては彼に聞かせる必要がある。しかし、これ以上しつこく頼むと、内田に勘付かれる可能性がある。

 大人しく彼の決断を待つ事しか倉澤には出来なかった。

 やがて、鼻息を漏らしてから内田は決断を言う。

「しょうがない、分かりました。聞きましょう」

「ありがとうございます」

「ただし、僕も一つ聞きたい事があるんですけどいいですか?」

「答えられない事があるのを承知していただけるのならば、聞きますが?」

 内田から何を聞かれるか分からないので、予め最低限の予防線は張っておく。

 彼は軽く微笑んで、首を左右に振った。

「嫌だなぁ。そんな厄介な質問はしませんよ。ただ、誰から僕と詩織の仲を聞いたのか。それが知りたいだけなんです」

「特定の人物名を言う事は出来ません。ぼかして話すなら、そうですね。森野詩織さんと親しい友人と言ったところでしょうか?」

「充分です。ワガママに答えていただきありがとうございました。それでは、倉澤さんの話をどうぞ」

 手で促されて倉澤は自分のターンが回って来た事を自覚する。そして同時に、今や車内のペースは完全に内田が握っているのも重ねて自覚した。こんなはずではなかったのに、気付けば彼の一言一言に頭を使わされている。

「ありがとうございます。彼女の遺書に書かれていた内容は、ほんの少しです。“ノートは、いつも貴方の傍にある。だから私はもう大丈夫。”加えて日付が二つ書かれておりまして、2008.10.22 2008.11.18です。内容的には遺書と呼ぶには奇妙なのですが、日付は彼女が亡くなった日。また、手書きで書かれており筆跡も本人と一致した事から、我々も暫定的に遺書という形で扱っています。ただ、先程も言った通り、意味がさっぱりでして……。どうでしょうか? 何か心当たりはありませんか?」

 内田は顎に手を置いて、深く考え込んでいた。その表情からはついさっきまで、倉澤と菱田を手玉に取っていた雰囲気はなく、瞳が震えている。

 倉澤の問いに内田は返事をしないまま、数十秒が過ぎた。

 車は駅のロータリーを一周して、来た道を戻っている。

 赤信号で止まった時、まだ沈黙を守ったままの内田に倉澤は声をかけた。

「内田さん?」

「あっ。ああ、すいません。少し考えて込んでしまって……」

「いえいえ、存分に考えてくださって結構ですよ。それでどうですか?」

 初めて焦りを見せる内田に倉澤は間違いなく彼が何かを知っているのを確信する。奪われたペースが少しずつ返っていく。

「そうですねぇ」

 目線を上にして何を言おうか迷っている様子の内田。上を向いている彼の瞳の震えは徐々に収まっていった。彼が目線をこちらに合わせた時には、相当に回復させていた。凄い胆力である。

「すみません。待たせておいて恥ずかしいのですが、僕には分かりません。ノートは学生ならば誰しも当たり前に使う物です。それに現在、彼女とノートの貸し借りはしていません」

「本当に?」

「疑うんですか?」

 挑発的な目を見せる内田。彼の余裕はもう九割方回復している。話を続けるのならば、倉澤は残り一割で戦うしかない。しかし、この後の彼はおそらく残り一割を全力で防御する。今回はココまでだろう。突破するには時間も場所も悪い。

 倉澤は作り笑顔百%で応対した。

「そんな滅相もない。こういうのは職業上、自然に言ってしまうんです。不快な思いをさせてしまったなら、申し訳ありません」

「そんな。僕の方こそ、生意気な事を言ってすみませんでした」

 生意気な事を言っていると認識している内田に倉澤は強い嫌悪感を抱く。

この仕事は人をすぐ嫌いになる仕事だ。だが、仮に別の仕事をしたとしても、内田を嫌いになっていたに違いない。

 そう考えつつ、尚も作り笑顔百%を維持したまま続ける。

「そんな事ありませんよ。気にしないでください。さて、それではそろそろお話は終わりにしましょう。このまま御自宅まで送りますよ」

「ありがとうございます」

 それから車内は、内田の自宅に到着するまで無音だった。もう車内にいる誰もが口を開く気にならなかったのである。さながら、教習所の教材ビデオのように、丁寧な運転の下、再び内田家の前まで戻って来た。

 今度は、空だった駐車場に銀色のカローラが駐車している。内田家母が帰宅したのだろう。

 倉澤は車から降りて、内田が座っている方まで回ってドアを開けた。

 開けられたドアをそのまま降りた内田は、頭を下げる。

「わざわざすみません」

「こちらこそ。勉強で大変だというのに、お時間を取らせて申し訳ありません。これ、私の名刺です。何か思い出された際には、御一報ください」

 名刺を内田に渡す。正直、連絡はまずないだろうが、渡しておく事が一つの牽制になる。彼は卒業証書を受け取るように丁寧に両手で受け取った。

「分かりました。何か、そちらに有益な事を思い出したら連絡します」

「はい。お待ちしています」

 内田はそのまま自宅の門を開けて、家の中に帰っていった。玄関がしまり、ガチャっと鍵をかける音がするまで、倉澤はその場に立ったままだった。

 やがて、助手席のドアを開けて乱雑に腰を落とす。

「お疲れ様でした」

「あー、疲れた。出してくれ」

「はい」

 二人を乗せた車はゆっくりと発進する。車内に内田がいないだけで、空気が清浄された錯覚がした。だが、それは単に助手席に座った事でヒーターの温情を受けやすいだけだと知る。

「どうでしたか?」

「菱田こそどう思う? 彼、自己紹介しかしてないお前の名前を覚えてたぞ?」

「生意気な高校生でした。話を聞きながら運転して、何度僕が聞き役じゃなくて良かったかと思ったか……」

 苦笑しながらそう話す菱田。倉澤だってあんな役はしたくない。運転手を交代したいと思った事が何度もあった。

「確かに生意気だった。だけど、馬鹿じゃなかったな。佐野さんみたいに簡単にペースを掴ませてくれない。その辺りは流石、森野詩織の彼氏と言うべきなのか」

 実際に会った事がないので、人づてからしか彼女の情報はない。だが、今まで組み立てた人物像から、シルエットは浮かんでいる。

「菱田の意見を聞きたい。彼は何か知ってると思うか?」

 前を見ながら菱田に尋ねる。彼もまた、視線は正面のみを向けて口を開く。

それは右折する時だった。

「ええ。何か隠してますね」

 終始、内田のペースで進んでいった今回の話も一部分のみ、こちら側のペースに持ち込みかけた時があった。それはまさに今回のメインといえる時。

「……隠す、か」

 菱田に向かってではなく、空中に向かって倉澤はそう呟く。

 警察に隠し事をするのは、そう簡単な事ではない。それこそフィクションの世界では、あちこちに嘘が蔓延しているが、実際の人間はまず嘘はつかない。あれらは作者の都合で操られているに過ぎないのだ。

 そもそも普通に生活していたら、警察に遭遇しない。

 慣れてない事に加えて、我々が多少味を加えて質問したら、大抵の人間は正直に話してくれる。中には、本当に嘘をつく者が少数存在する。それでも、そういう連中は長くは持たない。すぐに話し出すか、その前にこちら側が気付くか。

 結局のところ、人は墓場まで秘密を抱え込むのが出来ないように、神様にプログラムされているのだ。

 稀にいる神様のプログラムに従わない者。そういう連中が我々警察の厄介になる。そしてどうやら、内田にもプログラムは正しく適用されないらしい。

「本気でいきますか?」

 思考の海に浸かっていると、不意に菱田がそう聞いてきた。

 菱田が言っている意味は簡単だ。こんなまどろっこしい事はせず、警察式の方法で内田に聞けば良いと言っている。

 軽く微笑んでから、倉澤は首を左右に振った。

「今回動けるのは応接室まで。それ以上はない」

「どうしてですか?」

 珍しく菱田は納得せずに噛みついてくる。声色にも納得出来ないという気持ちが入っていた。それがどうしてか、倉澤には面白く感じる。

「どうしてだと思う?」

 なのでつい、意地悪な聞き方をしてしまった。

「大学時代の友人がいるからですか? あの立林先生っていう……」

「……本気で言ってるのか?」

 途端、車内の空気が一変する。口の中に砂が混ざっているような息苦しさがヒーターから吐き出されていく。先程までとは正反対の感情になる倉澤。

「申し訳ありません。失言でした」

 砂の異様さに気付いた菱田はすぐに謝罪する。

「分かったならいい。以後気を付けるように」

「はい。肝に銘じます」

 倉澤は短く鼻息を出して、少しだけパワーウインドーを下げた。車内に漂う見えない砂を換気する為だ。本来は季節のせいもあって、窓を開けると外の風がナイフのように冷たく感じるのだが、今はそれが綺麗な流水を浴びていると思わせる清潔さを持っていた。

