表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クリスタルホワイト・アイス  作者: 綾沢 深乃
6/12

「第六章 ガラスの中の平行線」

 翌日、倉澤は立林に言った通り、午前九時には高校に着いていた。

 昨晩、本部に帰ってから、最低限の仕事のみ手を付けた。お蔭で寝不足気味で軽度の頭痛がするだが、体を動かす事に大した支障はないので無視する。

 今回、倉澤は個人で動いている為、菱田を同行させるつもりはなかった。しかし、現地では既に彼が到着しており指示を待っていた。(倉澤は本部に見つからないようにわざわざ車を使わなかったのに、彼は自分の車でやってきたのだ)

「呼んでないだろう……」

 開港一番、挨拶してくる菱田に呆れ顔でそう言う。

「そうは言われましても、僕だけがデスクワークしていたら、怪しまれますから。それに、捜査に頭数が多い方が有利なのは基本でしょう?」

「出世したい癖に」

「まあまあ、今日一日程度なら平気ですよ。現場だってそのままだから、色々片付けないといけない物もあるし」

 そんな事は巡回中の警察官に任せれば済む話である。

「やれやれ……」

 軽くため息を吐いて倉澤は観念する。

 校舎内は静かだった。一応、ココに来る前に電話連絡をしていた。昨日覚えた職員室に二人が向かって、ノックをして中に入る。

 そこには数人の職員がいるだけで、空いているデスクが多数存在している。時間が時間なだけに教師は教室にいるのだろう。

 僅かに残っている教職員連中の中に、教頭の小渕の姿を見つけた。彼は入って来た倉澤と菱田の姿を見つけると、すぐに席から立ち上がり、駆け寄ってくる。

「おはようございます。先程、事務から話は窺っておりました」

「朝早くから申し訳ありません」

「いえいえ。今日は我が校の校長が来ています。ただ、今はこの後行われる全校集会に準備の為、すぐに会うのはちょっと……」

 歯切れの悪そうに言う小渕。すぐに倉澤は手を振る。

「構いません。今日は、昨日の補足や簡単な現場処理に参りました。急いではいませんので、待たせていただきます」

「そう言っていただきますと、こちらとしても助かります。良かったら昨日と同じく応接室でお待ち下さい」

 小渕は、自身のデスクに置いてあった鍵を倉澤に手渡す。それを受け取りながら、一つ思い出したように「あっ」っと倉澤は短い声を出した。

「そうだ、立林先生は今日来られていますか?」

「えっ? ええ。勿論です。彼女は亡くなった森野さんの担任ですから」

 突然の事を問われて一瞬自身のペーがを乱される小渕。

 ペースが正常になる前に倉澤はたたみ掛ける。

「お忙しいのは重々承知なのですが、彼女と話す時間を今貰えませんか?」

「今は、ちょっと……」

 苦い顔をして言葉を濁す小渕。冷静に考えて、担任である立林は他の教師に比べて忙しいのは当たり前である。だが、この機を逃すと次に話す機会は遥か彼方だ。倉澤は頭を下げて頼み込む。

「十分、いや三分で結構です。ちょっと聞きたい事があるだけなんです」

「頭を上げてください。あの、私で良かったら聞きますが?」

「いえ、教頭先生ではなく担任の立林先生と話がしたいのですよ」

「困りましたねぇ~」

「もし立林先生との時間を用意してもらえるのでしたら、校長先生とは今日無理に会おうとは思いません。そちらからご連絡を頂ければ、改めてお伺いします」

 倉澤の懇願に小渕は腕組みをして考える。やがて、自分の腕時計をちらりと見て、何らかの時間計算が終了したのか、小さく鼻息を出した。

「しょうがない、いいでしょう。場所は応接室、時間は五分で宜しいですか?」

「お手数をお掛けして申し訳ありません」

 再び頭を下げる倉澤。一歩下がっていた菱田も同様に頭を下げる。

「では、応接室でお待ち下さい。立林を呼んで参りますので」

「はい、宜しくお願いします」

 倉澤と菱田の二人は先に応接室にて、立林が来るのを待つ事にする。

 約十数時間ぶりに入る応接室は、当然だが何も変わらない。二人は昨日と同じ定位置にそれぞれ落ち着く。

「頭を下げた効果がありましたね」

「ああいう手合いの人間は、頭を下げられるのがたまらなく好きなんだ。しかも相手は警察。優越感は相当なんだろう」

「それを分かってて使うあたり、倉澤さんはやり手ですね」

 先程の光景を思い出したのか、菱田は軽く微笑んだ。

「歳を食えば誰でも出来るようになる。問題は頭を下げられるプライドを持っているかどうかだけだ」

 頭を下げない事に固執して、その先に得られる物を見失ってしまうなら、頭くらい喜んで下げる。それは倉澤がこの仕事で得た経験だった。ただ、本当に賢い人間なら頭を下げなくても良い解決法を知っているのだろう。

 そう例えば、森野詩織ぐらい頭の良い人間が刑事になったとしたら……。

 午前中でまだ頭の回転が鈍っているのか、ついくだらない事を考えてしまう。思わず自嘲気味にため息が出た。丁度その時、応接室のドアがコンコンっとノックされた。ノックの感じですぐドアの向こうにいるのが、立林だと分かる。

 軽く菱田に目配せをした。彼は黙って頷いてドアを開ける。

「おはよう倉澤君」

「おはよう、立林先生。昨日はよく眠れた?」

「ええ、ありがとう」

「そりゃ良かった」

 立林の顔色は思ったより良い。酒に頼るような幼稚な真似はしないだろうから、恐らく睡眠薬を使用したのだろう。そう感想を抱きながら、倉澤は立ち上がり入口付近に立ったままの彼女に近付く。

