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クリスタルホワイト・アイス  作者: 綾沢 深乃
2/12

「第二章 遠い遠い紙の匂い」

 季節は秋の始め。

 鬱陶しい夏が終わり、涼しい風と遠くに見える山々が赤く色付き始めた頃。

 放課後の図書室に、高校二年生の内田透の姿があった。彼は図書室内にある半透明のパーティションで区切られた自習スペースで教科書とノートを広げて勉強をしている。だが、広げた教科書はペンの線引き後どころか、ページに捲り跡すらない美品であった。

 ノートは提出用に機械的に書いた物であり、透個人の意思は感じ取れない。本来、彼の意思を向けるべき ノートは、これではないのだ。

 内田透は一冊の特別なノートを持っている。

 それは、目の前にある紙のノートではなく、彼の頭の中に存在していた。

 そのノートは透だけの宝物。一度書いたら、自分で消すまではずっと残り続け、上手に使えばテストは敵ではない。

 このノートを発見したのは、中学に入ってからだった。

 もし、もっと早く手にしていたら、中学校は間違いなく、私立に通っていた事だろう。その無敵のノートに透は沢山の事を書いてきた。定期テストが近くなると、発表された範囲を全て書き写す。

 それだけで高得点を獲得獲得出来た。

 しかし、あまりに高得点を連発してしまうと、周りからカンニングを疑われてしまう。(もっとも実質的には、カンニグと同じ事をしているのであながち間違いではない)よって、ある時期から満点は取らず適度に間違える術を覚えて、目立たずけれども平均点よりは上に留まった。

そんなポジションを中学時代は常にキープしつつ、去年、S大学の付属高校へと進学したのだった。

 高校に入り範囲が膨大になったので、作業に手間を感じるようになった事と抜き打ちの小テストを除けば、学校生活において勉強は問題ではなかった。

 透はノートがある限り、勉学は一生安泰だと自負していた。

 ところが現在、今まで放課後に図書室で勉強という、人生で一度も経験のない、実に不慣れな作業を行っている。

 その理由は一つ。

 数日前から、ノートが消えてしまったからである。

 勉強=ノートに書き留めておく。そう認識していた透にとって、現状は耐え難い苦痛であった。毎夜、布団の中で発狂しそうな程の不安感に追われて、誰にも相談出来ず、一人で苦しんでいた。

 ノートが消えて分かったのは、これまでに書き留めた事のある内容は、一つも知識として何も染み込んでいない事である。

 用済みとなり、消してしまえば勿論。消さずに残していたとしても、効果は同様である。ノートは、ただの記録に過ぎない。

 記憶の彼方に飛ばしていたが、透は消したノートの内容が身になっていない事を過去に一度味わった経験がある。

昔、自分が消した内容が突発的な復習テストと称して出てきた事があり、両親にまで心配される程の点数を獲ってしまった事があった。

 それからは、ノートに書いた事をなるべく消さないでおく習慣を身に着けていた。年月が経つにつれて、その記憶が消えて習慣のみが残ったのである。その為、ノートに記載された内容は非常に膨大で、中学校時代まで遡る。

 それが今、空になってしまったのだ。外見は高校生男子だが、頭は小学校レベルの学力があるかないか。そこまで落ちてしまっている。

 よって現在、透が現在図書室に通っているのは、ノート復活に僅かな望みを賭けた復元作業として、紙媒体のノートを見て頭に刺激を与える為であった。

 今度の定期テストまで、あと一ヶ月と少し。ココ最近は、放課後になると図書室に通っているのだが、成果は一向に現れない。半透明のパーティションで区切られた周囲からは景気の良い書き音が聞こえてくる。

 閉室までの時間、一回もシャーペンを動かさない生徒は自分のみだろう。透はそんな事を考えていた。

 放課後の図書室は、これまで訪れた経験がない為、金曜日は利用者が少ない事、逆に月曜日が多い事等、知らなかったいくつかのルールを透は知った。

 利用メンバーも大体決まっており、誰が決めた訳でもないが、各々が毎日、同じ席に腰を下ろしている。

 図書室の一角にある自習スペースには、縦横合わせて、十六席が設けられており、全ての席に小さなスタンドライトが付いていた。

 透は一番左端の前から三番目を二週間通って指定席にしている。

 左を向くと図書室の無機質な白い壁。その壁を沿って、真っすぐ進むと、奥に小さなドアがあった。

 そのドアの先には大学図書館へと繋がる廊下があり、途中に出納準備室と言う部屋がある。

 付属高校と大学間で図書館資料のやり取りをする為に必要な部屋である。

 そう透は入学時のオリエンテーションで聞いたが、特段興味もなかったので、注目はしていない。たまに開いて図書委員が重そうな本を運んでいる。その程度の印象である。もっとも今の彼にはそこを通る彼らの足音に集中力を軽く阻害されてしまうので、あまり良い印象はない。(この問題があると知っていたら、ココを指定席には決してしなかった)

