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クリスタルホワイト・アイス  作者: 綾沢 深乃
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「第五章 完璧なる迷路」  

 H県警捜査一課の警部、倉澤篤史が母の葬儀で仕事を忌引きして、復帰したのは今日の午後五時を過ぎてからだった。彼の実家は東北地方にあり、現在の職場である西日本からは距離があった。

 七年ぶりに見た母の安らかな寝顔とそれを支えてくれた弟夫婦に丁寧に頭を下げて二日を故郷で過ごした。

 母の体調が優れない連絡は受けていたものの、どこか現実として稀薄に感じていた。いざ亡くなると、その気持ちは強く夢心地で彼は葬式に参列した。帰りの飛行機内でも、まだ何か足場が安定しない。日が経てば安定していくものだろうか? 不安ではあるが、対処法がないので耐えるしかない。

 こうした一連の出来事を終えて、倉澤は職場へと戻って来た。

 古びたネズミ色のデスクには、目を通しておかなければならない資料がジェンガのように積み立てられており、復帰早々彼はため息をつく。

 一階ロビーで買った慣れ親しんだ缶コーヒーのプルタブを開けて、一口飲む。

 頭のスイッチが強制的に仕事へと切り替わった。早速資料に取り掛かり始めようと手を伸ばす。

 その時、一人の男性が倉澤の名前を呼んだ。

 振り返ると、そこにいたのは後輩の菱田だった。

「おはようございます倉澤さん。あれ? 確か明日からじゃなかったです? 大丈夫ですか、無理してません?」

 一見大学生にも見える幼顔の菱田を倉澤は二日ぶりに見る。

「こっちに着いたのは昼前。流石にこれ以上休む訳にはいかないだろう。現にこうして仕事が積み上げられてるしな」

 皮肉交じりに右手で資料の山を叩く。

「これでも結構減らした方ですけどね。倉澤さんが留守の間に頑張ったんですよ?」

「あ、そーなの? ジュースでも奢ろうか」

「結構です。それよりそこの資料、少し分けて下さい。簡単なチェックくらいなら僕でもやれますから」

 そう言って菱田は倉澤のデスクに手を伸ばす。その手を彼は塞いで止めた。

「いいって。元々、俺の都合で休んだんだから、これくらいはやらないと。お前だってそこまで暇じゃないだろうが。気持ちだけ貰っとくよ」

「では、何かあった時は呼んでください」

 そう言って菱田は離れて行った。先程のやり取りが彼なりの気遣いなのは、倉澤も察している。彼のああ言った優しさは嫌いではないが、器用とは言えない。もう少し経験を積めば研がれるだろう。