「さあ、入ってくれ」

「でも、私これから……」

 立林が言おうとした事を察した倉澤は、すぐに彼女の言葉を遮る。

「ああ、だから時間がないな。ソファには腰掛けなくていいから、取り敢えず中に入ってくれ。流石にドアが開いたままだと都合が悪い」

「分かった」

 立林はそう言って応接室に入った。ドアを開けた菱田は彼女が入るとすぐにドアを閉めて、入口付近に立っている。まるで、捕らえた姫を逃がさない意地悪な門番のようだった。

 お互い応接室のクリーム色の壁に背中を預けた。腕時計を確認する倉澤。

 こうしている間のも容赦なく秒針は走り続ける。さて、あまり時間はない。

「端的に話そう。この後の予定はさっき教頭先生から聞いた。全校集会が行われるんだろう?」

「だから朝からバタバタしているわ」

「まあ、この手のパターンを職業上知っているから、この後の流れも大体分かる」

 全校集会の後は、生徒を家に帰して三日程の休校とする。

 その間にマスコミへの会見準備、外部専門家を招いての調査委員会の設立。

 更に学年保護者への説明会。最後に親しい生徒へのケア。

 基本的な事はこれくらいである。

 後は自殺した生徒の両親の許可が出れば、クラスの生徒を葬式に参列させる事が出来る。

 ココで倉澤は森野詩織の両親について、思い出していた。

 両親は彼女が小学生の時に離婚しており、現在は母親と二人で暮らしている。

 確か名前は森野夕美。学生時代の海外留学で得た類い稀なる語学力を生かしてコンピューター関係の外資系企業に籍を置いている。随分と仕事が忙しいようで、昨日も病院で冷たくなった娘と再会したのは、夜も遅い時間だった。

 一応、その際に森野夕美に会っている。母娘の割には電話対応が冷たかったが、娘を見て涙を流していたので相応の愛情はあるようだった。その際に筆跡鑑定の為に彼女の手書きの物を貸してもらう交渉を行った。

 現在、その作業中であり数日中に分かるとの事。なので、心苦しいが遺書はその時までは渡せない、代わりにそれ自体を写真に撮った物ならと遺書をそのまま撮影した物を渡した。倉澤は頭の中で状況を整理する。

 しばしの間、思考に没頭していた倉澤に立林は口を開く。

「話す事がないなら、教室に帰りたいんだけど……」

「あっ、悪い。実は一つ頼みがあるんだ。亡くなった森野詩織さんと親しい友人を一人、集会が終わってからココに連れて来てくれないか?」

「えっ、でも森野さんは」

「分かってる。昨日言ってた勉強を教えている生徒で、立林から見て、特に一緒にいる生徒を一人、連れて来てくれ。なに、ちょっと話を聞くだけだから」

 森野詩織に一般的な友人関係は存在しない。ならば彼女が勉強を教えている括りから一人見繕えばいい。ただ、それも誰でもいいと言う訳ではなく、彼女と長く一緒にいる子の方が何かと都合が良い。

「どうしても?」

 そう尋ねる立林に倉澤は弱弱しく首を縦に振る。

「ごめんな、仕事なんだ」

「分かった、そう言われたらしょうがないわね」

「助かるよ。全校集会が終わって生徒がまた教室に戻って、解散するのって何時間後ぐらい?」

 倉澤の問いに腕を組んで、立林は時間を計算する。

「えっと、大体一時間。いや、大目に見て二時間後かな」

 少なくとも二時間は動く事が出来る事が判明した。

「了解。二時間後に生徒を一人、連れてきて。その時間にはココにいるから」

「うん、分かった。それじゃ、そろそろ行かないと」

「ああ、時間を取らせて悪かった」

 倉澤は最後にもう一度謝り、応接室のドアを開けた。廊下に出た立林は、パタパタと音を立てて教室へと戻って行った。そのままドアを閉めて、壁にもたれ掛っている菱田に向かって口を開く。

「二時間の自由時間が確保出来た。今の内に出来る事は全部やるぞ」

「はい、了解です」

 菱田は早速、胸ポケットから手帳を取り出して、メモを取る姿勢に入った。

 しかし、口元は緩んでいる。真剣味が感じられない菱田に倉澤は眉を潜めた。

「何が可笑しい?」

「すいません。今回は頭下げなかったなって」

 どうやら口元の緩みの正体は、先程の二人の会話らしい。

「彼女に頭を下げても何の効果もない。無駄な事はしない主義なの」

「覚えておきます」

「そんな事覚えなくていい。それより頼みたい事がいくつかある」

「何でしょう?」

 ようやく頬の緩みを取り終えた菱田に向かって指示を出した。

「教職員連中について簡単に経歴を調べてほしい。特に注意すべきは司書教諭の湊。彼についての資料はあればあるだけ困らない。用務員の墨田の方はそんなに気合い入れなくていいから。それと可能であれば、筆跡鑑定の結果を。あの連中仕事が早いから、簡易結果くらいなら出ているかも知れない」

「分かりました。では、僕は一度本部に戻りますね。朝から二人共いないと、流石に面倒ですので」

「頼む。俺はこの学校からは出ない。現場かこの部屋にいる。何かあったら携帯電話に連絡をくれ」

 時間を置いてから現場を一人で見る事で得られる発見の重要性を倉澤は良く知っている。

 また、菱田が本部に戻っている間に森野詩織のクラスメイトの名簿を手に入れる必要がある。立林はいなくても、職員室に行ったら誰か貸してくれるだろう。彼女が誰を連れて来るまでは読めないが最低限、顔と名前は覚えておきたい。

 そこまで考えていた時、倉澤は昨日、立林との会話の中での約束を一つ思い出した。

 菱田は倉澤の指示を受けて、応接室のドアを開けて出ようとしている。その際、新たに思い出した事を一つ彼に話す。

「あっ、そうだ。あと一つ頼みがある」

「何です?」

 ドアを開けたままこちらを振り返る菱田。

「森野詩織の遺書のコピーを一部用意してくれ。昨日、家までの送っている時に渡す約束をしていたのを今、思い出した」

「了解です。それでは」

 そう言って、菱田は開けたままのドアを通り、応接室から出て行った。これで遺書のコピーについては問題ない。もっとも、先程のやり取りから、立林本人も忘れているようだった。だからと言って、無視は出来ないので後で渡す事にする。