 午後七時半になると、最終下校のチャイムが鳴り響く。

 透の成果は今日もゼロだった。周りが勉強道具を学校指定のカバンに片づける中、彼は焦った様子で片付けている。

 このままでは洒落にならない。成績低下が原因で留年すらあり得る。少なくとも、再度この高校に入学出来る自信はない。

 どうにか打開策を考える必要がある。いっそ本当にカンニングでもしてしまいたい気分だが、リスクを考えるととても出来なかった。

 結果、他にまともな策も浮かばす、こうして図書室に通う日々を送っている。

 最終下校のチャイムが鳴ったので、図書室内の生徒は、全員速やかに退室しなければならない。

 出入口隣に設置された下駄箱から、各々が上履きとスリッパを履き替える。

 この時間になると、授業の疲れが顕著に生徒の表情に現れた。誰もが最低限の動きだけで、事を済まそうとする。まるで、決められた動作しか許されないブリキ人形のように、生徒達は連れ立って出入口へと向かう。

 そんなブリキの群れに、決まって声をかける人物がいた。

その人物の名前は、湊慧一郎。この学校の司書教諭である。文系だと言わんばかりの優男ぶりに、細い黒のフレームの眼鏡と細い黒髪の癖毛。

この時期になると、ワイシャツの上から灰色のカーディガンを羽織り、首からネームプレートをぶら下げている。

 この図書室の主とも言える湊は、一部女子生徒の人気を呼んでいた。その人気が図書委員会の男女比を表している。

 湊は見た目通りの性格と男性にしては高めの声を持つ。そして、決まって閉室時になると、出入口に立ち、ブリキ人形達一人一人に笑顔で「さようなら」っと告げていくのだ。

 ブリキ人形達には、その言葉に返す余力など残っていない。しかし、湊は教師であり、決して無視をする訳にはいかない。なので、精一杯の愛想として、ペコリと頭を下げるのだった。

 図書室を出て行く際、生徒にさよならと言い、言われた生徒は頭を下げて返す。

 その光景も透が図書室に通うようになって、知った事だった。きっと、彼がココに通い始める前から、このルールはあったに違いない。さよならと言い慣れている湊の口を見てそう感想を抱いた。

今日も変わらず、ブリキ人形と湊の一連の動作の応酬は行われる。

 狭い図書室の出入口。出て行く生徒の数が二桁を越すので、無理に出ようとすれば、あっと言う間に渋滞となり、列を成さねば通行出来なくなる。きっと、ドア付近に置いてある展示物やパンレットを少しでも減らせば、解決するだろうが、誰一人として進言する素振りは無かった。今日もブリキ人形達は綺麗に列を作って、図書室を出て行く。

 透も例に漏れず列に加わる。自分の後方は知っている顔の女子がだった。

 彼女の名前は、森野詩織。

 透と同学年であり、三つ隣のクラスの女子である。彼が放課後に図書室に通うようになって、一番衝撃だったのは、紛れもなく詩織の存在だった。

 詩織は学年トップの学力を誇っているからである。

 全教科満点を地でいく女子生徒。廊下に貼り出される定期テストの順位のトップには、もはや固定化されている彼女の名前がある。

 ちなみに全国模試では一桁の順位を保持しているらしく、授業料全額免除の特待生という待遇となっている。

 森野詩織の名前は、この学年なら一度は耳にした名前であった。

 その大多数は、こちら側が一方的に知っている生徒達だった。

透も例に漏れず、その一人である。

 ただ、前回までの定期テスト時代の透は、詩織など気にも留めていなかった。

 少しノートの活用範囲を広げれば、全教科満点なんて当たり前のように行えるからだ。事実、中学時代に実践した事がある。その結果、どういう目で見られるかも承知の上だ。

 だからこそ透は、自分が敢えてしない事をわざわざ行い、無駄な注目を集めている詩織に対して、手抜きを知らず損をしている。

そう認識していた。

 透は、詩織が毎日放課後の貴重な時間を、こんな場所で消費してまで、あの順位を維持する価値があるとは思えなかった。

 そんな詩織について、図書室に通い始めてから知った衝撃が二つある。

 まず、詩織はいつも一人で図書室に訪れていた事。

 月曜日から金曜日までの五日間。一人でココにいるのだ。その内、三日程は一時間で帰るので、最後までいる日は二日しかない。どういう法則に基づいて、そうなっているのかは、透には分からない。