 そう考えていた時、デスクに置いていた倉澤の携帯電話が着信を知らせた。

 二つ折りの携帯電話を開いて、相手を確認する。

 表示されていたのは大学時代の同級生、立林洋子だった。

「もしもし?」

「倉澤君。お仕事中にごめんなさい。……今、大丈夫?」

「構わないけど、どうした? そっちはまだこの時間授業中だろう?」

 倉澤は腕時計で時間を確認する。立林の職業は高校教師。古ぼけた記憶なので当てには出来ないが、学生の頃、この時間はまだ教師は帰っていなかったはずだ。

「実は、ウチの学校の生徒が……、ん、でて」

「えっ? 何て?」

 立林の声は酷くこもっていて、最後まで聞き取れなかった。

 倉澤は、イスから立ち上がり廊下に出る。彼の仕事上の経験から立林の声が何か事件性を帯びていると判断した為だ。

 倉澤の声色は完全に仕事モードへと切り替わっていた。

「立林、一回深呼吸をするんだ。そうだ、その調子。さて、君の学校の生徒に何かあったんだな? 誰かの命に関わるような事か?」

「……ええ。ウチの学校の女子生徒が首を、吊って……」

「分かった、もう言わなくていい。すぐにそっちに警察官を向かわせる。それと、救急車も。確か立林が務めてる高校の名前はS大付属高校だったね」

 倉澤がそう確認を取ると、受話器から小さく肯定する声が聞こえる。

 そしてすぐ、これまで小声で話していた立林が急に大声で訴えてきた。

「……救急車は多分いらないと思う。それとお願い、パトカーのサイレンは鳴らさないで。まだ学校に生徒がいるの」

「……救急車ならともかく、パトカーはサイレンを鳴らさないと、急いで現場に駆け付けられない。人の命が掛ってるんだぞ」

 少々怒気を加えて指摘すると、受話器の向こうの立林は一瞬息を飲んだ。

「そうよね。ごめんなさい、少し混乱していて……」

「気持ちは分かる。安心しろ、俺もすぐ向かうから。それと救急車も一応向かわせるよ」

 倉澤は廊下からフロアを覗き込んだ。先程から彼の様子を不審に思っていた菱田と目が合い、手招きをする。

「緊急ですか?」

「S大付属高校で生徒が首を吊っているのが見つかった。救急車と所轄の警察官、それと機捜に現場に向かうように連絡を。俺達も行くぞ」

「はい」

 二人はイスに掛けてある灰色と黒のトレンチコートを取ると現場へ急行した。

現場へ到着すると、既に学校前にはパトカーと救急車が停車しており、校門前に人だかりが出来ていた。二人は慣れた様子で人の網をかいくぐり、校舎へと入る。警官の案内の下、廊下を駆け足気味で向かっていると菱田が口を開いた。

「今時の高校生ってどんな感じなんでしょうね?」

「まっ、時代が進んで考えが俺達の頃と変化しても本質的には一緒だろ?」

「っと言うと?」

 菱田が首を傾げる。倉澤は小さなため息を吐いた。

「世間知らずのガキって事」

「成程」

 くだらない問答を交わつつ、二人は現場へと到着した。

 そこは、図書室奥にあるドアから続く五十メートル程の廊下に存在する小さな部屋だった。その廊下には階段があり、そのまま校舎内を移動出来るようた。また、廊下の終点には妙に綺麗なドアがある。

 横に付いている装置から、そのドアはカードキーで施錠しているのが分かる。

 問題の方のドア上部にある表札には、出納準備室と書かれていた。自分の学生時代の記憶にはない名前だった。

 もっとも倉澤は公立校出身なので、私立校の事情は分からない。

 出納準備室には、機捜の鑑識班達が既に作業を開始していた。

 そして廊下に教職員、用務員が四人並んでいた。

 その中に電話してきた立林洋子を見つけたので、倉澤は彼女の元へ駆け寄る。

「よう、久しぶり」

「倉澤君」

 下を向いていた立林は倉澤に呼ばれて、顔を上げる。目が合った瞬間、緊張が解けたのかほっとした表情を向けた。

「ごめんなさい。いきなり電話しちゃって」

「構わないさ。頼ってくれてありがとう」 

 立林を安心させてから、他の並んでいる連中に目を運ぶ。

 彼らは倉澤と目が合うと気まずそうに会釈をしてきた。彼は背広の内ポケットから警察手帳を見せながら、それに返す。

「H県県警の倉澤と申します。立林先生とは大学時代の友人でして、今回彼女から直に連絡を頂いて急行した次第です」

 そう言うと、並んでいる連中の中から初老の男性が一歩前に出た。

「初めまして、教頭の小淵と申します。実は、倉澤さんを呼ぶように立林先生に頼んだのは私なのです。彼女が自分には警察関係の知り合いがいると言ってくれて。勝手な事をして申し訳ありません。本来ならば110番するべきなのは理解しているのですが……」

「いえ、結構ですよ。知人から直に電話がくるなんてのは、この業界では珍しくありませんので」

「そう言って頂けると有難い限りです」

 倉澤は小渕を観察した。恐らく、最初にサイレンを鳴らさないように立林が言ったのは彼の命令だろう。それを敢えて悟らせるよう、今の言い訳を含んだ自己紹介。教頭と言うだけあって、そこそこの経験は積んでいるらしい。

「倉澤さん。ちょっと来てもらっていいですか?」

 いつの間にか出納準備室に入っていた菱田が、顔だけを出して倉澤を呼ぶ。

「すぐに行く。すみません、皆さん。後で詳しい話をお伺いしますので、一先ず図書室で待機して頂いて宜しいですか? 何か用事で部屋から出る場合は、念の為にそこにいる警察官に声をかけてください」

 倉澤は彼らにそう指示を出して、白手袋を付け出納準備室に入った。

 出納準備室は狭い部屋だった。左右の壁にスチール製の本棚があり、その横に生徒用の机とイス。ファイル等が置かれている。左右に物が置いてある配置の為、中央は広い。また、左右の本棚には何冊か本が置いてあった。