 菱田は、二時間以内には何かしらの情報を得て帰ってくるだろう。彼の制限時間内に情報を纏める能力は高く評価しているし、自分には難しい。

 一人になった応接室のソファに腰掛けて、倉澤は十分程目を瞑った。決して何かを考えるのではなく、頭を一度リセットする必要があったからだ。

 余計なノイズをクリアにして、新鮮な状態にする。この作業はこの仕事に必然なスキルだ。何でもかんでも覚えていたら、すぐに許容量を超えてしまう。

 目を瞑り、外から聞こえるのは生徒の足音。おそらく全校集会の為、体育館へ移動しているのだろう。彼らの足音はすぐになくなり、再び応接室内に静寂が訪れる。壁時計の僅かな秒針の音をしばらく耳にして、倉澤は目を開けた。

「よし、行くか」

 両手をパンッと叩いて始まりの合図として応接室を出た。

 まず、倉澤が最初に向かったのは出納準備室である。ただし、昨日のように図書室から入るのではなく、用務員の墨田が使ったルート。つまり、職員用階段から向かう事にした。応接室を出てそのまま廊下を突き当たりまで進む。

 すると、右手に一般用の解放された大きな白いリノリウムの階段の横に、鉄製のドアがある。ドアの上部には白い表札があり、職員用と書かれていた。

 ドアノブに手を掛ける。鍵は施錠されていなかった。一瞬、誰かしらの許可を得ずに勝手に中に入る事を躊躇ったが、結局はそのまま入る。

 中に入ると、生徒用の階段より幅が狭い階段があった。奥には用務員室と書かれた表札がある部屋があったが、無視して階段を上がる。

 もしかしたら出納準備室に着くまでに墨田と会うかも知れない。そしたら、その時に事情を説明すればいいと思っていたが、彼と会う事はなかった。

 出納準備室の前には見慣れた立入禁止のビニールテープが貼られていた。倉澤は気にせずドアノブに手を掛ける。ところが今度は、施錠されて開かなかった。

「しまった」

 出納準備室の鍵を持っていない。昨日は到着の時点で開いていた。更に部屋の鍵は、彼女のブレザーポケットに入っていた。指紋検査の為、本部で預かっていたが、まだ返却されていない。予定では、午後に返ってくる。時間の都合が付けば、菱田が持っては来るだろうが、今は間に合わない。

 仕方ない。小さくため息を吐いて、倉澤は出納準備室前の廊下から、図書室に入る。図書室から司書室に入り、ドアをノックして開けた。

「どうも湊先生。おはようございます」

「倉澤さん、おはようございます」

 一瞬、湊は図書室を通って来た倉澤に驚いた表情を見せたが、すぐに戻した。

「今日は全校集会の後、生徒は皆下校するらしいですね。なのに、図書室は開けているんですか?」

「ええ。森野さんが亡くなった場所が場所なだけに、閉め切っている訳にはいきませんから。それにココの図書室の責任者は僕ですからね」

「成程」

「どうぞ、お入り下さい」

 湊は司書室に入るよう促す。倉澤は言われるままに司書室に入り、応接室にあるのと同じソファに腰を落とす。

「コーヒーで宜しかったら、用意出来ますが?」

「ありがとうございます。頂きます」

 湊は流し台へと向かう。一人暮らしの大学生のキッチンを連想させる簡素な流し台には、白いコーヒーメーカーが置いてあった。彼は戸棚から、白いマグカップを二つとコーヒーの粉を取り出す。ペーパーフィルターにメジャースプーンで粉を入れている湊の背中に倉澤は声を飛ばした。

「昨日は眠れましたか?」

「努力はしたんですがね、結局お酒の力に頼ってしまいました」

「なに、それが普通ですよ」

 コポコポと音を立てて、コーヒーメーカーから水蒸気が出てきた。鼻を刺激するコーヒーの香りがまた素晴らしい。湊はコーヒーが出来上がるまでその場を離れず立っているようだった。倉澤は気にせず声を飛ばし続ける。

「この学校で働いて何年程ですか?」

「三年くらいでしょうか? あっと言う間ですね」

 五年は働いていると予想していた倉澤は、意外と若い年数に驚いた。

「でも、もうすっかり板に付いているんじゃないですか? 素人目から見てもずっとこちらで働いてらっしゃると勘違いしてしまいますよ。コーヒーを淹れる様子も手馴れていますし」

「あははっ。前任の先生から全ての業務を引き継いだ初年度こそは大変でしたが、三年目にもなると、ある程度の余裕が生まれます。もっとも仕事の隙を付いてコーヒーを淹れる程度のですが」

 湊はコーヒーが入ったポットを取り、二つのマグカップに注いだ。

「砂糖とフレッシュは如何しましょうか?」

「あっ、ブラックでお願いします」

 倉澤は混ざり物が入ったコーヒーは好きではない。純粋な豆の風味が楽しめなくなるからだ。

「かしこまりました。私とコーヒーの好みは同じですね」

 そう言って、両手にコーヒーを持ちこちらに向かって来て、ソファ前にある背の低いテーブルに置いた。

 倉澤はコーヒーを手に取り口を付ける。口内にコーヒー豆の風味が充満した。

「美味しいですね」

「そう言っていただけると嬉しいですね」

 湊はそう言いながら微笑んでコーヒーを啜る。

 その時、湊の右手親指に湿布が貼られている事に気付いた。先日の事情聴取の際にはなかったので、今日怪我をしたのだろうか。倉澤は大して興味がある訳ではなかったが、この後の会話の起点になればと彼に尋ねる。