放課後に図書室を使用する全体の比率は三年生が多い。いくらウチの高校がエスカレーター式で、大学に入学可能だと言っても、本当に無試験で大学生になれる程甘くはない。

 三年生の冬になると、これまでの高校生活を統括した試験が行われるのだ。

 そこでの成績次第では、大学に入学出来ない。

基本的に真面目に勉強していれば問題ないと、学年集会で言われた記憶がある。ただやはり、無条件で乗れると思っていたエスカレーターに切符があると知らされた生徒達の多くは、衝撃を覚えた事だろう。(因みに透はこの件もついこの間まで気にも留めていなかった)

三年生になると自身の学力に不安を覚えた者達が、図書室に自習に訪れる形となっている。彼らに混じって、透達の学年がおり、それより下の一年生は、まず来ない。来るとしたら、一回グループでの冷やかしで訪れる程度だ。

正直、一年生で真面目に来ているなら、転校を視野に入れるレベルである。

 だからこそ、透は当初、図書室を訪れる事に、既にガラス細工に等しいプライドが警鐘を鳴らしていた。それだけに、図書室で森野詩織の姿を見かけた際、とても大きな衝撃を受けたのだった。

 そしてもう一つ。一つ目に負けず劣らず、大きな衝撃があった。

 ブリキ人形達に混じって、列に並ぶ透と詩織。透が前で詩織が後ろ。

 詩織は他とは違う点があった。彼女だけは、湊のさようならに首だけではなく、さようならと言葉を加えて返すのである。

 誰も返答してこない中で唯一、さようならを返す詩織。

 そんな詩織に湊が嫌な顔をしない理由はない。それどころか、彼女の時だけ、湊のさようならトーンが明らかに違う。気持ちは分からないでもない。

 ただ、教師としてそれは正解なのか。

 透は湊のトーンの違うさようならを聞く度にそ疑問を感じていた。自分は声を出して返さない事を棚に上げて、湊に身勝手な平等を求めていたのだった

 だからその日、透が行動を起こしたのは、単に作業が順調じゃない苛立ちだけが理由ではない。

「さようなら。気を付けて帰ってください」

 自分の番になり、湊は透に向けてさようならと言ってくる。

 湊からしたら、透の返事より次に控えている詩織に言う事の方が大事だろう。

 既に視線の矛先は詩織に向かっている。透は心地良い緊張を感じていた。放課後になって今まで約二時間。誰とも会話していない唇が乾燥していたので、唇を噛んで喉に唾液を走らせた。

「さようなら」

 透の声は普段に比べたら多少声量が小さかった。それでも、腕を伸ばしたら確実に届く距離にいる湊に、声を確実に届ける力は充分にある。その証拠に、彼は面を食らった表情を見せた。その後、すぐに切り換えて笑顔になる。それはまさに、これまでの社会経験で何度もした大人の力だった。

 図書室内の空気は透が言ったさようならで一時的に浮上したものの、また着陸して通常時へとシフトしていく。透は言った事に強い達成感を得ていた。更に後ろに控えている詩織にはどういうトーンで話すのか、気になった。

 透は意図的に上履きに足を入れるスピードを遅らせて、聞き逃すまいと両耳に神経を集中していた。靴下と上履きが接触する音すら、煩わしく感じる中、いよいよ詩織の番が訪れる。彼は振り返らず、両耳だけで事の様子を窺う。

「さようなら。気を付けて帰ってください」

 湊の声を背中で聞いた瞬間、透は思わず息を飲んだ。

 いつも以上に声のトーンが違う。誰が聞いても明らかだ。この図書室に残っている生徒に匿名アンケートを実施すれば、全員の同意を得られる事だろう。

 振り返らない。透はそう決めたはずなのに、つい反射的に振り返ってしまった。

 ところが、その若さ故の行為は大きな収穫となった。少なくとも耳だけではそれは把握し切れなかっただろう。

 詩織は、湊に向かってさようならを返す事はせず、ただ頭をペコリと下げただけだったのだ。彼は先程よりも倍近い面を食らった表情を彼女に見せて、何かを伝えようと口がゆっくり開き始めていた。