 倉澤は右手の本棚前に置かれた、人型に盛り上がったブルーシートの前に立っている菱田の元へと向かった。

「死んでいたのは彼女です。名前は森野詩織」

 名前を告げる菱田に耳を貸しつつ、倉澤はしゃがみ、両手を合わせてからブルーシートを捲る。そこには白い肌に肩まで長い黒髪の女子生徒の姿があった。

「彼女、美人ですよね」

 不意に隣にいる菱田がそう言ってくる。倉澤は軽く彼を睨む。

「馬鹿、不謹慎だぞ」

「すいません」

「いいか、ココには俺達しかいない。でも、関係者の前では言うなよ」

「それは心得ています。絶対に言いません」

「分かってるならいい。まあ、確かに俺達くらいの歳になったら、美人になっただろうがな」

 倉澤はブルーシートをかけて立ち上がり、その位置から部屋を見回す。

「出納準備室なんてのは、俺の高校時代にはなかったが……。菱田は?」

「僕の通っていた高校にはありました。一応、ウチも大学付属の私立校だったので、用途に多少の違いはあるかも知れませんが

基本一緒でしょう」

「ほう。助かるよ、それで? ココはどんな部屋なんだ?」

 倉澤は菱田に出納準備室の仕様用途を尋ねた。概要だけでも、今の内に把握しておけば、この後に教職員連中に話を聞く時に役に立つ。

「ウチの場合は大学図書館内の書庫にある、貴重書を出納する場合に使う一時保管用の部屋ですね。いくら付属とは言っても、高校生なので直接借りにいけません。だから、図書室で申請するんです。大学生とは違って貸出期限は短いですし、時間もかかります。ですがその分、確実に手に入りますから」

「高校生でそんな貴重書って使うのか?」

「使いますよ。っと言っても、ウチの場合は授業の課題で無理矢理使わせてました。後は夏休みの宿題とかで、大学図書館の資料を使って書かせるレポートとかもありましたね」

「高校生の内から大変な事で」

 自分の高校生活とは大分違う勉強の様子を聞き、倉澤はそう感想を漏らす。

 そして、鑑識班から森野詩織の死因を尋ねた。鑑識班は、少々気になる点はあるが、彼女はまず自殺で間違いない。と断言した。これで、事件性は薄くなり、捜査本部は立たない。警察である自分達の仕事は大分、簡略化される。

「気になる点とは?」

 倉澤は鑑識が言い淀んだ事を聞く。

 鑑識班の男性は、ブルーシートを捲り遺体の首元を指差した。

 今回の件とは別に首にロープ痕がある。一度練習して、失敗でもしたのだろう。自殺を突発的に行う人間もいれば、綿密に練習を重ねて行う人間もいる。

 十代の少女が人知れず心に不安を抱えていて、密かな練習を行っていても不思議はない。なにより、首の吊り方によって出来る傷痕は本物、偽装の線はない。

 吊った際に使用したのは、どこにでもあるクレモナロープ。

 インターネット通販やホームセンターでもトラック荷台縛り用として、販売しているから誰でも入手可能。それが天井の太い吸排気パイプに結んであった。また、遺体近くあったイスには彼女の上履きの足跡がある。

 このイスに乗りクレモナロープを結んだのだろう。イスをこの位置まで運んだ彼女の足跡も確認されたので間違いない。

 よって、他殺とは考えにくい。鑑識班の男性は淡々とそう説明していった。

 彼の発言の倉澤は頭のメモしつつ、頭を下げる。

「成程、ありがとうございました。一先ず、最低限の処理と彼女の遺体を病院へ」

 倉澤がそう言うと鑑識班の男性は、一回頷いてまた淡々と自身の作業に戻った。まるでドロイドのようだと黙々と働く彼の後ろ姿を見て、そう思った。

 倉澤と菱田は出納準備室を出て、図書室へ向かう。その際、菱田が口を開いた。

「まだ若いのに、こんなところで命を落とすなんて」

「自殺するのに年齢は関係ない。老人でも子供でも自殺する時はするさ」

「そうですよね。よしっ、切り換えないと。あっ、そうだ。あの部屋の鍵ですが、彼女のブレザーのポケットから発見されました」

「指紋は?」

「鑑識班のチェックでは、彼女本人の指紋しかなかったそうです」

「そうか、分かった」

 二人は、廊下のドアを開けて図書室へと入る。彼らが図書室へと入ると、ソファの座っていた教職員連中は一斉にこちらを見る。

 その中で立林だけは立ち上がった。倉澤は彼らの下へと向かい、説明する。

「我々の見解では、彼女は自殺で間違いないと判断しました。事件性がない以上、生徒さんの自殺の動機等につきましては、こちらから調べる事はありません。具体的な対応については、学校側の方でお願いします。ですが、発見時の状況だけは御伺いしたいので、お手数ですが一人ずつ話を聞かせていただけますか?」