 およそ、信号一回分の距離だけパワーウインドーを下げて、また上げた。代わりにヒーターのメモリを一から二にする。少し声が大きくなったヒーターを背景に倉澤は口を開く。

「俺も内田は怪しいと思っている。あれは何かを隠している目だった。だけど、あの様子だと素直に教えてくれそうにもない」

「そうでしょうね」

「一応、森野詩織の死亡推定時刻に彼が何をやっていたか調べておこう。まあ、無駄足だとは思うが」

「了解しました」

 まだ菱田の口調は若干固い。砂が思ったより重いようだ。

 倉澤は腕を組んで、目を閉じる。

「悪いが本部に着くまで眠らせてくれ。昨日、あんまり寝てないんだ」

 無論、本当に眠い訳ではない。菱田に砂を消化させる時間を作らせたのだ。

 だがしかし、当初の目的を逸れて、段々と倉澤の意識は落ちて行ってしまう。

 二人を乗せた車は夜の住宅街を抜けて、本部へと戻っていく。

 落ちてしまう最後、考えていたのは、自分が今回の事件に関わる動機だった。

 一度、自殺と結論付けられた今回の事件。

 現時点で、怪しい部分は屁理屈レベルでしかない。

 森野詩織の遺体は間違いなく、彼女が自殺したと告げている。

 謎めいた遺書も思春期の女子高生が死の直前に書いた興奮から来る暴走。

 それで充分に説明出来る。

 そろそろ騙し騙し捜査するのも難しくなってくる。

 いつ他の事件で忙しくなるか分からない。もしかしたら、菱田と行動出来なくなる場合もあるだろう。

 つまり、残された時間はそうない。

 なのに、菱田が言うような手段は理由を付けて使おうとしない。

 それはどうしてか?

 菱田の言う通り、立林の為に? いや違う。そんな個人的な感情で動くような事をもうやらない。無論、ゼロとは言わないが。

 惹かれ始めているのだ。自殺した森野詩織という人間に。

 そこまで考えた時、倉澤の思考は完全に夢へと落ちていった。

 

 それから半年が経過した。

 菱田の調べにより、あの日の内田透のアリバイは成立していた。彼は駅前にある喫茶店で勉強をしており、その姿が駅構内の監視カメラ及び店員の証言により証明されたのだ。

 二年生だった生徒達は、三年生となり、冬が自身の寒さを忘れて暖かくなるように、少しずつ校内から森野詩織の自殺についての雰囲気は薄くなっていた。

 一時期、精神的に危ない状態に追い込まれたのは立林で、二年生の三学期は学校を休職していた程である。現在は、適切なカウンセリングの下で、回復をしており、三年生の担任を務めている。尚、彼らの学校は、基本的にクラス替えを行わないらしく、二年生の時の担任がそのまま受け持つ。

 保護者側からの反発は多少あったようだが、生徒達の強い信頼を得ている立林は、紆余曲折あって、再び担任を務める事が出来た。

 苦しい状況でも学校を辞めずに復帰した立林とは反対に辞めた人物もいる。

 司書教諭の湊慧一郎だ。

 彼は司書室にある出納準備室の鍵を誰でも持ち出せる状況を作ってしまった事に、強い責任を感じており、自ら退職を申し出た。周囲は彼を説得したが、その意思は固く、新学期が始まる頃には、彼の姿は校内からは消えた。

 そして、倉澤は日数が経過するにつれて、関われる時間が徐々に減っていく。

 初動捜査で自殺と決定している以上、不自然に動く訳にはいかず、新しい事件が発生すれば、そちらに当たらなければならない。

 数少ない時間をどうにか捻出して、捜査を進めようとするが限界はある。

 よって、どうしても事件の事が少しずつ薄くなってきた。

 そんなある日の事。

 久しぶりに倉澤は立林と夕食の約束をした。

 場所は三ノ宮にあるスペインバル。以前、彼女に内田の写真をメールで送って貰った際にサブタイトルにあった希望を叶える為である。

 二人はカウンター席に腰を落ち着けて、まずは軽くスペイン産ビールのアンバーで乾杯。それから本日のタパスの盛り合わせを頼んだ。

 それらが丁度良い具合で減り始めた頃、彼女が食べたがっていた小海老のアヒージョとハモンセラーノ。 店員オススメの赤ワインのボトルを一本頼んだ。

 立林の頬は次第にほんのりと赤く染まっていく。

「新学期になってから、学校の方どう?」

 倉澤はそれまで話していた他愛ない世間話に混ぜて立林に尋ねた。

「今、クラスは大分落ち着いている。森野さんの机も二年生の教室からそのまま持ってきたわ。席替えをする時にクジを作るんだけど、彼女の分もちゃんと作る。それは私が引く役。机の上に置いてある花だって皆でお金を出し合って小マメに世話しているわ」

 遠い目をしながら立林はそう言って、赤ワインに口を付ける。

「そうか、クラスが落ち着いてくれて何よりだ」

「二年から三年に進級するのが皆にとって、良い機会だったのよ。切り換えるって言ったら、ちょっと語弊があるけれど、何て言うか……、こう新しいスタートを切る事で問題に向き合う為の心構えが出来たって言うか、そんな感じ」

「成程ね」

「それを聞きたくて今日、私を飲みに誘ったんでしょう? 前に私が内田君の写真をメールで送った時に小海老のアヒージョって書いたからココに連れて来たのね」

 立林の指摘に微笑む倉澤。

「それもあるけど、単に立林先生が心配だっただけさ。自殺として結論が出た以上、こっちはもう自由に動き回れない。その分、学校側が大変だったんだろう。ニュース見たよ」

「酷いもんよ。勝手に色々書いてくれちゃって」

 事件が公になってから、マスコミは当初勝手な解釈をよく掲載していた。

進学校に通う女生徒の突然の自殺。原因を躍起になって探ろうとして、校門前に張り付いていた記者までいるとは倉澤の耳にも入っている。

 クラスメイトは勿論の事。担任である立林にもマスコミの目は向けられていたのだ。彼女がカウンセリングの世話になったのも、そこから来ていると推測される。ただ、彼らマスコミは総じて飽き性だ。

 結局、イジメはないとの事に加えて、森野詩織の母親。森野洋子がイジメはない。っと週刊誌の取材で断言した事から、世間からは急速に忘れ去られて、その好奇心に満ちた身勝手な目線は、他の対象へと向けられていく。

「世間は身勝手だよ。この仕事してそれは嫌という程味わった。だからそれ関しては、深く考えない方がいい」

「うん、ありがと」

 こうして口で言うだけならいくらでも出来る。何故なら倉澤本人はあくまで蚊帳の外にいるからだ。警察という立場上、世間よりは事件を把握してようとも、根の部分までは関われない。彼が知る事は形式的な事のみなのだ。

 例えば森野洋子は、現在日本におらず、アメリカにいる。仕事の都合というのが理由だ。その奥にあるであろう真実を倉澤は把握出来ていない。

 二人の間に沈黙が流れた。他の客が騒ぐ声が背後のテーブル席から聞こえて、タイトルの知らない陽気なジャズが頭上から聴こえる。

「すまない。こんな空気にするつもりじゃなかったんだが……」

 倉澤が立林に向かって謝る。首を向けた際、視界が多少グラついた。注意していたつもりだったが、酔ってしまったようだ。きっと頬も赤いだろう。

 倉澤の謝罪に立林はゆっくりと首を横に振る。

「気にしないで。もう今は本当に大丈夫なの。それに倉澤君が、ずっと心配してくれてるのは、すっごく伝わってるから」

「なら良かった」

「ちゃんと約束も守ってくれたし、ワインも美味しいしね」

 冷やかすように含み笑いをして立林は赤ワインをグラスに注ぐ。

「この仕事は約束を守る事で成り立つから」

「あははっ」

 互いに冗談を言い合って沈んでいた空気が柔らかくなる。酒の力はそれだけ大きい。またそれから、しばらく話は世間話が中心となった。

 主に二人の結婚についてだ。

 立林は、結婚願望はあるが、この仕事を続けると家庭を持つのに苦労するのは目に見えているから、中々難しいと主張する。倉澤もそれは同意見だった。彼女とは意味が少々異なってくるが、家庭を持つのは難しいのは同じである。

 現に一度、結婚まで考えて交際していた女性がいたのだが、疎遠になってしまった。それ以来、仕事に追われてその類には縁がない。

「似た者同士だね、私達」

「そうだな、相性はいいな」

 二人は笑いながらワインを飲む。ボトルは既に空になっており、残ったのは、二人でグラスに一杯ずつだけだった。互いに酔いが回っており、ここから先のアルコールは望んでいない。水を飲んで終わりである。