しかし、それを詩織は知った事ではないと言いたげに、顔を背けて拒絶する。図書室内の空気も透の時より確実に浮上が大きい。だが、そんな事は全く気にしてない表情の彼女は、スリッパと上履きを履き替えると、図書室から出て行った。

 図書室から昇降口までのルートは、透も詩織も同じである。

 途中、トイレにでも行ってくれるか。または、教室に忘れ物でも取りに行ってくれたらと祈っていた透だったが、彼の祈りは叶う事はなく、彼女は真っ直ぐ昇降口へと足を動かしていた。

 昇降口では、クラス毎に区画整理された下駄箱兼ロッカーが並び、生徒達は四桁のダイヤル式暗証番号の施錠を開けて、中から外履きを取る。

 生徒によっては、学校指定の通学カバンに入れる教科書を取り出していた。教室内には個人ロッカーが設置されていないので、生徒の荷物はこの場所に集約されるのだ。

 透は家で記録作業する予定のノートは、図書室で使用した物と変更する気はなかったので、通学カバンは開かない。

一組から順にロッカーが一面に並んでいる。

けれど、流石に端から端まで揃えると、混雑は必死なので(今のように人数が少ない下校時は構わないが、登校時は相当混雑している)四組、五組は一つ奥の区画に設置されていた。

つまり、各学年二列となって、生徒用の下駄箱兼ロッカーが並んでいる。

 詩織は五組なので、透の場所より一つ奥の区画へと入って行った。感情のない鉄の下駄箱兼ロッカーを挟んで、彼女の動作音が聞こえてくる。通学カバンのジッパーを開ける音、中からバサバサと何かを取り出している音。彼女は自分と違って、ロッカーの物を持って帰るようだった。

 透は、詩織よりも先に帰るべく、靴の履き替えだけを終えて、昇降口を出た。

昇降口を出ると、目の前には真っ暗なグラウンドがある。二ヶ月前ならココまで暗くはなかった。今の季節が秋と言う事を思い知らされる。

涼しい夜風が体を通り過ぎる。透の通っている高校はスポーツにはそこまで力を入れていない。私立宜しく、一応のグランドにはナイター設備はあるが、一つ残らず目を瞑っている。当然、外を走る生徒はいない。

 グラウンドの横を通り、透は裏門へと向かった。午後六時を過ぎると、安全上の理由から正門の鍵は施錠されてしまう。なので、それ以降に学校から出る生徒は、裏門を通って出て行く事になる。

 図書室組以外にも残っていた文化部の姿があった。彼らは通学カバンの他に管楽器が入るケースを肩から掛けている。そうか、吹奏楽部か。透は集団で歩く彼らを見てそう思った。他にもいくつかの文化部の生徒が歩いている。

 吐き出されるように校内中の生徒が、一斉に裏門へ向かって歩く。

 学校の裏門を出るとすぐに坂道になっている。透達は坂道を下り、バス停へと向かった。歩いて最寄り駅に向かうと四十分程経過する。この時間帯の通学には、殆どの生徒はバスを利用していた。特に今日のような時間帯になると、防犯上の理由も含めて、学校側が積極的にバスを薦めている。

 バス停までの道のりは体が覚えているので、透は特別意識して歩く必要はなく、自動で動かしておく。肝心の意識はノートの件で一杯だった。

 放課後に図書室に通い始めてから、二週間が経過しようとしていた。毎回、手抜きをした覚えはない。にも関わらず、一向に回復の気配はない。

 まるで、水中で手足を無造作に動かして溺れているような錯覚に襲われる。

もう既に、学校内で図書室は憂鬱な場所となり、放課後が近付くと、軽い頭痛が走り始める。

 周囲に何もかも話して、楽になれたらどれだけ救われるか。

 時折、そんな事を考えるようになる。だがそれはすぐに否定する。

こんな絵空事を誰に話すというのだ。理解などされない。

透はすぐに甘えた考えを振り払う。

「あっ」

 考えに耽っていたせいか、気付いたらバス停で足を止めていた透は、無意識の内に小さい声が出た。と言っても、誰かに聞かれるような声量じゃない。少し前のさようならの方が声は大きかった。

 バス停に一列で並ぶのは、全員ウチの学校の生徒。

 透は吹奏楽部の集団の最後尾に並ぶ。目を瞑りバスがやって来るのを待った。

ところがココで目を瞑ってしまった事は、失策だった。透は、バスがやって来た事に気付かず、絶妙なバランスで立ったまま、意識が落ちてしまったのだ。

「うわっ!」

 バス停にて二回目の声を出した時、一回目よりも遥かに大きく、周囲も何事かと振り返り透を見ていた。彼は、意識が落ちてしまっていた事、バスが来ていた事をすぐに把握して、よく倒れなかったと思った。