 現状の説明とこの後の状況を簡単に説明する。

 倉澤の説明を聞いた教頭の小渕は立ち上がった。

「分かりました。それでは、応接室をお使いください。その後の対応は私達で行わせて頂くとの事ですが、何か注意点はありますでしょうか?」

「そうですね。一応、あの部屋は現場保存をしておきたいので、立入禁止をお願いします。本棚に数冊、本がありましたから、それを持っていった状態で構いませんよ。さて、それでは移動しましょう」

 一同は、図書室を出て応接室へと向かう。応接室前の廊下にイスを出して、一人を除いて座って待機してもらい、該当者一人のみ応接室で話を聞く。

 一人ずつ倉澤が応接室のソファに座り、対面した状態で話を聞き、その隣では菱田が必要事項メモしていた。時間が遅い事もあって、終わった人間から随時、帰ってもらう事にする。要望があれば、各自の自宅までこちらで送った。

 全員、一度に聞く方が楽なのだが、敢えてそうしなかった。その為、内容が被る時もある。敢えてそれをするのは、一人一人の話を単独で聞き、繋ぎ合わせて全体像を形成する。倉澤のやり方が少々変わっているからである。

 一人、十分から十五分の時間を設けて話を聞く。

 およそ一時間かけて、ようやく全体像が浮かんできた。

 まず、最初に出納準備室のドアを確認したのは用務員の墨田。主に校内の防犯及び清掃を行っている。五十過ぎの小柄な男性で首から用務員と書かれた名札をぶら下げている。彼は、一度出納準備室前の廊下を通っていた。

 その際、ドアノブには使用中と掛けられた札と部屋の電気が点いているのを見ている。まだ、時間も浅く生徒が使っているのだろうと思って、彼は何もせず通り過ぎただけだった。

 二度目に墨田が通ったのは、最終下校時刻の午後七時半を超えた時であった。

 正確な時間を確認した訳ではないが、時間になると校内でチャイムが鳴るので間違いないと言っている。その時も一度目と部屋の状況は同じだった。流石に出てもらう必要があると、墨田は部屋を管理している図書室に入った。

 ちなみに、一度目も二度目もこの廊下に来た手段は、職員用階段であり、図書室側からではないとココで墨田は言った。

 つまり、この時初めて図書室に入ったのである。

 図書室に入った墨田は、そのまま司書室に入り湊に声をかけた。

 墨田の話に出てきた湊とは、司書教諭の湊慧一郎である。年齢は倉澤より二つ上で若く細い黒のフレームの眼鏡。灰色のカーディガンと、いかにも司書教諭といった風貌だった。彼は教職員連中の中で一番冷静である。時折、悲痛な表情を浮かべるものの、当時の状況を正確に伝えてくれた。ココからの展開は湊の話もプラスして、倉澤は頭の中で組み立てていく。

 墨田に呼ばれた湊は、出納準備室の事を聞かれて、誰も使っていないはずだと答えた。あの部屋を使用する際には、必ず自分に声がかかる。たとえ、大学生が(この際、倉澤は例のカードキーのドアが大学図書館に繋がる渡り廊下のドアだと知った)使用する時でも一声かかる。