 その時、倉澤は酒の力を借りてある事を立林に尋ねた。

「一つだけ聞きたい事があるんだ」

「何かしら?」

 立林は既に中身がないアヒージョに、バケット付けて食べていた。

「ココに君と来るきっかけになった内田透君。彼、最近どんな感じ?」

「あー、正直な話。殆ど知らないのよ。確かに佐野さんが内田君と森野さんが付き合っているって言い出したから、話は大きくなったけど。そもそも彼は違うクラスだし。今まで私と会話した事ってほんの数回しかなかったから」

 立林が内田とクラスが違うのは知っているが、学校側が森野詩織について調査している。その際、彼とは会話をしているはずだ。酒の効力で彼女のバリアの膜が弱くなっている隙に聞き出す必要がある。

「君は森野さんと内田君の関係について以前から知っていた?」

「知ってる訳ないでしょ。ウチの学校って不純異性交遊って言うの? ああいうのにとっても厳しいのよ。進学校だからね、バレたら即停学、酷い時には退学だってあり得る。だから、生徒はまず教師に隠すわね」

「厳しいんだな」

 立林は「ええ」っと言って首を縦に振る。

「そりゃ。年齢が年齢だし、興味が出てくるのも理解出来る。でも、やっぱり未成年だから。責任能力がない内は自重しなさいって事」

 今までの情報は特に有益とはならない。立林は、学校側が行っている森野詩織についての調査で、間違いなく内田についての情報を持っているはずなのだ。

 まだ、簡単に引き下がる訳にはいかない。倉澤は尚も追及する。

「他には?」

「他? うーんっと……」

 困ったように唸る立林。それは話のネタがないのではなく、どのラインまで話して良いのかを選別しているのだろうと倉澤は思った。

立林が唸っている間にグラスに残っている赤ワインを飲む。やがて彼女は「ああ、そう言えば……」っと口を開いた。

「そう言えば?」

「あの事件以降、内田君。成績が凄く落ちてるんだって」

「そこは普通に考えたらそうなるんじゃないか? 彼女が亡くなったら誰でもショックだろう」

「落ち方が凄いのよ、テストは軒並み平均点以下。酷い時は一桁の時だってある。前までは、森野さんまでとはいかなくても、それなりに成績上位の子だったのに」

「重症だな」

 倉澤の中にある内田のイメージは、生意気ではあるが自己管理はしっかりとする。であった。なので、彼の成績がそこまで落ちた話を聞くと、やはりまだ十代。繊細な年頃なのだと印象を抱く。

「でもね、そこまでだったらまだ理解出来る。あんな事があったんだから、成績が下がるのも当然。授業だって身になるはずがないって。なのに、普段の授業態度は前よりも向上しているの。先生の話を一生懸命聞いて、ノートに書き写す。前は授業終わりで質問に来た事なんてなかったのに、今は毎回、聞きに来るって」

「そうか。そこまで頑張っているなら、成績の回復は早いんじゃないか?」

 今が苦しい時なのだろうが、乗り切れたらまた元に戻るだろう。それは、のちに大きな財産となる。倉澤がそう言うと、立林は首を横に振った。

「違うの。内田君が質問に来る内容って、その日にやった事じゃないのよ。もの凄く昔の内容なのよ」

「昔の?」

「そう。一年生の時の内容、それどころか下手したら中学レベルの内容を質問に来るらしいのよ。いくらなんでもそんな事はあり得ないから、最初は先生も不審に思ってたんだけどね。だけど、彼は真剣に分からないみたいで。学校に昔の教科書を持って来ているみたいなの」

「彼の当時の成績は悪くないよな?」

 森野詩織が自殺してしまう前なら、成績低下に影響はないはずだ。

 まして、それが中学程の昔の内容なら、尚更である。なのに、彼はそこを質問に来る。教科書まで持って来ているのだったら、決して冷やかしではない。

「だから先生達も皆心配しちゃって。記憶喪失にでもなったのかって職員室で話題になったの。でも、昔の内容も教えたら、ちゃんと学習するみたいだから。そこはやっぱり内田君なんだけどね」

「んっ? どうやって確認したんだ?」

「一人、内田君にとても熱心に教えてくれる数学の先生がいてね。彼用に小テストを作ったんだ。教えた範囲で解けるヤツを。そしたら、満点だった。そして次の小テストはまだ教えてないけども、その少し先の範囲を入れた。そしたら、やっぱりそこだけは出来なかった」

「そうか……」

 立林の話を聞いて腕を組んで考える。話が進む内に互いのグラスに残っていた分もなくなった。そこで店員に二人分の水を注文する。冷たい水を胃に入れて、アルコールを薄めると、空転していた脳の歯車がかっちりと噛み合うようになってきた。

 立林も水を飲んで心地良さそうな吐息を吐く。

「まあ、内田君に関してはそんなところね。他に何か聞きたい事はある?」

「いいや、充分だ。ありがとう。そろそろ出ようか」

「ええ、そうね」

 二人は水を飲み干して、掛けてあった上着を取る。

 会計は倉澤が払った。立林を誘ったのは自分であるし、彼女を元気付けるのも目的なので、当初から払う気でいた。上着を着る前、彼女がお手洗いに行っている間、クレジットカードで会計を済ませておく。

 帰って来た立林は申し訳ないと言って、半分払うと言ってきたが、レシートをすぐに財布にしまい、彼女に値段を教えなかった。

 スペインバルを出て、外を歩く。待ち合わせをして会った頃よりも大分風が冷たい。酒と料理で火照った体が急速に冷まされていく。

「この後はどうする? どこか他のお店に行く?」

 外を出てすぐに立林が尋ねてきた。心なしか彼女の頬はまだ少し赤い。

 倉澤自身のアルコール許容量は、まだ限界まで余裕はある。しかし、立林にはその余裕はないだろう。それはふらつく足元を見れば一目瞭然だった。

「今日はこの辺りで帰ろう。無理したら明日に響く」

「え~。もう一軒くらいいいじゃない~」

 年甲斐もなく甘えた口調で抗議する立林。その表情は教師ではなく、久しぶりに見る学生時代の彼女だった。思わず微笑んでから、指でバツを作る。

「ダメ。大人しく今日は帰りましょう。ほらっ、駅まで歩く」

「は~い」

 二人は夜風に身を任せて、阪急三ノ宮駅まで取り留めもない話をしながら向かった。改札に到着し磁気定期券を取り出して、そこを抜ける。

 立林とは方向は同じだが、降りる駅が違うので、普通と急行で別れる。だが、流石に今の彼女を一人にはしておけない。

 倉澤はホームの自動販売機でミニサイズのポカリスウェットを二本購入して、立林に渡した。

 普通で帰る立林に合わせて、既にホームに待機している普通電車に乗る。電車内にまだ乗客は居らずガラガラだった。急行で帰っていたら、座れる事はなかったので、むしろ助かったと思った。

 深緑のシートに二人並んで腰を落ち着かせる。

 シートに座ってからは、自然と会話は減っていく。立林の瞳がトロンとし始めたからだ。両手で大事そうにポカリスウェットを持ち、肩に掛けていたカバンに紐がズレて、太腿の上に乗っていた。

 立林がこのまま寝てしまっても、駅に着いたら起こしてやろう。彼女が降りる駅は知っているので何ら問題はない。

 そう考えて立林に肩を枕として提供しつつ、今回得た情報を頭の中で整理する作業に入った。

 事件があってもう半年。積極的に関われなくなってから、情報は入ってこなくなり、菱田ともその話はしない。彼とは今、別の事件を追っている。

 今回、倉澤が立林と会った目的は二つあった。

 一つは事件の情報収集。その後の学校の様子や内田透について知りたかった。

 そして、もう一つは立林のケアである。

 スペインバルでも考えたが、担任である立林の精神的苦痛は、相当大きかったはずだ。こちらに入っている情報だと、自宅療養していた時期もあるという。勿論、そんな事を直接彼女に言う程、無神経ではない。