「その指、大丈夫ですか?」

「あっ、ああ……。大丈夫ですよ。実は昨日、そこのドアで指を挟んでしまって。今朝になってもまだ腫れが引かなかったので、湿布を貼ったのです」

「親指では、仕事にも色々支障が出るでしょう? お大事になさって下さい」

「はい。お気遣いありがとうございます」

 湊は例を言って、湿布が貼られた右手の親指を左手覆い隠した。これ以上、見ては失礼だと判断した倉澤は、その部分にはもう視線を向けない。 

 代わりに司書室にある壁掛け時計に湊にバレないよう視線を向けた。制限時間までまだ余裕はあるものの、ココでコーヒーを飲みながら談笑するのが、目的ではない。倉澤は少し啜るペースを早める。

 その様子を見て湊は特に何も言ってくることはなく、黙ってコーヒーを啜っていた。倉澤のコーヒーが半分以下になった時、彼が口を開く。

「実は今さっき、出納準備室に行ったんですが、鍵が掛っていました。いつから施錠されていたか分かりますか?」

「さあ? 私は朝から司書室を出ていません。いや、一回トイレには行きました。でも、それくらいですね」

「あの部屋の鍵はウチで預かっていますので、鍵を閉めようと思ったら用務員の墨田さんが持って来られたという予備の鍵しかないですよね?」

 湊は黙って何かを考えるように視線を上に向ける。何を考えているのか、その思考を覗こうとしたが、見抜く前に彼の視線が下りてしまった。

「では、私が来る前か、昨夜にでも墨田さんが施錠したのでしょう。残念ながら私は鍵を持っていませんので」

「そうですか。でしたら、墨田さんに開けてもらう事にします。美味しいコーヒーをありがとうございました」

 最後に大き目の一口を飲んで、倉澤はソファから立ち上がる。

 合わせて湊も立ち上がった。

「またいらしてください。コーヒーでしたらいつでも御用意出来ます」

 湊の言葉に倉澤は微笑んで返した。そのまま司書室のドアノブに触れる。

その時、わざとらしく「あっ」っと小さく声を出してから、湊に尋ねた。

「どうしました?」

「あのコーヒー。生徒さんにも御馳走してるんですか?」

 湊は躊躇なく頷く。

「ええ。生徒の話し相手になるのも司書の仕事の一つなんです」

「素晴らしい。私の高校の頃にもそんな先生が図書室にいたら、もう少し勉強に励めたのに、残念です」

 そう感想を述べて倉澤は司書室から出ていった。

 司書室から出て取り敢えず、出納準備室前の廊下まで戻る。

 出納準備室のドアの前まで来たら、向かい側の壁に背中を預けた。

 冷たく固い無機質な感触が倉澤の背中にぶつかる。

 倉澤は湊慧一郎という人間を分析する。彼は手強い。教頭の小渕とは全然違う。こちらの聞きたい意図を理解した上で呆けてくる。

 それに、間の取り方が実に達者だ。手を伸ばしてもするりとかわされてしまう。天然でやっているなら厄介だが、あれは人工だろう。

 倉澤は小さくため息を吐いて次の行動を開始する。

 吐いた息に先程飲んだコーヒーの香りが混ざっていた。まるで湊に後ろから見られているような錯覚がした。そんな妄想を消して、気持ちを切り替えた倉澤は、墨田を探す事にした。彼は今も出納準備室の予備の 鍵を持っているだろう。

 倉澤は職員用階段を降りて、最初に入って来た用務員室前まで戻って来た。

 最初にこの部屋の前をしなければよけいな手間を要さずに済んだ。

 そう考えながら後悔しながら、倉澤はドアをノックする。

 すぐに中から物音がして、ドアが開いた。

「あっ、昨日の……」

「おはようございます、墨田さん。H県警の倉澤です」

 用務員室の中からテレビの音声が聞こえる。

「もしかして休憩中でしたか? 貴重な時間に申し訳ありません」

「い、いえ。別に大丈夫です。えっと、何か?」

 墨田はテレビの音が外に漏れているのが分かって、慌てた表情でそう言った。

 倉澤は彼が休憩中ではないと察した。

「出納準備室に入りたいのですが、宜しかったら鍵を貸して頂けませんか?」

「あっ、ああ……。分かりました、少々お待ちください」

 倉澤が訪ねてきた目的を知ってホッとした様子の墨田はドアを閉めた。彼は湊とは正反対。考えている事が手に取るように分かる。

 出来れば湊がこうだったら有難いのだが……。っと叶わぬ願望を抱いた。

 少し待ってドアが開き、再び墨田が出てきた。今度は彼自身も廊下に出ている。テレビの音を聞かせない為だろうが、今更手遅れなのは明白である。

「どうぞ、予備の鍵です」

 黒いネームプレートが付けられた鍵を受け取る。ネームプレート部分にはマジックで出納準備室と書かれてあった。

「ありがとうございます。この鍵、私がこの学校にいる間。そうですね、大体二時頃までになります。それまでの間、お借りしても宜しいですか?」

「ええ、その時間までなら」

「ありがとうございます。帰り際にまたお返しに伺いますね」

「お願いします」

 墨田は会釈をして、用務員室に帰っていった。一緒に出納準備室までついていく気はないらしい。余程、 今の時間を大切にしていると見える。

 倉澤は手に入れた鍵を持って、再度出納準備室へと向かった。

 職員用階段を通り出納準備室の前まで着くと、鍵穴に鍵を差し込み、ガチャっという音を立ててドアを開けた。

 鍵を抜き取りポケットに入れて、彼は出納準備室に入る。

 昨日ぶりに入った出納準備室は、少々変化があった。遺体があった周辺には変化はないが、左右の棚に 入っていた本がなくなっている。自分が持っていって構わないと言ったからだ。

 倉澤はそのまま遺体があった場所へと足を進める。

 踏み台に使ったイスや彼女を降ろした場所を囲んでいたテープは剥がされた形跡はない。自身の指紋が付かないように白手袋をして、イスを動かした。そして、視線を上にする。彼女が自殺に使用したクレモナロープは既にないが、その跡は太い吸排気パイプにくっきりと残っていた。周囲が埃で汚れているからこそ、新しいロープ跡が余計に目立つ。

 しばらくそこをを眺めてから、その位置からドアを見つめた。森野詩織の視界はこれより少し上だがほぼ同じ景色だろう。彼女は一体、どういうつもりで自殺なんてしたのだろうか。昨日、まだ若いのにと菱田は言った。

 倉澤は彼女の倍の人生を生きているが、今のところ自殺する程の憂鬱に襲われてはいない。

 もっとも、人生経験時間が人間の絶対ではない事は重々承知している。だから昨日、人間が自殺する理由に年齢は関係ないと言ったのだ。

 現地点からゆっくりとドアまで倉澤は足を動かした。十歩も歩けば体はドアにぶつかる。ドアにぶつかったら、視線を床に落とす。白いリノリウムの床は綺麗で埃がまるでない。

「……んっ?」

 そこで倉澤はある事に気付いた。

 埃がまるでないというのは、いくら何でもあり得るのか? 