 理由は単純で、湊が出納準備室の鍵を所有しているからである。

 湊は自分の机の引き出しを開けて、出納準備室の鍵を取り出そうとした。

 普段、部屋の施錠は最後に行うので、本当に空いているなら、鍵を閉めようとしたらしい。ところが、入っているはずの鍵はそこにはなかった。

 湊はそんな馬鹿なと思った。自分が司書室から離れる事はある。

 しかし、それはせいぜい一時間に一回あるかないか。トイレや図書室内に入る程度だ。僅か数分である。

 倉澤は湊に、生徒は出納準備室の鍵の場所を知っているのかと尋ねると、彼は知っているはずだと答えた。別に隠すような事でもない。

 実際に生徒の目の前で鍵を取り出した事もある。それに図書委員と出納準備室に行く事もあるのだ。また、鍵を入れている引き出しは誰でも開けられるようになっている。

 湊と墨田の二人は、出納準備室に向かった。既に図書室には、当番の図書委員は帰っており、無人でも問題ない。

 部屋の前で湊がドアをノックする。だが返事はなかった。

 ドアノブに手をかけて開けようとすると、ドアは内側から施錠されていた。これで誰かが中にいるのは明らかになった。

 そこで湊は墨田に頼み、予備の鍵を用務員室から取ってきてもらう。

 その間、何度かドアをノックしたり呼びかけたりしたが、依然として返事はない。墨田の話によると、予備の鍵は用務員室に保管しており、基本的に持ち歩かない。特別室の施錠は全て担当が決まっている為、最終下校時にドアの施錠を確かめる程度しかしていないらしい。

 数分後、墨田から鍵を持って来てもらって、やっと出納準備室のドアを開ける事が出来た二人は何の迷いもなく、中に入る。

 そこで二人が目にしたのは、首を吊って死んでいる森野詩織だった。

 墨田はとても驚き、腰を抜かしてしまった。また、それとは対照的に湊は素早く彼女の下まで駆け寄り、遺体を首から離した。脈を確認して死んでいる事が分かるとその場で蘇生処置を始める。

 湊はそうしながらも、墨田に教頭と彼女の担任である立林を呼んでくるようにと伝えた。

 その間、湊は一人必死で蘇生処置をしていたが、やがて墨田が二人を連れて来ると処置を止めて、首を横に振った。

 ココから三人目と四人目である、小淵と立林が現場に加わる。

 その後は、警察と救急車を呼ぼうと提案する墨田に小淵は、この時間に学校前に来られては人の注目を集めてしまうと言い、湊は救急車を呼んでも意味がないだろうと言った。事実、彼女は既に死んでいた。(湊の見立ては正しく、彼女は死後二、三時間程、経過しており死んでいるのは確実だった)

 警察を呼ぼうという話になったところで、立林が知り合いに警察関係者がいると言ったのである。そこから、倉澤は彼女の電話を受けて今、この場所にいる。

 以上が事件の概要である。

 最後に話を聞いた立林が全て終わり、事件の全体像が形成出来た倉澤は、まだ彼女がいるにも関わらずソファにもたれて口から大きく息を吐く。

 正面にいる立林はずっと下を向いていた。

 立林を最後にしたのは、彼女がクラス担任なので、自殺した森野詩織と一番繋がりが深いのと、一番精神的な疲労が大きく見えたからである。

 現に今は大分落ち着いてはいるものの、立林は事情聴取中、ずっとハンカチを握りしめていた。

「大丈夫か? こちらが聞きたい話はもう、終わったよ。何か質問あるか?」

「ありがとう、今は何も思い浮かばないや」

 ゆっくりと顔を上げて立林はそう言った。

「気にするな。今日はもう帰りなさい。時間も時間だし、俺が家まで送るよ」

「えっ、いいよ。一人で帰れるから」

「遠慮するな。こういう事も全部含めて俺の仕事なんだから」

 ソファから立ち上がり、倉澤はドアを開けた。立林も立ち上がり出口へと向かう。彼女は一度職員室に寄って帰り支度をするとの事だったので、職員通用口で彼女が出てくるのを待つ。その際、隣にいた菱田に向かって口を開いた。

「そのまま本部に帰るから、菱田もこの学校から出ていい。悪いが、パトカーと一緒に帰ってくれ」

「了解しました」

 事情聴取中、ずっと隣でメモをしていた菱田に疲れている様子はない。そんな彼を労う為に、倉澤は目に付いた自動販売機でコーヒーを二本買いその内、一本を彼に渡す。

「ありがとうございます。頂きます」

 カシュっと音を立てて、缶コーヒーのプルタブを開けた。集中して疲れた脳をコーヒーのカフェインが見事に沈めてくれる。立林が来るまで後五分程度だろう。そう考えて、倉澤は菱田に意見を聞いてみる事にした。