 だからこそ、赤ワインを沢山飲んで酔った立林に倉澤は心から安心した。

 そんな事を考えていると、いつの間にか車内には乗客で一杯になっていた。

 車掌のアナウンスが流れて、ゆっくりとドアが閉まる。

 ガコンっと言う音と共に電車はゆっくりと大阪梅田方面に走り出した。

「あれ、私寝てた?」

 電車が発車した時の衝撃でどうやら立林は目が覚めてしまったらしい。肩から頭を外して、薄目を擦っている。

「寝てていいよ。駅に着いたら起こすから。確か、芦屋川だったよな?」

「うん、そう。じゃあお言葉に甘えてもう少し寝るね」

「ああ」

 そう言って倉澤はポケットから携帯電話を取り出す。特にやる事はないが、眠気覚ましにインターネットでもする事にした。

 再び立林の頭が肩に乗り、寝る態勢に入る。

 その時、彼女が顔をこちらに向かずに口を開いた。

「今日はありがとう。私を元気付ける為に会ってくれたんでしょ?」

「……バレてたか」

「分かるよ。いつもは仕事が忙しいってロクに会ってくれない癖に、急に会おうって言い出すんだから」

「いつかの約束があったからな」

「私が担任だから、しっかりしなきゃって思ってて。でもそう考えれば考える程、息苦しくなって……」

「大丈夫だから。取り敢えずもう寝なさい」

 立林の頭を撫でてそう言った。

「うん、本当にありがとう」

 そう言って立林は再び眠りの世界に入る。

 肩に乗せている彼女の頭が規則正しく上下運動をするのを感じつつ、倉澤は小さくため息を吐いた。


 立林と飲んでから、二週間が経過した。

 倉澤は相変わらず仕事に追われる日々で、中々捜査が出来ないでいた。

 季節も当時からすっかり色を変えている。時間の経過は、その分真実を形骸化させてしまう。既に警察としての処理は完全に終了しており、世間の関心もない。

 毎日顔を合わせている菱田とすら、話題に出なくなっている。今は別の事件にかかりきりになってしまい、他県に行く事すらある始末である。

 そんな中、久しぶりに菱田と事件の話をする機会があった。

 二人が朝から遠出した帰り道。阪神高速5号湾岸線を走っている時だった。

「森野詩織って名前覚えているか?」

 助手席で缶コーヒーを飲みながら、倉澤は運転している菱田に尋ねる。

「ええ、勿論。去年の話ですね。もうあれから季節はすっかり変わってますが」

「あの事件。俺達は色々調べたけれど、最終的に自殺で断定したろう?」

「ええ。それが何か?」

 菱田は前を向いたまま、走行車線を走っている。倉澤は彼が追い越し車線を走っているのを見た事がない。八十キロでスピードメーターを固定しており、まるでロボットのような運転だった。

「二週間くらい前になるかな。立林先生と飲む機会があったんだよ。立林先生って覚えているか?」

「確か、森野詩織の担任でしたか」

「ああ。その時に当時の学校側の様子とか、その後を色々と聞いたよ」

「何か新たな収穫があったんですか」

「あった」

 菱田の質問に頷いて答える。

「内田透君について、教えてもらった」

「それで?」

「彼、成績がすこぶる悪くなっているらしい。なのに、授業態度は良好。毎回、授業終わりには先生に質問するんだと。まあ、それくらいならよくある話。けれど彼の場合、昔の勉強内容まで尋ねるそうだ。最初は教えている教師側も疑っていたらしいが、実際に確認テストを行ったところ、どうやら本当に分からないらしい。もしかしたら記憶喪失じゃないかって職員室じゃ話題になっている程だ」

 繊細という言葉では簡単に片付けられない内田の異常。

 倉澤はこの前に得た情報を処理する中で一つの仮説を立てていた。それは菱田も察したようで、僅かな沈黙の後、口を開く。

「あの遺書。奇妙な部分は、“ノートはいつも貴方の傍にある。”でしたね?」

「結局、本結果も本人が書いた物って出たからな。その時点で彼と全く無関係とは考え辛い」

 倉澤は車内にあるデジタル時計を見た。現在の時刻は午後一時半。

 今はタイミング良く高速道路を走っている。どうせ、この後本部に戻っても事後処理と言う名の書類業務が待っているだけ。

 ならばと考えて、倉澤は口を開く。しかし、彼よりも先に菱田が声を出した。

「このまま、あの高校に向かいます。倉澤さんは学校に連絡して、内田透を捕まえさせてください」

 菱田は車線を変更して、追い越し車線を走り始めた。

アクセルを強く踏み、スピードを作る。グンっと一呼吸置いて、二人を乗せた車は加速した。

「……」

「どうしました? 早く」

 菱田に初めて指示された事に呆気に取られて、口が半開きになったままの倉澤だったが、小さく笑い声を漏らした。

「了解」

 彼の成長に喜びつつ、携帯電話を取り出して高校に電話をかけた。直接、立林へとメールを送れたら一番良いのだが、今はまだ授業中のはずだ。

 高校へ連絡をして、受付から教頭である小渕を取り次いでもらう。

 あの男と会話したのは三ヶ月以上前だが、果たして向こうは自分の事を覚えているだろうか。一年は経っていないから心配無用だと思うが、ああいう手合いは自分に余計な事は忘れるタイプである。油断は出来ない。

 受付から、小渕の声を聞くまでに保留状態で三十秒程待たされた。

 その間、残り少ない缶コーヒーを一口飲み、唇を濡らしておく。

 受話器越し久々に小渕の声を聞く。と言っても、懐かしさは感じない。どちらかと言えば、覚えたくない部類に入る。

 倉澤は素早く用件だけを述べた。

 内田透に話がしたいので、今日の放課後に時間を作って貰えないだろうかと。

 彼の件は既に小渕は知っている為、名前を出すだけでどういう用事なのか、大よその検討が付いただろう。

小渕は二つ返事で了承して、また応接室を用意すると言った。

 形式的な感謝の意を伝えて、自分達が到着する時刻の目安を彼に伝えた。最後にもう一度、礼を加えて電話を切る。

 僅か十分にも満たない通話時間だったが、心労は大きい。単に面倒なのだ。向こうが発するこちらの意図を探ろうという気持ちに。

 向上心と言えば聞こえは良いが、歳を重ねた男がやっても鬱陶しいだけだ。

「ふぅ~」

 倉澤はため息を吐き、シートに深く背中を預けた。

「お疲れ様です。あの教頭先生ですか? 確か小渕とか言いましたね」

「よく覚えているな。その記憶力には感心するが、無駄使いはしない方がいいぞ。出世したいなら余計にな」

 適当な事を言って、また残り少ない缶コーヒーに口を付ける。

「内田透は捕まえてくれるって。場所は応接室だそうだ」

「良かったです。逃げられる前に向こうが確保してくれて」

「なに、彼の家は割れているんだ。仮に逃げてもそこまで面倒じゃない」

 確かに学校側が彼を前もって捕まえてくれたら多少の手間が省ける。

 それだけの事。小渕は内田を応接室に入れておくと言った。おそらくあの男は、問題に関わるのは煩わしいと考えて、彼一人だけを応接室に入れておく気だ。

 まあ、倉澤にとってはその方が有難い。

「さっきは適当な時間を向こうに伝えたが、間に合うか?」

「問題ありません。何ならパーキングエリアに寄っても構いませんよ」

「そりゃ助かる。トイレに一回行っておきたかった」

 菱田なりの冗談を受け入れつつ、倉澤は立林にメールを作成する。文面は内田と会う旨についてだ。

 無論、伝えたところで立林には応接室に入ってもらう事はない。今回は、彼女自身に用はないのだ。それでも念の為にメールだけは作成しておいた。

 菱田の運転で(まさか本当にパーキングエリアでトイレ休憩があるとは思わなかった)約束時刻の二十分前に高校に到着した。

 早速二人は、職員室に入り小渕にまず挨拶。彼から応接室の鍵を借りて中に入る。こちらの方が早かったので、内田が待機している展開は外れてくれた。

 倉澤は久しぶりに応接室を見回す。

 変わったのは壁掛けのカレンダーの日付と窓から映る景色くらいで、他は以前入った時と少しも変化はない。この部屋だけ時間の流れが緩やかになっていると倉澤は思った。

 定位置と化したソファに腰を下ろす倉澤。前回は後ろで立っていた菱田も流石に長丁場の運転は疲れたようで、隣に腰を下ろした。やがてチャイムが校舎に鳴り響き、生徒の足音と声がドアの向こうから聞こえ始める。

 そして、コンコンっと控え目な音でドアがノックされた。

 菱田が立ち上がりドアを開けて彼を迎える。倉澤も立ち上がり挨拶をした。

「お久しぶりです。内田君」

「お久しぶりです、倉澤さん。それに菱田さん」

 内田透は以前に見た頃と殆ど変化がなかった。予め聞いている状況から、少しくらいは疲れが顔に出ているかと思ったが、それもない。

「取り敢えずこちらにどうぞ?」

「はい、失礼します」

 内田との距離を今回は特別に計る必要はないと考えて、最低限の敬語を使いつつ、彼を向かい側のソファに座るよう促す。

 内田は自分が座った後、通学カバンを肩から外して手に持ち、ソファの隣に置いた。菱田もドアを閉めてから、また倉澤の隣に座る。

「突然呼び出してすまなかったね。さぞ驚いただろう」

「いえ。あの日以降、何回かこの応接室には呼び出されてますから。ああまたかって思いました。流石にお二人がいるとは想像してませんでしたけど」

 学校側が森野詩織の自殺について、調査委員会を設立したのは倉澤も知っている。内田からしたら、最早 自分達よりもその調査委員会との方に馴染みがあるようだ。

「そうか。それは大変だ。最近はどう?」

「少し落ち着いて呼び出される事は基本的になくなりました。だから、久しぶりにココに来て少し緊張しています」

「それは悪い事をした。せっかく落ち着いたというのに、私達が訪ねに来てしまって、勉強が捗らなくなってしまうね」

「あははっ」

 声を出して笑う内田。彼にとって、今の発言は嫌味でしかない。なのに暖簾に腕押しとばかりに受け流されてしまった。生意気さは健在である。それならばと、倉澤は敬語を使うのを止めた。