同時に、透は誰かに後ろから押される感覚がしたのを理解する。

 少なくとも目を瞑るまでは、自分が最後尾だったのは間違いない。誰が衝撃を加えたのか知りたくて、透は半覚醒気味のままで振り返る。

 すると、そこには白いイヤホンをした詩織の姿があった。

 詩織が真後ろに並んでいると分かった途端、透の意識は瞬間的に覚醒した。昇降口で別れてから、彼女を見ていない。バスに乗る可能性は、冷静に考えれば予想が付くが、意識を自動状態にしていた為、見落としていた。

 透を起こした詩織は、彼の驚いた顔を見ても反応はない。彼女は両耳に白いイヤホンを挿していた。新品の消しゴムのように白いコードは彼女のブレザーの胸ポケットに引っ掛かっている銀のMDウォークマンのコントローラーに繋がっていた。何の曲かまでは分からないが、メロディーが音漏れしている事から、彼女は自分の驚いた声が聞こえていなかったようだ。

 透と目が合った詩織は、右手をゆっくりと動かして、前を指差す。

 到着しているバスは、二人が乗るのを後方のドアを開けて待っている。既に二人以外の生徒は全員乗車していた。透は慌ててバスに乗り込む。

後ろに並んでいた詩織もそれに続く。最後に並んでいたのは彼女だったので、二人が乗るとプシュっと大きな音を立てて、バスのドアが横にスライドした。

 車内はてっきり生徒で満席かと思ったが、意外にも空席がいくつか存在したので、透と詩織はそれぞれ適当な席に腰を落とした。

 乗車前にもう乗っている生徒の注目を集めてしまった透は、恥ずかしさで耳が赤くなりながらも再び目を瞑った。

 ところが先程の体験からか、中々意識を落とせない。緊張から心臓の鼓動が速くなり、目を瞑って腕を組んでいるだけで、意識は覚醒している。 

 バスは最寄り駅に着くまでに何回かバス停で停車したのを、透は車内アナウンスと、ドアが開く度に乗車してくる外気で感じていた。

 そうやって、しばらく視界を暗くしていた透が次に目を開けたのは、最寄り駅のバスロータリーに到着する車内アナウンスを聞いてからだった。

 透は寝起きを装う為に、軽く瞬きしてからゆっくりと目を開けた。

 バスの前方のドアが開き、車内には外気が入り込んできた。乗客は列を作り、前方のドアに向かって少しずつ進んでいく。透も立ち上がり、その列に加わった。

 列の波に乗りつつ、ポケットから財布を取り出して、バスの乗車賃を用意した。

 自分の番までに乗車賃を用意出来た透は、そのまま両足を前に進め続ける。

 その時、視界の左端に映る単座席に座っている人物の背中が映った。

 その人物の後頭部、両端から垂れ下がっている白いコードを見て、透はその人物が詩織だと分かった。後頭部の向きから、彼女は眠っているだろう。

 詩織は前方の席に座っている。彼女の横には乗客による列が形成されており、今からその波に乗るのは難しいように思えた。そして、既に波に乗っている連中は誰一人として、彼女を起こそうとはしない。

 ただ接近の際、ちらりと横眼で詩織の姿を確認して、何もなかったかのようにまた前方を向く。全ての乗 客がバスから降りたら、運転手が起こすだろうと思っているのか、それとも単に興味がないのか。乗客達を見て、透はそう判断した。

 バスの窓から外の様子を窺う。既に後方のドアから乗り込むのをスタンバイしている次の乗客の列があった。これでは、運転手が一度席を離れて、詩織を起こすのは困難に違いない。案外、運転手自身も彼女の存在に気が付いていない可能性もある。

 先程、乗車する時に助けてもらった礼をしよう。

 そう決めた透は、波に乗ってゆっくりと前方に進む。そして、詩織に手が届くまで接近した時、前を向いたままで彼女の右肩を軽く二回叩いた。

 トントン。っと透の手の平と詩織の右肩が接触する。二回目の手が離れた時、彼女の肩が自ら動いた。どうやら目を覚ましたようだ。それが分かったので、何事も無かったかのように、乗車賃を払う。