「どう思う?」

「そうですね。遺体発見時の周囲の話に特に変わった点はありません。よくあると言っては何ですが、自殺でしょう。多少引っ掛かる点はありますが……」

「だよなあ。あそこだけが気になるんだよな」

 菱田が引っ掛かる点と言うのは倉澤にも検討は付いている。先程の事情聴取の時に浮かんだ疑問点だったが、あの時は話を纏める方が重要だったので、相手に突っ込まなかった。

「それに、あの奇妙な遺書の件もありますしね」

「あれはこの学校の連中にはまだ話していない。一応、立林を送る時に話すつもりではいるよ。彼女は担任だからな」

「そうですか」

 二人が言っているのは、森野詩織の着ていたブレザーの内ポケットから出てきた遺書の事だ。倉澤は透明のビニールに入った現物を取り出す。今は、片手に缶コーヒーを持っているので、万が一にもビニールからは出さないが、既に一度読んでいるから、内容は頭に入っている。

 倉澤が遺書の入ったビニールを見つめていると、缶コーヒーを飲んでいる菱田が小さいため息を吐いた。

「思春期の少女の心の内は、僕達には分からないものですよ」

「まっ、確かに。これは、お前に渡しておくよ。手書きだし筆跡鑑定に出さないといけない。内容は俺が伝えれば済む」

 倉澤はビニールを菱田に手渡す。

「思春期の少女の心の内、か」

 ポツリと呟いて缶コーヒーに口を付ける。中身は空になった。自動販売機横に設置されたゴミ箱に捨てて、手を自由にする。そうした動作の中でも倉澤の頭の中では、森野詩織の遺書について考えを巡らせていた。

 彼女の遺書は、ルーズリーフ一枚でシンプルな代物だった。  

『ノートは、いつも貴方の傍にある。だから私はもう大丈夫。2008.10.22 2008.11.18』

 一見すると、遺書と呼べるかすら怪しい。彼ら警察がまだ学校関係者に話していないのは、そういう点からだった。

 ただ、一応遺書としているのは、筆跡が手書きであるのと、最後の文章がギリギリ遺書と読める点、そして、二つ目に書かれている日付が今日だからだ。

 どうして、日付が二つ書かれているのか。そこはまだ分からない。ただ、今日の日付が書いてある文書を持って本人が自殺。状況から考えて、遺書として見るのも当然である。

 そこまで思考していたところで、廊下を歩く足音が聞こえてきた。その方向を向いて、すぐに立林だと分かった倉澤は、菱田に手を上げて彼を退散させた。

「ごめんね、待たせちゃって」

「いや、大丈夫さ。さ、行こうか。ああ、送る車だけど、パトカーじゃないから安心してくれ。それにパトランプは外してる。普通の車にしか見えない」

「ありがとう、助かるわ」

 パトカーで家まで送られるのは、一般人からしたら気持ち良いモノじゃない。それを仕事上、よく知っている倉澤の配慮だった。

 倉澤と立林は車を止めた場所へと戻る。助手席を先に開けて、立林に乗せたら、パトランプを外して運転席に乗り込んだ。

 送り先の家の住所を教えてもらい、カーナビにインプットする。

 二人を乗せた車は緩やかに発進した。

 この時間になると、この辺りは車をあまり見かけない。時折、バスとすれ違う程度である。車内は静かで二人の間に会話はない。左折時に軽く立林の様子を窺うと、窓の外の景色を眺めていた。

 緊張の糸はまだ保っているようだが、いずれ糸が解けて眠ってしまうだろう。そうなってしまう前に倉澤は、三回目の赤信号で停車した時、口を開いた。

「聞いていいかな?」

「何?」

「立林から見て、森野詩織さんってどんな子だった?」

 本来ならば、事情聴取時に済ませおく事を尋ねた。

 菱田もいる応接室で緊張感に包まれながら答えてもらうより、昔からの顔馴染みと二人でいる方が、リラックスしてより有益な事を言ってくれる可能性があると考えているからである。

 立林は質問を受けて、しばらく沈黙して何かを考えているようだったが、やがてゆっくりと話し始めた。

「森野さんは物凄く頭が良い子だった」

「成績優秀なんだ」

「ええ。彼女、ウチの学校じゃ有名人だったから。全国模試で一桁の順位も獲った事がある子でね。当然、 授業料全額免除の特待生。学校の定期テストも一番が当たり前で、問題を作る教師側が気後れしちゃうのよ。まるで、彼女の解答用紙は、こちら側が作る模範解答のようだったから」