「前置きはこのくらいにして……、本題に入ろうか」

「うわぁ。怖いなぁ」

 呆けた様子の内田。倉澤は前のめりになった。そして、言葉に重低音を混ぜて、相手の耳に直接叩き込むように尋ねる。

「君は森野詩織について、何を隠しているんだ?」

「……」

 応接室にはしばらく沈黙が滞在した。

 事件は公には終了している。警察の自分が行う事も終えた。ココから先の領分には加わる事はまずしない。

 倉澤自身も森野詩織の自殺というのは正しいと思っている。

 気になる点は微々たるモノであり、そこからあれがトリックを用いた殺人事件に繋がるのは到底あり得ない。それはフィクションの世界だけ。そこまで断言できる程、彼は仕事にプライドを持って臨んでいる。

 客観的事実の証明こそ仕事であり、自殺した女子高生の動機を調査する事は逸れている。下世話な週刊誌は思春期の少女の心の闇なんて囃し立てて、ある事ない事を好き勝手に書いて終いには、立林を一時休職にまで追い詰めまでした。

 しかし、そこまでならば倉澤はこんなにも合間を縫って動かなかった。

 森野詩織に惹かれている。

 以前も自覚した事だが、やはりそこが一番の核となっているのだ。

 そう倉澤が考えた時、沈黙を守っていた内田が口を開いた。

「倉澤さんは、詩織は自殺で間違いないと今でも思ってますか?」

「ああ。若干気になる点はあるが、自殺で間違いはないと考えている」

「気になる点とは?」

 その内容を倉澤は当然ながら答えられない。

「教えらないな。すまないが仕事なんでね」

「そうですよね。それは分かります。それなのに、僕の事は話せと?」

 挑発するような口調の内田。

 そこを突かれると確かに弱いのは事実。だが、自分の仕事の特殊性を考えれば間違っていない。そして、それを内田は理解している。理解しながらも、敢えて聞いているのだ。

 内田は馬鹿ではない。頭の回転は速いし、油断すればすぐに彼のペースに引き込まれてしまう。と言っても、そんな事は所詮生意気な十代のガキでしかない。

 対処法は心得ている。

 芝居がかったため息を吐いてから、倉澤は口を開く。

「本当は内緒だけど、それを言われたらしょうがない。気になる点を話そう」

「お願いします」

 隣で聞いている菱田はどう思っているのか確認したかった。でも、今は不用意に彼を見ると内田に気付かれてしまう。横を向きたい気持ちを抑え込んで、倉澤はそのまま話を続ける。

「あの部屋、ええと出納準備室だったかな? 彼女が亡くなった日。妙に綺麗だったんだ。埃が全然ないし、棚も掃除されていた。でも、掃除をそんなにマメにしているとはとても考えにくい。何故なら、あの部屋には、掃除用具はないんだ。掃除をするなら、他の部屋から道具を持って来る必要がある。それなのに、あの部屋にはそれらの類は一切なかった」

「誰かが、わざわざ掃除をして、その後に片付けたって事ですね。そしてそれが詩織だと?」

「用務員の墨田さんに確認したけど、あの部屋を掃除したのは大分前らしい。当日は、放課後という事で彼女が掃除道具を運んでいる姿を見た者がいなかったのが、実に残念だ。とは言っても、自殺前の人間が部屋を綺麗にしたり、自らの体を洗う行為は、我々の間では珍しくはない。だから、気にしないでおこうと思えば、それで終わってしまう。現に我々がそう処理したように」

 倉澤が話すのはココまでだった。

 森野詩織の首に今回とは別にロープの後があり、まるで自殺の練習でも行ったような事は話さない。あの日の事情聴取での疑問点も同様だ。

 内田に話せるのはこれが限界である。

 気になる点を敢えて話した理由は、内田の張っているバリアを緩める事。

 それさえすれば、目的は達成されるのだから、わざわざ有益な情報を湯水のように与える必要はない。

「彼女が掃除した可能性自体が不自然ではない。問題はそこが出納準備室という事ですね?」

 倉澤は息を飲んだ。

 少量の情報しか与えなかったのに、そこから内田は結論を導き出してしまった。驚いた倉澤は小さな拍手を彼に送る。

「流石だ。良く分かったね」

「分かりますよ。そもそも出納準備室は、生徒が気軽に入れる部屋じゃない。勝手に鍵を司書室から盗み出しても、いつ気付かれるか分からない。大学図書館から本のやり取りをしている以上、鍵を持っていても他人が入ろうとする可能性だってある。そんな状況下で、掃除用具を運んでまで呑気に掃除をしている暇はない。つまり、彼女は殺されたかも知れない。そうでしょう?」

 内田の考えは見事。まるで倉澤の心に置いてある解答を読んでいるかのようだった。隣から息を飲む音が聞こえる。菱田も同様に驚いているらしい。

「凄いなぁ。内田君、将来は刑事になるといい。君みたいな人が入ってくれると安心だ」

「ありがとうございます。でも、今の成績じゃとても無理ですね」

「どうかな? それは君次第さ」

 内田の成績が落ちた事は前もって承知している。だから少しは思考力が落ちているのかも知れないと考えたが、それは全くない。それどころか、より研ぎ澄まされたような感触さえ覚える。成績が落ちた方を疑いたいくらいだ。

 そう倉澤が考えていると内田は手を上げた。

「一ついいですか。さっきは教えないと言ったのに、どうしていきなり教えてくれたんです?」

「君は賢いからね。話した内容を不用意に漏らすような子じゃない。それに森野詩織に近い人間だった。だから、知る権利がゼロではなかったからかな。……っと言うのは建前で、本音は君が隠している事を暴き出す為には、多少こちらのカードも見せる必要があった」

 倉澤は正直に作戦をバラす。内田は驚いた顔見せたが、すぐに首を横に振る。

「そこまで評価していただけるのは嬉しいです。でも、僕が話せる事は何もありませんよ」

「そうかな?」

 内田に向かって目を細めて、そう質問する。これが最後の攻撃。

 内田は困ったように首を傾けた。そして、力なく微笑む。


「大人ってそうやって何もかも解明しないと、気が済まないんですか?」


 これまでの内田の言葉とは、明らかに毛色が違う言葉だった。

「そうだな。歳を取ると嫌でも仕訳を覚えていくから、その中で大事だと思った事には一生懸命になるかも知れない」

 歳を重ねる毎に人間は妥協を覚えて好奇心や向上心を失っていく。

そんな事を倉澤はまだ、大学生だった頃心理学の授業で聞いた事がある。日々溢れる情報から適切なモノだけを抜粋して、処理する能力。

 それを手抜きと言うか仕訳と言うかは本人次第。

 ただ、はっきりしているのは解明しようと決めた問題に関しては手を抜かないという事。そう言った特徴が内田の質問を引き出した原因だろう。

「僕はそんな大人にはなりたくないなぁ」

「誰でもそんな事を考えるモノさ。私も昔、内田君のような事を考えた事がある」

「本当ですか? とてもそうは見えません」

「本当だとも。嫌なものさ、いつの間にか物事に一々優先順位を付けて、楽を覚えていく。色々な事に興味があった子供時代には、もう戻れない」

 二人は一切の駆け引きを抜きにして、本音を言い合う。

 隣で静かに話を聞いている菱田がどう考えているか、倉澤は聞きたかった。いっそ聞いてしまおうか。三人でディスカッション出来ればさぞ楽しいだろう。

 しかし、それをしない。もとい出来ないのはまだ打算的な思考が、内田から有益な情報を奪おうとしているからに他ならない。

「そっか。厳しいなぁ……。僕はそんな大人にはなりたくないけど、倉澤さんがそうなってしまったくらいですから、きっとなってしまうんでしょうね」

 諦めたようにため息を吐いた内田はそう言った。

 内田がこうはなりたくないと言った大人像。それに自分はなってしまっている。だから彼には、それを回避するアドバイスは出来なかった。

 その方法を知っているなら、とっくに自分でしている。

「私からは、どういうアドバイスをすればいいのか分からない。申し訳ない」

「そうですか……、難しいですね。大人になるのって」

 倉澤は内田の言葉に微笑んで返す。

 まるで、一瞬入った内田の心の洞窟を引き返すようだった。それは避けなければいけない。それでは、目的は達成出来ない。思考を休めるな、嘘でも構わないから相手が望むアドバイスを投げかけろ。