 一見すると、良く清掃されていて、墨田の仕事ぶりが表れている。

 しかし、先程の彼の仕事ぶりから見て、ココまで徹底に綺麗にするだろうか? 

 大学図書館との移動でこの部屋は不特定数の人間が利用する。毎日、夜に墨田が清掃に気を遣ったとしても、ココまで綺麗だと逆に不自然だ。

 この部屋を掃除するのは生徒ではない。それは昨日判明している。用務員の墨田は出納準備室の施錠及び清掃を任されている人間。

 つまり、墨田以外がこの部屋を掃除している。(勿論、彼に最近掃除を行ったのはいつか、後ほど尋ねる必要がある)倉澤は部屋を見回して、教室等なら置いてあるはずの掃除ロッカーを探した。だが、この部屋にはそれらしき物はない。

 この部屋にあるのは本棚と机とイスのみ。掃除道具は雑巾一枚だってない。

 他から道具を持って来て清掃した人間がいる。

 一番近い教室からだろうか? いや、そうだとしても証明するのは難しい。夏でもない今の時期、使用後の雑巾の乾燥速度なんて他と大差ない。

 取り敢えず、特定は出来ないとしても何者かが清掃した事が分かった。その発見だけで現状は満足しておこう。そう結論して倉澤は、自身の腕時計を見る。

 そろそろ制限時間が近い。どうせ菱田は早目に帰って来るだろうから、先に応接室に戻っているべきだ。 そう考えて、出納準備室を後にする。

 応接室に戻る途中、職員室に寄った。中にいた小渕に頼み、立林のクラスの名簿のコピーを二部手に入れる。その際、個人情報を差し上げるのはと、困った顔をしたので、帰り際に返すと約束した。

 校舎内に生徒の足音が聞こえ始めていた。全校集会が終わったのだろう。先程まで通路は職員用、入った部屋は特別室だったせいで、全く気付かなかった。

 廊下ですれ違った男子生徒二人に頭を下げられて、それを返しながら応接室に戻った。

「お疲れ様です」

「ああ、ご苦労様」

 応接室に戻ると既に菱田は本部から帰っていた。倉澤の読みより少々戻りが早い。二人は応接室のソファに腰を下ろす。

「それじゃあ早速聞かせてもらおうか」

「はい」

 菱田は懐から手帳を取り出して、報告を始めた。

「まず、筆跡鑑定の結果ですが簡易結果が出ました。本人が書いた物に限りなく近いとの事です。最終結果が出るのはまだ数日かかるらしいですが、まず間違いないだろうとの事です」

「厄介だな」

「そうですね。遺書の意味が分からない事には……」

 人間が遺書を書く時、一種の興奮状態に入っている事から支離滅裂な内容になってしまう現象は、この仕事をしていたら当たり前に遭遇する。例えば、同じ事をずっと書いていたり、短い文章だけど文法が狂っていたりと様々だ。

 今回の場合、文章上は正確だが、意味不明と言うケース。

 最後に二つ書かれた日付もよく分からない。

「倉澤さんは、あの遺書をどう思われます?」

「正直に言うと、遺書と定義していいのかすら怪しいな。ただ、日付が当日なのと手書きだった事で筆跡鑑定に頼んだんだ。それに、あの意味を理解出来るのは、俺達じゃない気がする」

「っと言うと?」

 倉澤は腕を組んで持論を展開する。

「あの内容は、誰かに向けてのメッセージだ。そして、それは立林達教師じゃなかった。昨日、彼女を送った時に聞いた話だと、森野詩織は相当頭の回転が速かったらしい。周りに勉強を教えると彼女の指導に中毒になってしまう程に」

「昨日本部に帰った時に言ってましたね」

「そこから考えて、彼女が教えている生徒なら伝わるんじゃないかと考えてる。ただ、教えてた数は結構いるみたいだから。全員が全員に伝わる訳じゃない。おそらく特定人物へ宛てた物だ。それなら、日付の件も説明がいく」

 一つ目の日付は何の意味もない平日だったが、彼女と親交が深い人物なら、我々とは違った意味を見出す可能性が高い。

「だから、立林先生に生徒を一人連れて来てもらうように頼んだのですね?」

「そういう事。まっ、いきなり当たりに遭遇する確率は低いから、そこは地道にいく事を覚悟しないといけないが。さて、次は?」

 倉澤は次の結果を菱田に聞いた。

「調べてくるよう頼まれていた二人。墨田と湊ですが、まず墨田の方から話しますね」

「そんな細かい経歴があるような人物とは思えないが?」

 本人の前では絶対言わないような、横柄な言い方で墨田の印象を言う。

 それには、菱田も同意した。

「正直、彼についてはそこまで気にするような事はありません。元々、サラリーマンをしていて、そこからこの高校に用務員として雇われています。家族は妻と息子が一人いますが、もう息子の方は、家を出ており現在は妻との二人暮らしです。勤労年数は結構長いですね。十年程になります」

「ほー。だからあの勤務態度なのか」

「あの勤務態度?」

 菱田の抱いた疑問に答える前に、倉澤は手を振って、話の続きを促した。

「次に司書教諭の湊ですが、彼は元々アメリカで働いていた経歴がありました。日本の大学を卒業したのち、向こうの大学院に留学しています。五年前に向こうの仕事を退職して、日本に在学していた際に得た司書教諭資格を活かして、現在の職についています」