いちいち振り返って起きたかどうかを確認する必要はない。少なくとも乗車時の借りを返せたら良いのだ。そう考えて、バスから降りる。

 体全体を外気に当てて、頭がクリアになる。財布から磁気定期券を出して地下鉄の改札を通った。左側のエスカレーターからホームへと降りる。

透が利用している路線は地下鉄だが、この駅は地上に出ているので、ホームに降りても雲の下が見える事は変わらない。

 ホームには学生達に加えて、スーツに身を包んだサラリーマン達の姿があった。皆、適当にベンチに座ったり、乗車口に並んでいたりしている。

 ホームの天井にに設置されている発車標には電車が来るまでの時間が、五分だとオレンジの文字で主張していた。五分程度なら、もう並んでいた方がいい。

 透はベンチに座らず、適当な列の最後尾に並ぶ。そして、バスでの失敗を懲りもせず、再び目を瞑ってしまった。

「ねぇ」

 透の耳にその声が聞こえたのと、袖が引っ張られたのは同時だった。目を開いて振り返ると、そこには詩織の姿あった。

 詩織は白いイヤホンを耳に挿さず首に掛けていた。

「何?」

「さっきは起こしてくれてありがとう。あなたでしょ? バスの運転手が教えてくれたの」

「別にあれくらい。こっちもバスに乗る時に助けてもらったから」

 初めてさようなら以外の詩織の声を聞いている。それがとても新鮮で、透は若干の緊張していた。そんな事を到底知らない彼女は尚も声を出し続ける。

「あれは私もビックリ。まさか立って寝てるなんて思わなかった。余程、疲れてたのね」

「そうみたいだ。膝がガクっとなる前に起こしてくれて助かったよ。お蔭で恥をかかずに済んだ」

 透が礼を言うと、詩織は微笑む。

「あら。貴方が立って寝ている時、バス停にいた貴方以外の生徒は、全員気付いていたわ。恥ならとっくにかいてるじゃない」

「まだその程度で終わってましって事」

「成程、そういう考え方ポジティブで好きよ。もう一つ聞いていい?」

 詩織は、透の苦し紛れの逃げ口上に頷いて納得したのち、人差し指を立ててそう質問した。

「どうぞ?」

「どうして今日、湊先生にさようならって言ったの? これまで一度も言ってなかったじゃない」

「それは……」

 詩織の質問に透はすぐに答えられず、言葉が詰まってしまう。彼女は追求せず返答を待っていた。彼は、しばらくどう言おうか考えた後、思考が一周して誤魔化さず正直に答える事にする。

「気に入らなかったから」

「気に入らなかった?」

 透の答えに詩織は首を傾げる。

「ああ。閉室まであの図書室にいて、皆声も出したくないくらいに疲れている。それなのに先生はドアの前に立って、わざわざ一人一人に丁寧なさようなら。でも、それだけなら、生徒想いの良い先生。だけど森野さん。君には明らかに態度が違う」

「確かに、湊先生は私にさようならを言う時と、他の生徒にさようならを言う時では、声のトーンが違うわね」

「毎日毎日、あんなのを聞かさせれてたら、嫌になるのは当然。だから今日、我慢出来なくなって、言ってやったんだ」

 これまで溜め込んでいた鬱憤を晴らすように、透は饒舌になり説明した。

 言い終わる頃には、自分の発言の愚かさに気付き始める。詩織とは今まで一度だって会話をした事がない。初めての会話でベラベラと教師の陰口を話す相手をどう思うだろうか。少なくとも良い印象はないはずだ。