 自分の中にある冷静なもう一人の自分は、そう言ってくる。

 それに全力で抵抗する。そのせいで、倉澤は気を付けていたのについ、言ってはいけない言葉を零してしまった。

「森野詩織さんだったら、答えを知っているのかな」

「どうでしょう? でも、そうですね。彼女なら知っていたかも知れない。彼女は賢い人でしたから」

 森野詩織の名前を出してしまう事は、二人の関係を警察と生徒に強制的にリセットさせる。その事を倉澤は自覚している。しかし既に手遅れだった。もう内田の心の洞窟は完全に閉じてしまった。彼の心をあれ以上、開くつもりなら名前を出すべきではなかった。

 応接室の壁掛け時計で確認すると、意外にも時間はそんなに経過していない。

 いつもは早く感じる応接室なのに、こんな日に限って遅かった。

 今以上の会話はマイナスしか生まない。

 倉澤は話を切り上げる事にした。

「今日はココまでにしよう。わざわざ時間を作らせてすまなかった。駅まで送るよ。本当は家まで送ってあげたいんだけど、そこまでの時間は難しくてね」

「いえ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 内田はソファから立ち上がる。菱田も自然と立ち上がった。倉澤は、職員室まで応接室の鍵を返しに行ってから向かうと言って、菱田と内田に先に車まで向かってもらった。

 一人になった倉澤はソファに乱暴に背中を預けた。

「あ~っ! もうっ!」

 あと少しだった。あと少しでこじ開ける事が出来たのだ。それを彼は自ら潰した。内田の問いかけを否定してしまった。

 今後、彼が自分に心を開く事はもうないだろう。

 チャンスはつい数分前に存在して、泡となり消えてしまった。いくら後悔してもし切れない。モヤモヤとした不快感が肺に溜まっていく。

 一分間、倉澤は目を瞑った。何かを考えているのではなく、心を無にする為である。ただ何も考えず、周りから見れば寝ているかと誤解されるくらい、規則正しく鼻息を吐いて、肺に溜まった不快感を取り除いた。

「よしっ」

 自分の膝をパシっと叩いて、その反動で立ち上がる。そろそろ行かなければ、二人を待たせてしまっている。応接室の電気を消して、職員室へ鍵を返しに行った。小渕が何か言っていたが、ほぼ反射神経で返答した。

 受付を出て、外に出ると既に車が待機していた。

 運転席に座っている菱田と後部座席に座っている内田。前回と瓜二つのシチュエーションだった。倉澤は すぐに乗ろうとしたが、ふと、ある事を思い付くと、車内の彼らに手を上げてから、振り返ってまた校内に戻った。

 倉澤が再び外に出た時、その手には一本のコーラがあった。

 今度は素直に助手席に乗り込む。

「これ、内田君に」

 シートベルトを付ける前に、彼の方を向きコーラを渡した。

「ありがとうございます」

「炭酸飲める?」

 渡してからでは遅いが一応確認する。内田は首を縦に振った。

「はい、コーラ大好きです。いただきます」

「なら良かった。どうぞ遠慮せず飲んでね」

 そう言って倉澤は前を向く。

 カシュっと炭酸の弾ける音が後ろから聞こえてきた。それをスタートの合図に菱田はアクセルをゆっくりと踏み、車を前進させる。

放課後ではあるが、授業直後ではない事に加えて、部活時間中である事のせいで、通学路に生徒の姿はなかった。

 車内に会話はない。菱田は無言で運転して、倉澤は腕を組んで目を閉じている。後ろからは時折チャポンっと音が聞こえた。

 何のトラブルもなく、車は駅へと到着した。

 車が止まった事が分かった倉澤は目を開けて、助手席を降りた。そして、後部座席のドアを開ける。

「今日は良い話が出来て楽しかった。またね」

「僕も楽しかったです。それではさようなら」

 会釈をして、手にコーラの缶を持ったまま内田は車を降りる。彼は一回振り返り、もう一度だけ頭を下げた。そして、改札の向こう側へと消えていった。

 内田の姿が見えなくなったのを確認してから、倉澤は素早く運転席へと回り込む。窓ガラスをノックするまでもなく、菱田はパワーウインドーを降ろした。

「俺はこのまま内田透を尾行する。菱田は先に本部に帰ってくれ」

 細かい事を説明している時間はなかった。こうしている間にもいつ電車が来てしまうか分からない。現在の時刻と、この駅が他線への乗換なしの駅という事から、甘く見積って猶予は十分程度だろう。

「了解しました。お気を付けて」

 時間が無い事を察したのか、それだけを言って菱田はパワーウインドーを上げようとする。数センチだけ上がった所で慌てて止めた。

「待て待て。これ、菱田の分」

 倉澤は背広のポケットから、缶コーヒーを取り出して菱田に手渡した。受け取った彼は意表を突かれた顔を見せたまま固まっている。

「今日は御苦労様。本部で成果をたっぷり話すさ。その後、飲みに行こう。三ノ宮に美味しいスペインバルを知っているんだ」

「倉澤さんの奢りなら行きましょう」

「勿論。じゃあ行ってくる」

 そう言って、倉澤は改札に向かって駆け出した。

 既に内田はホームに出ているはずなので、全力で駆けてもバレはしない。捜査用のIC定期券を改札にかざして、駅構内へと入る。

 発車標を見ると、次の地下鉄が来るまで残り二分足らずしかなかった。

 内田の家の場所は知っているので、二つあるホームのどちらなのかは分かる。倉澤は迷わず一番ホームへと繋がる階段を駆け下りて行った。ホームの階段付近に彼がいたら、アウトだったが電車に乗り遅れる可能性を考えると、背に腹は代えられない。

 ホームに駆け下りると、丁度地下鉄が到着するアナウンスが流れていた。

 周囲を確認して、内田の姿を探す。彼はベンチには座らずドア前の列に並んでいた。両耳にイヤホンを挿して下を向いている。

 その手にコーラはない。飲み切って捨てたようだ。

 倉澤は気付かれないよう、隣の車両の列に並ぶ。内田が音楽の世界に没頭してくれているので、実に尾行しやすい。

 トンネルの奥から丸目のライトを光らせて、地下鉄が到着した。降りる人間と乗る人間が入れ替わる。倉 澤は車両に乗り、内田を見失わないよう、車両の一番端に持たれた。

 時間帯の事もありシートには余裕があった。内田はドア近くのシートに腰を下ろして、腕を組んで下を向いていた。目を閉じていているかまでは、この距離からでは判別出来ない。

 他の乗客にも注意を払いつつ、内田の様子を窺う事にした。

 倉澤はコーラを渡した時から、尾行しようと決めていた。今、内田は今日はもう刑事達との話は、完全に終了したと思い込んでいる。

 倉澤と内田は距離を縮める程の、濃い内容の話をした。

 残念ながらそれが身を結ぶ事はなかったが、その話をしたという過程だけで今回は通常とは違うという事を内田に印象付ける事が出来たはずである。結果、現在彼の張っているバリアの膜は、薄くなっている可能性が極めて高い。

 コーラ一本で、果たしてどれだけ薄くなったかは賭けだ。それにこのまま尾行をしても、徒労に終わる可能性もある。いや、むしろその方が大きい。

 間もなくして、下を向いていた内田が顔を上げた。

 そろそろ内田が降りる駅に地下鉄が到着するようだ。ずっと下を向いていたのに、都合良く顔を上げられる事に倉澤は感心しつつ、様子を窺い続ける。

 地下鉄が停車する駅はJR他、いくつか私鉄が走っている大きな駅。

 神戸三ノ宮駅である。

 多くの乗客が乗り降りる駅でもあり、その駅を出て少しエスカレーターを上った所にあるブックファースト上の喫茶スペースでは、かつて内田と森野詩織が周囲に隠れて会っていた場所と報告を受けている。

そして、この駅は森野一家が住んでいたマンションの最寄り駅でもあった。

 内田が腰を上げて、降りる乗客の列に並ぶ。

 倉澤もそれに続く。降りる人数が多いので、彼に見つからずに進めるのでやりやすかった。内田は長身の上りエスカレーターに乗って、地下鉄の改札から出る。真っ直ぐ帰宅するのなら、そのまま私鉄に入るはずである。

 ただ、三ノ宮駅は繁華街なので、学生の寄り道には最適な場所である。ココで内田が私鉄に乗り換えず、センター街に向かって歩くのに何の不思議はない。

 案の定、内田は私鉄の改札へは行かず、そのまま地上に出た。

 この時点で倉澤はこの尾行が無駄骨に終わりそうだと思い始めた。ただの男子高校生の寄り道を尾行しても意味はない。寄り道を注意するのは、生活指導の教師の仕事であり、警察の仕事ではない。