「湊の方も結婚してる?」

「日本人の妻がいます。子供は娘が一人」

 菱田から報告される二人の情報を頭に入れていく。特に湊の情報については多ければ多いに越した事はなく、倉澤は彼の人間像を組み立てていった。

「以上が大まかな二人の経歴になります」

 報告を終えた菱田が手帳を閉じて、そう告げる。

「ご苦労様。色々調べてくれてありがとう。それで調べた感想は?」

 菱田は顎に手を当てて上を向き、長考した後、口を開いた。

「やはり湊の経歴でしょうか。私見ですが、彼が向こうで働いていた時と現在では給料に相当な差が出ていると思います。残念ながら、どうして彼がアメリカでの仕事を辞めて現在の仕事についたかまでは、時間の都合上、調べが付きませんでした。ですが、職種自体は大分違います。そう言った点から考えても、彼が現在の仕事を選んだ理由に興味があります。それと言い忘れましたが、彼は高校の英語教諭の資格も所持しています。にも関わらず、司書教諭をしているのも気になるポイントですね」

「うーん」

 確かに菱田の言う通り、アメリカでの仕事と現在の仕事では、あまりにも違い過ぎる。退職理由までは知らないが、彼と話しただけでも能力の高さ事はすぐに分かった。向こうで何か挫折でもしたか、それともこの仕事を急にやりたくなったのか。結論はすぐに出そうにない。

 倉澤は一旦考えを打ち切り、今度は自身の調査結果を菱田に話した。

 墨田の勤務態度について。

 湊との会話で思った感想。

 出納準備室の清掃が行き届いている状況。

 個人的な感想を含んで、丁寧に説明した。菱田は真剣な表情で聞き、時折また手帳にメモを取っていた。

「――っとまあ、こんな感じだった」

 全て話し終えて、倉澤はソファに深く腰掛けて、背中を休ませる。大きなため息が鼻から出て、疲れが溜まっている事を実感する。

「お疲れ様です。結構な収穫ですね」

「出来たら初日にこの程度までいきたかったがしょうがない。後は、立林が連れて来る生徒に期待しよう」

 二人が応接室で過ごしてから約二十分後。(その間に先程、小渕から入手したクラス名簿のコピーを見て、基本的な名前と顔を頭に組み込んだ)約束の時間を少々過ぎた時、コンコンっと応接室のドアがノックされた。

「はい」

 ソファに座ったまま答えて、菱田が立ち上がる。

「立林です。連れてきました」

「分かった、ありがとう」

 立っている菱田に目配せをして、彼が応接室のドアを開ける。

 ドアを開けた向こう側にいるのは、数時間ぶりに見る立林。

そして、その後ろに一人、女生徒が立っていた。

「えっと、彼女が?」

「うん、佐野綾子さん。よく森野さんに勉強を教えてもらっていた子」

 立林に紹介された佐野の顔は、先程まで見ていたクラス名簿にきちんと存在していた。しかし、倉澤はそれを決して見せず、初対面の顔を作り挨拶をする。

「初めまして。H県警の倉澤と言います。後ろにいるのは私の部下の菱田。突然、来てもらってごめんなさい。少しの間、話す時間を頂けますか?」

「はい、私で良かったら……」

 怯えた様子を見せつつも佐野は承諾した。

「ありがとう。さあ、中へどうぞ。勿論、立林先生も」

「ええ……」

 二人はゆっくりとした足取りで応接室のソファに座る。二人に向かい側に倉澤が座り、後ろに菱田が立っていた。

 倉澤は佐野の表情を観察する。生徒の立場で考えたら、この部屋には普段入室機会がないのは、予想出来る。その為、緊張しているのは分かったが、それ以外にも彼女の表情が曇っているのは、間違いなく森野詩織の話を聞いたからだろう。知っている範囲では、今日の全校集会で彼女の自殺が告げられているので、ショックを受けるのは当然だ。口で言った通り、時間はかけられない。

 佐野は下を向いたままだったが、構わず口を開く。

「早速で申し訳ないけれど話を聞かせてもらうね。私が知っている中では、森野さんって凄く頭が良くて、周りの子に勉強を教えていたようだけど、君も教えてもらってたの?」

「……」

 佐野は答えない。聞こえる声量で話したので、彼女の耳には届いているはずだ。

「佐野さん?」

 倉澤は静かに答えを促した。隣に座っている立林が彼女の肩に手を置いている。どうやら、森野詩織との繋がりは深くまだショック状態のようだ。一分程待って、それでも彼女が何も話す気配がないのなら、切り上げようと決める。

 腕時計の秒針に視線を落とした。

 二十秒経過。

 四十秒経過。

 そろそろ一分といった所で、佐野は顔を上げた。彼女の顔を正面から、はっきりと見る。その両目には涙の通った跡があった。

「……そう、です。私は、特に勉強が苦手だったから、沢山詩織ちゃんに教えてもらっていました」

 佐野の声は、注意深く聞かないと聞き逃しそうになる程の小さかった。

「そうか。沢山って事は、佐野さんは彼女とかなり親しかったんだ。それなのにごめんなさい。良かったら日を改めましょうか?」

「いえ、いいんです。何でも聞いてください」

「それでは、お言葉に甘えさせていただきます。勉強は一体一で教えてもらってたんですか?」

「一体一の時もあれば複数の時もありました。詩織ちゃんが作ったお手製のプリントを解きながら、教えてもらうので五人程度なら同時並行でも進むんです」

「凄いですね」

 当事者に実際の勉強の様子を聞いて、倉澤は改めて森野詩織の行っていた事に深い関心を寄せた。

「はい。だから知らない子と一緒になる事もありました。学校が違う子とかもいましたね。その中に年下の子が一人いて、正確な名前は詩織ちゃん以外知りません。だから、その子の事はアーちゃんって皆で呼んでました」