 五分でやって来ると言っていた地下鉄の発車標に目を通す。未だ来る気配はない。

 透がそんな事を考えていると、詩織の反応は意外なモノだった。

 詩織は透を訝しく思わず、クスクスと笑い出したのだ――。



「笑い出した?」

 彩子の問いに透は当時の映像を振り返る。あの時の心地良い空気を記憶していた肌が震えた。今日の気温では若干寒すぎる。

「ああ、笑ったんだ。まったく、当時の俺にはそんな反応。予想外だにしたてなかったよ」

 カップの蓋を開けて、まだ微かな温もりが残っているキャラメルマキアートに口を付ける。上唇に触れるキャラメルソースは甘く優しい。

彩子は話の続きを目で訴えてきた。

透は軽く微笑みキャラメルマキアートのカップに蓋をしてテーブルに置く。

「さて、話の続きをしようか」

 そう言って透は物語の続きを語り出した――。



「何か可笑しかった?」

 笑った理由が分からず、透は詩織に尋ねる。彼女はそれを彼が怒っているのだと勘違いして、首を横に振った。

「ごめんなさい。馬鹿にした訳じゃないの。やっぱり周りはそう事考えてたんだなあって思ったら、何だか可笑しくなっちゃって」

「あそこまで露骨だったら誰でも分かる。きっと、俺以外にも嫌な思いをしている生徒はいると思う」

「そうね。今度、直接本人に言ってみようかな。いつにしようか」

 唇に右手人差指を当てて、考え込む詩織。透は、自分とは違う白くて綺麗な彼女の手が見えて多少動揺した。

「止めた方がいい。分かっていると思うけど、そんな事をしてもメリットはない」

 教師にそんな事をしたらどうなるか。まず予想は付く。

 詩織にしたって、それが分からない程馬鹿じゃない。学年トップの成績なのだ。冗談で言ったに決まっている。そうは結論付けても、一応透は釘を刺した。

 透の言葉を聞いた詩織は、実に飄々とした態度で答える。

「平気。湊君とは仲が良いの。貴方が心配してくれてる事は、まず起きない」

「湊君?」

 詩織の口から発せられた、まるで教師をクラスメイトの男子のように君付けで話す彼女に透は違和感を隠し切れず、反射的にそう聞いた。彼に言われて、彼女は自分の失言を理解して、小さく口を丸くする。

「……今のは聞かなかった事にしておく」

「ありがとう、助かるわ」

 嫌いな給食のおかずを無理して食べているような、閉塞感が透の中にあった。

 その気持ちを飛ばしてくれる、絶妙のタイミングでトンネルの向こうから丸目のライトを光らせた地下鉄がやって来た。

 ホームのスピーカーからアナウンスが流れる。

 並んでいた前方の列に地下鉄のドアが開いて、透と詩織を含めた列は降りる乗客と交代で、乗車する。

 人工的に室温が調整された電車内は、透の頬と耳に安らぎを与える。

透は今まで詩織と話していたのを誰かに見られていないか心配して、軽く見回する。運良く彼の知り合いはいなかった。

 ただ、肝心の座席に腰を下ろす事は叶わなかった。降りる乗客が意外に少なかったのと、乗って来る乗客が多かったのである。階段近くの列に並べば、まだ少しは希望があったかも知れない。終わった事を後悔しつつも透は、つり革に手を伸ばす。先程まで誰かが掴んでいる知れないので、ベージュのドーナツ型のつり革を一度回転させてから、右手で掴んだ。