「羨ましいなあ。俺、高校の頃はそんなに頭良くなかったから」

 倉澤がそう言うと、立林は小さく笑う。

「彼女は特別。何て言うのかな、考え方が大人な子だった。下手すれば私達教師よりも」

「へぇ、どんな風に?」

 立林から更なる情報を引き出そうと、自然を装って質問を続ける。

「普通、勉強が出来る子って周りからは良く思われない。もしくは、空気のように避けられる。その二択。けれど、森野さんは違った。彼女は簡単に言えば、両方の逆に属している」

「両方の逆?」

「普段は大人しく、教室の隅で本を読んでいる子。だけど、陰口は言われない。そして、テスト前や勉強が難しい授業の放課後には、皆彼女に群がって教えを乞う。教師より教え方が上手なのよ。教室で勉強を教えているのを聞いていた事があるけれど、複数に教えているのに、勉強のレベルを一人一人に合わせて変えている。そんな事はこっちの仕事なのに、彼女はそれを普通にやってのけている。現に彼女に勉強を見てもらった子で成績が上がらなかった子はいない」

「いない? 一人も?」

「そう。ただの一人も。彼女が教えたら全員が全員、成績が上がる。だから、テスト前は人気者だった……」

 遠くを見つめるような目で前を見ながら、立林はぼんやりと呟く倉澤は彼女に話で改めて森野詩織の人物像を組み立てていった。

 そこで、一つの疑問点が浮かぶ。

「さっき、森野さんは両方の逆に属しているって言うけど、話を聞く限り彼女、ただクラスの皆に都合良く利用されているだけなんじゃないか?」

「そう思うでしょ?」

 立林は、想定済みだとばかりに鼻から息を漏らした。

「彼女を知った大人は最初、必ずそう考える。特に我々教師陣はそれを止めさせようともする。これは学校側のエゴだけど、他の子に勉強を見て模試の成績を落とされたら色々と困るから。勿論、それとは別に彼女が負担になっているんじゃないかって懸念もあるけれどね。だけどそれは大きな間違い」

「間違い?」

 倉澤は赤信号で車を止めた際、彼女の方を向いてそう尋ねた。カーナビの示す目的地までそろそろ半分と言ったところで、あまり時間は残されていない。

 彼の質問に立林は深く頷く。

「周りから利用されているんじゃない。森野さんが周りを利用していたのよ」

「どういう事だ?」

「最初、森野さんが勉強を教えているのは、親切心からだと思ってた。でも、実際はそうじゃない。教えられた子は全員点数が上がっているけれど、それは一時的に過ぎない。次も教えてもらわないといけなくなる。あの子に一度勉強を教えてもらって、その後は一人でやっても決して成績は伸びない。それどころか、点数が下がる時すらあった」

「周りの学力をコントロールしていたって事か? そんなの不可能だろ? どうしてそんな事が起こるんだよ」

 森野詩織が、いかに他人に効率良く勉強を教える事が出来ても、所詮同学年のクラスメイトでしかない。一人一人の学力を調整して、自分に依存させる事が出来る訳がない。そんな事は不可能だ、あり得ない。

 立林は彼女が死んでしまったショックで話を誇張しているのだ。リラックスさせた気でいたが、まだ早かったかと倉澤は後悔し始める。

「森野さんは教えている生徒に合わせて勉強のレベルを変えているってさっき言ったでしょう? それは具体的に言うと、彼女は一人一人に手製のプリントを作成して教えていたのよ。パソコンで問題を作ったり、解説を加えたりして。凄いわよね、普通の女子高生がそんな事までするなんて。そのプリント一度見せてもらった事があるけれど、凄かった。お金を取れるレベルだった。つまり、彼女のプリントを確実にこなす事で、成績は上がるようになっている」