 そこまでの規模だとは想定していなかった。全員を一人一人追っていくのは、骨が折れそうである。ただ、今回の現場はあくまで学校敷地内。

 他校のしかも年下の生徒が直接関与しているとは考えにくい。

 倉澤は勉強についてではなく、彼女自身について聞いてみる事にした。

「では次に。佐野さんから見て、森野さんってどんな子でしたか?」

「えっと、詩織ちゃんは大人な子って印象です。何て言うか雰囲気と言いますか、精神年齢が私達より大分上な気がします。ですから、根本的に私達と話題が合わなかったんでしょう。現に彼女は勉強以外で話す事は殆どないっていうか。例えば、皆が輪になって楽しく話しているのを見ているだけで、自分からは、参加はしないって言えばいいのかな?」

「それは、仲が悪いとかではなく?」

 佐野は「とんでもない」っと首を横に振る。

「見ているだけって言っても、勿論話を振ったらちゃんと答えてくれるし、その話も面白いです。詩織ちゃん、色々な事知ってるから皆聞き入っちゃうくらいで」

 佐野の話すその情報は、立林との会話にはなかった。教師側から見た視点と生徒から見た視点の差には違いがあるようだ。現に彼女は、そんな森野詩織の印象は初めて聞いたと言わんばかりの表情を見せている。

「そうですか。じゃあ、放課後とかも皆で遊んだりするんですか?」

「えっと、それは……」

 答えるのを躊躇する佐野。そこまで難しい事を聞いているつもりはない。何故、彼女が答え辛そうにしているのか分からない。そう思った倉澤だったが、すぐに隣の立林を見てその意味を把握した。

「ああ、大丈夫。別に今日、佐野さん達が放課後に寄り道をしている事を話したって平気です。立林先生は怒ったりしません。ねっ? 先生?」

「ええ。勿論」

 放課後の寄り道は校則で禁止でもされているのだろう。立林の承諾を得て、佐野は話を再開した。

「勉強って名目ではありますけど、喫茶店で皆が話をする事はあります。その後、たまにゲームセンターでプリクラを撮ったりとか、カラオケも行きますね。でも詩織ちゃんはそこまでは来ません。家で晩御飯を作らないといけないって言って。いつも帰ります。付き合ってくれるのは、喫茶店までです」

 彼女の家庭事情は理解している。確かにあまり遅くなったら色々と都合が悪いのかも知れない。

「例えばの話なんですけど、森野さんに彼氏とかいましたか?」

「いえ、いないと思います。詩織ちゃん、可愛いし大人な雰囲気だからクラスの男子に結構人気があって、たまに告白もされるみたいですけど、全部断ってるって聞いてます」

「成程」

 その辺りは予想していた通りの反応だった。きっと彼女からしたら、クラスの男子など子供に見えていたに違いない。この線を攻めるのは、止めておこう。

 気付けば時間は割と経過していた。質問数は少ないのに佐野に合わせて話していた弊害が発生してしまっている。

 まだ、尋ねたい事はあるが、これ以上は佐野が可哀想である。

 倉澤はこの辺りで話を打ち切ろうとする。

 丁度その時、佐野が口を開いた。

「あっ」

「んっ、何です? 何でも言ってください」

 貴重な情報は聞き逃すまいと声色を優しくして佐野に追及する。

佐野はボソボソと話し始めた。

「えっと、彼氏かどうかは分からないんですけど、最近詩織ちゃんと凄く仲が良い男子がいるって噂がありました」

「ほう? 仲が良いとは?」

「私が見た訳じゃないんですけど。三ノ宮のブックファーストの上にある喫茶スペースで、放課後に二人で話しているのを見たって子がいて」

「どんな事を話しているとかは分かりますか?」

「そこまでは……。その子も二人がいるのを偶然見つけてすぐに店を出たので。ただ、凄く親密そうだったらしいです。詩織ちゃんがとっても可愛い顔をしていた。って聞いてます」

 これまで組み立てていた森野詩織の人間像からは、あり得ない情報に若干の混乱と興奮と覚える。少なくとも同性から見て可愛い顔をしていたという事は、それだけ相手に心を開いている証明である。

「その噂の男子、名前は分かりますか?」

 相手の名前を尋ねると、佐野は頷いて答えた。

「二年四組の内田透君です」

 森野詩織とは違うクラスの生徒だった。その為、倉澤の頭にその名前はない。

 すぐに腕時計を確認してから、隣の立林に確認を取った。

「立林先生、その彼は帰ったかな?」

「ええ。今日は部活動もないし、図書室も使用禁止。生徒は完全下校するようになってるから」

「そうか。じゃあ会えないな」

 倉澤は後ろを振り返り菱田の顔を見る。彼は軽く頷いてから、すぐに応接室から出て行った。突如として部屋を出た彼に立林と佐野は驚いていたが、「気にしないで」っと笑顔で手を振った。

 内田透という人間について、更に詳しい話を佐野に尋ねた。彼女は、二人が噂になった時、周囲で飛び交った事を教えてくれた。

 廊下に貼り出される定期テストの順位でいつも上位だったので、賢いはず。

 にも関わらず、森野詩織から勉強を教わっている? 