 隣には駅のホームで話した流れから詩織が立っていた。彼女は透とは違ってつり革を回転させなかった。 それを横目で見た透は特に何も言わない。

 二人を乗せた地下鉄はホームを出発して、すぐにトンネルに入り景色を黒いコンクリートへと変えた。

 地下鉄が出発してからしばらくは、ホームの時のように二人の間で会話が交差する事はなかった。二つ目の駅を出発した時、詩織が口を開く。

「そう言えば、自己紹介をまだしてなかったわね」

「ああ。そうだった」

 透からしてみれば、詩織の名前は知っているので、言われるまで特別意識していなかった。

「あれ? でもさっき貴方、私を森野さんって名前で呼んでいた。知り合いだったかしら?」

「違う。こっちが一方的に知ってるだけだ。森野さんはウチの学年じゃ有名だから。本人には自覚がないみたいだけど」

「確か自覚はなかったかも。だけど、どうして私は有名なの?」

 自分が有名な理由を知りたがる詩織に、透は小さくため息を吐く。

「定期テストは常に学年一位。全国模試は一桁台。そして学年唯一の授業料全額免除の特待生。有名にならない方が無理だ」

「へぇ~。周りは私の事をそういう風に見ていたんだ。それだけ私の事を知っているのなら、今更改めて自己紹介する必要はないわよね。貴方の名前とクラスを教えて?」

「内田透。二年二組」

 透はポツポツと名前とクラスを名乗る。自分の名前をもしかしたら詩織は知っているかも知れない。淡い期待があったが、彼女の様子から見るにその兆しは見られなかった。

「これからもよろしく、内田君」

 透の名前を覚えた詩織は、つり革を掴んでいない方の手を伸ばしてきた。彼もそれに倣い、手を伸ばす。

「よろしく、森野さん」

 詩織の手は柔らかかった。同時にもう地下鉄に乗って、随分と経つのにまだ冷えていた。透の手が温かかったので、余計にそう感じてしまった可能性もある。

 透は詩織の手の柔らかさと冷たさを感じてから手を離した。

 詩織は離れた手をそのままブレザーのポケットへと突っ込み、そこから白い二つ折りの携帯電話を取り出した。

「せっかくだし、携帯電話の番号とアドレス。交換しましょう」

「分かった」

 透はブレザーの内ポケットから、青い二つ折りの携帯電話を取り出した。

 二人は携帯電話を近付けて、赤外線機能を用いて互いの電話番号とメールアドレスを交換した。

 詩織の名前が自分の携帯電話に登録されたのを確認する。

「どう? 私の番号とアドレス届いてる?」

「ちゃんと届いているよ。ほらっ」

 そう言って、透は携帯電話の液晶画面を詩織に向けた。

「よし、安心。私にも届いてる」

 同じように詩織も自分の携帯電話を透に向けてくる。向けられた彼は頷いて、納得した。お互いの電話番号とメールアドレスを交換したので、二人は携帯電話をしまう。その時、透はふと思い浮かんだ疑問を詩織にぶつけた。

「図書室で勉強しているのは、やっぱり順位を保持する為?」

「ううん。別にそういうのは関係ないかな。そもそも私、あそこへは勉強しに行っていないの」

「勉強をしに行っていない?」

 詩織の口から出た予想外の解答に透は目を丸くして尋ねる。その様子が面白かったらしく、彼女は微笑んでから再び口を開いた。

「あの場所には放課後になったら行くの。でも、勉強はしない。いつも私、本を読んでいるか、机に突っ伏して寝ているだけ。一番後ろの隅の席だし、誰かの邪魔をしている訳ではないから。直接人に注意はされた事ないわね」

「それならどうして図書室に行くんだ? 勉強しないのに、遅くまで学校にいたら時間が勿体ない。読書も睡眠も家でしたらいいじゃないか」

 透を詩織は黙って聞いて、一回ゆっくりと頷く。

「内田君の言う通りね。でも、彼を放っておけないの。だからしょうがない」

「彼って誰?」

 そう尋ねる透に詩織は、これから悪戯する子供のような表情で答える。

「誰だと思う?」

「言っていいのか?」

 最低限の配慮を見せる透。その名前を口にしたら、もうそういう認識で物事が進んでしまう。詩織が会話の流れを止めた為、二人の間に沈黙が流れる。

透側からは、何と言っていいか戸惑っていると、詩織は観念したような短い鼻息を吐いた。

「さっきも言ったけど、彼と私は仲が良いの。少なくとも、今日の貴方よりは」

「悪目立ちした?」

「しばらくの間、図書室には行かない方がいいわ。あと、私も別に毎日図書室に最後まで通っていないわ。他にも大事な用があるもの。だからそれがない日だけ」

「それは知っている。それで? 俺は大体、どれくらい日を開ければいい?」

「うーん。最低でも三年半は時間を空けるべきね」

 大真面目にそう話す詩織に透の口元は緩む。

「とっくに卒業してる」

「あははっ」

 詩織の冗談に付き合っていると、地下鉄がまた一つの駅に到着した。透の降りる駅である。

 その駅はJRと私鉄が混合している大きな乗換駅であり、乗客の乗り降りが激しい。今まで座っていた人達も示し合せたかのように立ち上がる。ぞろぞろとドア周辺に周集まってくる乗客達。図書室の時とは違って大人もいるので、見慣れているブリキ人形には見えない。そう透は感想を抱きつつ、つり革から手を離すと、隣の詩織も手を離した。

「内田君もこの駅?」

「この次の駅は新幹線しか走っていない。降りるに決まってるだろう」

「分からないわ。貴方が新幹線で帰るかも知れないもの」

 クスクスと笑いながら、そう言う詩織。透は彼女がこういう冗談を言う人間だったのかと新しい印象を受けた。

 冗談を言って満足したらしい詩織は、首に掛けていた白いイヤホンを耳に挿す。それだけで詩織を纏う空気は、一人用になった。彼女はもう透を見ず、前を向いている。なので、横にいる彼が彼女を見ても気付いていない。

 しかし、流石に気付いたらしく、イヤホンを挿したままの詩織は急に透の方を向く。

 完全に油断していたので、目が合ってしまった事に慌てる。

 咄嗟に視線を逸らす事も可能だが、逆に不自然である。

 透は羞恥心を鼻から吐く息に混ぜて心を軽くした。

 詩織はそんな透の心境を知ってか知らずか。軽く口元を緩ませて、手を振った。

 透も合わせて手を振り返す。

 地下鉄のドアが開く。

 二人は、流れに乗り電車から降りる。並んで降りたが、すぐにホームに溢れた大量の乗客の波に流されてしまう。

 そのまま詩織は、改札へと向かう列に飲まれて、やがて見えなくなった。

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