「っと言う事は……」

 倉澤は気付いた事を言いかける。すると、すかさず立林は口を開いた。

「逆を言えば森野さんのプリントがないと、確実に成績は下がってしまう。だから皆、彼女の作ったプリントに依存する。そういうシステムになっているの」

「凄いな。頭が良いのを超えて少し怖いよ。って事は、これまで彼女に教えてもらっていた子達の成績が、今後軒並み下がるのか」

「でしょうね。きっと一気に下がるわ。もう皆、教師の授業よりも森野さんのプリントの方を大事にしていたから」

 立林の話で大分、森野詩織の人間像が大分はっきりしてきた。

 カーナビの目的地まで残りはそうない。このあたりが限界だろう。

 そろそろ、こっちの話もしなければいけない。倉澤はそう決めて、軽くアクセルを踏む。グンっと慣性力と共に気持ちのスイッチを変えた。

「そう言えば、一つ教職員連中に言い忘れてた事があったよ」

「何?」

 ずっと話していた立林の声色からはすっかり最初の緊張が抜けていた。

「実は君達に事情を聞いている間、彼女の遺書が見つかったんだ」

「嘘……」

「本当。ブレザーの内ポケットに入ってたんだ」

 立林は驚いて目を見張る。緊張が解けた状態でもこの反応なのだ。もし最初に話していたら、大変な事になっていただろう。

「中身は? 何て書いてあったの?」

「ルーズリーフ一枚に手書き。内容は短く、“ノートはいつも貴方の傍にある。だから私はもう大丈夫”それと日付が二つ、2008.10.22 2008.11.18。二つ目の方は、今日の日付だから、一応警察としては遺書として処理する事にした。内容は意味不明だが。現物は今、筆跡鑑定の為にウチが預かってる。コピーで良かったら明日には用意するけど?」

「ありがとう、貰えるかしら」

 立林の希望に倉澤は「了解」と短く告げてから、言葉を続けた。

「それで、意味は分かるか?」

「いいえ。内容も一つ目の日付が何を指すのかもさっぱり分からない。その日付は別に学校行事でも何でもない平日よ。残念だけど分からないわ」

「問題としている文章は、“ノートはいつも貴方の傍にある”の方だ。文面から察するだけだと、誰かにノートを貸している。又はノートを探している人間に教えている。っと捉えるのが一般的だが……。立林から森野詩織の話を聞くと、もっと深い意味があるような気がする」

「……調べられるの?」

 その質問に、倉澤は少し間を置いてから答える。

「少し難しい。事件性がないので、警察自体はそこまで動かないから。遺書の筆跡鑑定も念の為だ。遺体が語る状況は間違いなく、彼女の自殺だと言っている。それが覆らないと捜査は本格化されないし、今のところその予兆はない」

 多少引っ掛かる点を倉澤と菱田は感じているが、それだけではまだ不十分なので、それを立林には説明しない。

「そっか、そうだよね」

「すまないな」

 諦めたような立林のため息が車内に充満する。

 カーナビを見ると、そろそろ到着する。収穫は充分にあったし、立林をリラックスさせる効果も得られた。この送迎は当たりと言える。

 そこからは到着するまで、二人の間に一切会話は交わされなかった。家の前に着いた時、立林がココだと言ったのが最後である。

 立林の家は比較的新しい一軒家だった。灰色の平坦な屋根の上にはソーラーパネルが乗っている。雨戸が閉められているので、外からは様子は見えないが、門燈が点いている事から、誰かいるのは確実だった。

 立林はこの家で両親と同居している。兄弟姉妹はいないので、三人家族だ。

 車を家の前にハザードを出して一時停止すると、運転席から降りて座っている助手席を開ける。

「ありがとう、わざわざ送ってもらっちゃって」

「大丈夫。それより今日はぐっすり寝ろ。まあ無理だとは思うけど、その努力をしてくれ。明日は朝早く高校に行くよ」

「分かった、また明日。お休みなさい」

「ああ、お休み」

 立林が門を開けて、玄関のドアを開けるのを倉澤はじっと見ていた。彼女がカバンから鍵を取り出して、ドアを開けると、中から暖色系の明かりが外に漏れる。彼女はこちらを一度も振り返る事なく、玄関のドアを閉めた。

「ふうー」

 一仕事終わった倉澤は盛大にため息を吐いて車に乗り込む。

 本部に帰るまでの間、頭は今回の件について纏めを行っていた。

 亡くなった森野詩織という人間。

 多少引っ掛かるが、自殺で間違いないと主張する現場。

 そして、不可解な遺書。

 まだ、忌引きで休んでいた日に残っていた書類だって、机の上に残っている。事情が事情なので、提出期限の延長は可能だろうが限度はある。

 それに立林にも説明した通り自殺が確定している現状では、日に日に活動に制限かかってしまう。今の御時世、下手に動いてマスコミの目に捕まるのは避けなければいけない。

 問題は山積みである。

 倉澤は本部に向かって、車で夜の国道二号線を走っていた。

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