 半ば諦め混じりのため息を吐きながら、一応どこかの店に入るまではと尾行を続ける倉澤。内田は地上の横断歩道を通って、センター街へと向かう。

 やはりどこか入るようだ。そう思っていると、内田は予期せぬ行動を始めた。

「んっ?」

 内田はそのままセンター街を通り過ぎたのである。

 そのまま神戸市役所方面へと歩き続ける。

 倉澤の中に湧きかけていた諦め心が一気に消失した。同時に気を引き締める。

 どうやら内田は、ただの寄り道をする気ではないようだ。

 神戸市役所周辺には男子高校生が行くような店はない。

 オフィス街であるし、存在する店も高校生が購入するような安価な店でない。

 それだけではない。倉澤が気を引き締めたのは、神戸市役所の近くにあるマンションの存在だ。ここがかつて、森野一家が住んでいたマンションである。

 既に部屋は売り払っている。だが、センター街を素通りする内田に何らかの関連性を疑わずにはいられない。

 内田は神戸市役所の前を通り、東遊園地に入って行った。

 東遊園地は、都市公園の一つ。神戸ルミナリエの会場にはなっているが、それ以外では殆どの人が足を運びに来るような場所ではないだろう。スケートボードや球技をしている若者や、散歩をしている老人。ベンチに座って時間を潰しているサラリーマン程度が利用しているに過ぎない。

 森野一家がかつて居住していたマンションは、東遊園地の先にある。

 その為、周辺道路を歩かず中を突っ切るのは近道と言える。そうではなくては、こんな場所に内田が入る意味がない。

 倉澤は慎重に内田を尾行する。駅周辺とは違ってココでは人の姿が全然ない。気を抜けば簡単に見つかってしまう。

 園内に入った内田と余裕を持って距離を取る。見失う事のないギリギリの範囲。彼が振り返ってもどうにか出来る距離を。

 内田は入り一つのベンチに腰を下ろした。細い木が網目状になっている天井が園内のベンチにはいくつか存在している。彼は腰を下ろしてから、これまでずっと付けていたイヤホンを外した。そして、それを首に引っ掛けると、じっと正面を見ていた。

 二分程、何もせずただ前だけを人形のようにしていたかと思うと、次に通学カバンのジッパーを開ける。 そして、中から一冊のノートを取り出した。

「あれは……」

 倉澤の心臓がドクンっと大きく跳ねた。

 興奮で頬が熱くなる。

 内田はそのノートをゆっくりと開いて、中に書いてある何かを大事そうに頬を緩めて眺めていた。その彼の表情から普通のノートでない事が分かる。

 同時に連想するのは森野詩織の遺書にあった言葉の前半部分。

“ノートはいつも貴方の傍にある”

 意味が分からず事件に携わる大人達が苦戦していたノート。それが今、倉澤の瞳に映っている。内田は丁寧にノートのページを捲っていた。

 そのノートを捲る速度が段々と遅くなり、ついに止まる。ページにはまだ余裕がある。おそらく遺書に書かれていた日付に関連するに違いない。

 倉澤は迷わず一歩を踏み出した。

 内田はノートに夢中になっていて、倉澤が近付いていく事に気付いていない。

 ベンチに座っている内田の肩に容赦なく手を置いた。

「やあ、こんにちは」

 突然現れた倉澤に内田は目を見開いて驚く。そして、観念したと言わんばかりに大きく口からため息を吐いた。

「あれからずっと僕を尾けてたんですか? 酷いなあ」

「悪いが、これが仕事なんだ」

 そう言って、倉澤は内田の隣に座る。

 やはり、考えていた目論見は全て当たった。内田は警察に隠し事をしていたのだ。今日まで隠し続けるその度胸は認めるが、褒められたモノでは決してない。

 倉澤は右手を伸ばす。内田は黙って手にしていたノートを彼に渡した。

 ノートを受け取り早速ページを開く。

 一体何が書かれているのか、どうして隠したのか。それが今、明らかになる。

「これは……」

 内容を見た瞬間、倉澤は衝撃に襲われて、その後呆気に取られた。

 森野詩織という自分が惹かれていた謎めいた少女。そして彼女と一番繋がりが深かった少年。その二人が隠していたノート。

 そう、考えてみたらそれ程難しい物ではなかった。

 二人の個性を排除して、高校生同士のカップルというカテゴリに当てはめてみると、自ずと答えは出てくるはずだったのだ。それをしなかったのは、どこかで倉澤が期待していたからに他ならない。

「最初のきっかけは些細な事でした。メールばかりではなく、アナログな事がやりたいって詩織が言い出したんです」

 ポツポツと内田が語り出す。

「詩織は肉筆で書いた字が好きだとよく話していました。だから、手紙を沢山くれたし、僕もお返しに書いた。勿論、それ以外にもメールはやってましたけどね。彼女が言ったんです。付き合ってる事を他人に隠しつつ、記録に残る事がしたいって。データみたいに無機質でいつ消えてしまうか分からないモノより、人の癖が付いた手書きの文字が良いって。だから……」

 鼻を啜る音が聞こえて、自身の声が次第に震え始めながらも、内田は経緯を説明し始めた。

 倉澤はノートに視線を落として、内田の話を聞いていた。

 今、手にしているノート。それは交換日記だった。

 日付と名前が書かれており、今日の一日が記されている。そして、最後には相手への質問やメッセージが書かれていた。

 それは二人だけの世界。その世界の外にいる人間は入る許可を持たない。

 倉澤はノートを閉じた。そして、内田の顔を見る。

 茶色の瞳が潤んでいた。今にも泣きそうな表情で、ちょっとした振動で涙が落ちてしまいそうだった。

 深いため息を吐く。

 それはこの事件を捜査して出たどの種類のため息とも違う。

「あの遺書は君へのメッセージだったのか……」

「最初に倉澤さんから話を聞いた時、すぐに交換日記の事だと気付きました。倉澤さん、彼女の遺書に書かれていた日付って覚えていますか?」

「ああ……、確か」

 倉澤は記憶を探る。

 彼女の遺書に書かれていた不可解な内容とは別にあった二つの日付。

 一つは当日。では、もう一つは? それが分からなくてずっと考えていた。しかし、どれだけ考えても日付単体では納得のいく答えは出ない。時の経過によって、日付の方はゆっくりと存在を薄くさせていった。

 頭では思い出せないので、背広の内ポケットから手帳に手を伸ばした。

 こういう時の為にある手帳だ。そう思いながら手帳を開き、何ページか遡った先に書かれていた、殴り書きの日付を声に出す。

「2008年10月22日」

「その前日の交換日記を見てください」

 言われるがまま、日記のページを捲り、該当する日付に辿り着く。

 そこに書かれていたのは、彼女の心の内側。

 周囲の期待やプレッシャーに悩む十代の少女であった。

 他のページに書かれていた内容とは一線を画しており、そこだけ異彩な雰囲気が目立つ。

 倉澤はそこで初めて、森野詩織という少女の弱さを垣間見る事が出来た。

 他人からの話だけで、彼女の人物像を形成して、自らも惹かれていた。その結果、事件発生から今日に至るまで、自分の中で森野詩織は相当大人になっていた。

 ところがそれは、勝手に作り上げてしまった虚像に過ぎない。

 いくら頭の回転が速く、周囲から凄いと言われようが、本質的にはただの女子高生なのだ。倉澤の年齢の半分程度の人生しか生きていない。

 知識や要領の良さでいくらそこをカバーしたところで、経験には敵わない。

 彼女が自殺した理由は、なんら特別な事ではない。

 極めて簡単に述べるならば、将来に悲観して自殺した。それだけだった。

「周囲からは勉強を教えてくれる存在。教師陣からはそれを疎ましく思われる時もありつつも、学校を宣伝するに相応しい成績を全国模試で叩き出す。そんな事をしていると、いつの間にか詩織は他人から頭が良い=大人である。っという図式の下、評価されていました。でも、そんなの虚構に過ぎない」

「周りが彼女を異様に持ち上げ過ぎていたと……」

 内田は頷いて肯定する。

「同級生達の成績を上げ続けて、自分の成績も維持する。それにプレッシャーを感じない人間がいるでしょうか?」

 そう内田は、言葉に芯が入った声で言った。

「君の言う通りだ。我々大人がもう少し彼女の事を知ってあげる事が出来れば、悲劇は起こらなかった。すまなかった」

 プレッシャーを感じていた森野詩織。それなのに、彼女は決して止めなかった。

 勉強の面倒を止めるのは、難しい事ではない。プリントを作らなければ終わる。

 ただ、それをすると自分はどうなってしまう?