 しっかりしているイメージで、与えられた仕事はキッチリこなすタイプ。

 クラスは違うのに、女子同士の情報網は侮れない。スラスラと情報が出てくるのを聞いて、倉澤はそう思った。

 話している内に思い出したのか、佐野は最後に興味深い事を口にする。

「そう言えば、一回だけ詩織ちゃんに直接聞いた事があります。四組の内田君と付き合ってるの? って」

「そうしたら彼女は何て?」

「詩織ちゃん、軽く驚いた後、すぐに笑いながら違うって言いました。でもそれも私達は、きっと照れているんだろうって思ってました。だってその時の彼女の顔、普段の私達に見せない可愛い顔してましたから。ああ、これが友達には見せない彼氏相手の顔なんだなって。正直、ちょっと見惚れちゃったくらいです」

 懐かしむように佐野は当時の様子を話す。よく話す友人にそう思わせる森野詩織にとっての内田透。倉澤はますます彼と話がしたいと考える。

 佐野に気付かれないよう、視線を上げて、壁掛け時計で時間を確認した。彼女が来てから四十分は経過している。時間が経つのが早い。

 そう考えた倉澤は両手を一回パンっと叩いて、流れを止めた。そして、もうこれ以上聞く必要のない佐野に感情を極力抜いた言葉使いで話す。

「佐野さん、貴重なお話ありがとうございました。時間も丁度良いです。本来は早く帰らなければいけないのに、こちらのお願いを聞いて頂いて感謝しています。良かったら、御自宅までお送りしましょうか?」

「えっ? いや、でも……」

 急に冷たい言葉使いで来られた事で、これまで築いた二人の距離が遠くなり、また最初と同じ警戒心を佐野は抱く。なので、急に家まで送ると言われて、困惑しているようだった。このまま倉澤に押されて、気まずい雰囲気の中、家まで送らされる事になる時、横から立林が助け舟を出す。

「佐野さんは私が家まで送るわ。貴方はまだ仕事があるでしょう?」

「そう? じゃあお願いするよ」

 自分だって仕事はあるだろうに。内心そう思いつつ、それを口には出さないで、倉澤はソファから立ち上がる。佐野と立林両名も立ち上がった。

「今日は本当にありがとうございます。もう一度話を聞く事は、おそらくないと思いますが、もし聞く事になったらまた宜しくお願い致します」

 そう言って深々と頭を下げる。

「……いえ、大丈夫です」

 完全に入った時と同じ状態になる佐野。そんな彼女に微笑み、応接室のドアを開けた。ドアを開けると丁度そこには中に入ろうとした菱田が立っていた。彼はドアが開くと素早く状況察して、すぐに横に逸れて頭を下げる。

 そのまま二人は応接室から出た。その際、倉澤は状況を背広の内ポケットから、茶封筒を取り出して、立林に向けた。

「これ、昨日言ってたコピーのヤツ」

「あっ、ありがとう」

 茶封筒を突然差し出された立林は、眉をしかめたが、倉澤にそう言われて昨日の事を思い出したらしく、手を伸ばしてそれを受け取った。それを手に持って、立林と佐野は応接室から離れていく。

 廊下の先まで早足で歩く彼女達の背中を少しだけ目で追ってから、倉澤は音を立てないように静かにドアを閉めた。

 閉めたドアに背中を預けて、立ったまま菱田に聞く。

「それで?」

「申し訳ありません。既に下校したようで捕まえられませんでした」

 菱田は素早く頭を下げた。

「まあいい。彼の名前が分かっただけでも大きな収穫だ。帰ったとしても捕まえられる。出来れば早い内に話を聞いて置きたかったのは事実だが」

 校内にいる内に捕まえておけなかったのは少々痛い。

 しかし、この後すぐ行けば緩和出来ないでもない。倉澤はすぐに頭のスイッチを切り換えて、応接室の電気を消した。二人は部屋を出て、鍵を職員室にいた小渕に返す。途中、色々と話を振られそうになったが、急いでいると言ったら、彼の言葉の波は嘘のように引いていった。

 元々、関わるのが面倒だと思われていた。あるいは、警察に逆らってまで話し続けてもメリットがないと判断したのだろう。倉澤からしたら別にどちらでも良かった。

 倉澤と菱田は、止めてあった車に乗り込む。

 菱田が運転席、倉澤が助手席だ。助手席に座ると、すぐに携帯電話を開いて職員室へ電話する。先程、鍵を返却に訪れた際、立林の姿が見えた。まだ出ていないだろう。電話に出た名前の知らない職員に立林へと繋いでくれるように頼む。

 菱田が車のキーを回す。

 エンジンが振動を始めた。菱田はそのままサイドブレーキを降ろして、ギアをドライブに。ゆっくりと校門の外へと車を動かし始めた。

「あっ、立林。すまん、倉澤だけど。一分で終わるから少しいいか? ああ、助かる。あのまま教頭先生に捕まり続けてたら大変だったよ。えっと、例の内田透君の顔写真。俺の携帯にメールでくれないか? 至急頼む。ありがとう、今度飲みに行った時、一杯奢るよ」

 最後に感謝の意を伝えて、携帯電話を閉じる。二人を乗せた車が校門を乗せて二メートル程走った時、立林からメールが届く。サブタイトルは、赤ワインだった。文面を見て笑った後、添付された画像を開く。

 ピントも綺麗にあった男子高校生の姿が映し出された。

 髪型に特に特徴はなく、染めていない。証明写真の見本のように無個性だった。車がそのまま駅に向かって出来る限り低速で動いている中、まだ点々と下校している生徒の姿が見える。

 倉澤は画像を見ながら内田透がまだ歩いてないか探したが、中々高度な作業である。本人の身長も分からないので、とにかく男子生徒がいたら注意深く顔を見る事しか出来なかった。

 駅に到着するまでに歩道を歩いていた男子生徒の顔は、見られる範囲で全員確認したが、結局そこに内田透の姿はない。

 バスロータリーにハザードを出して邪魔にならないように、一時停止する。

「どうします?」

「追い付けると思ったがしょうがない。彼の自宅に直接行こう。相手の家族になるべく不安を与えたくなかったが」

「彼の家の住所、分かりますか?」

 菱田はすぐにでも発進する表情だった。倉澤は首を横に振る。

「知らん。また立林に頼むさ。佐野さんを送ってない事を祈るばかりだよ」

 先程と同じ要領で、立林にメールを書く。五分程待っていると、彼女から返信が届いた。(まだ佐野を送っていなかった事に安堵する)今度のサブタイトルは小海老のアヒージョ。要求が次第に増えている事に苦笑しつつ、メールを開く。

 書かれた住所をカーナビに入力する。彼の家の住所までのルート案内がアナウンスされる。菱田がハザードを消して、車を発進させた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