 聡明な彼女は、それが容易に想像出来たから続けたのだ。プレッシャーを毎日受け続けて、最後には自殺してしまう程にまで。

 そう、彼女は止めなかったのではなく、止められなかったのだ。

 その事に我々大人は最後まで気付けなかった。反省すべきである。

「謝らないでください。倉澤さんは生きていた頃の詩織と直接関わっていないんです。それなのに謝られても変ですよ。それに僕の話はまだ終わっていません。彼女の日記の日付は、遺書に書かれていた日の前日になっているでしょう?」

「ああ、そうだ。まさか彼女が日付を間違えたという事はないだろうな」

「はい。それは交換日記ですから、当然返事は僕が書く事になります。だけどその日。詩織は日記を学校に持って来なかったんです。忘れ物をするって概念が彼女にあった事に驚かされました」

 内田は上を向き、当時の事を思い描きながら目を瞑った。

「詩織と僕は三ノ宮駅の喫茶スペースでしか会っていませんでした。だから、この交換日記もその時しか渡せません。それなのに、彼女は日記を忘れたと言いました。そして、代わりに日記に書いてある内容を僕に相談して来たんです。自分は周りから凄く評価されている。それは有難い時もあったけれど、今はもう苦痛でしかない。だけど今更、皆の面倒を打ち切る訳にはいかないって……」

「辛いだろうな」

「詩織の泣き顔なんて初めて見ましたよ。それに僕自身も彼女に勉強を教えてもらっている内の一人ですから、どう答えていいものか。正直、迷いました。もう止めろって言うのは簡単ですが、実際口にするのは難しい」

 園内に風が舞う。近くの海が運んでくる風と雲は、ゆっくりと夜を持って来る。

 街灯が点き始めている事に倉澤は気付いた。

「それで、彼女に相談された時、君はなんて答えたんだ?」

 倉澤の質問に内田は一拍置いて、大きく息を吐いた。

「プレッシャーを感じる必要なんてない。そもそも周りは詩織に感謝している。恨んでいる人間なんかいない。たとえ、成績が落ちたって誰も責めはしない。それでも、どうしても怖いのなら、僕にだけは寄り掛かってほしい。口に出せないなら今日忘れた交換日記に書いてもいい」

「中々カッコいいじゃないか」

 音が出ない拍手をして内田を讃える。その言葉は暖かく彼女を包み込んだに違いない。すると、彼は照れたように頬を掻いた。

「必死だったんです。詩織に寄り掛かってもらえば、馬鹿な自分でも少しは助けになるかも知れない。そう思って言ったんです。彼女はそう言うと、凄く喜んでくれました。安心したって笑ってくれました。その事を彼女は次の日の交換日記に書いてます」

 倉澤はページを捲る。

 2008年10月23日。記入者は森野詩織。本来ならば、その日は内田が書くはずだった。しかし、現物を渡していないのだから彼には書けない。

 よって、彼女は連続で日記を書いたのだ。これではまるで、本物の日記ではないかと倉澤は思った。

 書かれていたのは内田への感謝。前日とは違う心情なのは、文面からすぐに分かる。

 自分は抱え込んで身動きが取れなくなってしまった。

 だけど、内田に相談した事で心の体重が軽くなった。

 本当に感謝している。寄り掛かってほしいって言ってくれて、嬉しかった。

 あの時の言葉通り、私はいつまでも貴方の傍にいる。

 そう、どれだけ内田に救われたかが、丁寧に書かれていた。

 十代の高校生特有の青春。今の年老いた自分にはドラマでしか、出会う機会がないような文字の羅列。それらを見て倉澤は微笑ましく思う。

 ところが、同時に疑問が浮かぶ。

「ココまでしたのに、どうして結果があんな形になったしまったんだ?」

「分かりません。僕の言葉が足りなかったのか。それとも詩織を更に苦しめる何かが、起こったのか……」

 力なく内田は答える。結局のところ、森野詩織が自殺した真意については彼にも分からないでいたのだ。倉澤は彼の肩に手を置く。

「いや、君のした事は充分大きい。あの遺書に書いてあった。ノートはいつも貴方の傍にある。という言葉は、彼女が救われた証だよ」

「本当、ですか?」

 内田が潤んだ瞳を向けて尋ねてくる。それに頷いて肯定した。

「本当だとも。この日記は返すよ。それに、君が警察に言いたくない理由も判明した。一から百まで褒める事は出来ないが、それでも理解は出来る。この事を公にはしないから安心てほしい」

 倉澤は日記を内田に返す。それを大事に受け取る姿を見て、彼もまた自分が勝手なイメージを付けていたと思った。最初、彼の事に対して、大人を手玉に取ろうとする生意気なガキと印象を持っていた。

 それは我々が自分勝手なフィルターを通しているに過ぎないのだ。

 一度そう思うと、今日会うまでは変に構えていた自分が馬鹿らしく思えてきた。同時に彼が歳相応の高校生だと分かると、可愛げすら感じる。

 倉澤は改めて内田を観察する。

 すると、内田の首から掛けているイヤホンが気になった。彼は普段、どんな音楽を聴くのだろうか? 

「内田君はどんな音楽を聴くの?」

「僕は『Queen』が好きです」

「へえ、今時の高校生にしては珍しい」

 てっきり流行のポップスを聴いていると思っていた。『Queen』は倉澤も昔は聴いた時はあったが、最近ではまず聴かない。極稀にカバーやBGMだけがCM等で使われるのを聴いて懐かしむだけである。

「昔は私も聴いてたけどね。最近じゃ、あまり聴いていないな。どの曲が一番好きなの?」

「僕は『Killer Queen』が一番好きです。曲の解釈は人それぞれですが、僕は寂しがり屋の女性の曲だと思っています。三分しかない短い曲ですが、この曲を聴き終わると、僕は歌詞に書かれている彼女がどうしようもなく、恋しくなるんです。そのお蔭でよく落ち込んだ時とかに助けられました」

「そういう一曲は大事にするといい。長い付き合いになるだろうからね。人生の先輩からのアドバイスだ」

 そう言うと、内田は微笑んでから「はい」っと頷いた。

 その満足げな内田の顔を見て、これ以上彼に関わるのは止めようと決めた。今回の事で彼が隠していた事を知る事が出来た。もう無理に会う理由はない。

 後は、帰って菱田に話せば、事件は終了である。

 倉澤はベンチから立ち上がった。両手を上に上げて肩をほぐす。

「さて、そろそろ私は帰るとしよう。君はどうする?」

「あっ、僕はもうちょっとココにいてから帰ります」

「分かった。あまり遅くならないように」

「はい。あの、黙っていて本当にすみませんでした」

 内田は立ち上がって頭を下げた。

「もう済んだ事だ。こちらこそ色々と失礼な態度を取ってすまなかったね。君とはもう二度と会わないだろう。だからこそ、最後に言っておく」

「はい」

 内田が顔を上げる。

「彼女を失ったのはどうしようもない事実であり、その悲しみは計り知れないだろう。君はこの先の人生をずっとその悲しみと生きていかなければならない。だけど、それは彼女だって望んではいないはずだ。だから、君は彼女の分まで、これからの人生、笑って楽しんでくれ」

 説教じみたセリフが自分に似合わないのは、重々承知しているが、それも今日限りで会わない相手ならば、さほど羞恥心はない。

 内田は倉澤の言葉を素直に聞き頷いた。

「分かりました。これからも頑張ります、詩織の分まで」

「その意気だ。じゃあさようなら、内田君」

「はい、さようなら」

 倉澤はそのまま駅方向へと歩き始めた。

 園内から出る時、振り返り内田の様子を窺った。彼は、両耳にイヤホンを付けて音楽を聴いている。きっと今、イヤホンから流れている曲は『Killer Queen』だ。内田は倉澤の視線に気付きペコリと頭を下げたので、手を振って返した。

 それが二人の最後のやりとり。

 園内を出てからは一度も振り向く事なく、倉澤は三ノ宮駅に向かった――。


 東遊園地を出た倉澤を透は、ぼんやりと眺めていた。

 やがて、彼の姿が雑踏に溶け込んだ時、誰にも向けずに口を開く。

「そんな訳ないでしょう?」

 透は手に持っていた交換日記を冷めた目で見下ろすと、乱雑に通学カバンにしまった。手に伝わるノート一冊分の重みが煩わしくて我慢ならなかったのだ。

 この日記はもう役目を終えた。

 MDプレーヤーを通してイヤホンから聴こえる曲は、ループ再生に設定しているので、次のトラックに進まない。もう、音がなくても幻聴として聴こえる程、メロディーが心に刻み込まれた曲だった。

 透はコントローラーを捜査して、二曲目のトラックを選択する。

 ほんの少しの静寂の後、イヤホンからは二曲目が再生される。

「ふう~」

 深いため息を吐いて、透は夜が始まった空を見上げていた――。

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